スパイ
2010/01/13/Wed
向井雅明の文章にひっかかりを覚えている。この辺。
=====
そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えているのではないだろうか。
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この記事では、木田原くんみたいな子が「そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えている」人だとしているが、まあこれはいい。そうすれば向井の論旨も木田原の論旨も(わたしにとって)理屈が通るからだ。
しかし、「技法のようなもの」という表現にひっかかっている。つまり、単なる表現の問題なのだが、表現の問題が重要視されるのがラカン派精神分析である。
わたしは、向井のこの文章を通して読んで、「え、ラカン理論から「技法」を取り出そうとしても、別にいいんじゃねえの? 向井の論旨には反しなくね?」と思ったわけだ。
向井はこう言っている。
=====
分析家としてやっていくためにはまた理論的な構築を行い、実践を適切な概念で把握することも必要だ。ラカンは概念は肉屋の包丁のようなものであると言っていた。それを使って、現実の絡み合いの中に適切な区切りを見つけて、ケースをうまく切り裁いてその構造を把握することだ。
=====
つまり向井は、ラカン理論を、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」とするならば、利用してよい、と言っているわけだ(ちなみこれはわたしの「言葉とは諸刃のナイフだ」って言葉や、精神分析理論を「メス」と表現していることと通じる)。
ここなんだな。「肉屋の包丁」だって「技法」と言えなくはないだろうか。
そう、さっきも言ったように単に表現の問題なんだな。向井は無意識的にそのことに気づいているのか、「技法のようなもの」とぼかしているのも納得できる。「技法」と言いきると「え、「肉屋の包丁」だって「技法」っちゃー「技法」だろ」と反論されかねない。
さてこの辺を整理してみよう。わたしが自分勝手にひっかかるから。べ、別に木田原くんのためなんかじゃないんだからねっ(ツンデレってもう飽きられてるよな)。
向井は、ラカン理論から「技法のようなもの」を取り出そうとすることに対して批判している。精神分析理論とはそういうものではない、と。向井が「技法のようなもの」と曖昧に述べている何かに、輪郭を与えてみよう、というわけだ。
なので、向井に対する批判のように受け取られるかもしれない。まあこの記事でも書いているように、わたしは向井という人間に対して不信感を持っているのは認めなくないので、別にいいんだが、向井がこの文章において言葉足らずだった「技法のようなもの」についての補足と考えれば、わたしを攻撃しなくても済むだろ?
うん、怖いんだ。藤田博史がそこの掲示板に乗り込んだ時、外野たちにふるぼっこされるのを見てたからね。あ、木田原も怖いよ。彼に対しての不信感は読めばわかることでいちいち表明する必要はなかろうが、その記事で書かれてある彼にメールを送った奴らについても、わたしに対してどんな陰口を言うのか、怖くてたまらない。
外野は黙ってろ。黙れないなら、死ね。
という意味で、外野たちへ牽制してるわけだ。観察するのはいいけど野次を飛ばすな、と。実験環境に手を出すな、と。『CSI』なら「現場を汚染するな」、と。ほんとこれ以上外野になんやかや言われたら何しでかすかわからん。殺したい。死にたい。この記事で言っている「カラオケ採点機」は、ゴローちゃんに「おっまえ演歌界の大御所だぞ? わかってんの?」と言われてびびってる、ってことだ。そういった要素まで計算し始めたらパニックになる。爆発してゴローちゃんを巻き添えにしてやろうか、と思っている。あ、いやゴローちゃんは嫌いじゃないけど。
わたしは今「向井-木田原」という脳内ディスクールを設定し、それについて分析しているのであり、別の時は、今は外野である誰かについて考えることだってあろう。その時まで待ってろ、って話だ。いやもちろん外野として述べたお前の言葉だって一つの言質として取り扱うがね。
聖徳太子とかあれだ、他人を「自分が支配可能な物」としてみてたんじゃね? だから余裕しゃくしゃくで多数の人の声を聞けた、と。まー貴族が平民の声を聞く態度としては普通なのか。いや顔だけ余裕しゃくしゃくにしてただけで内心パニくってたのかもしれんがね。つかどーでもいい。
前ふり終わり。
でも、このコラムに限って言えば、向井に対する不信感は多少和らぐ。以下の文章など、わたしが勝手に「精神分析家とはこういうものかな」としていたイメージと合致する。
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そのとき実践の場に立つ分析家はそこではただ一人である。そこで出てくるすべての問題を一人で解決していかなければならない。それができないならば分析家としてやっていくべきではない。すべての事柄を自らの内密な判断でやっていくのだ。
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そりゃそうだ。「カラオケ採点機」みたいな人間が社会にいれば、自ずと「一人」になろう。自ずと「すべての事柄を自らの内密な判断でやっていく」しかなくなる。
あーうん、わたしが持っていた分析家のイメージってこういうものだから、木田原の
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「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
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って文章が理解できないんだな。これ読んで、え、「「実学」だからこそ、各々の治療者が、用語の意味を自分なりに定義して利用すればいいんじゃねえの?」って思っちゃったんだ。
木田原の言う「意味を定義」することって「他人と共有できなければならない」ってことでしょ。木田原も自分で言っているけど、
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他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。
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ってことで、まー別に分析家は「楽し」む余裕なんてないんだろうが(向井の文章とか全然楽しそうじゃないだろ?)、「各々が各々の解釈をする」ってのは精神分析も同じなんだよね。つか、人間の精神を科学的に見た場合、「各々は各々の解釈しかできない」ってところからむしろ精神分析は始まってるんだ。だから「患者と関係なくさせるべき」だって? 君精神疾患者を何か神か悪魔のようなものに思ってない? 人間だって科学が切り刻んできたのと同じただの物だ。むしろ哲学は科学的なこの考え方を導入して現代のようなトレンドになったと思うんだがな。で、ぼつぼつ萌芽していたその考え方を、実践を通して深めているのが、たとえば精神分析だ、と気づいちゃった。
だから哲学は精神分析にすりよるんだ。あたかも「図書館であくせく本を読む男性」が「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」に言いよっているかのように。あ、いやラカン派も確かに「図書館であくせく本を読む男性」だけど、哲学者たちよかはるかに畑に出ている。向井も書いてるじゃん。
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精神分析にふさわしい症例呈示の方法を探るために、たとえばフロイトの5つの症例とか、優れたラカニアンたちの行っているような症例呈示を少し研究して、症例呈示の在るべき姿を見いだすべきであろう。
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つまり、本当に「図書館であくせく本を読む男性」なのは、木田原みたいな哲学畑の人間だ、ってこと。つか、哲学者と相対したら、ラカニアンだろうがどんな分析家でも「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」になるに決まっておろうが。
要するにだ、哲学はむしろ、実践なしで、科学や精神分析のおいしいところだけを導入して、「各々は各々の解釈しかできない」ってなったんだ、とわたしは思う。
実践なしで、つまり畑で土まみれになることなしで、「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」の研究結果を流用しているだけ。現代哲学ってなそうなってる。だから中村雄二郎なんかは、自己批判的な文脈で(彼も哲学者だからな)「臨床の知」を唱えたりしたんだと思うよ。
そりゃー畑で汗を流さず楽なところだけ研究してたら「楽しめばいい」ともなろうな(笑)。
断っておくけどあたし哲学者でも精神分析家でも科学者でもないからね。ただのメンヘラ。大学まではばりばり理系で、今は精神分析メインになってるだけで。精神分析歴とかちょー浅いよ? 哲学はなんかちょろちょろ読んでたな。時期を限らず。このブログ始める直前は自分はデリダ派だって思ってたくらいで。
えーそうです尻の軽い女なんです。まさに魔女キルケ。
つかほんと演劇が最大のターニングポイントなんだよな。あ、ごめん独り言。
あ、その下のコラムにもおもろい文章があった。
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これを書いていたらドルーズの言葉を思い出した。「哲学は何の役に立つのかと問われたとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、そのような問いは皮肉で辛辣たらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成の権力にも役立たない。それは悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も不愉快にしないような哲学は哲学ではない。哲学は愚劣をやっつけるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものとみなす」。
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ねーねー木田原くん、君の言う「その解釈を各々が楽しめばいい」「哲学」とは全然違うよね? 君の考える「哲学」って、サロンの社交術か何かかい?
ま、あれだな、ここの文章借りるなら、誰かを悲しませて、誰かを不愉快にさせる哲学であるために、不愉快な畑で右往左往している精神分析にすりよってきた、って言い方になるな。
ドゥルーズの失敗は相棒にガタリを選んだことだとわたしなんかは思うけどね。
「技法」についてに戻る。
わたしは「え、別に精神分析理論から「技法」を取り出してもよくね?」と思ったのだが、向井のそのあとの文章で補足するなら、「技法」が「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」であるならば、よいわけだ。向井の言う「技法のようなもの」には「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」は含まれない、と。
では、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」ではない「技法のようなもの」とはどういうものなの? となる。
ここでわたしはピンときたんだ。いやここだけ述べたくてこんな長い前ふりしたんだけどさ。
それは、「コツ」という表現が適格なことなのではないか。つまり、向井が「技法のようなもの」という曖昧な言い方で表現したかったのは、「コツ」ってことじゃないか、と。
向井の文章に「コツ」という言葉を補足すると、以降の文章との繋がりもすっきりする。わたしが。
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そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなもの【、コツのようなもの】を取り出そうと考えているのではないだろうか。
(【】内わたしによる)
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「コツ」であれば、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」とは別物だと思える。どういう違いか。
「コツ」はそれ一つで複数の問題を解決するものである。一方「概念」はそうではない。複数である。「肉屋の包丁」は複数あってよい。骨を切り落とす時と脂肪を切り落とす時で別々の包丁を使ってよい。
さて、そろそろラカニアンたちにはピンときてほしいのだが、一応順序は踏もう。めんどくせえ。
「技法」も「概念」も要するに「知」である。つまりS2である。では「コツ」としての「技法」はどうか。「コツ」はそれ一つで複数の「知」に影響を及ぼすものである。つまり、S1に親近するものである。
こう考えると、向井がそれを「コツ」と表現できず、「技法のようなもの」と表現してしまったことも理解できる。向井は精神分析家である。分析家のディスクールはS2を真理としている。つまり彼は根っから分析家であるために、精神分析理論をS2としてしか見ておらず、それをS1のごとき意味を持つ「コツ」と表現できなかった、と。
こう考えると、向井やるなあ、って思えるわ。腐っても資格持ち。不信感が消えたわけじゃないけれど。
このコラムってすげー重要だと思うぜ。精神分析業界(笑)において。「分析家とはどういうものか」って意味で。
あ、わたしもいいこと言ってるじゃん。ここのコメント欄から。
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「精神分析」を振り回してなくても、分析家のディスクールは成立する。真理の位置にあるS2が(S2だから道具を真理にしてるってことでブリコラージュみたいなもんと思っとけ)精神分析理論かどうかってことで。S2だからどんなシニフィアンでもあてはまりはする。
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分析家にとっての分析理論とは、「コツ」のごときS1ではなく、レヴィが眺めていた「断片化された神話素」のごときS2だ、ってこと。うん、「自分はその時、神話(素)の小道になっている」と述べた彼の構造分析は、「分析家のディスクール」として一つの好例だと思う。
「コツ」って表現も微妙かもしれない。ならば、「鍵のようなもの」でもよい。その理屈体系をその一点で支えている何か。その一点たる「鍵穴」に「鍵」を差し込めば、理屈体系全てを転倒させることや変化させることが可能な何か。自身を王にせしめる「鍵」。
このように考えると、この記事でわたしが「木田原は精神分析理論をS1として見ているんじゃないか」と言ったこととも繋がる。むしろ、単なる直感で述べたそのような印象を、精神分析理論で詳細に説明した、ってことになるか。
すると、木田原が行っている「ラカン理論の矛盾を洗い直す」作業も説明できる。彼は「鍵穴」を探そうとしてそうやっているのだ、と。ラカン理論という全体を支配可能なものにせしめるアキレスの踵のごときある一点を探している、と。
ところがこの「鍵穴」は臨床するたびに増殖するものである。まさしく「精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである」。
これはこの記事でも述べたけど別に精神分析理論に限ったことではなく科学全般に言えることだ。うろ覚えだけどラカン自身がそんなようなことを言っていたと思う。「科学は常にその危機と対峙している」みたいな。それと同じ。精神分析は臨床することで常にその理屈体系の危機と対峙している。自然科学は自然を観察することで常にその理屈体系の危機と対峙している。
従って、木田原は臨床を除外しなければならない。彼がいくら矛盾を洗い直しても、臨床によってあとからあとから「鍵穴」が増殖してしまう。彼は現実を隔離しなければならない。彼が追い求める「鍵穴」は常に変容してしまう。彼が支配したがっている理屈体系は、常に彼の手からこぼれ落ちる。
ラカン的な意味での現実を排除するのがパラノイアである。なるほど、フロイトが「哲学はパラノイアだ」と言ったのも、木田原の症状を見れば、納得できる。あ、いや木田原がパラノイアだと言っているわけじゃないが。おそらくフェティシストになろうな。哲学・思想フェチ。「フェティシスムとはパラノイアに対する防衛である」ばーい藤田博史。斎藤環論ならフェチ=マニアだから哲学・思想マニア。学者とマニアは別物だべ。あーうん「その解釈を各々が楽しめばいい」ってのもマニアの言葉だと考えたらすげーしっくりくる。
でもね木田原くん、君のやっている「精神分析理論の矛盾を洗い直す作業」は、前から言っている通りわたしは奨励しているんだが、矛盾を明確化すればするほど、そうしている主体は現実と親近しちゃうんだよ。だからわたしは君をエディプスコンプレックスだと診断したわけだ。現実から離れようとやっていることが、己を現実に導いてしまう。まさにコンプレックス。オイディプス。
……あれ、もっと言いたいことあったんだけど忘れた。いや別に向井批判でも木田原批判でもないんだが。
一応思い出すための適当連想として、中坊さんについて述べておこう。中坊さんなんかも、精神分析理論あるいは分析家をファルスとして見たがっていて(こことかここのコメント欄参照)、彼はそれを自覚してなおかつへらへら自分で述べちゃうからわたしは別にどうでもいいんだが、むしろ彼は鬱系メンヘラらしいし、/Sが大量生産されちゃった症例として見るべきなんだろうな、と思った。
というわけで中坊くん、君が進むであろう先は「ヒステリー者のディスクール」だ。もっと悪化したまえ。つか最近のこことかここの無言記事ってとっても象徴的ね。「抑鬱とはシニフィアンの否認である」ばーいクリステヴァ。「The Ultimate Machine」おもれえ。
あーうん、そうそう、物性物理の実験とかでも、何かしらの「コツ」を取り出そうとして観察しちゃだめ、ってこと。自然の理という全体を支配可能にせしめる「鍵」を求めちゃいけない、ってこと。物理だって「鍵穴」だらけ。そこにあてはまる何かは「コツ」としての「鍵」ではなく、ただの「概念」だ。自然を切り刻む「肉屋の包丁」だ。そうだろ? 物理学理論だって全て「概念」じゃん。文系と比べてちょっと数字が多いだけで。
王の「鍵」なんて存在しないんだよ。王のそばに仕えるピエロはよく知ってるだろうな。王が大切に持っているその「鍵」が、木や金属で作られたただの物だってことを。
これが意外とみんなできてないように思える。人間はどうしても「色眼鏡」がかかってしまう。実験結果をただありのまま見つめることができない。
東大の自然科学系の奴らもだめだったな。他は知らん。「あーこいつらだめだ」って思ったもん。いやその時代のわたしに聞いたら「東大の人って意外とマッドサイエンティストじゃなかったからだめ。演劇の方に多かった」とかって語弊がわんさか生じそうな答え方をするんだろうけどー。
ここで言ってるのもおんなじことだよ。哲学者ってほんとだめねー。向井は多少わかってそうかなレベル。
わたしが子供の頃から持ち続けてきた周りの全ての人間に対する違和感。大学生くらいには多少輪郭ができ始めていたが言語化できなかったそれ。
その一側面である「色眼鏡」を説明するのに、ラカン理論はとっても役立った、ってわけ。いわば、東大の科学者も神経症者だったから、L図におけるa'→aって防衛柵が常に既にあっちゃうから、この木田原よりのラカニアンが言う「感動的な鈍感さ」が内蔵されているから、「実験結果をただありのまま見つめる」ことができなかったのかー、ってね。
死ね。人間の八割くらい。そうすればわたしの精神疾患も多少は和らぐだろう。
実はわたし斎藤環って木田原くんと似てるように思えるんだな。「鍵」を求めている。この文章のここ
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おそらくここには,発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。複数のコミュニケーション・スタイルで,一つのメッセージを伝えようとすること。ここにはひょっとすると,「フレーム問題」を突破する契機すらも含まれているのではないか。
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とかまさにそんな感じ。斎藤のこの文章について、この記事で別のアスペルガー症候群者の言葉、
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発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている
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と対比させたが、こうすれば彼の「王の鍵」を求めている無意識が浮き彫りになるだろう。
ま、斎藤のばやい、ラカン理論に対しては「ラカン萌え派」と自称することで自らを抑制しているんだろうな。ラカニアンになったら、木田原になるとは言わんが、理論をS1化しちゃいそうな自分自身を懸念している、ってことか。
ラカニアンたち斎藤ぼこってみてよ。木田原的な素顔が出てくると思うぜ。出てこなかったらごめんね。
別のところで(イトウさんの前のブログのコメント欄だったと思うがURL忘れた)、斎藤についてわたしは「彼はユンギニアンだった頃に何か大きな心的外傷を経験したのではないか」と分析つーか邪推レベルのことを書いたが(全く別の彼の論文の話で)、何しでかしたのだい? ユングみたいに患者とヤっちゃった? 自分を王様のように見る依存症チックなメンヘラにストーキングされたとか? あ、わたしはへーきだよ、飲み屋で知り合っただけの関西の精神科医(女医さんね)さんは患者とヤったことあるって言ってたし、まーそういうもんなんだろうなーって思ったもん。わたしも飲み歩いてた時代つまりヤリマン時代だったから気があった(笑)。病む前の話ね。つかわたしのヤリマン時代(わたしの勝手な命名)って今振り返ると修行してたような感覚だったなー、って思った。修行としてのセックス。うん、負けず嫌いでセックスしてたって感じ。
あ、それにそういや「鍵」って象徴ももろファルスだよな。
だから斎藤、君はユンギニアンであるべき、って言ってるんだけど。素直になりなよ、って。君の人格にはユング論があってるよ、って。
それか「ラカン村に潜り込んだスパイです(笑)」って公言するか。あ、それならちょっとわたし好感持てるかも。
そーだよー、「ラカン萌え派」なんて気持ち悪いこと言わずに「スパイだ」って言えばいーじゃーん。スパイかっこいーじゃーん。
わたしは帰る組織のないスパイ……ってかっこよすぎ? なら「獅子身中の虫」でいいや。わたし自身メンヘラなんだから、理論のあちこちに「鍵穴」ならぬ「虫食い穴」を作っちゃうのー、ああんらめえ、ってこと。
あーそだね。同じラカニアンでも、哲学系とも言うべき、「分析家を目指さないラカニアン」たちは、ラカン理論を劣化させようと、現実から乖離させようと、パラノイア化せしめようとしている、って告発だとすれば、ラカン業界(なんじゃそりゃ)の内紛を煽ってるわけで、斎藤環とか楽しんでくれそうだ。
お楽しみいただけたでしょうか? 処女好きな斎藤くん。
今日のBGM。
前記事とかわたしにとっては「猫かぶっててごめんね」記事なんだけど、猫かぶってる方がいいのか。言葉が抽象的になるから。ラカン用語も抽象的だから、わたしみたいな特殊な主観世界をしている人間が使いやすいのか。
死ね、わたし。
『どうしようもない僕に天使が降りてきた』か。「僕」を「どうしようもな」くさせたのも「天使」だよ。いや、君を助けてくれるそれを「天使」と定義しているだけで、それは「魔女」でもある。『SPY』は「天使」が「魔女」になった瞬間の歌だ。
わたしも「天使」だったことあるよ。普通に恋愛はしてきたさ。だめんずうぉーかーだったけど。
でも「魔女」であることを棄てられなかったんだ。なんで棄てられるのかわからないんだ。ただそうであるそれを相手の都合で「天使」か「魔女」って区別しているだけなのに。同じゴミなのにそいつの都合で「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」か分けてるだけじゃん、そんなん地球環境によくないのに、って。
対象aってそういうものだと思う。相手の主観によって「天使」か「魔女」かに変わるだけで、そのものとしてのそれは、同じ。おぞましいイザナミも囚われたピーチ姫も同じただの物。
「魔女」だって「天使」だったその時を思い出して泣くこともあるさ。今の自分がもっとも汚いと感じるヘドロとしての涙を。向井の文章におけるドゥルーズの言う「愚劣」ってこの汚さだと思う。
かぶってる猫をかわいいと言われたら、「魔女」として汚い涙を流してしまう。だけどそれは「天使」の涙でもある。
やめてくれもう。イザナミもピーチ姫もイザナミやピーチ姫じゃない部分を持っているんだ。じゃなきゃイザナギやマリオが差し出す手を握ったりしない。
わたしは、全てのイザナギやマリオの手を払いのけそうだから、いやなんだ。そんなんただの獣だ。狂犬だ。
死ね、わたし。
「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体化」(ボケ老人のつぶやきのごとく)。
わたしも「袈裟が嫌いなら坊主も嫌い」だけど、わたしは「坊主はなぜ袈裟を着るのか」を論じて、坊主同士に内紛を起こさせようとしている、ってことだな。つか「袈裟も嫌いだし坊主も嫌い」ってだけなんだがな。あ、ここのコメントでも言ってるじゃん。「全てが「害」だ」って。
袈裟も袈裟を着る坊主も袈裟を着ない坊主も平等に攻撃してあげないと。テリブルマザーは裏返せば平等の女神なんだよ。袈裟にも袈裟を着る坊主にも袈裟を着ない坊主にもどれにも組せられないから、構造から疎外されてる、ってわけ。あ、ここでの「疎外」はラカン的な意味、つまり未去勢である、って意味に受け取ってね。
わたしの悪意を批判と取るか助言と取るかは坊主の勝手。構造の外から相関してきた物を自然災害と見るか自然の恩恵と見るかは人間の勝手。
つかなんでそんなに誰かに組したがるのかね? そんなにいじめられてもまだ誰かとつるみたいの?
だから去勢の否認になるんだよね。そ。ここが未去勢と去勢の否認の違うとこ。馬鹿が間違いやすいところ。
素でつるめないんだもん。そもそもつるむことにそんな魅力感じないし。
あれだ、ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
社会からつまはじきにあったって嘆いているそこの君、君の心の中をよっく見てごらん。社会は最初から君の心の中に存在している。君が去勢済み主体なら。だから君は人とつるみたがるんだ。「社会への参入」やら「恋愛の成就」やらって形でね。そうできれば、君の心の中の社会が喜ぶだろう。快楽を覚えるだろう。
君はそうであることを知っている。そこにご褒美があるのを知っている。
わたしはあれ、「誰かが誰かに組すること自体にも生理的嫌悪を覚えちゃう人」だと思ってくれればよい。この「誰か」にはもちろん自分も含まれる。で、「袈裟」ってのは「坊主であること」の代理表象だろ? 代理表象ってのは誰かが誰かとつるむために人間が生み出したものだ。だから「袈裟も坊主も嫌い」。
おわかり? ボクちゃん。
人と人との相関と、物と物との相関は別物だ。人と人との相関はいわば意味の構造である。これが構造主義が究明しようとしている構造である。一方の物と物との相関による構造は、物理学理論などはそれらしきものと言えるが、その理屈体系を作ったのは構造主義で言う構造の中にいる人間たちである。なのでその構造を、つまり最初からある観測機械を分解しなきゃならない。
だからわたしは構造主義者。
幻想は幻想として現実にあるんだ。
わたしが生理的嫌悪を感じるそれはそこにあるんだ。
でもあれか。哲学とか科学とか体系として厳密になった学問では、たった一つの「鍵穴」を求めたくもなるよね。大学時代のわたしはそうだったわ。体系全てを転倒させるための一点。
精神分析はそういう意味ですげーゆるい理屈体系なんだよ。「穴」だらけ。「穴」の多さはラカン論よかクライン論の方が上だけど。
体系化が悪いって話じゃない。統合化も断片化もある。自然の理には両方ある。ネゲントロピーもエントロピーもある。対称も非対称もある。
そういった「統合化/断片化」「ネゲントロピー/エントロピー」「対称/非対称」って一次元的に測るそれが、幻想と現実とで変化している、と考えなければならない。もちろん幻想と現実を測る物差しとしてそれらは有効だ、ってことにもなる。
たとえば「生/死」って一次元的物差しとか特徴的だと思うよ。幻想と現実では逆転している。人間が人間らしく生きることとは、自然にとって死を意味している。人間は人間らしく生きるために自然を破壊してきた。
もっそい中二病臭くなった(笑)。でもそういった「中二病的視点も大事だじょー」つってるのがガタリくんだと思うんだけどなあ。あんちおいでぷすぅって最後すかしっ屁みてえ。大事っつかそれもありよね、とは思う。なんでもあり。自然はバーリトゥード。
でもガタリくんは本人が中二病だから「無意識とは牧歌的なものだ」とか言っちゃうんだよね。超自我が、つまりオイディプスの三角形の中が牧歌的って言ってるならわかるけど、現実界はバーリトゥードなんだよ。
ま、「機械」になることがどんなにつらいことかわかってない正常人だから、そういうこと言っちゃうんだろうね。
ガタリなんて全然「ラカン派の鬼子」じゃないよ。どんなレベルでラカン論理解してんだ(笑)って思うわ。ガタリが、じゃなくてこんなこと言う奴らが。あ、つかこんなこと言ってるのってドゥルージアン、ガタリアンなんだろうな。自分たちの教祖の箔をつけるためにそう言ってるのか。いわば営業トーク。パンクファッション的なトークだけど(笑)。反抗期の少年少女のパンクファッション、ってことか。
おまいらほんとどんなレベルで物語ってんだ。
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そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えているのではないだろうか。
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この記事では、木田原くんみたいな子が「そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えている」人だとしているが、まあこれはいい。そうすれば向井の論旨も木田原の論旨も(わたしにとって)理屈が通るからだ。
しかし、「技法のようなもの」という表現にひっかかっている。つまり、単なる表現の問題なのだが、表現の問題が重要視されるのがラカン派精神分析である。
わたしは、向井のこの文章を通して読んで、「え、ラカン理論から「技法」を取り出そうとしても、別にいいんじゃねえの? 向井の論旨には反しなくね?」と思ったわけだ。
向井はこう言っている。
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分析家としてやっていくためにはまた理論的な構築を行い、実践を適切な概念で把握することも必要だ。ラカンは概念は肉屋の包丁のようなものであると言っていた。それを使って、現実の絡み合いの中に適切な区切りを見つけて、ケースをうまく切り裁いてその構造を把握することだ。
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つまり向井は、ラカン理論を、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」とするならば、利用してよい、と言っているわけだ(ちなみこれはわたしの「言葉とは諸刃のナイフだ」って言葉や、精神分析理論を「メス」と表現していることと通じる)。
ここなんだな。「肉屋の包丁」だって「技法」と言えなくはないだろうか。
そう、さっきも言ったように単に表現の問題なんだな。向井は無意識的にそのことに気づいているのか、「技法のようなもの」とぼかしているのも納得できる。「技法」と言いきると「え、「肉屋の包丁」だって「技法」っちゃー「技法」だろ」と反論されかねない。
さてこの辺を整理してみよう。わたしが自分勝手にひっかかるから。べ、別に木田原くんのためなんかじゃないんだからねっ(ツンデレってもう飽きられてるよな)。
向井は、ラカン理論から「技法のようなもの」を取り出そうとすることに対して批判している。精神分析理論とはそういうものではない、と。向井が「技法のようなもの」と曖昧に述べている何かに、輪郭を与えてみよう、というわけだ。
なので、向井に対する批判のように受け取られるかもしれない。まあこの記事でも書いているように、わたしは向井という人間に対して不信感を持っているのは認めなくないので、別にいいんだが、向井がこの文章において言葉足らずだった「技法のようなもの」についての補足と考えれば、わたしを攻撃しなくても済むだろ?
うん、怖いんだ。藤田博史がそこの掲示板に乗り込んだ時、外野たちにふるぼっこされるのを見てたからね。あ、木田原も怖いよ。彼に対しての不信感は読めばわかることでいちいち表明する必要はなかろうが、その記事で書かれてある彼にメールを送った奴らについても、わたしに対してどんな陰口を言うのか、怖くてたまらない。
外野は黙ってろ。黙れないなら、死ね。
という意味で、外野たちへ牽制してるわけだ。観察するのはいいけど野次を飛ばすな、と。実験環境に手を出すな、と。『CSI』なら「現場を汚染するな」、と。ほんとこれ以上外野になんやかや言われたら何しでかすかわからん。殺したい。死にたい。この記事で言っている「カラオケ採点機」は、ゴローちゃんに「おっまえ演歌界の大御所だぞ? わかってんの?」と言われてびびってる、ってことだ。そういった要素まで計算し始めたらパニックになる。爆発してゴローちゃんを巻き添えにしてやろうか、と思っている。あ、いやゴローちゃんは嫌いじゃないけど。
わたしは今「向井-木田原」という脳内ディスクールを設定し、それについて分析しているのであり、別の時は、今は外野である誰かについて考えることだってあろう。その時まで待ってろ、って話だ。いやもちろん外野として述べたお前の言葉だって一つの言質として取り扱うがね。
聖徳太子とかあれだ、他人を「自分が支配可能な物」としてみてたんじゃね? だから余裕しゃくしゃくで多数の人の声を聞けた、と。まー貴族が平民の声を聞く態度としては普通なのか。いや顔だけ余裕しゃくしゃくにしてただけで内心パニくってたのかもしれんがね。つかどーでもいい。
前ふり終わり。
でも、このコラムに限って言えば、向井に対する不信感は多少和らぐ。以下の文章など、わたしが勝手に「精神分析家とはこういうものかな」としていたイメージと合致する。
=====
そのとき実践の場に立つ分析家はそこではただ一人である。そこで出てくるすべての問題を一人で解決していかなければならない。それができないならば分析家としてやっていくべきではない。すべての事柄を自らの内密な判断でやっていくのだ。
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そりゃそうだ。「カラオケ採点機」みたいな人間が社会にいれば、自ずと「一人」になろう。自ずと「すべての事柄を自らの内密な判断でやっていく」しかなくなる。
あーうん、わたしが持っていた分析家のイメージってこういうものだから、木田原の
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「精神分析」は精神医学と臨床心理療法の狭間で、患者の治療に関わる「実学」です。ですから、最低限、自分の考える精神分析学の用語については、意味を定義できなければ、それは「精神分析」としてはまるっきり意味をなさないということになります。あくまでも「患者の治療」が第一ですから、それを説明する用語自体の意味が誰にも理解できないようなことは、絶対にあってはならないのです。
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って文章が理解できないんだな。これ読んで、え、「「実学」だからこそ、各々の治療者が、用語の意味を自分なりに定義して利用すればいいんじゃねえの?」って思っちゃったんだ。
木田原の言う「意味を定義」することって「他人と共有できなければならない」ってことでしょ。木田原も自分で言っているけど、
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他の哲学と同様にその解釈を各々が楽しめばいいのではありませんか。
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ってことで、まー別に分析家は「楽し」む余裕なんてないんだろうが(向井の文章とか全然楽しそうじゃないだろ?)、「各々が各々の解釈をする」ってのは精神分析も同じなんだよね。つか、人間の精神を科学的に見た場合、「各々は各々の解釈しかできない」ってところからむしろ精神分析は始まってるんだ。だから「患者と関係なくさせるべき」だって? 君精神疾患者を何か神か悪魔のようなものに思ってない? 人間だって科学が切り刻んできたのと同じただの物だ。むしろ哲学は科学的なこの考え方を導入して現代のようなトレンドになったと思うんだがな。で、ぼつぼつ萌芽していたその考え方を、実践を通して深めているのが、たとえば精神分析だ、と気づいちゃった。
だから哲学は精神分析にすりよるんだ。あたかも「図書館であくせく本を読む男性」が「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」に言いよっているかのように。あ、いやラカン派も確かに「図書館であくせく本を読む男性」だけど、哲学者たちよかはるかに畑に出ている。向井も書いてるじゃん。
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精神分析にふさわしい症例呈示の方法を探るために、たとえばフロイトの5つの症例とか、優れたラカニアンたちの行っているような症例呈示を少し研究して、症例呈示の在るべき姿を見いだすべきであろう。
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つまり、本当に「図書館であくせく本を読む男性」なのは、木田原みたいな哲学畑の人間だ、ってこと。つか、哲学者と相対したら、ラカニアンだろうがどんな分析家でも「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」になるに決まっておろうが。
要するにだ、哲学はむしろ、実践なしで、科学や精神分析のおいしいところだけを導入して、「各々は各々の解釈しかできない」ってなったんだ、とわたしは思う。
実践なしで、つまり畑で土まみれになることなしで、「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」の研究結果を流用しているだけ。現代哲学ってなそうなってる。だから中村雄二郎なんかは、自己批判的な文脈で(彼も哲学者だからな)「臨床の知」を唱えたりしたんだと思うよ。
そりゃー畑で汗を流さず楽なところだけ研究してたら「楽しめばいい」ともなろうな(笑)。
断っておくけどあたし哲学者でも精神分析家でも科学者でもないからね。ただのメンヘラ。大学まではばりばり理系で、今は精神分析メインになってるだけで。精神分析歴とかちょー浅いよ? 哲学はなんかちょろちょろ読んでたな。時期を限らず。このブログ始める直前は自分はデリダ派だって思ってたくらいで。
えーそうです尻の軽い女なんです。まさに魔女キルケ。
つかほんと演劇が最大のターニングポイントなんだよな。あ、ごめん独り言。
あ、その下のコラムにもおもろい文章があった。
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これを書いていたらドルーズの言葉を思い出した。「哲学は何の役に立つのかと問われたとき、答えは攻撃的でなければならない。なぜなら、そのような問いは皮肉で辛辣たらんとしているからである。哲学は国家や教会の役には立たない。国家や教会には別の関心事がある。哲学はいかなる既成の権力にも役立たない。それは悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も不愉快にしないような哲学は哲学ではない。哲学は愚劣をやっつけるのに役立ち、愚劣を恥ずべきものとみなす」。
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ねーねー木田原くん、君の言う「その解釈を各々が楽しめばいい」「哲学」とは全然違うよね? 君の考える「哲学」って、サロンの社交術か何かかい?
ま、あれだな、ここの文章借りるなら、誰かを悲しませて、誰かを不愉快にさせる哲学であるために、不愉快な畑で右往左往している精神分析にすりよってきた、って言い方になるな。
ドゥルーズの失敗は相棒にガタリを選んだことだとわたしなんかは思うけどね。
「技法」についてに戻る。
わたしは「え、別に精神分析理論から「技法」を取り出してもよくね?」と思ったのだが、向井のそのあとの文章で補足するなら、「技法」が「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」であるならば、よいわけだ。向井の言う「技法のようなもの」には「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」は含まれない、と。
では、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」ではない「技法のようなもの」とはどういうものなの? となる。
ここでわたしはピンときたんだ。いやここだけ述べたくてこんな長い前ふりしたんだけどさ。
それは、「コツ」という表現が適格なことなのではないか。つまり、向井が「技法のようなもの」という曖昧な言い方で表現したかったのは、「コツ」ってことじゃないか、と。
向井の文章に「コツ」という言葉を補足すると、以降の文章との繋がりもすっきりする。わたしが。
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そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなもの【、コツのようなもの】を取り出そうと考えているのではないだろうか。
(【】内わたしによる)
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「コツ」であれば、「肉屋の包丁のようなもの」としての「概念」とは別物だと思える。どういう違いか。
「コツ」はそれ一つで複数の問題を解決するものである。一方「概念」はそうではない。複数である。「肉屋の包丁」は複数あってよい。骨を切り落とす時と脂肪を切り落とす時で別々の包丁を使ってよい。
さて、そろそろラカニアンたちにはピンときてほしいのだが、一応順序は踏もう。めんどくせえ。
「技法」も「概念」も要するに「知」である。つまりS2である。では「コツ」としての「技法」はどうか。「コツ」はそれ一つで複数の「知」に影響を及ぼすものである。つまり、S1に親近するものである。
こう考えると、向井がそれを「コツ」と表現できず、「技法のようなもの」と表現してしまったことも理解できる。向井は精神分析家である。分析家のディスクールはS2を真理としている。つまり彼は根っから分析家であるために、精神分析理論をS2としてしか見ておらず、それをS1のごとき意味を持つ「コツ」と表現できなかった、と。
こう考えると、向井やるなあ、って思えるわ。腐っても資格持ち。不信感が消えたわけじゃないけれど。
このコラムってすげー重要だと思うぜ。精神分析業界(笑)において。「分析家とはどういうものか」って意味で。
あ、わたしもいいこと言ってるじゃん。ここのコメント欄から。
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「精神分析」を振り回してなくても、分析家のディスクールは成立する。真理の位置にあるS2が(S2だから道具を真理にしてるってことでブリコラージュみたいなもんと思っとけ)精神分析理論かどうかってことで。S2だからどんなシニフィアンでもあてはまりはする。
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分析家にとっての分析理論とは、「コツ」のごときS1ではなく、レヴィが眺めていた「断片化された神話素」のごときS2だ、ってこと。うん、「自分はその時、神話(素)の小道になっている」と述べた彼の構造分析は、「分析家のディスクール」として一つの好例だと思う。
「コツ」って表現も微妙かもしれない。ならば、「鍵のようなもの」でもよい。その理屈体系をその一点で支えている何か。その一点たる「鍵穴」に「鍵」を差し込めば、理屈体系全てを転倒させることや変化させることが可能な何か。自身を王にせしめる「鍵」。
このように考えると、この記事でわたしが「木田原は精神分析理論をS1として見ているんじゃないか」と言ったこととも繋がる。むしろ、単なる直感で述べたそのような印象を、精神分析理論で詳細に説明した、ってことになるか。
すると、木田原が行っている「ラカン理論の矛盾を洗い直す」作業も説明できる。彼は「鍵穴」を探そうとしてそうやっているのだ、と。ラカン理論という全体を支配可能なものにせしめるアキレスの踵のごときある一点を探している、と。
ところがこの「鍵穴」は臨床するたびに増殖するものである。まさしく「精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである」。
これはこの記事でも述べたけど別に精神分析理論に限ったことではなく科学全般に言えることだ。うろ覚えだけどラカン自身がそんなようなことを言っていたと思う。「科学は常にその危機と対峙している」みたいな。それと同じ。精神分析は臨床することで常にその理屈体系の危機と対峙している。自然科学は自然を観察することで常にその理屈体系の危機と対峙している。
従って、木田原は臨床を除外しなければならない。彼がいくら矛盾を洗い直しても、臨床によってあとからあとから「鍵穴」が増殖してしまう。彼は現実を隔離しなければならない。彼が追い求める「鍵穴」は常に変容してしまう。彼が支配したがっている理屈体系は、常に彼の手からこぼれ落ちる。
ラカン的な意味での現実を排除するのがパラノイアである。なるほど、フロイトが「哲学はパラノイアだ」と言ったのも、木田原の症状を見れば、納得できる。あ、いや木田原がパラノイアだと言っているわけじゃないが。おそらくフェティシストになろうな。哲学・思想フェチ。「フェティシスムとはパラノイアに対する防衛である」ばーい藤田博史。斎藤環論ならフェチ=マニアだから哲学・思想マニア。学者とマニアは別物だべ。あーうん「その解釈を各々が楽しめばいい」ってのもマニアの言葉だと考えたらすげーしっくりくる。
でもね木田原くん、君のやっている「精神分析理論の矛盾を洗い直す作業」は、前から言っている通りわたしは奨励しているんだが、矛盾を明確化すればするほど、そうしている主体は現実と親近しちゃうんだよ。だからわたしは君をエディプスコンプレックスだと診断したわけだ。現実から離れようとやっていることが、己を現実に導いてしまう。まさにコンプレックス。オイディプス。
……あれ、もっと言いたいことあったんだけど忘れた。いや別に向井批判でも木田原批判でもないんだが。
一応思い出すための適当連想として、中坊さんについて述べておこう。中坊さんなんかも、精神分析理論あるいは分析家をファルスとして見たがっていて(こことかここのコメント欄参照)、彼はそれを自覚してなおかつへらへら自分で述べちゃうからわたしは別にどうでもいいんだが、むしろ彼は鬱系メンヘラらしいし、/Sが大量生産されちゃった症例として見るべきなんだろうな、と思った。
というわけで中坊くん、君が進むであろう先は「ヒステリー者のディスクール」だ。もっと悪化したまえ。つか最近のこことかここの無言記事ってとっても象徴的ね。「抑鬱とはシニフィアンの否認である」ばーいクリステヴァ。「The Ultimate Machine」おもれえ。
あーうん、そうそう、物性物理の実験とかでも、何かしらの「コツ」を取り出そうとして観察しちゃだめ、ってこと。自然の理という全体を支配可能にせしめる「鍵」を求めちゃいけない、ってこと。物理だって「鍵穴」だらけ。そこにあてはまる何かは「コツ」としての「鍵」ではなく、ただの「概念」だ。自然を切り刻む「肉屋の包丁」だ。そうだろ? 物理学理論だって全て「概念」じゃん。文系と比べてちょっと数字が多いだけで。
王の「鍵」なんて存在しないんだよ。王のそばに仕えるピエロはよく知ってるだろうな。王が大切に持っているその「鍵」が、木や金属で作られたただの物だってことを。
これが意外とみんなできてないように思える。人間はどうしても「色眼鏡」がかかってしまう。実験結果をただありのまま見つめることができない。
東大の自然科学系の奴らもだめだったな。他は知らん。「あーこいつらだめだ」って思ったもん。いやその時代のわたしに聞いたら「東大の人って意外とマッドサイエンティストじゃなかったからだめ。演劇の方に多かった」とかって語弊がわんさか生じそうな答え方をするんだろうけどー。
ここで言ってるのもおんなじことだよ。哲学者ってほんとだめねー。向井は多少わかってそうかなレベル。
わたしが子供の頃から持ち続けてきた周りの全ての人間に対する違和感。大学生くらいには多少輪郭ができ始めていたが言語化できなかったそれ。
その一側面である「色眼鏡」を説明するのに、ラカン理論はとっても役立った、ってわけ。いわば、東大の科学者も神経症者だったから、L図におけるa'→aって防衛柵が常に既にあっちゃうから、この木田原よりのラカニアンが言う「感動的な鈍感さ」が内蔵されているから、「実験結果をただありのまま見つめる」ことができなかったのかー、ってね。
死ね。人間の八割くらい。そうすればわたしの精神疾患も多少は和らぐだろう。
実はわたし斎藤環って木田原くんと似てるように思えるんだな。「鍵」を求めている。この文章のここ
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おそらくここには,発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。複数のコミュニケーション・スタイルで,一つのメッセージを伝えようとすること。ここにはひょっとすると,「フレーム問題」を突破する契機すらも含まれているのではないか。
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とかまさにそんな感じ。斎藤のこの文章について、この記事で別のアスペルガー症候群者の言葉、
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発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている
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と対比させたが、こうすれば彼の「王の鍵」を求めている無意識が浮き彫りになるだろう。
ま、斎藤のばやい、ラカン理論に対しては「ラカン萌え派」と自称することで自らを抑制しているんだろうな。ラカニアンになったら、木田原になるとは言わんが、理論をS1化しちゃいそうな自分自身を懸念している、ってことか。
ラカニアンたち斎藤ぼこってみてよ。木田原的な素顔が出てくると思うぜ。出てこなかったらごめんね。
別のところで(イトウさんの前のブログのコメント欄だったと思うがURL忘れた)、斎藤についてわたしは「彼はユンギニアンだった頃に何か大きな心的外傷を経験したのではないか」と分析つーか邪推レベルのことを書いたが(全く別の彼の論文の話で)、何しでかしたのだい? ユングみたいに患者とヤっちゃった? 自分を王様のように見る依存症チックなメンヘラにストーキングされたとか? あ、わたしはへーきだよ、飲み屋で知り合っただけの関西の精神科医(女医さんね)さんは患者とヤったことあるって言ってたし、まーそういうもんなんだろうなーって思ったもん。わたしも飲み歩いてた時代つまりヤリマン時代だったから気があった(笑)。病む前の話ね。つかわたしのヤリマン時代(わたしの勝手な命名)って今振り返ると修行してたような感覚だったなー、って思った。修行としてのセックス。うん、負けず嫌いでセックスしてたって感じ。
あ、それにそういや「鍵」って象徴ももろファルスだよな。
だから斎藤、君はユンギニアンであるべき、って言ってるんだけど。素直になりなよ、って。君の人格にはユング論があってるよ、って。
それか「ラカン村に潜り込んだスパイです(笑)」って公言するか。あ、それならちょっとわたし好感持てるかも。
そーだよー、「ラカン萌え派」なんて気持ち悪いこと言わずに「スパイだ」って言えばいーじゃーん。スパイかっこいーじゃーん。
わたしは帰る組織のないスパイ……ってかっこよすぎ? なら「獅子身中の虫」でいいや。わたし自身メンヘラなんだから、理論のあちこちに「鍵穴」ならぬ「虫食い穴」を作っちゃうのー、ああんらめえ、ってこと。
あーそだね。同じラカニアンでも、哲学系とも言うべき、「分析家を目指さないラカニアン」たちは、ラカン理論を劣化させようと、現実から乖離させようと、パラノイア化せしめようとしている、って告発だとすれば、ラカン業界(なんじゃそりゃ)の内紛を煽ってるわけで、斎藤環とか楽しんでくれそうだ。
お楽しみいただけたでしょうか? 処女好きな斎藤くん。
今日のBGM。
前記事とかわたしにとっては「猫かぶっててごめんね」記事なんだけど、猫かぶってる方がいいのか。言葉が抽象的になるから。ラカン用語も抽象的だから、わたしみたいな特殊な主観世界をしている人間が使いやすいのか。
死ね、わたし。
『どうしようもない僕に天使が降りてきた』か。「僕」を「どうしようもな」くさせたのも「天使」だよ。いや、君を助けてくれるそれを「天使」と定義しているだけで、それは「魔女」でもある。『SPY』は「天使」が「魔女」になった瞬間の歌だ。
わたしも「天使」だったことあるよ。普通に恋愛はしてきたさ。だめんずうぉーかーだったけど。
でも「魔女」であることを棄てられなかったんだ。なんで棄てられるのかわからないんだ。ただそうであるそれを相手の都合で「天使」か「魔女」って区別しているだけなのに。同じゴミなのにそいつの都合で「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」か分けてるだけじゃん、そんなん地球環境によくないのに、って。
対象aってそういうものだと思う。相手の主観によって「天使」か「魔女」かに変わるだけで、そのものとしてのそれは、同じ。おぞましいイザナミも囚われたピーチ姫も同じただの物。
「魔女」だって「天使」だったその時を思い出して泣くこともあるさ。今の自分がもっとも汚いと感じるヘドロとしての涙を。向井の文章におけるドゥルーズの言う「愚劣」ってこの汚さだと思う。
かぶってる猫をかわいいと言われたら、「魔女」として汚い涙を流してしまう。だけどそれは「天使」の涙でもある。
やめてくれもう。イザナミもピーチ姫もイザナミやピーチ姫じゃない部分を持っているんだ。じゃなきゃイザナギやマリオが差し出す手を握ったりしない。
わたしは、全てのイザナギやマリオの手を払いのけそうだから、いやなんだ。そんなんただの獣だ。狂犬だ。
死ね、わたし。
「純粋に現実的なものとしての小文字のaの主体化」(ボケ老人のつぶやきのごとく)。
わたしも「袈裟が嫌いなら坊主も嫌い」だけど、わたしは「坊主はなぜ袈裟を着るのか」を論じて、坊主同士に内紛を起こさせようとしている、ってことだな。つか「袈裟も嫌いだし坊主も嫌い」ってだけなんだがな。あ、ここのコメントでも言ってるじゃん。「全てが「害」だ」って。
袈裟も袈裟を着る坊主も袈裟を着ない坊主も平等に攻撃してあげないと。テリブルマザーは裏返せば平等の女神なんだよ。袈裟にも袈裟を着る坊主にも袈裟を着ない坊主にもどれにも組せられないから、構造から疎外されてる、ってわけ。あ、ここでの「疎外」はラカン的な意味、つまり未去勢である、って意味に受け取ってね。
わたしの悪意を批判と取るか助言と取るかは坊主の勝手。構造の外から相関してきた物を自然災害と見るか自然の恩恵と見るかは人間の勝手。
つかなんでそんなに誰かに組したがるのかね? そんなにいじめられてもまだ誰かとつるみたいの?
だから去勢の否認になるんだよね。そ。ここが未去勢と去勢の否認の違うとこ。馬鹿が間違いやすいところ。
素でつるめないんだもん。そもそもつるむことにそんな魅力感じないし。
あれだ、ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
社会からつまはじきにあったって嘆いているそこの君、君の心の中をよっく見てごらん。社会は最初から君の心の中に存在している。君が去勢済み主体なら。だから君は人とつるみたがるんだ。「社会への参入」やら「恋愛の成就」やらって形でね。そうできれば、君の心の中の社会が喜ぶだろう。快楽を覚えるだろう。
君はそうであることを知っている。そこにご褒美があるのを知っている。
わたしはあれ、「誰かが誰かに組すること自体にも生理的嫌悪を覚えちゃう人」だと思ってくれればよい。この「誰か」にはもちろん自分も含まれる。で、「袈裟」ってのは「坊主であること」の代理表象だろ? 代理表象ってのは誰かが誰かとつるむために人間が生み出したものだ。だから「袈裟も坊主も嫌い」。
おわかり? ボクちゃん。
人と人との相関と、物と物との相関は別物だ。人と人との相関はいわば意味の構造である。これが構造主義が究明しようとしている構造である。一方の物と物との相関による構造は、物理学理論などはそれらしきものと言えるが、その理屈体系を作ったのは構造主義で言う構造の中にいる人間たちである。なのでその構造を、つまり最初からある観測機械を分解しなきゃならない。
だからわたしは構造主義者。
幻想は幻想として現実にあるんだ。
わたしが生理的嫌悪を感じるそれはそこにあるんだ。
でもあれか。哲学とか科学とか体系として厳密になった学問では、たった一つの「鍵穴」を求めたくもなるよね。大学時代のわたしはそうだったわ。体系全てを転倒させるための一点。
精神分析はそういう意味ですげーゆるい理屈体系なんだよ。「穴」だらけ。「穴」の多さはラカン論よかクライン論の方が上だけど。
体系化が悪いって話じゃない。統合化も断片化もある。自然の理には両方ある。ネゲントロピーもエントロピーもある。対称も非対称もある。
そういった「統合化/断片化」「ネゲントロピー/エントロピー」「対称/非対称」って一次元的に測るそれが、幻想と現実とで変化している、と考えなければならない。もちろん幻想と現実を測る物差しとしてそれらは有効だ、ってことにもなる。
たとえば「生/死」って一次元的物差しとか特徴的だと思うよ。幻想と現実では逆転している。人間が人間らしく生きることとは、自然にとって死を意味している。人間は人間らしく生きるために自然を破壊してきた。
もっそい中二病臭くなった(笑)。でもそういった「中二病的視点も大事だじょー」つってるのがガタリくんだと思うんだけどなあ。あんちおいでぷすぅって最後すかしっ屁みてえ。大事っつかそれもありよね、とは思う。なんでもあり。自然はバーリトゥード。
でもガタリくんは本人が中二病だから「無意識とは牧歌的なものだ」とか言っちゃうんだよね。超自我が、つまりオイディプスの三角形の中が牧歌的って言ってるならわかるけど、現実界はバーリトゥードなんだよ。
ま、「機械」になることがどんなにつらいことかわかってない正常人だから、そういうこと言っちゃうんだろうね。
ガタリなんて全然「ラカン派の鬼子」じゃないよ。どんなレベルでラカン論理解してんだ(笑)って思うわ。ガタリが、じゃなくてこんなこと言う奴らが。あ、つかこんなこと言ってるのってドゥルージアン、ガタリアンなんだろうな。自分たちの教祖の箔をつけるためにそう言ってるのか。いわば営業トーク。パンクファッション的なトークだけど(笑)。反抗期の少年少女のパンクファッション、ってことか。
おまいらほんとどんなレベルで物語ってんだ。
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