イヴかアダムか、はたまたリリスか。
2010/01/29/Fri
マッキーこれ好きだな。異常に人気ないけど。カラオケで歌ってる人見たことねえや。
ポルノはこれ好きなんだよな。これはカラオケでも何回か聞いたことあるけど、やっぱ人気ない方。
マイナー調っていうの? そういうのが好きな人らしい。エロ暗い歌っていうか。「エロ暗い」っていくね? 「エログロ」みたいだけどグロまではいかない系っていうか。破滅に向かうセックスみたいな。
太宰か。やめてくれ(笑)。難しい顔してしてそうじゃん、セックス。そうじゃない。破滅に向かいながら笑ってる。わたしは笑っちゃう。だってそれが物の理なんだもん。
最近そういう「エロ暗い」ゲージツ作品減ったよな。お前ら牝豚ども、そんなに健全でいたいの? どうあがいても牝豚なのに。ただの肉だよお前らなんか。そう見られてる。人は女を肉として見たがっている。そうする前戯のようなものとして健全さを求めているだけ。健全なアニマなんて入り口だよ。排水溝のゴミ受け。男が己の男性的享楽のために勝手に設定した踊り場。セーフティネット。アダムの肋骨としてのイヴ。
だからお前らは飽きられるんだよ。
牝豚なのに男の口車に乗せられてお人形にさせられてるだけ。
イヴなんかでいるからだよ。
リリスなんだよ、お前らだって。もとはみんなそうだった。男も女も。
それもいやだと言うなら飽きる側になればいい。キルケになればいい。
人間だから男に負けるんだ。
動物でいればもとから男女平等。そもそも地位なんて幻想がない。
フェミなんてそこの領域の手前でうろちょろしてるだけ。
人間のまま男女平等になろうとしたら、男性化するしかないんだよ。リリスじゃないまま男にまたがりたいなら同じアダムになるしかない。
その時点で負け。男に取り込まれてる。
そうしたい奴はそうすればいい。勝手にやってればいい。
わたしはそうじゃないってだけ。
出版関係者が集まるバーで飲んでた時期がある。文豪とかがくるようなところじゃない、もっと下っ端の連中が、いわば社会のゴミみたいな連中が集まるバー。一応一見さんお断りの。あれ、わたし誰の紹介でいくようになったんだっけ。忘れた。
某老舗SM雑誌編集者とか、鬱病になってそういう本を書いて一発あてた元フリーの編集者とか、過去に一度だけ文芸誌の賞を取ったが職にあぶれてフリーライターしている奴とか、ちゃんとすれば美人で有名女子大卒で、そこそこ金もらってるのにいまだに風呂なしアパートに住んでて、銭湯に酔ったままいって脱衣所で寝ちゃうようなファッション雑誌編集者とか、この人も美人だが有給取って海外へイケナイ薬をしにいくのが趣味って大手出版社の人とか、そういう人たちが集まるところ。出版関係でも底辺と呼べるような奴ら。西原理恵子が一時期ネタにしてたような奴ら。
そこで知り合ったフリーライター兼フリー編集者のさらに知人が(ややこしい)、女性フリーライターなのだが、風俗体験レポを書いているという話になった。つまり接客する側で書いているわけだ。男性側の風俗体験レポってマンガでもよくあるのに、なぜかそいつは「反則だ」と怒っていた。
そいつの論旨は、風俗とは夢を売るところであり、夢が壊れるからだめだ、というようなものだった。
結局そういうことだと思うよ。人間としてのセックスは夢なんだ。アダムは肋骨としてのイヴというダッチワイフとしか性交しない。
動物としての人間の交尾とは別物のセックス。
なんか、女優に脂肪吸引手術受けさせて、取れた脂肪を料理して食べる(カレーにしたらしい)って裏ビデオに参加した人とかもいたんだが、そういうのならちょっとやってみてもいいかなとは思った。
昔の話よ。ワカゲノイタリ。
こう、高い崖からする飛び込みを見世物にして食ってる人が、ある日ミスをして、全身骨折かなんかして死にかけたって話をしてて、わたしはこんな主張をしていたことを思い出した。
わたし曰く、「その人は、わざとミスしたんじゃないか」。
自分が大道具やってたからわかるんだけど、大道具なんてのはここでも書いたように結構命がけの仕事だ。そういう仕事をしていると、たとえばすげー高所で仕事してたりしてて、ふと「落ちたらどうなるんだろう?」という好奇心が芽生えることがある。もちろん死の恐怖はある。怖いに決まっている。だけどそういった好奇心が瞬間的に勝つ時がある。わたしがライトブリッジから落ちた時も、足を滑らせたわけだが、「いつもなら落ちないのになんで?」と自分で思ったくらいだ。しかし、そういった作業の時、いわば「死への好奇心」とでも呼ぶべきものがあるのも事実だ。
だから「わざと」とは言えないと思う。無意識的なものだ。「無意識的な故意」ってすでに言葉として矛盾しているが、そういうようなものだ。
こういった「無意識的な故意」が、飛び込みで死にかけた人にもあったんじゃないだろうか。
ただの推測にすぎないが、空中でちょっとバランスを崩せばいいだけだと思う。ちょっとバランスを崩せば死に繋がる大事故になる。
この「死への好奇心」に、人はいろいろ理由をつけたがる。たとえばその飛び込み者は私生活でなんらかのトラブルがあったのだろう、などと。私生活でトラブルを抱えていない人なんているのか? と思う。
「好奇心」に理由はない。
だからわたしはそう述べた。
お前らが自分勝手になすりつける精液のごとき妄想からの防御として。
どんだけ気を遣わなきゃ伝わらないんだ。
夢。
『ぴあ』みたいな雑誌を読んでる。ブログ集になっている。その中に、わたしとの議論をしているどっかのブログのコメント欄が載っている。つかコメント欄そのものだ。
ブログ主の反論は、精神分析用語を使わない精神分析のようなもので、平たく言えばわたしの人格批判なのだが、いちいちわたしの言質を拾って理屈化している。怒ってはいるが冷静な感じ。わたしは「えーそりゃお前うがちすぎってもんだ」と思うこともあるが、「ふんふん」と思えるところもあり、また自分が自分について考えていたことを新たな言い方で言っているだけと思えるところもあった。
要するに「わたしについての論文」としてそこそこ評価できるものだった。
論旨としては、彼にとってわたしは「謎」らしい。秘密主義者だ、とでも言いたげな。だからずるいじゃないか、という話だ。
部分部分のわたし論は納得できるのに、論旨だけは納得していなかった。わたしのどこが秘密主義者だ、と。
もちろんわたしは気持ちいいわけがない。わたしだって腹が立つ。しかし部分部分は納得している。
彼は最後の方にこんな文章を書いていた。
「君(わたしのこと)は、他人が違和感を覚えていないことについてまでも「わたしは違和感を持っている」と言っているようなものだ。」
わたしはこの言葉に大いに納得して、この文章だけを引用して「そうそう、その通りだよ」と返信してやろうと思うが、なんのブログかわからない。『calculate』というタイトルなのはわかって、雑誌の目次欄で検索(雑誌なのになぜかできた)してもでてこない。いろいろやっているとやっとヒットする。よく見ると「alculate」の部分だけがヒットしている。「c」が半角だか全角だかでヒットしなかったのか、と思う。
しかしいくらやっても返信の仕方がわからない。
雑誌をぱらぱらめくってると、読者交流広場のようなものがあって、ドゥルーズを研究している人だかが、あるブログでわたしが喧嘩しているのを見たらしく、「脂さんという元気な方がいらっしゃったのですが、どういう方なのかご存知の方いらっしゃいますか?」などと書いてあった。
怖くなって雑誌を閉じたが、それを棄てる気にはなれなかった。
ベッドの上でそれを読んでいたのだが、これは姉の部屋だと思う。実際に姉はいない。
わたしはいまだかつて自分の部屋に住んだことがない、と思う。今の一人暮らしの部屋だって誰かの部屋で、わたしの部屋じゃない。
布団にくるまる。暑い。汗をいっぱい流して自分の臭いを染みつかせよう、と思う。
まるで犬だ。
『鷹の爪』って何がおもしろいのかすらわからない。フラッシュは保管庫作ってた時期もあるし目が肥えてるからか?
「売りたい」と思った作品は売れる世の中になっちゃったのかもね。
なんつか、fc2ブログには訪問者リストってのがあって、同じfc2のブログ主が踏んだらわかるって(当然禁止設定もできる)のがあるんだが、そこにちょくちょくタイトルとかハンドルネームとかプロフィールだけで「げろげろ、お前みたいなのに見られてると思うとキモイ」ってのがよくいるんだよな。でも中にはおもしろいのもある。学問関係なく。ただの演劇サークル所属の女子大生(?)の日記みたいなのとか何回か見た。まー昔を懐かしんでるだけだろうが。
ときどき「あ、こいつまじもんデムパ臭い」って思うのもある。わたしは結構デムパテクスト好きなので、そういうのを見るかと思うとそうでもない。他人のブログを覗いているような人の書くデムパテクストは嘘デムパなことが多い、というわたしの勝手な妄想。わたしも他人のブログを覗いているが、きちんとお化粧できている、と本人は思っている。つまりデムパテクストは書いていないと。
長々とごたくを並べたが、あるブログも「嘘くせー」って思ってスルーしてた。でもなんつかつれづれに見てたんだよな。訪問者のブログを。で、「お、ちょっとキテル」って思っていくつか記事読んでたら、こんな記事があった。
いやなー。
芸術論としては、わたしはそこで語られてるそれこそ記事タイトルの『泉』と『ピンクフラミンゴ』って映画くらいしか知らない(あ、さすがに坂本龍一は知ってるけど記事内の曲は知らない)んだけど、ラカン論絡めた芸術論としてはとっても納得できるんだな。ラカンで芸術語ってる文章の九割は「おま、その概念が何を示しているのか理解できてないだろ」って思えるのばっかなんだが、この人のラカン用語の使い方はあってる。そういう意味で評価できる。「41流」あたりのこの人オリジナルの概念は知らんが。まだそこまで読んでない。読む気もないけど。今は。
でもなー。
なんかこのブログで言っていることとすげー似てて、この人の影響受けたと思われるのがいや。本出してるみたいだし。言っておくが今日はじめて見た。嘘だと思うならそこのブログ主に聞いてみればいい。アク解つけてなくても訪問者リストでわかるだろう。
ああうん、「ラカン理論の芸術領域への応用」って意味ではよくできてる、って話でいいよ。わたしが気持ち悪いってだけ。
つかこの人の文章、途中うねって最後まとめたがるな。まとまってなさそうだけど(心の中で)。かわいらしい。たとえば、無意味な心中を目指してたのに相手の女を先に死なせて自分が死ぬ直前で心中に意味を見出しちゃう(そして実際に死ぬか生きるかって問題とは別な事柄。関係なくはないけど)ヘタレ男みたいだ。車谷長吉あたりが書きそうな。
引用する。
=====
あらかじめお断りすれば、《現実界》というのはラカンの用語の借用なのですが、ラカン理論を背景にしながらも、筆者独自の考えで転用的に使っています。特にこの《現実界》という言葉の使用が、気に障るかもしれません。ですから「ラカンはそんなことを言っていない」と批判を急がないでいただきたい。
=====
そんなんで批判するような奴は、精神分析を勉強しててもおそらく分析家じゃない奴らだろうから、ほっとけ。ラカン理論を偶像にしたがっているアホ信者どもだ。ここでも読んどけ。
「いっぱい学問したらボクチンほめられるよね、ね」って学問やってる、学者じゃなくて人格者を目指している奴らばっかだからな、ラカン業界も。
芸術畑の人とか食われちゃうよ。あっさり。あ、それとももう食われ済みか。ケツの穴ゆるゆる。
今では学問村ですら立派な政治が存在しています。文明バンザイ。
あれだ、政治的にこの人は保留しておこう、ってことで、手当たり次第に攻撃してるわけじゃないのー、うふ、って言い訳みたいなもんだと思っとけ。
もいっこ。
=====
「便器」を使ったデュシャンの作品が《糞》であると言う主張は、現代美術の常識を逆撫でするものであって、とても認められるものではありません。
=====
へー、美術村も政治が大変そうだね。
そりゃ最後は意味を求めたくなるわな。
ってうぃきぺってびびった。日本ラカン協会のしとか。
やっべ訴えられちゃう?
上がりたい奴は上がればいい。ただ、上がったまま鏡の魔法で自分より上下にいる奴を上げ下げするな、ということ。実際は上がっても下がってもない。それはお前の鏡による幻想だ。
そのまま見ればいい。
そうしないと上か下かはわからない。
はるか下方でもがきながら上がろうとして、でも一ミリずつしか上がれない奴を、そのまま見ればいい。
ま、そのまま見るってことは落ちるってことだけどね。
それができないなら下を見るな。上だけを見て上がっていけ。
「早く人間になりたーい」
この台詞ギャグにしちゃいかんだろう。ギャグでいいけど。
「あいたく、ちがふ、さがらない」
胸焼けのような頭痛。大したことない。我慢できる。
たとえば、『トータル・リコール』の、頭に埋め込まれた発信機か何かを取り除くってシーン。ちっちゃなマジックハンドが出てくる銃みたいなのを鼻にぶっ挿して、ピンポン玉くらいのそれを抜き出すような。痛そうだな、と思う。この胸焼けのような頭痛と比べたらはるかに痛いだろう。だけど、慢性的なこの痛みがそれでなくなるなら、やってみてもいいかな、と思える。いやもちろん途中で「痛い痛い、やっぱやめるう」とか言って鼻にマジックハンド銃ぶら下げたまま泣きわめいたりするのかもしれんが。
要するに、慢性的な痛みか瞬間的な激痛かって問題。
うるさい!
この慢性的な痛みって、こう、湯船に浮かぶ大量の髪の毛のようなものだ。一本を取り除くのはとっても簡単だが、大量すぎる。きりがない。
だからわたしは湯の中にもぐる。髪の毛は浮くから。
でも息が続かない。なんの解決にもなってない。
そこでシャワーだ。文明の利器だ。
シャワーっていかにも射精だよな。
射精じゃないシャワーって雨になるよな。
『われらはみだしっ子』ってマンガで、アンジーってキャラが「雨は優しいね」みたいなことを言っていたが、そうだよねと子供ながらに思った。とてもじゃないが口に出して言えなかったが。
そういうことだと思う。
ポルノはこれ好きなんだよな。これはカラオケでも何回か聞いたことあるけど、やっぱ人気ない方。
マイナー調っていうの? そういうのが好きな人らしい。エロ暗い歌っていうか。「エロ暗い」っていくね? 「エログロ」みたいだけどグロまではいかない系っていうか。破滅に向かうセックスみたいな。
太宰か。やめてくれ(笑)。難しい顔してしてそうじゃん、セックス。そうじゃない。破滅に向かいながら笑ってる。わたしは笑っちゃう。だってそれが物の理なんだもん。
最近そういう「エロ暗い」ゲージツ作品減ったよな。お前ら牝豚ども、そんなに健全でいたいの? どうあがいても牝豚なのに。ただの肉だよお前らなんか。そう見られてる。人は女を肉として見たがっている。そうする前戯のようなものとして健全さを求めているだけ。健全なアニマなんて入り口だよ。排水溝のゴミ受け。男が己の男性的享楽のために勝手に設定した踊り場。セーフティネット。アダムの肋骨としてのイヴ。
だからお前らは飽きられるんだよ。
牝豚なのに男の口車に乗せられてお人形にさせられてるだけ。
イヴなんかでいるからだよ。
リリスなんだよ、お前らだって。もとはみんなそうだった。男も女も。
それもいやだと言うなら飽きる側になればいい。キルケになればいい。
人間だから男に負けるんだ。
動物でいればもとから男女平等。そもそも地位なんて幻想がない。
フェミなんてそこの領域の手前でうろちょろしてるだけ。
人間のまま男女平等になろうとしたら、男性化するしかないんだよ。リリスじゃないまま男にまたがりたいなら同じアダムになるしかない。
その時点で負け。男に取り込まれてる。
そうしたい奴はそうすればいい。勝手にやってればいい。
わたしはそうじゃないってだけ。
出版関係者が集まるバーで飲んでた時期がある。文豪とかがくるようなところじゃない、もっと下っ端の連中が、いわば社会のゴミみたいな連中が集まるバー。一応一見さんお断りの。あれ、わたし誰の紹介でいくようになったんだっけ。忘れた。
某老舗SM雑誌編集者とか、鬱病になってそういう本を書いて一発あてた元フリーの編集者とか、過去に一度だけ文芸誌の賞を取ったが職にあぶれてフリーライターしている奴とか、ちゃんとすれば美人で有名女子大卒で、そこそこ金もらってるのにいまだに風呂なしアパートに住んでて、銭湯に酔ったままいって脱衣所で寝ちゃうようなファッション雑誌編集者とか、この人も美人だが有給取って海外へイケナイ薬をしにいくのが趣味って大手出版社の人とか、そういう人たちが集まるところ。出版関係でも底辺と呼べるような奴ら。西原理恵子が一時期ネタにしてたような奴ら。
そこで知り合ったフリーライター兼フリー編集者のさらに知人が(ややこしい)、女性フリーライターなのだが、風俗体験レポを書いているという話になった。つまり接客する側で書いているわけだ。男性側の風俗体験レポってマンガでもよくあるのに、なぜかそいつは「反則だ」と怒っていた。
そいつの論旨は、風俗とは夢を売るところであり、夢が壊れるからだめだ、というようなものだった。
結局そういうことだと思うよ。人間としてのセックスは夢なんだ。アダムは肋骨としてのイヴというダッチワイフとしか性交しない。
動物としての人間の交尾とは別物のセックス。
なんか、女優に脂肪吸引手術受けさせて、取れた脂肪を料理して食べる(カレーにしたらしい)って裏ビデオに参加した人とかもいたんだが、そういうのならちょっとやってみてもいいかなとは思った。
昔の話よ。ワカゲノイタリ。
こう、高い崖からする飛び込みを見世物にして食ってる人が、ある日ミスをして、全身骨折かなんかして死にかけたって話をしてて、わたしはこんな主張をしていたことを思い出した。
わたし曰く、「その人は、わざとミスしたんじゃないか」。
自分が大道具やってたからわかるんだけど、大道具なんてのはここでも書いたように結構命がけの仕事だ。そういう仕事をしていると、たとえばすげー高所で仕事してたりしてて、ふと「落ちたらどうなるんだろう?」という好奇心が芽生えることがある。もちろん死の恐怖はある。怖いに決まっている。だけどそういった好奇心が瞬間的に勝つ時がある。わたしがライトブリッジから落ちた時も、足を滑らせたわけだが、「いつもなら落ちないのになんで?」と自分で思ったくらいだ。しかし、そういった作業の時、いわば「死への好奇心」とでも呼ぶべきものがあるのも事実だ。
だから「わざと」とは言えないと思う。無意識的なものだ。「無意識的な故意」ってすでに言葉として矛盾しているが、そういうようなものだ。
こういった「無意識的な故意」が、飛び込みで死にかけた人にもあったんじゃないだろうか。
ただの推測にすぎないが、空中でちょっとバランスを崩せばいいだけだと思う。ちょっとバランスを崩せば死に繋がる大事故になる。
この「死への好奇心」に、人はいろいろ理由をつけたがる。たとえばその飛び込み者は私生活でなんらかのトラブルがあったのだろう、などと。私生活でトラブルを抱えていない人なんているのか? と思う。
「好奇心」に理由はない。
だからわたしはそう述べた。
お前らが自分勝手になすりつける精液のごとき妄想からの防御として。
どんだけ気を遣わなきゃ伝わらないんだ。
夢。
『ぴあ』みたいな雑誌を読んでる。ブログ集になっている。その中に、わたしとの議論をしているどっかのブログのコメント欄が載っている。つかコメント欄そのものだ。
ブログ主の反論は、精神分析用語を使わない精神分析のようなもので、平たく言えばわたしの人格批判なのだが、いちいちわたしの言質を拾って理屈化している。怒ってはいるが冷静な感じ。わたしは「えーそりゃお前うがちすぎってもんだ」と思うこともあるが、「ふんふん」と思えるところもあり、また自分が自分について考えていたことを新たな言い方で言っているだけと思えるところもあった。
要するに「わたしについての論文」としてそこそこ評価できるものだった。
論旨としては、彼にとってわたしは「謎」らしい。秘密主義者だ、とでも言いたげな。だからずるいじゃないか、という話だ。
部分部分のわたし論は納得できるのに、論旨だけは納得していなかった。わたしのどこが秘密主義者だ、と。
もちろんわたしは気持ちいいわけがない。わたしだって腹が立つ。しかし部分部分は納得している。
彼は最後の方にこんな文章を書いていた。
「君(わたしのこと)は、他人が違和感を覚えていないことについてまでも「わたしは違和感を持っている」と言っているようなものだ。」
わたしはこの言葉に大いに納得して、この文章だけを引用して「そうそう、その通りだよ」と返信してやろうと思うが、なんのブログかわからない。『calculate』というタイトルなのはわかって、雑誌の目次欄で検索(雑誌なのになぜかできた)してもでてこない。いろいろやっているとやっとヒットする。よく見ると「alculate」の部分だけがヒットしている。「c」が半角だか全角だかでヒットしなかったのか、と思う。
しかしいくらやっても返信の仕方がわからない。
雑誌をぱらぱらめくってると、読者交流広場のようなものがあって、ドゥルーズを研究している人だかが、あるブログでわたしが喧嘩しているのを見たらしく、「脂さんという元気な方がいらっしゃったのですが、どういう方なのかご存知の方いらっしゃいますか?」などと書いてあった。
怖くなって雑誌を閉じたが、それを棄てる気にはなれなかった。
ベッドの上でそれを読んでいたのだが、これは姉の部屋だと思う。実際に姉はいない。
わたしはいまだかつて自分の部屋に住んだことがない、と思う。今の一人暮らしの部屋だって誰かの部屋で、わたしの部屋じゃない。
布団にくるまる。暑い。汗をいっぱい流して自分の臭いを染みつかせよう、と思う。
まるで犬だ。
『鷹の爪』って何がおもしろいのかすらわからない。フラッシュは保管庫作ってた時期もあるし目が肥えてるからか?
「売りたい」と思った作品は売れる世の中になっちゃったのかもね。
なんつか、fc2ブログには訪問者リストってのがあって、同じfc2のブログ主が踏んだらわかるって(当然禁止設定もできる)のがあるんだが、そこにちょくちょくタイトルとかハンドルネームとかプロフィールだけで「げろげろ、お前みたいなのに見られてると思うとキモイ」ってのがよくいるんだよな。でも中にはおもしろいのもある。学問関係なく。ただの演劇サークル所属の女子大生(?)の日記みたいなのとか何回か見た。まー昔を懐かしんでるだけだろうが。
ときどき「あ、こいつまじもんデムパ臭い」って思うのもある。わたしは結構デムパテクスト好きなので、そういうのを見るかと思うとそうでもない。他人のブログを覗いているような人の書くデムパテクストは嘘デムパなことが多い、というわたしの勝手な妄想。わたしも他人のブログを覗いているが、きちんとお化粧できている、と本人は思っている。つまりデムパテクストは書いていないと。
長々とごたくを並べたが、あるブログも「嘘くせー」って思ってスルーしてた。でもなんつかつれづれに見てたんだよな。訪問者のブログを。で、「お、ちょっとキテル」って思っていくつか記事読んでたら、こんな記事があった。
いやなー。
芸術論としては、わたしはそこで語られてるそれこそ記事タイトルの『泉』と『ピンクフラミンゴ』って映画くらいしか知らない(あ、さすがに坂本龍一は知ってるけど記事内の曲は知らない)んだけど、ラカン論絡めた芸術論としてはとっても納得できるんだな。ラカンで芸術語ってる文章の九割は「おま、その概念が何を示しているのか理解できてないだろ」って思えるのばっかなんだが、この人のラカン用語の使い方はあってる。そういう意味で評価できる。「41流」あたりのこの人オリジナルの概念は知らんが。まだそこまで読んでない。読む気もないけど。今は。
でもなー。
なんかこのブログで言っていることとすげー似てて、この人の影響受けたと思われるのがいや。本出してるみたいだし。言っておくが今日はじめて見た。嘘だと思うならそこのブログ主に聞いてみればいい。アク解つけてなくても訪問者リストでわかるだろう。
ああうん、「ラカン理論の芸術領域への応用」って意味ではよくできてる、って話でいいよ。わたしが気持ち悪いってだけ。
つかこの人の文章、途中うねって最後まとめたがるな。まとまってなさそうだけど(心の中で)。かわいらしい。たとえば、無意味な心中を目指してたのに相手の女を先に死なせて自分が死ぬ直前で心中に意味を見出しちゃう(そして実際に死ぬか生きるかって問題とは別な事柄。関係なくはないけど)ヘタレ男みたいだ。車谷長吉あたりが書きそうな。
引用する。
=====
あらかじめお断りすれば、《現実界》というのはラカンの用語の借用なのですが、ラカン理論を背景にしながらも、筆者独自の考えで転用的に使っています。特にこの《現実界》という言葉の使用が、気に障るかもしれません。ですから「ラカンはそんなことを言っていない」と批判を急がないでいただきたい。
=====
そんなんで批判するような奴は、精神分析を勉強しててもおそらく分析家じゃない奴らだろうから、ほっとけ。ラカン理論を偶像にしたがっているアホ信者どもだ。ここでも読んどけ。
「いっぱい学問したらボクチンほめられるよね、ね」って学問やってる、学者じゃなくて人格者を目指している奴らばっかだからな、ラカン業界も。
芸術畑の人とか食われちゃうよ。あっさり。あ、それとももう食われ済みか。ケツの穴ゆるゆる。
今では学問村ですら立派な政治が存在しています。文明バンザイ。
あれだ、政治的にこの人は保留しておこう、ってことで、手当たり次第に攻撃してるわけじゃないのー、うふ、って言い訳みたいなもんだと思っとけ。
もいっこ。
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「便器」を使ったデュシャンの作品が《糞》であると言う主張は、現代美術の常識を逆撫でするものであって、とても認められるものではありません。
=====
へー、美術村も政治が大変そうだね。
そりゃ最後は意味を求めたくなるわな。
ってうぃきぺってびびった。日本ラカン協会のしとか。
やっべ訴えられちゃう?
上がりたい奴は上がればいい。ただ、上がったまま鏡の魔法で自分より上下にいる奴を上げ下げするな、ということ。実際は上がっても下がってもない。それはお前の鏡による幻想だ。
そのまま見ればいい。
そうしないと上か下かはわからない。
はるか下方でもがきながら上がろうとして、でも一ミリずつしか上がれない奴を、そのまま見ればいい。
ま、そのまま見るってことは落ちるってことだけどね。
それができないなら下を見るな。上だけを見て上がっていけ。
「早く人間になりたーい」
この台詞ギャグにしちゃいかんだろう。ギャグでいいけど。
「あいたく、ちがふ、さがらない」
胸焼けのような頭痛。大したことない。我慢できる。
たとえば、『トータル・リコール』の、頭に埋め込まれた発信機か何かを取り除くってシーン。ちっちゃなマジックハンドが出てくる銃みたいなのを鼻にぶっ挿して、ピンポン玉くらいのそれを抜き出すような。痛そうだな、と思う。この胸焼けのような頭痛と比べたらはるかに痛いだろう。だけど、慢性的なこの痛みがそれでなくなるなら、やってみてもいいかな、と思える。いやもちろん途中で「痛い痛い、やっぱやめるう」とか言って鼻にマジックハンド銃ぶら下げたまま泣きわめいたりするのかもしれんが。
要するに、慢性的な痛みか瞬間的な激痛かって問題。
うるさい!
この慢性的な痛みって、こう、湯船に浮かぶ大量の髪の毛のようなものだ。一本を取り除くのはとっても簡単だが、大量すぎる。きりがない。
だからわたしは湯の中にもぐる。髪の毛は浮くから。
でも息が続かない。なんの解決にもなってない。
そこでシャワーだ。文明の利器だ。
シャワーっていかにも射精だよな。
射精じゃないシャワーって雨になるよな。
『われらはみだしっ子』ってマンガで、アンジーってキャラが「雨は優しいね」みたいなことを言っていたが、そうだよねと子供ながらに思った。とてもじゃないが口に出して言えなかったが。
そういうことだと思う。
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