「余計なお世話」が基本なんだよ。
2009/11/25/Wed
その地にはじめて立った時まず最初に感じたのは、異文化を象徴する、いや異文化そのものと言えるような景色ではなく、日の強さだった。日本はやはり日差しが弱いのだろうか、光化学スモッグとかそんなんで、などと考えていた。情緒もへったくれもない。しかし、同じ日光でも、場所によってこのように感じ方が違う、と言うのは、わたしを何か満悦させるような、というと言いすぎだが、異文化に一歩足を踏み入れる勇気と両替可能な気持ち、とでも言えるようなものだった。
要するに、多少心は躍っていたのだ。ただ、その原因はいかにも異文化然とした街並みによるものではなく、日差しの強弱の差だった、ということを言いたかっただけかもしれない。そういうことにしよう。
そういうことにできない。
「日差しの強弱」という表現もおかしい。光度の強弱というだけなら、日本でだって曇り空の時は光度が低いだろう。従って、光度の強弱というだけなら、わたしはこのような感覚を抱かなかったはずだ。
そうではなくて、乱反射の度合い、とでも言おうか。日本の風景より、その風景は平坦に見えたのだ。陰影が弱い……というわけでもないか。陰影は強い。日差しは強い。だけど、その影を含めて平坦に見えた。影の輪郭が際立ちすぎていたので平坦に見えたのか。
舞台照明にボーダーライトという概念がある。それは、歌舞伎のように、舞台の世界を平坦に見せる場合に用いられる。一方、サスペンションライトという概念もあるのだが、それは舞台の世界に陰影をつけるためにあるものだ。陰影があるから奥行きがあるように見える。真正面から光を当てるだけより、斜めから当てて鼻や目尻の影をつけた方が顔は立体的に見えるだろ?
わたしがその地で見た風景は奥行きがなかった。陰影はくっきりしていたのだが、くっきりしすぎていて、まるで書割のように見えた。平坦だった。
西洋の舞台ではサスペンションライトがメインになり、日本の歌舞伎などと言った舞台はボーダーライトがメインになる。そう教えられた。実際は両方使うしどちらを頻繁に使うなんて決まってないのだが。これはあくまでイメージ的な表現。
サスペンションライトは光源が限定されている。一方ボーダーライトは光源が均等に並んでいる。均等に光を当てれば景色は平坦になる。実際の日光は照明機材と比べて均等なはず。しかし西洋の舞台(照明技術に関する部分に限るよ、当然)の方がリアリズムだと言われる。立体的だから。しかし、日光が自然のままで風景を照らせば、景色は平坦になる。リアリズムとはリアルではない、という言葉を思い出す。
うん、どちらかというと歌舞伎だった。
でも、昔の歌舞伎なんてろうそくで演じてたんだから、サスペンションライトでの光景なんかと比べて、よっぽど陰影があったと思うんだよな。ゆらめいているんだし、光源が。薪能とか何回か見たんだが、ほんと雰囲気あったよ。瞬間瞬間で世界が変わる。奥行きどころか多次元の世界。だから「ボーダーライトは歌舞伎」っていうのも違うと思うんだよな。平坦に見せようって努力は確かに存在したのかもしれないけど。舞台ツラに一列にろうそくを並べたりね。いわばフットの原型だよな。当然、ろうそくだけじゃ光度が足りないから、昔の歌舞伎小屋には窓があった。窓から光を取り入れて上演していた。空が暗くなれば終演。そうだったらしいよ。
わからなくなった。
わからなくなったけど、ボーダーライトとサスペンションライトってわたしが知っているイメージの対比を用いることで、その地のイメージに、二方向から照明が当てられたようなことであり、その実体がよりわかりやすくなったということで、よしとする。もちろんわたし個人が。お前ら読者なんて関係ない。
会社の仕事で東南アジアに飛んだことがある。わたしは異邦人だ。言葉も通じない。マナーもわからない。観光する時間もなくはなかったが、わたし以外は中年男性ばかりだ。観光するならわたし一人でなんとかしなくてはならない。ああそれだ。それがよかったのかもしれない。「わたし一人でなんとかしなくてはならない」状態。それが公言できる状態。「観光」を根拠に。
わたしの主観世界では、「わたし一人でなんとかしなくてはならない」という状態は、大人から怒られるものとなっている。そんなこと言うと必ず「一人では限界がある」などと言われ、「一人でなんとかしようとするな」と怒られる。わたしはこれが慢性的なトラウマになっている。
だから、それがよかったのかもしれない、と思ったのだ。
「お世話」の異物が「余計なお世話」なのではなく、「余計なお世話」の異物が「まともなお世話」なんだな、わたしの場合。
だからこのブログでも読者のコメントなんて基本「余計なお世話」なんだ。「余計なお世話」をするなと言ってるんじゃないよ? そう自覚してコメントしてくれって言っているの。
そーゆーこと。
なんかアクセス数が伸びてるんだがアク解見ても普通だしURLで検索しても原因がわからなくてキモイ。新規の奴らどっからきたんだ?
つかこの記事の「つか「トラックバック(1)」って文字だけでびくっとする。コメントはまだ慣れてるからか。」って要するにわたしを攻撃するならコメントよかトラバの方が効果的だ、ってことだよな。わたしの心理上。
弱点さらけだしてんじゃーん。
要するに、多少心は躍っていたのだ。ただ、その原因はいかにも異文化然とした街並みによるものではなく、日差しの強弱の差だった、ということを言いたかっただけかもしれない。そういうことにしよう。
そういうことにできない。
「日差しの強弱」という表現もおかしい。光度の強弱というだけなら、日本でだって曇り空の時は光度が低いだろう。従って、光度の強弱というだけなら、わたしはこのような感覚を抱かなかったはずだ。
そうではなくて、乱反射の度合い、とでも言おうか。日本の風景より、その風景は平坦に見えたのだ。陰影が弱い……というわけでもないか。陰影は強い。日差しは強い。だけど、その影を含めて平坦に見えた。影の輪郭が際立ちすぎていたので平坦に見えたのか。
舞台照明にボーダーライトという概念がある。それは、歌舞伎のように、舞台の世界を平坦に見せる場合に用いられる。一方、サスペンションライトという概念もあるのだが、それは舞台の世界に陰影をつけるためにあるものだ。陰影があるから奥行きがあるように見える。真正面から光を当てるだけより、斜めから当てて鼻や目尻の影をつけた方が顔は立体的に見えるだろ?
わたしがその地で見た風景は奥行きがなかった。陰影はくっきりしていたのだが、くっきりしすぎていて、まるで書割のように見えた。平坦だった。
西洋の舞台ではサスペンションライトがメインになり、日本の歌舞伎などと言った舞台はボーダーライトがメインになる。そう教えられた。実際は両方使うしどちらを頻繁に使うなんて決まってないのだが。これはあくまでイメージ的な表現。
サスペンションライトは光源が限定されている。一方ボーダーライトは光源が均等に並んでいる。均等に光を当てれば景色は平坦になる。実際の日光は照明機材と比べて均等なはず。しかし西洋の舞台(照明技術に関する部分に限るよ、当然)の方がリアリズムだと言われる。立体的だから。しかし、日光が自然のままで風景を照らせば、景色は平坦になる。リアリズムとはリアルではない、という言葉を思い出す。
うん、どちらかというと歌舞伎だった。
でも、昔の歌舞伎なんてろうそくで演じてたんだから、サスペンションライトでの光景なんかと比べて、よっぽど陰影があったと思うんだよな。ゆらめいているんだし、光源が。薪能とか何回か見たんだが、ほんと雰囲気あったよ。瞬間瞬間で世界が変わる。奥行きどころか多次元の世界。だから「ボーダーライトは歌舞伎」っていうのも違うと思うんだよな。平坦に見せようって努力は確かに存在したのかもしれないけど。舞台ツラに一列にろうそくを並べたりね。いわばフットの原型だよな。当然、ろうそくだけじゃ光度が足りないから、昔の歌舞伎小屋には窓があった。窓から光を取り入れて上演していた。空が暗くなれば終演。そうだったらしいよ。
わからなくなった。
わからなくなったけど、ボーダーライトとサスペンションライトってわたしが知っているイメージの対比を用いることで、その地のイメージに、二方向から照明が当てられたようなことであり、その実体がよりわかりやすくなったということで、よしとする。もちろんわたし個人が。お前ら読者なんて関係ない。
会社の仕事で東南アジアに飛んだことがある。わたしは異邦人だ。言葉も通じない。マナーもわからない。観光する時間もなくはなかったが、わたし以外は中年男性ばかりだ。観光するならわたし一人でなんとかしなくてはならない。ああそれだ。それがよかったのかもしれない。「わたし一人でなんとかしなくてはならない」状態。それが公言できる状態。「観光」を根拠に。
わたしの主観世界では、「わたし一人でなんとかしなくてはならない」という状態は、大人から怒られるものとなっている。そんなこと言うと必ず「一人では限界がある」などと言われ、「一人でなんとかしようとするな」と怒られる。わたしはこれが慢性的なトラウマになっている。
だから、それがよかったのかもしれない、と思ったのだ。
「お世話」の異物が「余計なお世話」なのではなく、「余計なお世話」の異物が「まともなお世話」なんだな、わたしの場合。
だからこのブログでも読者のコメントなんて基本「余計なお世話」なんだ。「余計なお世話」をするなと言ってるんじゃないよ? そう自覚してコメントしてくれって言っているの。
そーゆーこと。
なんかアクセス数が伸びてるんだがアク解見ても普通だしURLで検索しても原因がわからなくてキモイ。新規の奴らどっからきたんだ?
つかこの記事の「つか「トラックバック(1)」って文字だけでびくっとする。コメントはまだ慣れてるからか。」って要するにわたしを攻撃するならコメントよかトラバの方が効果的だ、ってことだよな。わたしの心理上。
弱点さらけだしてんじゃーん。
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