「さみしい」と言うより「わずらわしい」
2010/03/08/Mon
妙なことに気づいた。
わたしはどうも植物が怖いらしい。
全ての植物が怖いというわけではない。小学校付近の山にあった植物などは別に怖くない。怖いと思った記憶がない。
しかし、たとえば渋谷の代々木公園などは怖い。「すごい怖い」ということではないが、「怖い」という表現も過剰か。「薄気味悪い」などと言えばよいか。
一方、日比谷公園などはそうではない。新宿御苑もそうではない。
では、「整備された人工的な自然」が怖くないのか、というと、そうでもない。
東大駒場キャンパスなど、今は整備されてしまったが、以前は前時代的な自然が残っていた。そういうのは怖くない。小学校付近の山のような感じ。雑然としている。
整然とも言えないし、雑然とも言えないのが、代々木公園だ。
整然の中に不用意に雑然がある。雑然があると思えば整然さが視界に飛び込んでくる。
だからわたしは代々木公園によくいった。駒場から近かったしね。フリマもよくいったな。
なんとなく「薄気味悪い」から、よくいった。
新宿御苑もよくいったけどね。バイト先から近かったから。
日比谷公園はそれほどいったことないな。イベントスタッフのバイトで野音にいったくらいか。近くに朝ごはん食べるところがなくて困った覚えがある。
こんなことを思ったのは、観葉植物オタクの知人がいて、一度勧められたことがあるんだな。
で、わたしは部屋の中に植物があるのって、どうも我慢できないんだ。想像するだけでなんか違和感がある。
部屋の中のわたしはだらしない。だらしなさがエスカレートしそうでなんかいやだ。
ある自閉症者は「人間とはつながれないけれど、植物とかならつながれる気がする」などと言っているが、人間ではない物とつながれることを、自閉症者たちは恐れないのかもしれない。
わたしは怖い。わたしは自閉症じゃないし。
でも思うのは、「人間ではない物」たちとつながっている状態を、自閉症者たちは別に快楽と思ってはいないだろう、ということだ。
自然にそうであるだけ。
自閉症者のそういった感覚に表面上似ている、正常人の自然に対する好意的態度は、「自然や物を所有・把握する」という征服者的快楽が根底にある。彼らの自然に対する愛着は快楽を基本にしている。彼らは遠い昔に物を殺害できている。物の怪が殺害されて正常人が考える「物」になる。
所有物としての物か、物の怪としての物か。
物の怪としての物が見えなくなったのが正常人であり、ポスト・フェストゥムだ。
こういうことだよ。
「さみしい」という言葉は、「周りに人間がいない」という意味だろ? しかし人間がいなくても物はいる。どこにでもいる。「周りに物がない」なんて状態はこの世にありえない。宇宙空間でさえ何かしらの物質が漂っている。気体であれ液体であれ固体であれ。
わたしはそういった意味で「さみしい」と思ったことがない。周りに人間がいない状況でも、わたしの周りには物の怪たちがうじゃうじゃいる。「さみしい」どころがわずらわしい。うるさい。
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
今ならば一人きりさ 祭りもできる
谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』の「みんな」は、こういう物の怪たちだと思うんだが。正常人たちが見えなくなった物の怪たち。哲学的にお化粧して言うなら物自体の気配たち。吐き気を催させる木の根っこ。
「一人きり」だからこそ物の怪たちが騒ぎ出す。人間ではない物たちが。さみしいというよりわずらわしい。うるさい。まさに「祭り」。
新宿御苑より代々木公園の方が物の怪たちの、物自体の気配を感じる、ということか。
自然がわずらわしいから、うるさいから、代々木公園によくいった、と。
うん、「一人になりたい」みたいな感じのときによくいったもんな。実際は代々木公園なんていつも人がいるから矛盾しているんだけど、人がいても一人になれる気がしたもん。周りに人がたくさんいるからこそ一人になれる気がする。これはよくあるな。考えごとするのにファミレスとかよくいってたし。
わたしは代々木公園に「一人きりの祭り」をしにいってた、というわけか。
まあ単純に駒場に近かったってだけだろうけどさ。
ともかくそんなわけだから、前記事コメント欄における「さみしい」って言葉の意味が、わたしの「一人きりの祭り」を示すのならば、それを消滅せしめる目的でわたしに何かしらの作用を及ぼさせるのは、お断りします、という話だ。
むしろできるものならやってみろ、って感じだな。これをなくすには脳外科手術するしか手段はない、と本人は思ってるくらいだし。
「さみしい」からって「さみしくさせないように」近づく人のせいで、より「さみしさ」を感じる。そんな可能性だってある。人によっては。つうか「人ごみの中にいる方がより孤独を感じる」とか正常人でもある状態なんだろ?
わたしはその「さみしい」状態について、別に「好き」というわけではないが、そういう状態も「あり」だと思うので、別にそれを消滅せしめてくれなくても構わないんだけど、ってことだな。「余計なお世話」って奴?
いやま、そういった物の怪たちがわずらわしいから、うるさいから、人間を求めるときもあるんだよ。
そういったときは、事後的に「あ、こないだのあの状態は、「さみしい」という言葉にあてはまる状態だな」と思う、と思う。
さみしいときはさみしいってなぜ隠さないで
あなたの前ではっきり言えなかったのでしょう?
この歌、歌詞だけ見ると好きじゃないが池田聡の声は好きだったからな。ときどき歌う。
「さみしいとき」は自分が「さみしい」ってわからないもんだろ? 少なくともわたしはそうだ。だから別に「隠」しているわけじゃなく、「自分が(事後的にあてはめられる言葉である)「さみしい」ということに気づいていない」んだ。
だからこの歌のこのフレーズはなんか覚えている。前記事のコメント欄読んでてまずこの歌連想した。
つうかこんな風に取り上げてはいるが、この未来さんって人、わたしの印象では「うざそうな人」ってなってる、とは言明しておく。「押しつけがましい人」だな。「天国の押し売り」業者。訪問販売の人ってうざいもんだろ。
妖怪紳士に「脂さんは『もののけ姫』のサンみたいだ」と冗談で言われたことがあるのだが、わたしはサンじゃないと思う。サンのときもあるが、物の怪たちをわずらわしく思うエボシ御前のときもある。今はエボシ御前状態だ。
なんか自己美化しているような文章になるのであんま書きたくないが、そういうことだと思ったので書いておく。
それと、今日のこの話、この記事の話ともつながってるように思う。一応注釈しといてあげよう。
しんどいな。めんどくさいな。
そんな中、最近非公開コメントしてくる奴の一人相撲が微妙におもしろい。ニヤニヤして眺めてる。ただ特定の著作を押しつけてくるのはやめてくれ。君の思考の道具として扱っているだけならいいんだが、どうも君の書き方、「この著作を読め」って言っているように思える。男性的抑鬱症のわたしがもっとも不快に思うところ。君の誰かの著作や文章の引用の仕方って、「一人遊び」になってないんだよ。「君とはこの著作を引用することで共有できる気がする」って仕方になっている。それが気持ち悪い。君は井筒の論を道具にしている。わたしは精神分析論を道具にしている。それだけのこと。わかるかね、ワードサラダ君(仮称)。
このブログはわたしは基本的に「一人遊び」のつもりでやっている。
あと、拍手コメントで「貴女は何かを通じさせたかったのか。」って文章があったが、わたしは別に「通じさせたかった」わけではない。「通じなかった」という事実を述べただけ。それだけの言葉になぜ「わたしは通じさせたかった」という意味を付加させるんだろう? いやま、このコメント者の言葉に乗っかるなら、「通じないことを通じさせたかった」って答え方になるんだろうけどさ。この記事でも普通に書いてることじゃん。
結局さ、サルトルは未開文明人をダシにしたから構造主義に負けたんだよ。そりゃー負けるに決まってるわ。未開文明を臨床するのがそういった学問なんだから。やっぱサルトルはしょせん哲学者。彼に欠けていたのは「臨床の知」。
んでもさー、小説家でもあるわけだからさー、「私の言う「未開文明人」とは比喩的なものであり、臨床実体としてのそれではない」とか言い訳すればよかったのに、と思うんだけど。
そうしないで、「臨床の知」に負けたからって「臨床の知」を取り入れて、キチガイをダシにすると、自らのいかにも正常人な部分を、正常という精神疾患症状を露呈することになる。フーコーしかりガタリしかり。で、
「そんなこと言っているお前自身がキチガイじゃないじゃん」
で終了、となる。
こういったサルトルからフーコー、ガタリ系列って、要するに敗北者になるために、自分より弱い個体をダシにしている、という意味で倒錯者なんだよな。中坊さんと一緒。
全然君たちキチガイじゃないよ? 君たちはキチガイを殺す側の人間だ。キチガイについて書けば書くほどキチガイを殺してきた本性をさらすことになる。自分自身が自分が批判している奴らと同種の人間だということをさらすことになる。
わかるかなー?
わたしはどうも植物が怖いらしい。
全ての植物が怖いというわけではない。小学校付近の山にあった植物などは別に怖くない。怖いと思った記憶がない。
しかし、たとえば渋谷の代々木公園などは怖い。「すごい怖い」ということではないが、「怖い」という表現も過剰か。「薄気味悪い」などと言えばよいか。
一方、日比谷公園などはそうではない。新宿御苑もそうではない。
では、「整備された人工的な自然」が怖くないのか、というと、そうでもない。
東大駒場キャンパスなど、今は整備されてしまったが、以前は前時代的な自然が残っていた。そういうのは怖くない。小学校付近の山のような感じ。雑然としている。
整然とも言えないし、雑然とも言えないのが、代々木公園だ。
整然の中に不用意に雑然がある。雑然があると思えば整然さが視界に飛び込んでくる。
だからわたしは代々木公園によくいった。駒場から近かったしね。フリマもよくいったな。
なんとなく「薄気味悪い」から、よくいった。
新宿御苑もよくいったけどね。バイト先から近かったから。
日比谷公園はそれほどいったことないな。イベントスタッフのバイトで野音にいったくらいか。近くに朝ごはん食べるところがなくて困った覚えがある。
こんなことを思ったのは、観葉植物オタクの知人がいて、一度勧められたことがあるんだな。
で、わたしは部屋の中に植物があるのって、どうも我慢できないんだ。想像するだけでなんか違和感がある。
部屋の中のわたしはだらしない。だらしなさがエスカレートしそうでなんかいやだ。
ある自閉症者は「人間とはつながれないけれど、植物とかならつながれる気がする」などと言っているが、人間ではない物とつながれることを、自閉症者たちは恐れないのかもしれない。
わたしは怖い。わたしは自閉症じゃないし。
でも思うのは、「人間ではない物」たちとつながっている状態を、自閉症者たちは別に快楽と思ってはいないだろう、ということだ。
自然にそうであるだけ。
自閉症者のそういった感覚に表面上似ている、正常人の自然に対する好意的態度は、「自然や物を所有・把握する」という征服者的快楽が根底にある。彼らの自然に対する愛着は快楽を基本にしている。彼らは遠い昔に物を殺害できている。物の怪が殺害されて正常人が考える「物」になる。
所有物としての物か、物の怪としての物か。
物の怪としての物が見えなくなったのが正常人であり、ポスト・フェストゥムだ。
こういうことだよ。
「さみしい」という言葉は、「周りに人間がいない」という意味だろ? しかし人間がいなくても物はいる。どこにでもいる。「周りに物がない」なんて状態はこの世にありえない。宇宙空間でさえ何かしらの物質が漂っている。気体であれ液体であれ固体であれ。
わたしはそういった意味で「さみしい」と思ったことがない。周りに人間がいない状況でも、わたしの周りには物の怪たちがうじゃうじゃいる。「さみしい」どころがわずらわしい。うるさい。
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
今ならば一人きりさ 祭りもできる
谷山浩子『魔法使いの恋人が逃げた』の「みんな」は、こういう物の怪たちだと思うんだが。正常人たちが見えなくなった物の怪たち。哲学的にお化粧して言うなら物自体の気配たち。吐き気を催させる木の根っこ。
「一人きり」だからこそ物の怪たちが騒ぎ出す。人間ではない物たちが。さみしいというよりわずらわしい。うるさい。まさに「祭り」。
新宿御苑より代々木公園の方が物の怪たちの、物自体の気配を感じる、ということか。
自然がわずらわしいから、うるさいから、代々木公園によくいった、と。
うん、「一人になりたい」みたいな感じのときによくいったもんな。実際は代々木公園なんていつも人がいるから矛盾しているんだけど、人がいても一人になれる気がしたもん。周りに人がたくさんいるからこそ一人になれる気がする。これはよくあるな。考えごとするのにファミレスとかよくいってたし。
わたしは代々木公園に「一人きりの祭り」をしにいってた、というわけか。
まあ単純に駒場に近かったってだけだろうけどさ。
ともかくそんなわけだから、前記事コメント欄における「さみしい」って言葉の意味が、わたしの「一人きりの祭り」を示すのならば、それを消滅せしめる目的でわたしに何かしらの作用を及ぼさせるのは、お断りします、という話だ。
むしろできるものならやってみろ、って感じだな。これをなくすには脳外科手術するしか手段はない、と本人は思ってるくらいだし。
「さみしい」からって「さみしくさせないように」近づく人のせいで、より「さみしさ」を感じる。そんな可能性だってある。人によっては。つうか「人ごみの中にいる方がより孤独を感じる」とか正常人でもある状態なんだろ?
わたしはその「さみしい」状態について、別に「好き」というわけではないが、そういう状態も「あり」だと思うので、別にそれを消滅せしめてくれなくても構わないんだけど、ってことだな。「余計なお世話」って奴?
いやま、そういった物の怪たちがわずらわしいから、うるさいから、人間を求めるときもあるんだよ。
そういったときは、事後的に「あ、こないだのあの状態は、「さみしい」という言葉にあてはまる状態だな」と思う、と思う。
さみしいときはさみしいってなぜ隠さないで
あなたの前ではっきり言えなかったのでしょう?
この歌、歌詞だけ見ると好きじゃないが池田聡の声は好きだったからな。ときどき歌う。
「さみしいとき」は自分が「さみしい」ってわからないもんだろ? 少なくともわたしはそうだ。だから別に「隠」しているわけじゃなく、「自分が(事後的にあてはめられる言葉である)「さみしい」ということに気づいていない」んだ。
だからこの歌のこのフレーズはなんか覚えている。前記事のコメント欄読んでてまずこの歌連想した。
つうかこんな風に取り上げてはいるが、この未来さんって人、わたしの印象では「うざそうな人」ってなってる、とは言明しておく。「押しつけがましい人」だな。「天国の押し売り」業者。訪問販売の人ってうざいもんだろ。
妖怪紳士に「脂さんは『もののけ姫』のサンみたいだ」と冗談で言われたことがあるのだが、わたしはサンじゃないと思う。サンのときもあるが、物の怪たちをわずらわしく思うエボシ御前のときもある。今はエボシ御前状態だ。
なんか自己美化しているような文章になるのであんま書きたくないが、そういうことだと思ったので書いておく。
それと、今日のこの話、この記事の話ともつながってるように思う。一応注釈しといてあげよう。
しんどいな。めんどくさいな。
そんな中、最近非公開コメントしてくる奴の一人相撲が微妙におもしろい。ニヤニヤして眺めてる。ただ特定の著作を押しつけてくるのはやめてくれ。君の思考の道具として扱っているだけならいいんだが、どうも君の書き方、「この著作を読め」って言っているように思える。男性的抑鬱症のわたしがもっとも不快に思うところ。君の誰かの著作や文章の引用の仕方って、「一人遊び」になってないんだよ。「君とはこの著作を引用することで共有できる気がする」って仕方になっている。それが気持ち悪い。君は井筒の論を道具にしている。わたしは精神分析論を道具にしている。それだけのこと。わかるかね、ワードサラダ君(仮称)。
このブログはわたしは基本的に「一人遊び」のつもりでやっている。
あと、拍手コメントで「貴女は何かを通じさせたかったのか。」って文章があったが、わたしは別に「通じさせたかった」わけではない。「通じなかった」という事実を述べただけ。それだけの言葉になぜ「わたしは通じさせたかった」という意味を付加させるんだろう? いやま、このコメント者の言葉に乗っかるなら、「通じないことを通じさせたかった」って答え方になるんだろうけどさ。この記事でも普通に書いてることじゃん。
結局さ、サルトルは未開文明人をダシにしたから構造主義に負けたんだよ。そりゃー負けるに決まってるわ。未開文明を臨床するのがそういった学問なんだから。やっぱサルトルはしょせん哲学者。彼に欠けていたのは「臨床の知」。
んでもさー、小説家でもあるわけだからさー、「私の言う「未開文明人」とは比喩的なものであり、臨床実体としてのそれではない」とか言い訳すればよかったのに、と思うんだけど。
そうしないで、「臨床の知」に負けたからって「臨床の知」を取り入れて、キチガイをダシにすると、自らのいかにも正常人な部分を、正常という精神疾患症状を露呈することになる。フーコーしかりガタリしかり。で、
「そんなこと言っているお前自身がキチガイじゃないじゃん」
で終了、となる。
こういったサルトルからフーコー、ガタリ系列って、要するに敗北者になるために、自分より弱い個体をダシにしている、という意味で倒錯者なんだよな。中坊さんと一緒。
全然君たちキチガイじゃないよ? 君たちはキチガイを殺す側の人間だ。キチガイについて書けば書くほどキチガイを殺してきた本性をさらすことになる。自分自身が自分が批判している奴らと同種の人間だということをさらすことになる。
わかるかなー?
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