ハグ
2010/01/09/Sat
なんでわたしは今ここにいるのだろう? と思うことがある。
頭ではわかっている。家に帰る途中だ。近くのスナックでなんの意味もなく酒をなめ、なんの意味もない会話をして、帰る途中だ。
住宅と店舗が入り交じっている通り。人通りはない。向こう側の大通りは普通に車が走っている。大通りを通ってもいいのだが、襲われたとして、悲鳴を上げたなら、多分人が聞きつける可能性が高いのはこちらだ、という言い訳で少しだけ遠回りになる大通りを通らない。めんどくさい。
民家の壁の前に無意味にベンチがあったりする。本当に無意味だ。バス停などがあるわけでもない。でもなじんでいる。置いた人間の思考がわからない。でもなんらかの考えがあったのだろう。
ベンチが化け物のように思えてくる。
そのうしろに控えている石壁も化け物だ。
わたしを取って喰おうとしている。わたしの体内に潜り込もうとしている。
地面も化け物だ。アスファルトは生きている。蠕動している。
怖い。本当に怖い。怖いかどうかすらわからないくらいに怖い。怖いかどうかすらわからないから怖いんだ。
洋ドラで、登場人物が何か不幸な状況に陥って、友人が彼女をハグしたりするシーンがよくある。あれは非常に効果的なんだろうな、と思う。わたしが崩れている。肉片になって落ちていく。わたしなるものが混濁している。流動している。だから固定して、抱きしめて、というわけだ。
その友人が化け物でないとは限らないのに。
「お前に友人がいないだけだろ」って?
うん、いない。なぜ他人を友人と思えるのかわからない。いや他人から見て「友人と呼べる関係だな」という意味で友人と言える知人はいるんだが。
この時そいつが目の前にいて、わたしをハグしたとする。
わたしは固定化されるだろうか。
そいつを化け物だと思わないでいられるだろうか。
そういう自信がないから、わたしには友人がいない。
化け物から逃れるために友人にハグしてもらうわけなのに、そのハグ自体が化け物に襲われることになる。
死ね。死ね。死ね。死ね。
これ好きだったわ。古臭い感じが。わたしが歌うとギャグになるらしい。なんでー? けだるい感じが足りないのか。うむ、基本アンパンマンの声だからな。これも練習してて「俺はシラフだ酔ってるのは路面」ってところ低く歌ってんだけどこういう感じか。けだるい感じって。
だめだもう。死にたい。素で。
中坊さんとこから。
=====
「心の構造」は精緻に述べられていなければ、「物の構造」と連接することはできない。
「心の構造」を除外して語られる「物の構造」は、最終的に「心の構造」との連接点において矛盾が生じる。現代の物理学などにおける量子力学的観測問題などがよい例だ。「心の構造」と「物の構造」との連接点において「観測」という要件を持ってきているわけだ。
これは、たとえば認知心理学は、(基本的に)「心もロボットだ」という考えで成り立っているが、。「心の構造」と「物の構造」との連接点において「認知」という要件を持ってきていることと同様だ。
しかし、こういった連接点を設置することが誤りなのだ。
なぜなら「心の構造」とは「物の構造」の「投影」であり、連接するものではないからだ。
=====
「観測」も「認知」もラカン語に翻訳したら「まなざし」だよな、って思った。辻褄すっきり。
うん、対象aは現実と幻想の連接点だ。
幻想の側から見れば、だけどね。
「助けて」とは言えない。「助けて」と言ってやってくるのが化け物かもしれないから。これまでやってきたのが化け物ばかりだったから。
「助けて」という言葉は、去勢済みだから言える言葉だ。
新宮一成『ラカンの精神分析』から。
=====
また、原初に在ったと想定される限りでの「主体」の頭文字のエスでもある。ドイツ語では、「雨が降る」を「エス・レーグネット」と言う(英語の「イット・レインズ」に当たる)。雨は、自分が降っているということを知らずに降っている。
=====
んで前記事の「人間主体も、自分が在るということを知らずに在り、生きているということを知らずに生きている。」に繋がるんだが、あれだよ、「誰のせいでもない雨が降っている」んだよ。「誰のせいでもない」「雨が降るように人は死ぬ」んだよ。わたしは雨で、わたしが死ぬのは誰のせいでもない。しいて言うならわたしのせい。
だからほっといてくれ。
お前という化け物に助けてほしいわけじゃない。
わたしという悪意は、原初からあったものだ。ただそういうものなだけだ。そういう物質の運動だ。
もうやめてくれ。
『精神分析事典(ラルース版)』の「自閉症問題に対するラカン派のアプローチ」ってとこ読んでたんだが、これわたしがこのブログで述べてることとほとんど合致するよな、って今さら思った。最初読んだ時はちんぷんかんぷんだったんだけど。なんかキモイわ。
「自閉症を疎外の寸前に位置づけることができるし、疎外へ入ることの拒絶や疎外の間際で立ち止まることと位置付けることができる」あたりはまさにアスペルガー症候群。「疎外へ入ることの拒絶」が積極奇異で「疎外の間際で立ち止まる」のが受動とかになんのか。孤立は「疎外の寸前」に座り込むような勝手なイメージ。
「自閉症における身体像の組み入れの失敗」の「身体像」はこの記事の「からっぽの身体」だし、「大文字の他者の眼前そのものの、根源的欠損」なんかここで述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってことだ。そこで書いている「β要素→S」なんかは、「原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる」ってところを利用すれば「/A→S」と表現できる。って「A→/S」の斜線を移動させただけだな(笑)。また、「欠如を与え」られるから「からっぽの身体」って「身体像」になるわけだ。
ラカンは自分で「自分の一番の業績は鏡像段階って論の構築である」とか言ってたと思うんだが、自閉症はまさしくその「鏡像関係の組み込みの失敗」なわけだから、自閉症論ってラカン論の弁慶の泣きどころになるんだな。
このブログ読んでたらラカン論勉強してなくてもこの項目だけはすんなり理解できるかもしれないね(笑)。
つか、「それは反射のしない鏡として、大文字の他者の眼差しをあらわすもの」って、別に/Aでもいいんだが、その瞬間がこの記事で言う「不動の享楽」だと思うんだけどな。
つかふらふらぐぐってたらこんな記事みっけた。うんうん、わたしも最近今しがた述べたようにラカン懐疑派になってる(つかクリステヴァ論者だって言ってるんだが。派閥で言うならここでも書いているようにクラインよりだし)。パズルみたいでおもしろいからラカン用語使ってるけど。
それはいいんだが、ここ、
=====
「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
=====
がどうしても理解できない。
「実学」だからこそ、各々の治療者が、用語の意味を自分なりに定義して利用すればいいんじゃねえの? って思う。
そう思うと、「誰にも理解できないようなこと」って文言がなんつーかアジテーターの口上みたいに見えてくるんだよな。ここでは「シニフィアンの意味」について述べられているが、各々の治療者が、自分なりに定義した意味でもってそれを理解しているから、「この事実」を「多くの日本のラカン派の学者・分析家は」「一切書いてはい」ないんだと思うけど。あたしゃ。「ほーら君たち理解できないだろ? だからラカン論はだめなんだ」って言ってるようなもんで、理解できてる人はその人なりの理解の仕方で理解してると思うよ、ってことか。理解できなかったらあなたの言う通り治療に利用しなきゃいい。精神科医なら他のアプローチいっぱいあるだろーし。それだけのことじゃないの?
もちろんそういう状態だと、そこで述べられている通り、「シニフィアンの意味」は幅広いものとなる。「学者・分析家」が各々微妙に異なる定義をしているわけだからね。従って、研究者同士で話し合う場では、各々の「シニフィアンの意味」の細かいところをすり合わせる必要も出てくるだろうね。でもそれは「患者の治療」じゃないわけで、「第一」じゃないよね? だから各々の「シニフィアンの意味」をすり合わせるのはあとでいい、ってことにならないかい? つか「大文字の他者」つってるけど先述の文章ってそういうことだよな。「わたしが考える意味」の表明。
むしろこの人の言う「実学」ってどういう意味だろう、って思う。ISOとかって標準化規格みたいなもんを言ってるのかね? それならDSMだよな。ラカン論は別に標準化ルールじゃないと思うんだけど。精神分析臨床の道具ではあろうが。
DSMにしろ問題になっているよな。「画一的な診断基準じゃ現場は回らねえよ」って。なぜ回らないのか。そりゃそうだよ、外科なんかと違って精神科の症状ははっきりと目に見えるものじゃないからね。心なんてなデータ化できないもの。研究対象が「蒙昧」なんだよ。だから逆にきっちり定義された診断基準だと現場は混乱する。これ普通に言われてることじゃないかい?
一応トラバ打っとくけど、木田原さん? あなたの言う「実学」ってどういう意味か教えてくれないかな? ってこれも意味のすり合わせだな(笑)。
いや、ほんとそれだけなのよね。「あれ?」って思ったから聞いてるだけです。たとえば、「個々人がそうだと思っている意味はずれている」って意味で「蒙昧主義だ」って言ってるなら、そうだねー、って思うんだよ。別に全部に反論してるわけじゃない、ってこと。
あと「日本で人気のあるユングも用語の意味不明、理論の意味不明、という理由で、欧米ではオカルト扱いされています。」ってとこ、「意味不明」かどうかしらんけど、オカルトっぽいから人気あるんじゃないの? って思う。ニューエイジとかって奴。あ、わたしはユングキモイって思ってる人。ああうん、「ユングはオカルトだ」つっても人気がなくなるわけじゃないと思うよ、ってこと。あたし演劇畑でユングを知ったからさ、「ああオカルトね、うんそれで?」くらいにしか思わないんだわ。まああなたが「オカルトは人気があるべきではない」って思ってるのは理解できたけど。
まあなんつーか、精神分析なんてきっちりした定義をつけられないのが逆にミソなわけで、だからこそ精神分析を学ぶことが自己分析に繋がるんだよなー、なんて思ってるんだけど、この人定義をつけられない状態にはあるけど自己分析に繋がってないのがよくわからん。精神分析学って理屈体系に「自己言及の不完全性」を投影しているわけか。
自分を冷静に見つめていたら自分自身が「意味不明」になる。ここが(学問としてのそれじゃなくて臨床としての)精神分析のミソ。いやま、ここのコメント欄で述べているように「混乱することが臨床として正しいのだ」とか言っちゃう人の言うことだけどさ。
まー要するに、「そういう非常に基本的なところを、ラカン派の学者・分析家は、意図的かどうかは分りませんが、あえて語らないとう実情に対しては、私は非常に大きな不満を持ってい」るのなら、自分で考えて納得すればいいじゃん、って素の顔で思うんだよな。煽りとかじゃなく。わたしにとっての学問って、ここでも書いているように、分解くんが持っている工具であり分解対象であって、他人(との合意)なんてどうでもよいことって言いすぎだけど、二の次なのよね。意味を(他人と)統一する意義がよくわかってないってことか。
ごめんねー、そういう人間で。
疑問を持つなって言ってるわけじゃないよ? あなたがやっている「さまざまな用語の意味に疑問を見出す」ことは正しいと思う。わたしにとって「学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ」ってことなわけで。
あ、一応言っとくとわたしただのメンヘラですよ。パニック障害+抑鬱状態って診断されてます。病んで精神分析学び始めたただのど素人です。
あーそっか、わたしはメンヘラだから、精神分析の疾患名とかを自分の身に降りかかっているものとして考えちゃうのか。だから自然と自己言及になる、と。木田原さんはメンヘラですか?
というわけで質問は二つだな。
1.あなたにとって「実学」とはどういう意味なのですか?
2.あなたはメンヘラですか?
2は興味本位だからどうでもいいです。1は、わたしにとっての「実学」って意味で考えると、引用箇所が意味不明となるので、質問させていただきました、ということで。
つか、自分他人問わず臨床しているかどうか、だと思うんだけどな。いや臨床主義なわけじゃなく(クラインよりだからさ(笑))理論も大事、両方大事、って思ってる。だから「ですから、「あくまで思想の類」ということであれば、患者には関係ありませんから、他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。私はそう思います。」ってのは困る。臨床しない哲学になるのは困る。いや臨床してる哲学もあるけど。中村雄二郎とか。メスの切れ味が悪くなりそう。まあわたしの臨床ってここで宣言しているように治療とは逆の悪化を目的としてるんだけどね。
「ラカン理論は「実学」たりえない。だから臨床抜きにしましょう」って意味だとわたしは解釈したわけだけど、その「「実学」たりえない」って理屈が理解できないから、納得できない、ってこと。いやまあ現代の精神分析は治療に役立っていないってのは認めるけど。だからわたしは悪化もよしとしてみるか、って。
臨床しない哲学になったら困る「病んだから精神分析学び始めました」ってわたしみたいな人もいるよ、って話か。
別にラカン論を哲学者がおもちゃにするのはいいんだけどさー、別にあなた個人が精神分析を哲学と同様に扱うのは全然構わないんだけどさー、精神分析学が哲学と関係しあうのも全然構わないんだけどさー、「みなさん、精神分析を哲学にしましょう」ってしかも哲学者側から言うのは横暴じゃね? って思うんだわ。特に「みなさん」ってとこ、味方を募ってる(ように見える)ところがぞっとする。「沢山のメールうんたら」ってのもそうでしょ? 「僕にはこんなにたくさんの味方がいます」ってアッピールだと解釈した。
ほんとみんな群れるの好きだな。あーんど征服好きだな。
ねえ木田原さん、わたしあなたが横暴な征服者に見える。多数の人間と協力して少数派を嬲るのが好きな人に。そういう人格なんだなって。もちろんわたし個人の主観だけど。
さて、わたしのこの言葉をあなたが自己言及の道具として使うかはあなたの自由。信じるか信じないかはあなた次第。
あ、別にわたしはラカン擁護派じゃないよ。最初に言ってるけど。わたしは臨床側からラカン論に疑義を唱えている、ってわけ。
……あ、もしかしてこの記事反語的な裏の意図があったりする? こんなわたしみたいな反応を引き起こすことで、逆に臨床の大事さを伝えよう、みたいな。そうだったらあれだ、釣られてあげたわたしに感謝してね(笑)。全力で釣られるのがVIPPER流儀。
どうでもいいけど『精神分析事典』ってここでやんや言われてる辻井正次が訳者で参加してるのな。
思ったより若かった。
頭ではわかっている。家に帰る途中だ。近くのスナックでなんの意味もなく酒をなめ、なんの意味もない会話をして、帰る途中だ。
住宅と店舗が入り交じっている通り。人通りはない。向こう側の大通りは普通に車が走っている。大通りを通ってもいいのだが、襲われたとして、悲鳴を上げたなら、多分人が聞きつける可能性が高いのはこちらだ、という言い訳で少しだけ遠回りになる大通りを通らない。めんどくさい。
民家の壁の前に無意味にベンチがあったりする。本当に無意味だ。バス停などがあるわけでもない。でもなじんでいる。置いた人間の思考がわからない。でもなんらかの考えがあったのだろう。
ベンチが化け物のように思えてくる。
そのうしろに控えている石壁も化け物だ。
わたしを取って喰おうとしている。わたしの体内に潜り込もうとしている。
地面も化け物だ。アスファルトは生きている。蠕動している。
怖い。本当に怖い。怖いかどうかすらわからないくらいに怖い。怖いかどうかすらわからないから怖いんだ。
洋ドラで、登場人物が何か不幸な状況に陥って、友人が彼女をハグしたりするシーンがよくある。あれは非常に効果的なんだろうな、と思う。わたしが崩れている。肉片になって落ちていく。わたしなるものが混濁している。流動している。だから固定して、抱きしめて、というわけだ。
その友人が化け物でないとは限らないのに。
「お前に友人がいないだけだろ」って?
うん、いない。なぜ他人を友人と思えるのかわからない。いや他人から見て「友人と呼べる関係だな」という意味で友人と言える知人はいるんだが。
この時そいつが目の前にいて、わたしをハグしたとする。
わたしは固定化されるだろうか。
そいつを化け物だと思わないでいられるだろうか。
そういう自信がないから、わたしには友人がいない。
化け物から逃れるために友人にハグしてもらうわけなのに、そのハグ自体が化け物に襲われることになる。
死ね。死ね。死ね。死ね。
これ好きだったわ。古臭い感じが。わたしが歌うとギャグになるらしい。なんでー? けだるい感じが足りないのか。うむ、基本アンパンマンの声だからな。これも練習してて「俺はシラフだ酔ってるのは路面」ってところ低く歌ってんだけどこういう感じか。けだるい感じって。
だめだもう。死にたい。素で。
中坊さんとこから。
=====
「心の構造」は精緻に述べられていなければ、「物の構造」と連接することはできない。
「心の構造」を除外して語られる「物の構造」は、最終的に「心の構造」との連接点において矛盾が生じる。現代の物理学などにおける量子力学的観測問題などがよい例だ。「心の構造」と「物の構造」との連接点において「観測」という要件を持ってきているわけだ。
これは、たとえば認知心理学は、(基本的に)「心もロボットだ」という考えで成り立っているが、。「心の構造」と「物の構造」との連接点において「認知」という要件を持ってきていることと同様だ。
しかし、こういった連接点を設置することが誤りなのだ。
なぜなら「心の構造」とは「物の構造」の「投影」であり、連接するものではないからだ。
=====
「観測」も「認知」もラカン語に翻訳したら「まなざし」だよな、って思った。辻褄すっきり。
うん、対象aは現実と幻想の連接点だ。
幻想の側から見れば、だけどね。
「助けて」とは言えない。「助けて」と言ってやってくるのが化け物かもしれないから。これまでやってきたのが化け物ばかりだったから。
「助けて」という言葉は、去勢済みだから言える言葉だ。
新宮一成『ラカンの精神分析』から。
=====
また、原初に在ったと想定される限りでの「主体」の頭文字のエスでもある。ドイツ語では、「雨が降る」を「エス・レーグネット」と言う(英語の「イット・レインズ」に当たる)。雨は、自分が降っているということを知らずに降っている。
=====
んで前記事の「人間主体も、自分が在るということを知らずに在り、生きているということを知らずに生きている。」に繋がるんだが、あれだよ、「誰のせいでもない雨が降っている」んだよ。「誰のせいでもない」「雨が降るように人は死ぬ」んだよ。わたしは雨で、わたしが死ぬのは誰のせいでもない。しいて言うならわたしのせい。
だからほっといてくれ。
お前という化け物に助けてほしいわけじゃない。
わたしという悪意は、原初からあったものだ。ただそういうものなだけだ。そういう物質の運動だ。
もうやめてくれ。
『精神分析事典(ラルース版)』の「自閉症問題に対するラカン派のアプローチ」ってとこ読んでたんだが、これわたしがこのブログで述べてることとほとんど合致するよな、って今さら思った。最初読んだ時はちんぷんかんぷんだったんだけど。なんかキモイわ。
「自閉症を疎外の寸前に位置づけることができるし、疎外へ入ることの拒絶や疎外の間際で立ち止まることと位置付けることができる」あたりはまさにアスペルガー症候群。「疎外へ入ることの拒絶」が積極奇異で「疎外の間際で立ち止まる」のが受動とかになんのか。孤立は「疎外の寸前」に座り込むような勝手なイメージ。
「自閉症における身体像の組み入れの失敗」の「身体像」はこの記事の「からっぽの身体」だし、「大文字の他者の眼前そのものの、根源的欠損」なんかここで述べている「新宮一成『ラカンの精神分析』P206の図は誤っている」ってことだ。そこで書いている「β要素→S」なんかは、「原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる」ってところを利用すれば「/A→S」と表現できる。って「A→/S」の斜線を移動させただけだな(笑)。また、「欠如を与え」られるから「からっぽの身体」って「身体像」になるわけだ。
ラカンは自分で「自分の一番の業績は鏡像段階って論の構築である」とか言ってたと思うんだが、自閉症はまさしくその「鏡像関係の組み込みの失敗」なわけだから、自閉症論ってラカン論の弁慶の泣きどころになるんだな。
このブログ読んでたらラカン論勉強してなくてもこの項目だけはすんなり理解できるかもしれないね(笑)。
つか、「それは反射のしない鏡として、大文字の他者の眼差しをあらわすもの」って、別に/Aでもいいんだが、その瞬間がこの記事で言う「不動の享楽」だと思うんだけどな。
つかふらふらぐぐってたらこんな記事みっけた。うんうん、わたしも最近今しがた述べたようにラカン懐疑派になってる(つかクリステヴァ論者だって言ってるんだが。派閥で言うならここでも書いているようにクラインよりだし)。パズルみたいでおもしろいからラカン用語使ってるけど。
それはいいんだが、ここ、
=====
「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
=====
がどうしても理解できない。
「実学」だからこそ、各々の治療者が、用語の意味を自分なりに定義して利用すればいいんじゃねえの? って思う。
そう思うと、「誰にも理解できないようなこと」って文言がなんつーかアジテーターの口上みたいに見えてくるんだよな。ここでは「シニフィアンの意味」について述べられているが、各々の治療者が、自分なりに定義した意味でもってそれを理解しているから、「この事実」を「多くの日本のラカン派の学者・分析家は」「一切書いてはい」ないんだと思うけど。あたしゃ。「ほーら君たち理解できないだろ? だからラカン論はだめなんだ」って言ってるようなもんで、理解できてる人はその人なりの理解の仕方で理解してると思うよ、ってことか。理解できなかったらあなたの言う通り治療に利用しなきゃいい。精神科医なら他のアプローチいっぱいあるだろーし。それだけのことじゃないの?
もちろんそういう状態だと、そこで述べられている通り、「シニフィアンの意味」は幅広いものとなる。「学者・分析家」が各々微妙に異なる定義をしているわけだからね。従って、研究者同士で話し合う場では、各々の「シニフィアンの意味」の細かいところをすり合わせる必要も出てくるだろうね。でもそれは「患者の治療」じゃないわけで、「第一」じゃないよね? だから各々の「シニフィアンの意味」をすり合わせるのはあとでいい、ってことにならないかい? つか「大文字の他者」つってるけど先述の文章ってそういうことだよな。「わたしが考える意味」の表明。
むしろこの人の言う「実学」ってどういう意味だろう、って思う。ISOとかって標準化規格みたいなもんを言ってるのかね? それならDSMだよな。ラカン論は別に標準化ルールじゃないと思うんだけど。精神分析臨床の道具ではあろうが。
DSMにしろ問題になっているよな。「画一的な診断基準じゃ現場は回らねえよ」って。なぜ回らないのか。そりゃそうだよ、外科なんかと違って精神科の症状ははっきりと目に見えるものじゃないからね。心なんてなデータ化できないもの。研究対象が「蒙昧」なんだよ。だから逆にきっちり定義された診断基準だと現場は混乱する。これ普通に言われてることじゃないかい?
一応トラバ打っとくけど、木田原さん? あなたの言う「実学」ってどういう意味か教えてくれないかな? ってこれも意味のすり合わせだな(笑)。
いや、ほんとそれだけなのよね。「あれ?」って思ったから聞いてるだけです。たとえば、「個々人がそうだと思っている意味はずれている」って意味で「蒙昧主義だ」って言ってるなら、そうだねー、って思うんだよ。別に全部に反論してるわけじゃない、ってこと。
あと「日本で人気のあるユングも用語の意味不明、理論の意味不明、という理由で、欧米ではオカルト扱いされています。」ってとこ、「意味不明」かどうかしらんけど、オカルトっぽいから人気あるんじゃないの? って思う。ニューエイジとかって奴。あ、わたしはユングキモイって思ってる人。ああうん、「ユングはオカルトだ」つっても人気がなくなるわけじゃないと思うよ、ってこと。あたし演劇畑でユングを知ったからさ、「ああオカルトね、うんそれで?」くらいにしか思わないんだわ。まああなたが「オカルトは人気があるべきではない」って思ってるのは理解できたけど。
まあなんつーか、精神分析なんてきっちりした定義をつけられないのが逆にミソなわけで、だからこそ精神分析を学ぶことが自己分析に繋がるんだよなー、なんて思ってるんだけど、この人定義をつけられない状態にはあるけど自己分析に繋がってないのがよくわからん。精神分析学って理屈体系に「自己言及の不完全性」を投影しているわけか。
自分を冷静に見つめていたら自分自身が「意味不明」になる。ここが(学問としてのそれじゃなくて臨床としての)精神分析のミソ。いやま、ここのコメント欄で述べているように「混乱することが臨床として正しいのだ」とか言っちゃう人の言うことだけどさ。
まー要するに、「そういう非常に基本的なところを、ラカン派の学者・分析家は、意図的かどうかは分りませんが、あえて語らないとう実情に対しては、私は非常に大きな不満を持ってい」るのなら、自分で考えて納得すればいいじゃん、って素の顔で思うんだよな。煽りとかじゃなく。わたしにとっての学問って、ここでも書いているように、分解くんが持っている工具であり分解対象であって、他人(との合意)なんてどうでもよいことって言いすぎだけど、二の次なのよね。意味を(他人と)統一する意義がよくわかってないってことか。
ごめんねー、そういう人間で。
疑問を持つなって言ってるわけじゃないよ? あなたがやっている「さまざまな用語の意味に疑問を見出す」ことは正しいと思う。わたしにとって「学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ」ってことなわけで。
あ、一応言っとくとわたしただのメンヘラですよ。パニック障害+抑鬱状態って診断されてます。病んで精神分析学び始めたただのど素人です。
あーそっか、わたしはメンヘラだから、精神分析の疾患名とかを自分の身に降りかかっているものとして考えちゃうのか。だから自然と自己言及になる、と。木田原さんはメンヘラですか?
というわけで質問は二つだな。
1.あなたにとって「実学」とはどういう意味なのですか?
2.あなたはメンヘラですか?
2は興味本位だからどうでもいいです。1は、わたしにとっての「実学」って意味で考えると、引用箇所が意味不明となるので、質問させていただきました、ということで。
つか、自分他人問わず臨床しているかどうか、だと思うんだけどな。いや臨床主義なわけじゃなく(クラインよりだからさ(笑))理論も大事、両方大事、って思ってる。だから「ですから、「あくまで思想の類」ということであれば、患者には関係ありませんから、他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。私はそう思います。」ってのは困る。臨床しない哲学になるのは困る。いや臨床してる哲学もあるけど。中村雄二郎とか。メスの切れ味が悪くなりそう。まあわたしの臨床ってここで宣言しているように治療とは逆の悪化を目的としてるんだけどね。
「ラカン理論は「実学」たりえない。だから臨床抜きにしましょう」って意味だとわたしは解釈したわけだけど、その「「実学」たりえない」って理屈が理解できないから、納得できない、ってこと。いやまあ現代の精神分析は治療に役立っていないってのは認めるけど。だからわたしは悪化もよしとしてみるか、って。
臨床しない哲学になったら困る「病んだから精神分析学び始めました」ってわたしみたいな人もいるよ、って話か。
別にラカン論を哲学者がおもちゃにするのはいいんだけどさー、別にあなた個人が精神分析を哲学と同様に扱うのは全然構わないんだけどさー、精神分析学が哲学と関係しあうのも全然構わないんだけどさー、「みなさん、精神分析を哲学にしましょう」ってしかも哲学者側から言うのは横暴じゃね? って思うんだわ。特に「みなさん」ってとこ、味方を募ってる(ように見える)ところがぞっとする。「沢山のメールうんたら」ってのもそうでしょ? 「僕にはこんなにたくさんの味方がいます」ってアッピールだと解釈した。
ほんとみんな群れるの好きだな。あーんど征服好きだな。
ねえ木田原さん、わたしあなたが横暴な征服者に見える。多数の人間と協力して少数派を嬲るのが好きな人に。そういう人格なんだなって。もちろんわたし個人の主観だけど。
さて、わたしのこの言葉をあなたが自己言及の道具として使うかはあなたの自由。信じるか信じないかはあなた次第。
あ、別にわたしはラカン擁護派じゃないよ。最初に言ってるけど。わたしは臨床側からラカン論に疑義を唱えている、ってわけ。
……あ、もしかしてこの記事反語的な裏の意図があったりする? こんなわたしみたいな反応を引き起こすことで、逆に臨床の大事さを伝えよう、みたいな。そうだったらあれだ、釣られてあげたわたしに感謝してね(笑)。全力で釣られるのがVIPPER流儀。
どうでもいいけど『精神分析事典』ってここでやんや言われてる辻井正次が訳者で参加してるのな。
思ったより若かった。
スポンサーサイト