ラカニアンはvipperたれ。
2010/01/15/Fri
違う! それはわたしのものだ。わたしという人形はわたしのものだ。わたしという人形がわたしを所有している。お前たちのものではない。勝手に取っていくな。盗むな。お前がレイプしているのはわたしの所有者だ。わたしの所有者はお前に抱かれている。しかし所有されているわたしはお前を殺したいと思っている。殺させてくれ。だめなら殺してくれ。人形を壊して中身も破壊してくれ。外側だけ取っていくな。わたしの所有者だけを愛するな。所有されるわたしを殺してからそうしてくれ。レイプしてくれ。そしたらそれはレイプじゃなくなるだろう。合意の上のセックスとなるだろう。
トラウマが心を作るんだ。わたしはトラウマがほしかったのだと思う。だから修行としてのセックスにはげんだんだ。
できあがった心は普通じゃなかった。
『ぐるナイ』ぼーっと見てたけど、ササキキはどうでもいいけど、江角がなんていうか、まあ番組自体に慣れたってのが大きいんだろうけど、初期と比べたら言動が安定しているんだよね。落ち着いて見られる。リアクション一つとってもそうだ。で、なんとなーくやっぱ出産って女性にとって去勢(の承認、否認ではない)なんだなあ、って思った。妄想じみてるけど。
そんなに好きじゃなかったけどちょっと好きになった。仕事増えるんじゃね?
「ノゾミール」なあ。「ササキキ」って秀逸だよなあ。ネットスラングの誉めすぎない、馴れあいすぎないセンスってすげえわと思うわ。
こういう言語がネットに限ってるってのがおかしいんだよな。どんだけおまいら日常で抑圧してんだって。
日本人は去勢されてないんじゃない。去勢されすぎてんだよ。馬鹿か、柄谷とか。臨床もしたことないのに精神分析用語使うからそんなアホウな言説になるんだ。お前単に「お前のかーちゃんでーべーそ」って言いたいだけだろ? お前が「お前のかーちゃんでーべーそ」って言いたいだけだから理屈が矛盾する。だから飽きられてんだよ、既に。「あ、こいつ結構言ってること浅いな」ってばれちゃった。矛盾が悪いって話じゃない。お前が余剰物として産出する矛盾が、現実的なものじゃなくオイディプスの三角形の中のものだとばれちゃったから、飽きられたんじゃないか?
西洋人の方がよっぽど退行的だ。あ、もちろん退行的ってすなわち独創的ってことになるけどな。
ほんと臨床しないで精神分析用語使ってる奴は絶滅してくれ。斎藤のこの文章とか、斎藤個人の人格はキモイって思うけど、いいこと言ってると思うぜ。
=====
多様な「事例」への無節操なまでの応用を待望している。
=====
じゃあまず斎藤、お前が応用してみろよ。「肉屋の包丁」で「多様な「事例」」を切り刻んでみろよ。
自分も傷つくからできないんだろ? だから他人にやらせようって魂胆なんだろ?
いいじゃない。それでこそスパイだ。ラカニアンじゃない「ラカン萌え派」だ。
あ、いやバタイユだけを必死にしこしこ分析しているラカニアンなんかよかよっぽど「無節操」な「応用」はしてるわな(笑)。だから君を揶揄する意味でわたしこうも言ったことがある。「斎藤は日本のジジェクだ」って。あ、大事なことなので二回言うけど、揶揄よ?
ラカニアンたちは期待に応えてソドムの宴を開こうぜ。
それに参加できない斎藤やら木田原みたいな人間を嘲笑ってやろうぜ。
「まるで2ちゃんじゃないか」なんて澄ました顔するラカニアンどもに「これこそが臨床ですが?www」って笑ってやろうぜ。
「図書館」から出てこれない包茎ちんちんどもにうんこ混じりの泥を投げつけてやろうぜ。
「ソドムなんてキモイ」とか言いながらちんちんおっ立ててまんこ濡らしてるお坊ちゃまお嬢ちゃまを笑ってやろうぜ。
ラカニアンはvipperになるべきだ。全ての釣りに全力で釣られるvipperに。出されたものは残さず食べるvipperに。
「なんだお前ら、口ではわたしを批判してるけど、要はうらやましがってるわけだ(笑)。ただのメンヘラのわたしを」
食いつくしてやれ。貴族たちの食料を食いつくしてやれ。貴族たちの体すら食いつくしてやれ。
ネットイナゴは人間であってはならない。人間を食い殺す側でなくてはならない。
斎藤、お前にゃ獣は操れないよ。家畜がせいぜいだ。お前自身が家畜だからな。
獣たちは人間を食い殺してやれ。
食い殺してやる。
殺してやる。
死ね。
「冗談だよ。ただの冗談」
「そう。じゃあなんでそんな冗談言ったの?」
「なんでってそりゃお前……」
「それは本音なんだけど、本音だから言えなくて、だから冗談にしたんじゃないの? ということは、冗談は全て本音の裏返しってことになるわね」
「出たよ。ああもう」
もしも『BONES』のブレナンが精神分析家だったらって感じで。相手はもちろんブース。このブレナンはサローヤンへの羨望、嫉妬をすぐ自覚するんだろうな。なんせ分析家なんだから。
テレビドラマの登場人物とかを精神分析すんのって、精神分析の劣化だとわたしなんかは思って批判してるんだが、欧米ドラマだったら許してやらなくもないなあ。リアリズム強いし。
欧米ドラマと比べると日本ドラマってほんとマンガ的じゃね? まーそこがいいんだけど。見たい時に見たい方を見ればいい。
向井のこの言葉いいな。
=====
つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
=====
ここでの「紆余曲折」している「その対象」とは(当然ラカン的な意味での)現実だ。マンガや日本ドラマのような(いやもちろん現実を描こうとした意欲作も中にはあるが)現実を平面化したり単純化した対象にあてはめると、精神分析理論自体も矛盾が減りすっきりするだろうが、現実と向きあってきた研究者たちの苦労が水の泡と化す。現実が紆余曲折していたから理論を紆余曲折させてきた先人たちの非生産的な労働が、無意味な労働が、無意味と化す。無意味を無意味としているんだから、そういった行為はとても文明的である。
もちろんこんなの欺瞞で言ってるのよ。ただわたしはおぞましい現実をお前らの世界に呼び起こそうとしているだけで。わたしという現実がお前らという幻想に飛び込もうとしているだけで。それはお前らという幻想にとっては破壊になるだろうね。そんなん現実たるわたしには関係ないこと。むしろお前らにとっての破壊がわたしにとっての生産だ。
だからね、欺瞞とかなしで言うなら、とっても簡単。
死ね。殺してやる。
アルトーのこの言葉周辺
=====
人間の身体とは一つの電池である
その放電は去勢され、抑圧された、
(『神の裁きと訣別するため』より)
=====
ってわたしの「物とは爆発だ」だよなー、って思った。
何を勘違いしてるかしらんが、わたしは嘘つきだぜ。何を言っても嘘になるとわかってて喋っている。
トラウマが心を作るんだ。わたしはトラウマがほしかったのだと思う。だから修行としてのセックスにはげんだんだ。
できあがった心は普通じゃなかった。
『ぐるナイ』ぼーっと見てたけど、ササキキはどうでもいいけど、江角がなんていうか、まあ番組自体に慣れたってのが大きいんだろうけど、初期と比べたら言動が安定しているんだよね。落ち着いて見られる。リアクション一つとってもそうだ。で、なんとなーくやっぱ出産って女性にとって去勢(の承認、否認ではない)なんだなあ、って思った。妄想じみてるけど。
そんなに好きじゃなかったけどちょっと好きになった。仕事増えるんじゃね?
「ノゾミール」なあ。「ササキキ」って秀逸だよなあ。ネットスラングの誉めすぎない、馴れあいすぎないセンスってすげえわと思うわ。
こういう言語がネットに限ってるってのがおかしいんだよな。どんだけおまいら日常で抑圧してんだって。
日本人は去勢されてないんじゃない。去勢されすぎてんだよ。馬鹿か、柄谷とか。臨床もしたことないのに精神分析用語使うからそんなアホウな言説になるんだ。お前単に「お前のかーちゃんでーべーそ」って言いたいだけだろ? お前が「お前のかーちゃんでーべーそ」って言いたいだけだから理屈が矛盾する。だから飽きられてんだよ、既に。「あ、こいつ結構言ってること浅いな」ってばれちゃった。矛盾が悪いって話じゃない。お前が余剰物として産出する矛盾が、現実的なものじゃなくオイディプスの三角形の中のものだとばれちゃったから、飽きられたんじゃないか?
西洋人の方がよっぽど退行的だ。あ、もちろん退行的ってすなわち独創的ってことになるけどな。
ほんと臨床しないで精神分析用語使ってる奴は絶滅してくれ。斎藤のこの文章とか、斎藤個人の人格はキモイって思うけど、いいこと言ってると思うぜ。
=====
多様な「事例」への無節操なまでの応用を待望している。
=====
じゃあまず斎藤、お前が応用してみろよ。「肉屋の包丁」で「多様な「事例」」を切り刻んでみろよ。
自分も傷つくからできないんだろ? だから他人にやらせようって魂胆なんだろ?
いいじゃない。それでこそスパイだ。ラカニアンじゃない「ラカン萌え派」だ。
あ、いやバタイユだけを必死にしこしこ分析しているラカニアンなんかよかよっぽど「無節操」な「応用」はしてるわな(笑)。だから君を揶揄する意味でわたしこうも言ったことがある。「斎藤は日本のジジェクだ」って。あ、大事なことなので二回言うけど、揶揄よ?
ラカニアンたちは期待に応えてソドムの宴を開こうぜ。
それに参加できない斎藤やら木田原みたいな人間を嘲笑ってやろうぜ。
「まるで2ちゃんじゃないか」なんて澄ました顔するラカニアンどもに「これこそが臨床ですが?www」って笑ってやろうぜ。
「図書館」から出てこれない包茎ちんちんどもにうんこ混じりの泥を投げつけてやろうぜ。
「ソドムなんてキモイ」とか言いながらちんちんおっ立ててまんこ濡らしてるお坊ちゃまお嬢ちゃまを笑ってやろうぜ。
ラカニアンはvipperになるべきだ。全ての釣りに全力で釣られるvipperに。出されたものは残さず食べるvipperに。
「なんだお前ら、口ではわたしを批判してるけど、要はうらやましがってるわけだ(笑)。ただのメンヘラのわたしを」
食いつくしてやれ。貴族たちの食料を食いつくしてやれ。貴族たちの体すら食いつくしてやれ。
ネットイナゴは人間であってはならない。人間を食い殺す側でなくてはならない。
斎藤、お前にゃ獣は操れないよ。家畜がせいぜいだ。お前自身が家畜だからな。
獣たちは人間を食い殺してやれ。
食い殺してやる。
殺してやる。
死ね。
「冗談だよ。ただの冗談」
「そう。じゃあなんでそんな冗談言ったの?」
「なんでってそりゃお前……」
「それは本音なんだけど、本音だから言えなくて、だから冗談にしたんじゃないの? ということは、冗談は全て本音の裏返しってことになるわね」
「出たよ。ああもう」
もしも『BONES』のブレナンが精神分析家だったらって感じで。相手はもちろんブース。このブレナンはサローヤンへの羨望、嫉妬をすぐ自覚するんだろうな。なんせ分析家なんだから。
テレビドラマの登場人物とかを精神分析すんのって、精神分析の劣化だとわたしなんかは思って批判してるんだが、欧米ドラマだったら許してやらなくもないなあ。リアリズム強いし。
欧米ドラマと比べると日本ドラマってほんとマンガ的じゃね? まーそこがいいんだけど。見たい時に見たい方を見ればいい。
向井のこの言葉いいな。
=====
つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。
=====
ここでの「紆余曲折」している「その対象」とは(当然ラカン的な意味での)現実だ。マンガや日本ドラマのような(いやもちろん現実を描こうとした意欲作も中にはあるが)現実を平面化したり単純化した対象にあてはめると、精神分析理論自体も矛盾が減りすっきりするだろうが、現実と向きあってきた研究者たちの苦労が水の泡と化す。現実が紆余曲折していたから理論を紆余曲折させてきた先人たちの非生産的な労働が、無意味な労働が、無意味と化す。無意味を無意味としているんだから、そういった行為はとても文明的である。
もちろんこんなの欺瞞で言ってるのよ。ただわたしはおぞましい現実をお前らの世界に呼び起こそうとしているだけで。わたしという現実がお前らという幻想に飛び込もうとしているだけで。それはお前らという幻想にとっては破壊になるだろうね。そんなん現実たるわたしには関係ないこと。むしろお前らにとっての破壊がわたしにとっての生産だ。
だからね、欺瞞とかなしで言うなら、とっても簡単。
死ね。殺してやる。
アルトーのこの言葉周辺
=====
人間の身体とは一つの電池である
その放電は去勢され、抑圧された、
(『神の裁きと訣別するため』より)
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ってわたしの「物とは爆発だ」だよなー、って思った。
何を勘違いしてるかしらんが、わたしは嘘つきだぜ。何を言っても嘘になるとわかってて喋っている。
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