タシャタシャタシャタシャ(笑)
2010/01/14/Thu
『BONES』のサローヤン博士がかっこええ。惚れた。
木田原くんのこの記事見てフイタ。
君さー、この記事のぬりかべくんレベルだったんだね。ぬりかべくんはもう「偉人幻想」は払拭したらしいお? わたしって魔女のおかげか知らんが。ぬりかべくんにもよく説教してたわ。「お前のそれ単なるエディプスコンプレックスで、要するに中二病とおんなじだ」って。
うん。おまいエディプスコンプレックス確定。わたしん中で。
でもあれだ、向井雅明が「ラカン原理主義者」だってのは同意する。分析受けるなら藤田博史の方がわたしにはあいそう。わたしも飲んだくれだしな(笑)。
この文章とかもろ木田原が、精神分析理論あるいは分析家を、フロイト的に言うなら父と、ラカン的に言うならファルスとしているのが見て取れる。あ、ごめん以前の質問「君はなんで精神分析をやっているの? 自問自答してみて」って質問の答えになるな。答えっつか、あくまでわたし個人の仮説だ。仮説だったのにこの記事で「あーやっぱそうか(笑)」ってなっちゃったんだよ。
君は父あるいはファルスに対するコンプレックスとして精神分析をやっている、と。
逆だよ。「偉人幻想」ばりばりなおまいみたいなのが精神分析を劣化させてんだよ。精神分析理論を何か尊大なものとしたがっている、精神分析家を人格者にしたがっているおまいのような人間が。精神分析理論あるいは精神分析家をS1あるいはファルスとしたがっているおまいのような存在が。
「対象aとは屑である」すなわち「精神分析家とは屑である」。
分析家に限らず学者もそうなんだけどね。まさに「学者と人格者は等値じゃないんだよ。愚民どもが勝手に妄想でそれらをイコールにしてるだけで」ってこと。「大学のディスクール」と「主人のディスクール」は別物だ。「分析家のディスクール」なんて君がしたがっているディスクールと対極にあるだろうね。「主人のディスクール」と対極にあるのが「分析家のディスクール」だ。
あれだ、木田原くん、君は学者じゃなく人格者になりたがっている。ヘーゲルとかのがあってそう。
なんつーか
=====
「ラカンはいつまで経っても一部の人のもの」という現実を払拭できないでいる。
=====
とかまーわたしが生理的嫌悪を感じるポイントをよく表現できてると思うわ。
君、他者を求めすぎ。他者の呪縛から離れたところで分析家は対象を観察するわけだ。この記事で言う「カラオケ採点機」のごとく。だから「他者なんてどうでもいい」ってなって、結果的に「一部の人のもの」になる。「一部の人のもの」でいいんだよ。「他者なんてどうでもいい」んだから。いわば、東大の数学入試問題みたいな「好きなようにお解き」って態度なんだよな。
斎藤のこの文章とかも
=====
というのも、この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
=====
なんでそんな君ら他者に媚びたがるの? って不思議に思うわ。
うん、精神分析的に言えば、木田原よりぬりかべくんや中坊さんの方が、去勢を承認できている、つまり大人だ。
こう言うと否認するんだろーなー。おまいみたいなタイプは。中坊さんみたいに「僕は他者をガッツリ欲望している」くらい言えないもんかね。
あ、わたしは退行の境地にいる魔女だと思ってくれ。なんせ「鏡像関係の組み入れの失敗の症例」なもんで。自己分析だけど。だから彼ら二人のような承認と否認の狭間でさまよう子たちのよい反面教師となる。究極の反面教師。
分析家は孤独でなければならないんだよ。孤独だと生きていけないけど。疎外されてこそ分析家なんだ。
タシャタシャタシャタシャ。
ナカマナカマナカマナカマ。
「「私、私、私」とひたすら繰り返し歌う」グアヤキ族のお祭りとは正反対。いやこれを述べている自己愛型ひきこもりラカニアンくんも「他人とは思えない」と言ってるから「ナカマナカマナカマナカマ」なんだけどね。
「群れては居ても互いに無関心を保」つのってそんなに難しいこと? わたしなんか素がそうよ? だから集団行動が苦手ってなるんだけど。ほんとクラブとか行ってみたら? グアヤキ族のお祭りの現代版がそこにあるかもよ。
タシャタシャタシャタシャ(これは笑い声)。
なんかごめん、とっくに臨床済みの類型だとわかったから一気に萎えた。
この木田原くんなんか中野昌宏にすりよっているみたいだけど、中野はわかってそうに思えるんだけどな。どの論文か忘れたけどそんなようなこと書いてあった気が。「分析家は人格者などではなく屑である」って感じの。なんかネグリ好きみたいだし、「マルチチュード」とかと通じるところがあるのかもしれん。マルチチュードは人格者などではなく、むしろ「他者なんてどうでもいい」奴らだ(ってわたしの浅薄な理解。社会学系ほんと興味湧かない)。いわば『アンチ・オイディプス』で言う「無意識の本質」としての「孤児」。精神分析が追い求める(斜線の取れた)エス。「偉人」を偉人として見れないから分散してしまう。マルチチュードになる。
いやま、確かに木田原の言う通り「遊び人」藤田博史なんかは「屑」ってのを真に受けすぎな気がするけどね(笑)。つかこの辺は「よく言った」って感じでワロタ。でも「そうそう、そうでなきゃ」じゃなく「それがだめ」ってなってるのがわたしと違う。分析家あるいは学者はこうであっていいと思うんだがな。ここでもそんな感じのこと書いてるけど。
あ、わたしは生まれつきの「遊び人」ですお。この記事とかでも書いてるように。
=====
この記事とかで書いた「遊びが遊びになってないじゃん」ってな態度をする知人を連想したからだと思った。多分。
そこでも書いているようにわたしは「遊びだから本気」なのだ。
というか、なぜ遊びだと本気じゃないのだろう? 「遊び」と「本気」は対義語じゃないよな。それぞれの意味は。子供なんか遊びに夢中になるよな。本気になってるよな。
ああそっか、「ガキ臭え」って言いたかったのか、そいつは。
そりゃそうだ。このブログでは未去勢者という言葉を多用しているが、それは本当の意味での子供だということでもある。
わたしにとって精神分析もいわば遊びだ。遊びだから本気でやっている。これは冒頭で述べた魔女の性質にも合致する。学者が人間の、人間社会の役に立つことしか研究しない、研究させてもらえないのと違い、魔女は人間の、人間社会の役に立つかどうかなど関係ない。自分が興味を持ったことを研究する。いわばジコマンだ。『分解くんのホンネ』だ。分解くんもそのまま大人になれば魔女になるのかもしれないね。それはともかく、他の誰かの、社会の役に立たないから、学者の仕事と比較すると、魔女の研究は遊びだと言われても仕方がない。たとえば、学者が遊びでするような研究を、魔女は本気でやっている。魔女ではない学者はそんな魔女を見て嘲笑するだろう。「遊びが遊びになっていないじゃないか」と。
=====
わかるかなー、わかんねーかー。
ねーねー、学者たちこういうのすげーうざくね? 「学者とは人格者でなければらない」って愚民どもの妄想が。だからさ、「学者」って言葉を愚民に譲ってあげればいい、「学者」って言葉に定義的に「人格者」って意味も含んでよしとしてあげればいい、その代わり「魔女」って言葉を使えばよくね? っていうのがその記事で言ってることなんだよね。
学者は学者なる本性を思い出せ、ってこと。
ほーんとこういう子とか学者なんか相手にしないで政治家になればいいのに、って思う。あれだ、うちの親とかも若い牝豚カルト国会議員のドキュメンタリーかなんかを見てて、「あんたは東大に行ったのにねえ」とか言ってたんだが、あたし理系だぜ? おまいほんと学問とはなんなのかがわかってねーな、って思ったわ。まーとか言いながらさすがわたしの親だけあって数年後にはこの会話をすっかり忘れてやがったけどさ。あ、ごめん、個人的な愚痴。
「中野あたりはわかってそう」ってのもわたしの妄想にすぎないわけで、しかもわたしメンヘラだから自分の妄想を信頼できないので、彼んところにトラバ打っとこ。いや返事はいらない。したかったらしろ。中野はわたしと違うところを見ている。遠い場所にいる。遠い場所にいてくれ、とわたしは思っている。
一応木田原関連まとめとく。その1、その2、その3。
中坊さーん、こないだの「精神分析家は対象aかファルスか」って議論のとってもよい具体例だよー。この木田原って人とか「精神分析理論をS1として扱ってる奴ら」の典型。君はファルスをあきらめてるところがあるから(そりゃーメンヘラだからそうなるわな)、この木田原より(自分に対する感情移入なしの)自己分析は多少できている、ってことになるわけだ。去勢を承認しやすい。
まーファルスとして見たい奴はほっとけ、としか言えんな。今は。飽きちゃった。「偉人幻想」って社会にとっては大事だしね。これなくしたら人が立身出世するための目標がなくなっちゃうから。
なんか木田原くんを応援したくなってきたわ。中坊さんと対比させたら。ほら、一応去勢の否認擁護派、中二病擁護派だから。
つか木田原くんがうらやましいよ。そのきらきらした目が。
誰かわたしの「偉人」になってくれ。
あーそうそう、精神分析家擁護みたいな立場になってるけど、だからと言って尻尾振ってくる分析家にも噛みつくと思うよ。わたしって。ほんとそうなんだ。そんな自分がいやなんだ。だから群れられない。つるめない。群れているふりならできる。「群れては居ても互いに無関心を保」つことができる。
狂犬は自分を愛撫する人間の手にも噛みついてしまうんだ。
先述の
=====
他者の呪縛から離れたところで分析家は対象を観察するわけだ。この記事で言う「カラオケ採点機」のごとく。だから「他者なんてどうでもいい」ってなって、結果的に「一部の人のもの」になる。「一部の人のもの」でいいんだよ。「他者なんてどうでもいい」んだから。
=====
って前記事の
=====
ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
=====
に相似するな。
だからわたしは「自閉症者は生まれながらの分析家だ」なんて言っちゃうんだ。
あ、向井自分で言い訳してんじゃん。
=====
ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。
=====
うん、向井と藤田のぎゃーぎゃー、お二人ともとっても「ヒステリー的」ですた(笑)。
向井の言う通りだと思うよ。だからむしろあたしなんかは彼ら二人を「学者だなー」って思ったんだけどなー。ほら、東大の理系学者ってほんと幼稚な人ばかりだからさ。そんなわたしから見ると、木田原のその記事って、幼稚化した二人を批判することで、自分を大人に見せようと、人格者に見せようとしているだけに思えちゃうのね。ごめんね、現場を知ってる人の一つの意見だと思って。
ま、常識的な言い方すれば、向井の個人攻撃も不用意だったし、藤田も過敏すぎた、なーんて感じ(笑)になるんだろうけど、ぎゃーぎゃーをちゃんとやってれば、この二人はこの二人各々の「知」を発見できたと思うんだな。
「ヒステリー者のディスクール」は「知」を産出する。
わたしなんかそれさえもキモイから「サバルタンのディスクール」とか提唱してるけど。「知」を産出することって「丸め込まれる」ってことだからね。幻想に。ぬりかべくんにはよく丸め込まれたよ。「自分は丸め込みテクニックを極める」って公言してたくらいだからな。あ、思い出した。こいつにわたしがつけたあだ名、「メンヘライーター」。いや本物のメンヘラは一人しか付き合ったことないらしいが。
なんかこう、ほんとラカン論ってもうだめじゃね? こんな木田原みたいなのが多かったら。つか斎藤環も自己愛型ひきこもりラカニアンくんもわたし判断でアウト。むしろこういう奴らがこないように「一部の人のもの」にすべきだと思ったわ。
愚民どもが外野から野次を飛ばして精神分析を劣化していく。
「ちぃ、精神分析業界の空気、またちょっと覚えた」
新宮一成のヒステリー状態見たーい。この言葉だけは多くのラカニアンが賛同してくれるものと思っている。だめ? 新宮なんか器用に「主人のディスクール」と「大学のディスクール」をふらふらするんだろうな。そう自分で書いてるし。
学者は和をもって尊しとなしてはならない。「和をもって尊しとなす」なんて愚民化洗脳だ。まー貴族から言えば被支配階級が頭よかったら困るだろうしな。聖徳太子は偉大な政治家だった。つか当時から自閉症者はいたんだろうから(器質因なんだろ)、自閉症者抹殺政策になったんだろうなこれ。
君たちが目をきらきらして見てるそれは、見方を変えれば、悪いものになりうる。逆も然り。きれいは汚い、汚いはきれい。
「ウキー」ってなるのがそんなに恥ずかしいの? じゃあ常時「ウキー」ってなってる精神疾患者とか恥ずかしい人間たちだと思ってることになるよね?
わたしって存在を恥ずかしいものだと思ってるわけだ。幼稚だと見下しているわけだ。
そんなレベルで恥ずかしいと思えるならまだ幸せだよ。こちとらそんなレベルじゃないところで必死なんだ。他者とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だ。
それでいいよ。だからあなたは人格者足りえる。
対象aにはなれないけど。
追記。
木田原くんブログの管理画面らしきとこからのアクセスがあった。ホスト追ったけど読んでなさげwww 相手wにwされてないwww
疎外されちゃいました、てへっ(爆笑)。
学者ねえ。なんでそんな偉い人だと思っちゃうのだろうね。学者とか以前に、わたしは小学生の頃から勉強はできたんだけど、ほんと「周りが勝手に勉強を嫌ってるから、普通にやってるわたしが相対的によくなってるだけ」と思ってたんだよな。
「勉強」とか「学問」とかってののシニフィエに、変な妄想をおっかぶせてるだけなんだよな。わたしから言えば。木田原くんも周りのガキたちも同じ。
学者だってただの人間だぜ? 学問理論だってただのシニフィアン群だ。なんでただそうである物として見れないんだろう。
あれだ。「東大生って「東大なんて大したことありませんよ」とかって嫌味をよく言う」などと言われるけど、ほんと大したことないんだよ。人間的に大したことない奴ばっか。むしろ普通の社会の方が大人な人が多い。
「東大生なら人格者だろう」とかってお前の勝手な思い込みをなすりつけないでくれる? まじで。しかも理系で女だと珍獣扱いされるしよ。会社にいた頃とか、地方工場から出張にきたオヤジが見物しにきてたくらいだ。まさに動物園状態。
まじうぜえ。
あやばいきた。だめだもう。
ほんと殺してくれ。お願いだから。
外野は黙ってろ。黙れないなら、わたしを殺せ。
なんか、『どうしようもない僕に天使が降りてきた』のこの一言で泣いた。
時々天使は僕らにイタズラをして教えるよ
誰かを愛するためにはもっと努力が必要
なぜお前らはそんな余裕しゃくしゃくな顔で「愛」をふりまけるんだ?
なぜ斎藤環は一足飛びに「敷居が下がる」と思えたんだ?
だからお前らの「愛」はレイプにしか見えないんだ。
だからわたしは被害妄想に苦しむんだ。
お前らの「愛」は努力が足りなさすぎる。
「愛を勘違いしないでください」
対象aを勘違いしないでください。
なんか今日一日中泣いてるわ。
書くとまた泣く。
吐き気がするくらい。
この涙とか「社会にコミットしようとしての涙」とか解釈されるんだろうな。「世界に参入しようとしての涙」なのに。「社会に対する違和感」と「世界に存在することの違和感」は違う。二階堂奥歯のこの言葉を理解できる奴は世界に何人いるだろうか。
「象徴界への参入」なんかでもない。想像界にすら参入できていない。いわば「意味の世界への参入」だ。
お前たちはなんの努力もなしにほぼ自動的に意味の世界へ参入できる。
だからそんな余裕しゃくしゃくな顔で「愛」をおっかぶせてくる。わたしをレイプしてくる。
「愛」とは原初の意味であり、物自体ならぬ意味自体だ。
「天使のイタズラ」ね(笑)。そんないいもんじゃねえ。それこそ「ヒステリー的主体」だ。主人公の言う「努力」がS2だ。ほら、「ヒステリー者のディスクール」は「知」を産出している。
それは、へそを曲げたイザナミに向かって、あきらめきれないイザナギが必死こいてしてる言い訳だ。
グロテスクなイザナミを目の前にして、必死で行う意味化、つまり幻想化だ。
涙が「死ね」って言ってる。
木田原くんのこの記事見てフイタ。
君さー、この記事のぬりかべくんレベルだったんだね。ぬりかべくんはもう「偉人幻想」は払拭したらしいお? わたしって魔女のおかげか知らんが。ぬりかべくんにもよく説教してたわ。「お前のそれ単なるエディプスコンプレックスで、要するに中二病とおんなじだ」って。
うん。おまいエディプスコンプレックス確定。わたしん中で。
でもあれだ、向井雅明が「ラカン原理主義者」だってのは同意する。分析受けるなら藤田博史の方がわたしにはあいそう。わたしも飲んだくれだしな(笑)。
この文章とかもろ木田原が、精神分析理論あるいは分析家を、フロイト的に言うなら父と、ラカン的に言うならファルスとしているのが見て取れる。あ、ごめん以前の質問「君はなんで精神分析をやっているの? 自問自答してみて」って質問の答えになるな。答えっつか、あくまでわたし個人の仮説だ。仮説だったのにこの記事で「あーやっぱそうか(笑)」ってなっちゃったんだよ。
君は父あるいはファルスに対するコンプレックスとして精神分析をやっている、と。
逆だよ。「偉人幻想」ばりばりなおまいみたいなのが精神分析を劣化させてんだよ。精神分析理論を何か尊大なものとしたがっている、精神分析家を人格者にしたがっているおまいのような人間が。精神分析理論あるいは精神分析家をS1あるいはファルスとしたがっているおまいのような存在が。
「対象aとは屑である」すなわち「精神分析家とは屑である」。
分析家に限らず学者もそうなんだけどね。まさに「学者と人格者は等値じゃないんだよ。愚民どもが勝手に妄想でそれらをイコールにしてるだけで」ってこと。「大学のディスクール」と「主人のディスクール」は別物だ。「分析家のディスクール」なんて君がしたがっているディスクールと対極にあるだろうね。「主人のディスクール」と対極にあるのが「分析家のディスクール」だ。
あれだ、木田原くん、君は学者じゃなく人格者になりたがっている。ヘーゲルとかのがあってそう。
なんつーか
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「ラカンはいつまで経っても一部の人のもの」という現実を払拭できないでいる。
=====
とかまーわたしが生理的嫌悪を感じるポイントをよく表現できてると思うわ。
君、他者を求めすぎ。他者の呪縛から離れたところで分析家は対象を観察するわけだ。この記事で言う「カラオケ採点機」のごとく。だから「他者なんてどうでもいい」ってなって、結果的に「一部の人のもの」になる。「一部の人のもの」でいいんだよ。「他者なんてどうでもいい」んだから。いわば、東大の数学入試問題みたいな「好きなようにお解き」って態度なんだよな。
斎藤のこの文章とかも
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というのも、この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
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なんでそんな君ら他者に媚びたがるの? って不思議に思うわ。
うん、精神分析的に言えば、木田原よりぬりかべくんや中坊さんの方が、去勢を承認できている、つまり大人だ。
こう言うと否認するんだろーなー。おまいみたいなタイプは。中坊さんみたいに「僕は他者をガッツリ欲望している」くらい言えないもんかね。
あ、わたしは退行の境地にいる魔女だと思ってくれ。なんせ「鏡像関係の組み入れの失敗の症例」なもんで。自己分析だけど。だから彼ら二人のような承認と否認の狭間でさまよう子たちのよい反面教師となる。究極の反面教師。
分析家は孤独でなければならないんだよ。孤独だと生きていけないけど。疎外されてこそ分析家なんだ。
タシャタシャタシャタシャ。
ナカマナカマナカマナカマ。
「「私、私、私」とひたすら繰り返し歌う」グアヤキ族のお祭りとは正反対。いやこれを述べている自己愛型ひきこもりラカニアンくんも「他人とは思えない」と言ってるから「ナカマナカマナカマナカマ」なんだけどね。
「群れては居ても互いに無関心を保」つのってそんなに難しいこと? わたしなんか素がそうよ? だから集団行動が苦手ってなるんだけど。ほんとクラブとか行ってみたら? グアヤキ族のお祭りの現代版がそこにあるかもよ。
タシャタシャタシャタシャ(これは笑い声)。
なんかごめん、とっくに臨床済みの類型だとわかったから一気に萎えた。
この木田原くんなんか中野昌宏にすりよっているみたいだけど、中野はわかってそうに思えるんだけどな。どの論文か忘れたけどそんなようなこと書いてあった気が。「分析家は人格者などではなく屑である」って感じの。なんかネグリ好きみたいだし、「マルチチュード」とかと通じるところがあるのかもしれん。マルチチュードは人格者などではなく、むしろ「他者なんてどうでもいい」奴らだ(ってわたしの浅薄な理解。社会学系ほんと興味湧かない)。いわば『アンチ・オイディプス』で言う「無意識の本質」としての「孤児」。精神分析が追い求める(斜線の取れた)エス。「偉人」を偉人として見れないから分散してしまう。マルチチュードになる。
いやま、確かに木田原の言う通り「遊び人」藤田博史なんかは「屑」ってのを真に受けすぎな気がするけどね(笑)。つかこの辺は「よく言った」って感じでワロタ。でも「そうそう、そうでなきゃ」じゃなく「それがだめ」ってなってるのがわたしと違う。分析家あるいは学者はこうであっていいと思うんだがな。ここでもそんな感じのこと書いてるけど。
あ、わたしは生まれつきの「遊び人」ですお。この記事とかでも書いてるように。
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この記事とかで書いた「遊びが遊びになってないじゃん」ってな態度をする知人を連想したからだと思った。多分。
そこでも書いているようにわたしは「遊びだから本気」なのだ。
というか、なぜ遊びだと本気じゃないのだろう? 「遊び」と「本気」は対義語じゃないよな。それぞれの意味は。子供なんか遊びに夢中になるよな。本気になってるよな。
ああそっか、「ガキ臭え」って言いたかったのか、そいつは。
そりゃそうだ。このブログでは未去勢者という言葉を多用しているが、それは本当の意味での子供だということでもある。
わたしにとって精神分析もいわば遊びだ。遊びだから本気でやっている。これは冒頭で述べた魔女の性質にも合致する。学者が人間の、人間社会の役に立つことしか研究しない、研究させてもらえないのと違い、魔女は人間の、人間社会の役に立つかどうかなど関係ない。自分が興味を持ったことを研究する。いわばジコマンだ。『分解くんのホンネ』だ。分解くんもそのまま大人になれば魔女になるのかもしれないね。それはともかく、他の誰かの、社会の役に立たないから、学者の仕事と比較すると、魔女の研究は遊びだと言われても仕方がない。たとえば、学者が遊びでするような研究を、魔女は本気でやっている。魔女ではない学者はそんな魔女を見て嘲笑するだろう。「遊びが遊びになっていないじゃないか」と。
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わかるかなー、わかんねーかー。
ねーねー、学者たちこういうのすげーうざくね? 「学者とは人格者でなければらない」って愚民どもの妄想が。だからさ、「学者」って言葉を愚民に譲ってあげればいい、「学者」って言葉に定義的に「人格者」って意味も含んでよしとしてあげればいい、その代わり「魔女」って言葉を使えばよくね? っていうのがその記事で言ってることなんだよね。
学者は学者なる本性を思い出せ、ってこと。
ほーんとこういう子とか学者なんか相手にしないで政治家になればいいのに、って思う。あれだ、うちの親とかも若い牝豚カルト国会議員のドキュメンタリーかなんかを見てて、「あんたは東大に行ったのにねえ」とか言ってたんだが、あたし理系だぜ? おまいほんと学問とはなんなのかがわかってねーな、って思ったわ。まーとか言いながらさすがわたしの親だけあって数年後にはこの会話をすっかり忘れてやがったけどさ。あ、ごめん、個人的な愚痴。
「中野あたりはわかってそう」ってのもわたしの妄想にすぎないわけで、しかもわたしメンヘラだから自分の妄想を信頼できないので、彼んところにトラバ打っとこ。いや返事はいらない。したかったらしろ。中野はわたしと違うところを見ている。遠い場所にいる。遠い場所にいてくれ、とわたしは思っている。
一応木田原関連まとめとく。その1、その2、その3。
中坊さーん、こないだの「精神分析家は対象aかファルスか」って議論のとってもよい具体例だよー。この木田原って人とか「精神分析理論をS1として扱ってる奴ら」の典型。君はファルスをあきらめてるところがあるから(そりゃーメンヘラだからそうなるわな)、この木田原より(自分に対する感情移入なしの)自己分析は多少できている、ってことになるわけだ。去勢を承認しやすい。
まーファルスとして見たい奴はほっとけ、としか言えんな。今は。飽きちゃった。「偉人幻想」って社会にとっては大事だしね。これなくしたら人が立身出世するための目標がなくなっちゃうから。
なんか木田原くんを応援したくなってきたわ。中坊さんと対比させたら。ほら、一応去勢の否認擁護派、中二病擁護派だから。
つか木田原くんがうらやましいよ。そのきらきらした目が。
誰かわたしの「偉人」になってくれ。
あーそうそう、精神分析家擁護みたいな立場になってるけど、だからと言って尻尾振ってくる分析家にも噛みつくと思うよ。わたしって。ほんとそうなんだ。そんな自分がいやなんだ。だから群れられない。つるめない。群れているふりならできる。「群れては居ても互いに無関心を保」つことができる。
狂犬は自分を愛撫する人間の手にも噛みついてしまうんだ。
先述の
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他者の呪縛から離れたところで分析家は対象を観察するわけだ。この記事で言う「カラオケ採点機」のごとく。だから「他者なんてどうでもいい」ってなって、結果的に「一部の人のもの」になる。「一部の人のもの」でいいんだよ。「他者なんてどうでもいい」んだから。
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って前記事の
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ドードーとらさんってアスペルガー症候群者とただのひきこもりの人(その界隈では有名ブロガーらしい)が議論してたんだが、「せっかくひきこもってるのに、社会にコミットしたがっている、誰かとつるみたがっているのが理解できない」ってとらさんは言ったんだよな(ブログ削除したみたいでリンクできない)。
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に相似するな。
だからわたしは「自閉症者は生まれながらの分析家だ」なんて言っちゃうんだ。
あ、向井自分で言い訳してんじゃん。
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ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。
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うん、向井と藤田のぎゃーぎゃー、お二人ともとっても「ヒステリー的」ですた(笑)。
向井の言う通りだと思うよ。だからむしろあたしなんかは彼ら二人を「学者だなー」って思ったんだけどなー。ほら、東大の理系学者ってほんと幼稚な人ばかりだからさ。そんなわたしから見ると、木田原のその記事って、幼稚化した二人を批判することで、自分を大人に見せようと、人格者に見せようとしているだけに思えちゃうのね。ごめんね、現場を知ってる人の一つの意見だと思って。
ま、常識的な言い方すれば、向井の個人攻撃も不用意だったし、藤田も過敏すぎた、なーんて感じ(笑)になるんだろうけど、ぎゃーぎゃーをちゃんとやってれば、この二人はこの二人各々の「知」を発見できたと思うんだな。
「ヒステリー者のディスクール」は「知」を産出する。
わたしなんかそれさえもキモイから「サバルタンのディスクール」とか提唱してるけど。「知」を産出することって「丸め込まれる」ってことだからね。幻想に。ぬりかべくんにはよく丸め込まれたよ。「自分は丸め込みテクニックを極める」って公言してたくらいだからな。あ、思い出した。こいつにわたしがつけたあだ名、「メンヘライーター」。いや本物のメンヘラは一人しか付き合ったことないらしいが。
なんかこう、ほんとラカン論ってもうだめじゃね? こんな木田原みたいなのが多かったら。つか斎藤環も自己愛型ひきこもりラカニアンくんもわたし判断でアウト。むしろこういう奴らがこないように「一部の人のもの」にすべきだと思ったわ。
愚民どもが外野から野次を飛ばして精神分析を劣化していく。
「ちぃ、精神分析業界の空気、またちょっと覚えた」
新宮一成のヒステリー状態見たーい。この言葉だけは多くのラカニアンが賛同してくれるものと思っている。だめ? 新宮なんか器用に「主人のディスクール」と「大学のディスクール」をふらふらするんだろうな。そう自分で書いてるし。
学者は和をもって尊しとなしてはならない。「和をもって尊しとなす」なんて愚民化洗脳だ。まー貴族から言えば被支配階級が頭よかったら困るだろうしな。聖徳太子は偉大な政治家だった。つか当時から自閉症者はいたんだろうから(器質因なんだろ)、自閉症者抹殺政策になったんだろうなこれ。
君たちが目をきらきらして見てるそれは、見方を変えれば、悪いものになりうる。逆も然り。きれいは汚い、汚いはきれい。
「ウキー」ってなるのがそんなに恥ずかしいの? じゃあ常時「ウキー」ってなってる精神疾患者とか恥ずかしい人間たちだと思ってることになるよね?
わたしって存在を恥ずかしいものだと思ってるわけだ。幼稚だと見下しているわけだ。
そんなレベルで恥ずかしいと思えるならまだ幸せだよ。こちとらそんなレベルじゃないところで必死なんだ。他者とかそんなチャチなもんじゃねえ状態だ。
それでいいよ。だからあなたは人格者足りえる。
対象aにはなれないけど。
追記。
木田原くんブログの管理画面らしきとこからのアクセスがあった。ホスト追ったけど読んでなさげwww 相手wにwされてないwww
疎外されちゃいました、てへっ(爆笑)。
学者ねえ。なんでそんな偉い人だと思っちゃうのだろうね。学者とか以前に、わたしは小学生の頃から勉強はできたんだけど、ほんと「周りが勝手に勉強を嫌ってるから、普通にやってるわたしが相対的によくなってるだけ」と思ってたんだよな。
「勉強」とか「学問」とかってののシニフィエに、変な妄想をおっかぶせてるだけなんだよな。わたしから言えば。木田原くんも周りのガキたちも同じ。
学者だってただの人間だぜ? 学問理論だってただのシニフィアン群だ。なんでただそうである物として見れないんだろう。
あれだ。「東大生って「東大なんて大したことありませんよ」とかって嫌味をよく言う」などと言われるけど、ほんと大したことないんだよ。人間的に大したことない奴ばっか。むしろ普通の社会の方が大人な人が多い。
「東大生なら人格者だろう」とかってお前の勝手な思い込みをなすりつけないでくれる? まじで。しかも理系で女だと珍獣扱いされるしよ。会社にいた頃とか、地方工場から出張にきたオヤジが見物しにきてたくらいだ。まさに動物園状態。
まじうぜえ。
あやばいきた。だめだもう。
ほんと殺してくれ。お願いだから。
外野は黙ってろ。黙れないなら、わたしを殺せ。
なんか、『どうしようもない僕に天使が降りてきた』のこの一言で泣いた。
時々天使は僕らにイタズラをして教えるよ
誰かを愛するためにはもっと努力が必要
なぜお前らはそんな余裕しゃくしゃくな顔で「愛」をふりまけるんだ?
なぜ斎藤環は一足飛びに「敷居が下がる」と思えたんだ?
だからお前らの「愛」はレイプにしか見えないんだ。
だからわたしは被害妄想に苦しむんだ。
お前らの「愛」は努力が足りなさすぎる。
「愛を勘違いしないでください」
対象aを勘違いしないでください。
なんか今日一日中泣いてるわ。
書くとまた泣く。
吐き気がするくらい。
この涙とか「社会にコミットしようとしての涙」とか解釈されるんだろうな。「世界に参入しようとしての涙」なのに。「社会に対する違和感」と「世界に存在することの違和感」は違う。二階堂奥歯のこの言葉を理解できる奴は世界に何人いるだろうか。
「象徴界への参入」なんかでもない。想像界にすら参入できていない。いわば「意味の世界への参入」だ。
お前たちはなんの努力もなしにほぼ自動的に意味の世界へ参入できる。
だからそんな余裕しゃくしゃくな顔で「愛」をおっかぶせてくる。わたしをレイプしてくる。
「愛」とは原初の意味であり、物自体ならぬ意味自体だ。
「天使のイタズラ」ね(笑)。そんないいもんじゃねえ。それこそ「ヒステリー的主体」だ。主人公の言う「努力」がS2だ。ほら、「ヒステリー者のディスクール」は「知」を産出している。
それは、へそを曲げたイザナミに向かって、あきらめきれないイザナギが必死こいてしてる言い訳だ。
グロテスクなイザナミを目の前にして、必死で行う意味化、つまり幻想化だ。
涙が「死ね」って言ってる。
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