「言うことを聞かない味方キャラ」
2010/01/23/Sat
髪の毛が蛇なのってメドゥーサだっけか。メドゥーサだったから髪の毛が蛇でもよかったんだろうな。キルケだったら髪の毛の蛇に自分が噛まれそうだ。キルケが未去勢者ならメドゥーサはヒステリーだ。解離性障害。
魔女は獣を操る。間違いではない。魔女自身が獣だから。しかし獣は獣だ。人間の軍隊のようにはなれない。裏切り者は数多いくいよう。魔女だっていつ獣たちを裏切るかわからない。
要するに、チェスの駒が自分を殺しにくるようなものだ。
そういうネトゲっておもしろそうじゃね? って中坊さんとこでつぶやいたりしたんだよね。要するに『アークサイン』的なモンスター召還系ゲームになるんだろうけど、確かにそういうゲームってエサやらなかったりしたら行動不能になったり逃げてっちゃったりするじゃん。召還系とは言えないけど有名どころでは『グランドファンタジア』のミグルとかそうだよな。プレイヤーにすっげ嫌われてるっしょ(笑)。でも「愛」がある。嘘だけど。「愛」があるってのは言いすぎだとしても、それが一つのゲームのウリにはなってるわけじゃん。「言うことを聞かない味方キャラ」が。ここをフィーチャリングしたらおもしろうそうだな、と思ったわけ。行動不能レベルじゃなくて、プレイヤーとの信頼関係ステが下がりすぎるとプレイヤーを攻撃してくるレベルで。
つか結局ツンデレキャラとかも根っこはここにあるんじゃないか、とすら思うわ。「言うことを聞かない味方キャラ」ってくくりだとツンデレも入るよな。
メドゥーサの蛇はどうだったんだろう、って思う。時々彼女を裏切ってまぶたとか噛んじゃったりしたんだろうか、と。自分で制御できない自分勝手な髪。
メドゥーサはそうじゃなさそう。一方キルケは、飽きた男を獣に変えるが、自分に従順な家畜になることもあるが、自分を喰らおうとする獣になることもあったのだと思える。
だから、同じ魔女でも、キルケは未去勢者だと思えるが、メドゥーサは去勢済み主体だと思える。
自分の髪の毛が自分を襲ってくる。自分の臓器が自分を襲ってくる。自分の肛門が自分を飲み込もうとする。
この噛み跡はわたしのだろうか、男のだろうか。その時男は家畜じゃない獣になっていたのではないか。
自分自身が自分を裏切る。だからキルケは、孤島に一人きりで暮らしていても、さみしくはなかったのだ。さみしいから男をさらっていたのではない。それは獣を制御するための、魔法の修行のようなものではなかったか。人間だってもともとは獣だから。ただの獣の一種。いわば男は実験素材の一つだ。
自分という獣を無意識的に飼いならして生きていられるのが、正常人だ。
ドラマや映画を見ていると、「あーこれアドリブだろうな」などと思うことがある。この感覚はドラマ好きの人ならわかってくれると思う。
しかし洋ドラにはあまり感じない。不思議に思う。多分このことが「洋ドラ好きですねー」などと言われる所以だと思った。実際それほど見てないんだけどね。ドラマ自体。ネット上のドラマファンたちには明らかに負ける。見てる本数とか役者に関する知識とか。ただ役者の稽古してたからそんなこと思うだけだろう。
というか洋ドラも見ている系統が偏っているのは認める。『CSI』とか『Dr.HOUSE』とか『BONES』とか要するにグロ科学系。だからこの「洋ドラ」はわたしの偏った主観内での「洋ドラ」と思ってほしい。
続けよう。アドリブ感がないから、演技に隙間がないように見える。張りつめた感じがある。具体的に言うと、ほんの少しのミスで、たとえばコーヒーを持ち上げる手が逆だっただけで撮り直ししてそうな。実際はそんなことないんだろうけどね。
でも舞台ならありうる。いや撮り直しは効かないが。たとえば、同じ演目を違う劇場で演じたとする。舞台装置はそのままだろうが、舞台上の装置の位置関係は微妙に変わる。で、あるシーンで、机に歩みより、その上のコップを「左手で」持ち上げるというのがあるとする。持ち上げる手は、右足が前に出ているか左足が前に出ているかで変わる。歩いて右足が前に出ている状態なのに、左手を伸ばすのは不自然だ。いや、歩みよってきちんと立ち止まれば、右足と左足の位置関係は誤差程度になり、どちらの手でカップを持ってもよい。おそらく多くの役者はそのような対処をするだろう。演出家にすらばれないようなほんのちょっとのアドリブを、歩く動作とコップを持ち上げる動作の間に入れる。そのことで、「左手でコップを持ち上げる」という、台本上そうであるべきルールに従うことができる。
ちょっと大仰だが、舞台役者ってこういう、観客には見えない細かいところで、いろんなハプニングの処理をしているんだよ、って程度の話だと思ってほしい。こういう経験をしているから妙な妄想的なアドリブ感を覚えてしまうのだよ、っていう言い訳だ。
要するに、演技論的には、映像演技と舞台演技は全く異なるのだが、舞台演技と共通するこういった緊張感が、洋ドラにはある。緊張感があるから、アドリブ感を感じない。実際西欧のドラマには舞台役者出身が多い。日本にもいるけど、日本ドラマはそれこそコント仕立てで、緊張感軽視、アドリブ感満載といった感じがする。だからむしろ舞台役者は必要とされない、といったことがあるんじゃないだろうか。日本の(西欧と比較した)舞台芸術軽視傾向はそこらで言われているいることだ。
で、話はそれたが、こないだある洋画を見ていたんだが、いつも感じる「あ、これアドリブっぽい」って感じがあったのだな。先述のような「そーいや洋ドラにはアドリブ感あんまないなー」って思ってたとこなので、あれ? と思ったのだ。
それは字幕映画だった。
そーかそういう違いもあるかもな、と思ったのだ。
わたしがアドリブ感を感じない洋ドラは大体吹き替えだ。吹き替えは、最初にもとの映像があって、声をアテレコする。当然、実際の撮影現場よりもハプニングは少なくなるだろう。じゃあアドリブ満載になるんじゃないか、という考えもあるが、それはなぜか感じない。吹き替え演技にアドリブ感はほとんどない。数少ない例では、野田秀樹の黒歴史とも言える『ゴースト・バスターズ』の吹き替えなどに、アドリブ感を感じた。ってゆっか満載だった。あれ以来野田は吹き替えの仕事をしていない。この野田の吹き替え版もテレビであまり見ない。わたしが知ってる限り放送されたのはその一回だけだ。不評だったのだろう。声の演技が目立ちすぎたのだと思う。わたしは野田ってわかってて見ていたから余計に「個性的にやろうとしすぎてうざい」と思えたのかもしれないが。
というわけで、アテレコ現場では、現実的ハプニングがなくても、目に見えない抑圧空気があるんじゃないか、などと思ったわけだが、なんかこんがらがってきたのでもうやめる。
知るかそんなのおもしろけりゃいいんだよ。
要するにこのアドリブ感って言語的なものじゃないんだよー、って言いたかっただけか。
オカルトは好きなんだが心霊写真とか「はあ」って感じなんだよな。わたしにとってオカルトって民話とかそういうイメージ。幽霊話って大体民話みたいなもんじゃん。舞台が現代になっただけで。根っこには神話がある、と思ってる。だから現代の、超能力とかUFOとか絡めたオカルトってあんまピンとこないんだよな。いやそれもおもしろいのあるけど、それとこれとは別でしょ、って思う。ドッペルゲンガーとか結構心理学・精神分析学で語られてるんだから、幽霊語ってもよくね? って思うんだよな。もちろんそこら辺の理屈で語ると全部「幽霊とは心が見せる幻覚です」ってことになるんだけど。別によくね? 自分の心が見たんならそれは本物だ。なぜならわたしたちが思う本物だって心がそう見せてるんだから、「心が見せている」となったところで「幽霊話は嘘だ」とはならない。わたしたちが思う(一般的な語用の)現実と条件は同じなんだから、幽霊だって現実だと言える。
つーことで心霊写真を、「恐怖という感動を主眼とした」芸術作品の一ジャンルとして、精神分析的批評してみたいな、と思ったけどだるくなった。
また今度ね。
魔女は獣を操る。間違いではない。魔女自身が獣だから。しかし獣は獣だ。人間の軍隊のようにはなれない。裏切り者は数多いくいよう。魔女だっていつ獣たちを裏切るかわからない。
要するに、チェスの駒が自分を殺しにくるようなものだ。
そういうネトゲっておもしろそうじゃね? って中坊さんとこでつぶやいたりしたんだよね。要するに『アークサイン』的なモンスター召還系ゲームになるんだろうけど、確かにそういうゲームってエサやらなかったりしたら行動不能になったり逃げてっちゃったりするじゃん。召還系とは言えないけど有名どころでは『グランドファンタジア』のミグルとかそうだよな。プレイヤーにすっげ嫌われてるっしょ(笑)。でも「愛」がある。嘘だけど。「愛」があるってのは言いすぎだとしても、それが一つのゲームのウリにはなってるわけじゃん。「言うことを聞かない味方キャラ」が。ここをフィーチャリングしたらおもしろうそうだな、と思ったわけ。行動不能レベルじゃなくて、プレイヤーとの信頼関係ステが下がりすぎるとプレイヤーを攻撃してくるレベルで。
つか結局ツンデレキャラとかも根っこはここにあるんじゃないか、とすら思うわ。「言うことを聞かない味方キャラ」ってくくりだとツンデレも入るよな。
メドゥーサの蛇はどうだったんだろう、って思う。時々彼女を裏切ってまぶたとか噛んじゃったりしたんだろうか、と。自分で制御できない自分勝手な髪。
メドゥーサはそうじゃなさそう。一方キルケは、飽きた男を獣に変えるが、自分に従順な家畜になることもあるが、自分を喰らおうとする獣になることもあったのだと思える。
だから、同じ魔女でも、キルケは未去勢者だと思えるが、メドゥーサは去勢済み主体だと思える。
自分の髪の毛が自分を襲ってくる。自分の臓器が自分を襲ってくる。自分の肛門が自分を飲み込もうとする。
この噛み跡はわたしのだろうか、男のだろうか。その時男は家畜じゃない獣になっていたのではないか。
自分自身が自分を裏切る。だからキルケは、孤島に一人きりで暮らしていても、さみしくはなかったのだ。さみしいから男をさらっていたのではない。それは獣を制御するための、魔法の修行のようなものではなかったか。人間だってもともとは獣だから。ただの獣の一種。いわば男は実験素材の一つだ。
自分という獣を無意識的に飼いならして生きていられるのが、正常人だ。
ドラマや映画を見ていると、「あーこれアドリブだろうな」などと思うことがある。この感覚はドラマ好きの人ならわかってくれると思う。
しかし洋ドラにはあまり感じない。不思議に思う。多分このことが「洋ドラ好きですねー」などと言われる所以だと思った。実際それほど見てないんだけどね。ドラマ自体。ネット上のドラマファンたちには明らかに負ける。見てる本数とか役者に関する知識とか。ただ役者の稽古してたからそんなこと思うだけだろう。
というか洋ドラも見ている系統が偏っているのは認める。『CSI』とか『Dr.HOUSE』とか『BONES』とか要するにグロ科学系。だからこの「洋ドラ」はわたしの偏った主観内での「洋ドラ」と思ってほしい。
続けよう。アドリブ感がないから、演技に隙間がないように見える。張りつめた感じがある。具体的に言うと、ほんの少しのミスで、たとえばコーヒーを持ち上げる手が逆だっただけで撮り直ししてそうな。実際はそんなことないんだろうけどね。
でも舞台ならありうる。いや撮り直しは効かないが。たとえば、同じ演目を違う劇場で演じたとする。舞台装置はそのままだろうが、舞台上の装置の位置関係は微妙に変わる。で、あるシーンで、机に歩みより、その上のコップを「左手で」持ち上げるというのがあるとする。持ち上げる手は、右足が前に出ているか左足が前に出ているかで変わる。歩いて右足が前に出ている状態なのに、左手を伸ばすのは不自然だ。いや、歩みよってきちんと立ち止まれば、右足と左足の位置関係は誤差程度になり、どちらの手でカップを持ってもよい。おそらく多くの役者はそのような対処をするだろう。演出家にすらばれないようなほんのちょっとのアドリブを、歩く動作とコップを持ち上げる動作の間に入れる。そのことで、「左手でコップを持ち上げる」という、台本上そうであるべきルールに従うことができる。
ちょっと大仰だが、舞台役者ってこういう、観客には見えない細かいところで、いろんなハプニングの処理をしているんだよ、って程度の話だと思ってほしい。こういう経験をしているから妙な妄想的なアドリブ感を覚えてしまうのだよ、っていう言い訳だ。
要するに、演技論的には、映像演技と舞台演技は全く異なるのだが、舞台演技と共通するこういった緊張感が、洋ドラにはある。緊張感があるから、アドリブ感を感じない。実際西欧のドラマには舞台役者出身が多い。日本にもいるけど、日本ドラマはそれこそコント仕立てで、緊張感軽視、アドリブ感満載といった感じがする。だからむしろ舞台役者は必要とされない、といったことがあるんじゃないだろうか。日本の(西欧と比較した)舞台芸術軽視傾向はそこらで言われているいることだ。
で、話はそれたが、こないだある洋画を見ていたんだが、いつも感じる「あ、これアドリブっぽい」って感じがあったのだな。先述のような「そーいや洋ドラにはアドリブ感あんまないなー」って思ってたとこなので、あれ? と思ったのだ。
それは字幕映画だった。
そーかそういう違いもあるかもな、と思ったのだ。
わたしがアドリブ感を感じない洋ドラは大体吹き替えだ。吹き替えは、最初にもとの映像があって、声をアテレコする。当然、実際の撮影現場よりもハプニングは少なくなるだろう。じゃあアドリブ満載になるんじゃないか、という考えもあるが、それはなぜか感じない。吹き替え演技にアドリブ感はほとんどない。数少ない例では、野田秀樹の黒歴史とも言える『ゴースト・バスターズ』の吹き替えなどに、アドリブ感を感じた。ってゆっか満載だった。あれ以来野田は吹き替えの仕事をしていない。この野田の吹き替え版もテレビであまり見ない。わたしが知ってる限り放送されたのはその一回だけだ。不評だったのだろう。声の演技が目立ちすぎたのだと思う。わたしは野田ってわかってて見ていたから余計に「個性的にやろうとしすぎてうざい」と思えたのかもしれないが。
というわけで、アテレコ現場では、現実的ハプニングがなくても、目に見えない抑圧空気があるんじゃないか、などと思ったわけだが、なんかこんがらがってきたのでもうやめる。
知るかそんなのおもしろけりゃいいんだよ。
要するにこのアドリブ感って言語的なものじゃないんだよー、って言いたかっただけか。
オカルトは好きなんだが心霊写真とか「はあ」って感じなんだよな。わたしにとってオカルトって民話とかそういうイメージ。幽霊話って大体民話みたいなもんじゃん。舞台が現代になっただけで。根っこには神話がある、と思ってる。だから現代の、超能力とかUFOとか絡めたオカルトってあんまピンとこないんだよな。いやそれもおもしろいのあるけど、それとこれとは別でしょ、って思う。ドッペルゲンガーとか結構心理学・精神分析学で語られてるんだから、幽霊語ってもよくね? って思うんだよな。もちろんそこら辺の理屈で語ると全部「幽霊とは心が見せる幻覚です」ってことになるんだけど。別によくね? 自分の心が見たんならそれは本物だ。なぜならわたしたちが思う本物だって心がそう見せてるんだから、「心が見せている」となったところで「幽霊話は嘘だ」とはならない。わたしたちが思う(一般的な語用の)現実と条件は同じなんだから、幽霊だって現実だと言える。
つーことで心霊写真を、「恐怖という感動を主眼とした」芸術作品の一ジャンルとして、精神分析的批評してみたいな、と思ったけどだるくなった。
また今度ね。
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