急に気温があがった。
2010/04/10/Sat
前記事のコメント欄見てて思ったのだが、ミュンヒハウゼン症候群って、心理はヒステリーじゃないの? って思った。
確かに症状を装うため自傷したりするのはミュンヒハウゼン症候群になろうが、ヒステリーはそういった自傷なしで、精神が肉体に影響を及ぼしたもの、つまり転換性障害、ってことになる、と。
ミュンヒハウゼン症候群と言うと、定義的に「人目をひきたいから」という心理がまず決めつけられるが、実際はそうでもない。「心に開いた穴、傷を埋めるため」などという表現が正しい。その穴、傷の埋め方の一つが、たまたまミュンヒハウゼン男爵の場合、「人目をひく」ことだったにすぎない、と。
で、この心の穴が、精神から肉体に転換したのが、厳密には想像的身体への転換となるが、ヒステリーだ、と。ヒステリー盲目なんてのはそういうことだよな。
ヒステリー盲目でとってもわかりやすい症状だと思う映画を思い出した。『さよなら、さよならハリウッド』だ。ウディ・アレンはほんと役者の職人だな。見事すぎる。これこそ「隙がない」演技って奴だ。あ、ヒステリー盲目という症状を細密に表現できている、って意味じゃないぜ? リアリティの問題じゃない。役者という「魅せる役割」も含めて「隙がない」から、リアリティと通じているが別物のアクチュアリティが生じる。嘘だけど信じていいよもう、ってなっちゃう。まあコメディになってるけどヒステリー盲目ってこういうことよ、って話。
結局なんで「心に穴、傷があるのか」っていうと、「言語が幻想じゃない」からなんだよな。ヒステリーやミュンヒハウゼン症候群は、言語を信頼しているからこその症状だ。つか言語を無批判的に信頼できるようになることが象徴界への参入すなわち去勢なんだがね。
こう返してきた木田原くんとか、そういう頭が「言語が幻想じゃない」ことを示している、って理解できてるのだろうか。
言語が幻想だと、最初から肉体に影響が出るもんだ。言葉は単なる刺激にすぎない。音波にすぎない。ただし、意味のない刺激だから、肉体に直接影響が出る、というわけ。このとき影響が出る肉体は、想像的身体などではない。
なんかあほらし。つまらない人間に限ってなれなれしくコメントしてくるんだよな。木田原くんとかはもうこなくていいや。いやなら。きたいならくればいい。わたしは君という人間をつまんなく思ってるからどっちでもいい。ここはそういうスナック。「人生のふきだまり」(笑)。
つかもうちょっと話しかける前に逡巡してくれ。独り言なら話しかけていることにならないから別にいいが。独り言ならいいよ別に。たまたま書いた場所がここだったってだけなら。
わたし? わたしは半分信じているし、半分疑っている。だからまあ、半分はヒステリーであってると思うよ。
「言語はすべて嘘だ」と言っているけど、こうも言ってるじゃん。「嘘を嘘として信じさせて」と。
わかるかなー。
わたしにとってのつまらない人間=鈍感な奴、だからか。
何最近昔のアニメの実写化はやってるの? 『小次郎』レベルの原作に対する「敬意」じゃない「熱い思い」がちゃんとあるのかね? 『有閑倶楽部』には感じられなかった。原作に対する「敬意」はあったと思うけどね。忠実ではあった。役者たちもがんばってたと認めてあげなくはない。役者だけで評価するなら『有閑倶楽部』だが、あたしは『小次郎』の方が好きだった。
なんか違うよなー。アニメを実写化するのって。アニメが道具になっている。そういう意味では(スキゾフレニックではない)スキゾチックなんだけど、昔のマンガなんざスキゾな子供たちが(人間みなもとはスキゾ)、「熱い思い」を学ぶための教科書だったわけだろ。「熱い思い」が洗練化されて、つまり大人になって「敬意」になるわけだけど、だから「熱い思い」を教える少年マンガなんかもとからサブカルチャーじゃなかったんだよな。そうだろ? 少年マンガのあらすじなんか大体、フロイト派が「神話はすべてエディプスコンプレックスにのっとっている」としたのと同じ構造じゃん。つまり英雄物語。
だからおもしろいんだよ。少年マンガは。
ただ『怪物くん』は人間としてサブカル(とわたしが認める)な藤子Aだから、別に「熱い思い」はなくていいのかもな、と思った。ただウェンツの『鬼太郎』みたいに、もとのマンガはサブカルだけど、それにむりやりエディプスコンプレックス的な王道構造を入れ込むのは、と思ったけどアニメでもそうなってるよな。マンガにはなかったエディプスコンプレックス的王道が組み込まれている。『鬼太郎』は何度もアニメ化されているけど、最近のになっていくにしたがってそうなっている。「そんなんじゃない『鬼太郎』の原点に帰ろうじゃないか」ってバージョンもあったけどな。あ、これか、『墓場鬼太郎』。声がなつかしいだけだった。
『怪物くん』は個人的に『鬼太郎』よりスキゾチックだとは思うので(表面上カウンターカルチャーだがハイカルチャーの敵であるオカルトさえも揶揄対象にしちゃうモンティ・パイソンみたいなもん)、「冷めた笑い」を提供する、って感じで作ってくれた方がしっくりくるのか。
さてどんな作り方してくるんだろうか。
多分見ないけど。
まあこういうことだよ。木田原くんの人から嫌われる(自分で言ってたよな)「コミュ障」症状は、カウンターカルチャーの構造だが、わたしの「コミュ障」はサブカルだ、って話。
むりやりすぎる? うん自分でそう思ってる(笑)。
これおもろいな。「コミュ障とはなんぞや」を(議論とは言えないが)話している自分たちがどんどんコミュ障化していく、って感じが。ネタだけど。
それでこそ2ちゃんである。
ぬ速とVIPは2ちゃん症状の窓口としてとっても便利だな。
そらパパさんのツイッター。
こいつ自分が科学教の信者になってると思ってないんだろうか。
「科学という言説として認められるか否か科学村のルール」って本質でないものを偶像化している信者だと。
簡単だ。科学とは対象を「物」として研究する学問である。「物」が本質側にある学問である。「物」には再現性、操作性のないものもある。そういったものの、「メジャーな理屈体系の穴」の一例として、不確定性原理などがあげられる、というわけ。
だからってそれ以外にも研究すべきことがあるから研究してるだけなんだけどね、自然科学者は。別にそれをエポケーしてるわけじゃない。「メジャーな穴」以外に「マイナーな穴」が大量にあるから、その穴をいじってるだけ。「理屈は最終的に世界をあまねく表現できる」って思い込むから、信者もアンチも「メジャーな穴」に群がるだけじゃないかね? わざわざ「エポケー」なんて概念作らなきゃいけないんじゃないかね? 自然科学者は最初から自分たちの学問が完全ではないことを知っている。そらそうだ。研究対象は自然物なんて広大なものなんだから。宇宙も一部にすぎない研究対象。スタート地点で研究対象の到達不可能さがある。
理屈なんてただの道具だぜ? 言語の一形態。理屈じゃない文学的表現だって言語の一形態。
また、この「研究すべきこと」が社会の役に立つものでもなかったりするからこないだの「事業仕分け」みたいな問題が起きる。
科学者も科学者で「こちとら社会のために研究してんじゃねえんだよ、ああジコマンだよ」って言っちゃえばいいのに、実際そうなんだから、っていうのがあたしの立場。
大大大博士に群がる「信者」と同じ心理が、君の科学に対する心理にも、あるんじゃないか? ってわたしは言っているんだがなあ。
まあこういうもんだ。科学のど真ん中じゃない周辺にいる奴なんて。周辺にいるから中央に目を向けちゃう。中央以外に目を向けるところはいっぱいあるのに。
まあでも「悪いのは信じること」って方向にいってそうだから、いいか。
自分の科学に対する「信じること」を破壊するところまでいけるのかどうか。
いけねーだろーな。それが正常であるってこと。それでいいんだよ。健全。
最近にしおかすみこが好きだ。内心周囲にびくびくしてそうな感じが。女王様キャラがウケたのってこの内心を見抜いていたからか。さすがだな野郎のスケベ心ってな。女王様キャラのときは好きでも嫌いでもなかったんだがなあ。
で、予想通り周りの芸人から嫌われているらしい(嫌われてた、か)。
こいつも実はサブカル人間なんじゃね? 若干「コミュ障」の。ああうん彼女が、芸人としてやさしい仕事、旅番組とかって情報バラエティ系に出演してるときって、「コミュ障が必死にリア充とコミュニケーションしてる」感があるもんな。ヒッシ(カタカナな)な感じ。男にゃわからんかもしれんが。要するに彼女にもツレションコンプレックスみたいなもんがあるんじゃねえか、ってカンジー。
ああうん、真性喪女が「こいつの本質は喪(精神分析用語ではなく2ちゃん用語のそれ)だ」って言ってるようなことだ。
ま、こういうのってちょっとずれたらまた「痛々しい」ってなるんだろうがな。
安定してられんだろうな、これでメンヘラになってくれたらメシウマだわ。
すでに罹り済みだったりしてな。
あれだな。ハイカルとカウカルは与党と野党みたいなもんで、サブカルは村八分だ、ってことだな。だからカウカルはサブカルを取り込もうとする。野党の戦略って大体そうだろ、浮動票を取り込む。
だけどカウカル内でも村八分になるのが本当のサブカル。
こういう区別自体が「政治的視点から文化を見る」ってことになるんだが、まそゆことかと。
「理屈のメジャーな穴」に群がっているのはハイカル人間とカウカル人間。サブカル人間は他人なんてどうでもよいから「マイナーな穴」をいじくってる。無意識が「他人なんてどうでもよい」から、それがばれてしまって村八分にあう、と。で別に村八分になっててもいいんだよね、「他人なんてどうでもよい」から。
せっかく村八分になってるのに、自分の政治のために、つまり支持者獲得のために、村八分になっている家を訪問してくるのが、カウカルだ。まあ最近は定義上ハイカルとされてた党も訪問してくるけど。政権交代が活発になったからだろうな。文化政治の。
対応に出たサブカル人間は、相手がハイカルだろうとカウカルだろうとこう答えるしかできない。
「あ、はあ」
だってどうでもいいことなんだからそういう反応になるのは仕方ない。それより重要なのは家の奥でこそこそ研究している「マイナーな穴」だ。
そんな感じのことじゃね。このマンガも。
同じ趣味の人間が集おうが集わまいがどっちでもいいんだよ。やってることは変わらん。
「あ、はあ」でいいんだけど玄関で声高に口上述べられたらそらぷちってくるわ。「メジャーな穴」についてたらたら述べてるだけなのに自分の研究してる「マイナーな穴」もその一部だ、なんて言ってくる。そいつの言うことは要するにそういうことだ。そらー「メジャーな穴」に気をひくことがそいつの仕事だからな。
メジャーかマイナーかなんて多数決にすぎんだろそれこそ。
穴は穴だ。メジャーだろうがマイナーだろうが。
あ、わたしが社会人時代に思いついた「機械にはなくて人間にはある「寄らば大樹の陰理論」」ってこういうことよ。大樹の陰に寄っていくのはそれが好きとか嫌いとか、正しいか間違っているかとか関係ない。好きでも嫌いでも、正しいと思ってても間違っていると思ってても寄っていく。巨大なブラックホールかなんかがある感じ。大樹=ブラックホール。わたしには見えないけど。
おー今頃になっていい感じに言語化できた。
そらパパさんやっぱわかってねえな。ツイートから。
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科学がどんどん進歩して、文系の学問がそうでないのは、やっぱり「再現性のある知が引き継がれ積み上がっていくかどうか」の違いなんでしょうね。
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その「再現性のある積み上げられた知」が、これまでの未去勢者、たとえば自閉症者を殺してきたんだと。
「再現性とはなんぞや」をよく考えてみろよ。キチガイが「俺の前で何度も起こった」っつっても再現性にはならんだろ。んで「主観・客観問題」になるんだよ今度は。そこで現象学みたいなメソッド論ができてくる、と。
自閉症の症状自体に再現性があまりないのが療育の難しいところだと療育村はわかってるもんだとわたしは勝手に思ってたんだがそうでもないのな。そもそも自閉症かどうかって診断が職人技だろ、言語化が困難って意味で。つか精神科の診断すべてがそうなんだけどな。斎藤環もこの論文でちろっとぼやいてたりする。このあたりな。
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さらに言えば、臨床現場での「診断」こそは、この「同定認知」機能によって支えられているものであり、これは熟練した医師であるほどそうなのである。この傾向は、とりわけ皮膚科において顕著であるらしい。ベテランの皮膚科医は、病変部位を一瞥したのみで、瞬時に診断を行うという。これは特別な名人芸などではなく、皮膚科臨床医が一般に行っていることである。この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
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また、精神科や皮膚科に限らずとも、教育問題における「子供は千差万別」って奴もそうだよな。教師なんてのも職人になる。
で、自閉症者のための「再現性のある知を積み上げる」っていうなら、結局最後は科学どころが文明と対決することになると思うんだがな。分裂分析みたいなことに。
なーんか「そもそも心理学って科学?」とかわたしが言ったせいか今度は「再現性信者」になってってるな。まー確かに心理学の中では行動主義派は再現性重視だからな。とはいえ他の科学ど真ん中の学問からは科学と認めてもらえない事実。
うん、わたしが大学生のときにした思考経路を忠実にたどってってるわ(笑)。いやあたしは心理学なんて興味なかったけどねその頃は。インテリ村のたしなみでフロイトちょっと読んだくらいだわ。つかそらパパさんもとっくの昔にしてた思考だったかもしれんけど。それを今やっと言語化できているだけ、と。
わたしは最初から信じることがへたなせいでそこらへんの哲学的問いはするするいけたってだけか。
ああこの「再現性信者」になるのって、ユングの「シンクロニシティ」に関連してくることかもね。理屈的には意味のない再現性でも意味があるように思える、って奴。その再現に理屈が適用されるか適用されないか関係なく、再現性さえあれば「信仰心のような心的変化」が生じる。
「再現性なるもの」の精神分析的解釈か。
おーそらパパさんを臨床素材にした論文のテーマにしたらおもしろいもん書けそうだ。誰かやってよ。
あ、要するに、そらパパさんに聞きたいのは、「なぜ再現性なの?」って話。「積み上げられるから」って言ってるし、つまるところそれって「他人と共有できるから」って結論になると思うんだけど、その積み上げたものって共有できない人間、つまりキチガイにはあてはまらんよね。「再現性」とか拘らずに、また「積み上げよう」なんて思わずに、自然に「積み上げられて」ったものの方が、自閉症者にはいいと思うぜ。だってそれ「自然物」になるだろ? 別に「再現性」なんかなくても「積み上がって」くもんだ。再現性のない電子で物質ができているように。人間だって「自然物」だ。
だけど、君みたいに「再現性」に拘ると、その概念の真理の位置にある「他人と共有できること」が、「積み上げられたもの」を支配する。つまり「人工物」になる。
あるアスペの言葉。
「アスペは「管理」されるのは好きだが「支配」されるのは嫌う。」
これさっきの「自然物」か「人工物」かってこととつなげるなら、「自分が管理される」のは「自然物」、「自分が支配される」のは「人工物」、って感じ。
君の思考回路によって「積み上げられたもの」は、自閉症者にとって「自分を支配するもの」となるだろう。
あ、これは「呼び出し」でいいよ。独り言だけど。
ほーんと科学少年だなあ。かわいく思えてきたわ。
あ、こんなこと書くと「メタ視点」とか思われそうだから言っとくけど、「村八分視点」だからね。わたしは部外者だから概観できる、ってだけ。
療育とかどうでもいいしな。自閉症すらどうでもよくなってきてる。
あれだ、そらパパくんや、君は政治闘争、多数決獲得競争に自分勝手に翻弄されてるだけじゃよ。
問題は常に正常人の内面にあるんだよ。
まー要するに現代思想チックな用語なら「形式知・言語知」に関する問題だよな、「職人(すなわち経験知)か否か」って。
両方ありじゃん。なんでどっちかじゃないとだめなん? って素で思うんだが。
両方ありって態度でいれば、言語知も経験知も「自然に」積み上がっていくだろうよ。
つかこの「形式知・言語知」に対しクリティカルだから現象学やラカン論がブームになったんだと思うが。
どっちか、じゃないんだよ、どっちも。
それらが対立するのは当然だから(職人にその技を言語化させようとしたりすることな。機械設計者としても、自分の仕事は「形式知・言語知」であり、職人の仕事たる「経験知」を殺していくことだと自覚してやってた)、対立もあり。
それだけのこと。
だからケンカしたがりな君を支持する。
君はケンカの仕方が、「どっちの陣営に入るか」になってるのがバカ、っつってんの。
どっちの陣営も煽ってケンカさせるわ、っつーのがあたし。魔女。
あ、どっちかの陣営に所属しながら「いやうち陣営も信者ばっかでバカなんだけどね」っつーのはありだな。魔女だってどっちかの陣営に所属させられることはある。
君は自分の「信じること」に何か疑念を抱いているかい?
だからわたしはこの文章にだけ同意する。
=====
問題は「信者」的な方が、言語化された、本質ではないものを偶像化することなのでは。
=====
でもお前も「再現性」を偶像化してんじゃんかよ、っつってるわけだ。それは本質じゃなかろう、と。それにあれだ、あんたブログのコメント欄にもいるんじゃねえか? 「言語化された、本質ではないものを偶像化」している「そらパパ信者」が。わたしは部外者だからね、中立的に見れるから。「あーこいつ本質を見ようって努力なしに本質でない言語だけを見て言ってるな」って思える奴。それを中坊さん命名「なんでも鵜呑みおばさん」って呼んでるわけだが、君そいつらはスルーするの? まあそうだよね。政治的に自分が不利になるからね。自分の信者にんなこと言ったら。でもそらパパさんも大人だからな。中坊さんが「暗に」同陣営の仲間を揶揄したみたく、自分の信者たちに「暗に」注意を促すつもりでこんな台詞を言ったのかもしれない。この際名指しするけどはらぺこるいさん、あんたみたいな人に。
とはいえこの台詞おもしろいよな。「偶像化」ってところが。「形式化」なわけだから、信者も実は「経験知」を「形式知」にしている、と。
それはそうかもしれない。宗教が劣化していく過程だな。神秘主義なんてのは宗教内における「経験知か形式知・言語知か」って議論の経験知側の動きだったと。となると神秘家たちも実は「形式知・言語知」側の人間だったと。劣化させないようにしている運動が実は劣化を促進させてたと。うん、神秘主義ってのはそういうところある。
ただのキチガイを教祖と崇め奉ること自体が、「経験知」を「形式知・言語知」で殺すことと通底している。
おーおもろ。
うんこもれそう。
腹いてえ。
経験知も形式知・言語知も絡みあってんだよ。同じ知の二つの側面を述べてるだけだ。勝手に二つに分類しているだけだ。「知」がどういうものか知るために。別にどっち陣営に入るかってために分けてるんじゃねえよ。
いやだからそういうところじゃないんだよ。
うんこしてきた。
シンクロニシティか。そうなん? それだけなん?
リンクした中坊さんブログでわたしが個人的におもしろいと思えるわたしのコメントがあったのでコピペしとく。
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>あのさぁ、僕が「ちょっとトイレ」って中座して、5分以上トイレ入ってたとするじゃん。「おしっこにしては時間長い」ことから「うんこだ」と判ってもさ、だからといって「あー、お前うんこしてやんのー」ってトイレのドアの前で叫ぶか?
これさあ、ちょっと違うよ。
トイレのドアの前で、
「ねえねえ、うんこ? うんこなの? うんこしてるの? どうなの?」
ってしつこく聞いてるようなもんだ。
でドア開けて君が「ああうんこだよ!」って言った、って状態。
=====
これもこういうことだよな。
確かに症状を装うため自傷したりするのはミュンヒハウゼン症候群になろうが、ヒステリーはそういった自傷なしで、精神が肉体に影響を及ぼしたもの、つまり転換性障害、ってことになる、と。
ミュンヒハウゼン症候群と言うと、定義的に「人目をひきたいから」という心理がまず決めつけられるが、実際はそうでもない。「心に開いた穴、傷を埋めるため」などという表現が正しい。その穴、傷の埋め方の一つが、たまたまミュンヒハウゼン男爵の場合、「人目をひく」ことだったにすぎない、と。
で、この心の穴が、精神から肉体に転換したのが、厳密には想像的身体への転換となるが、ヒステリーだ、と。ヒステリー盲目なんてのはそういうことだよな。
ヒステリー盲目でとってもわかりやすい症状だと思う映画を思い出した。『さよなら、さよならハリウッド』だ。ウディ・アレンはほんと役者の職人だな。見事すぎる。これこそ「隙がない」演技って奴だ。あ、ヒステリー盲目という症状を細密に表現できている、って意味じゃないぜ? リアリティの問題じゃない。役者という「魅せる役割」も含めて「隙がない」から、リアリティと通じているが別物のアクチュアリティが生じる。嘘だけど信じていいよもう、ってなっちゃう。まあコメディになってるけどヒステリー盲目ってこういうことよ、って話。
結局なんで「心に穴、傷があるのか」っていうと、「言語が幻想じゃない」からなんだよな。ヒステリーやミュンヒハウゼン症候群は、言語を信頼しているからこその症状だ。つか言語を無批判的に信頼できるようになることが象徴界への参入すなわち去勢なんだがね。
こう返してきた木田原くんとか、そういう頭が「言語が幻想じゃない」ことを示している、って理解できてるのだろうか。
言語が幻想だと、最初から肉体に影響が出るもんだ。言葉は単なる刺激にすぎない。音波にすぎない。ただし、意味のない刺激だから、肉体に直接影響が出る、というわけ。このとき影響が出る肉体は、想像的身体などではない。
なんかあほらし。つまらない人間に限ってなれなれしくコメントしてくるんだよな。木田原くんとかはもうこなくていいや。いやなら。きたいならくればいい。わたしは君という人間をつまんなく思ってるからどっちでもいい。ここはそういうスナック。「人生のふきだまり」(笑)。
つかもうちょっと話しかける前に逡巡してくれ。独り言なら話しかけていることにならないから別にいいが。独り言ならいいよ別に。たまたま書いた場所がここだったってだけなら。
わたし? わたしは半分信じているし、半分疑っている。だからまあ、半分はヒステリーであってると思うよ。
「言語はすべて嘘だ」と言っているけど、こうも言ってるじゃん。「嘘を嘘として信じさせて」と。
わかるかなー。
わたしにとってのつまらない人間=鈍感な奴、だからか。
何最近昔のアニメの実写化はやってるの? 『小次郎』レベルの原作に対する「敬意」じゃない「熱い思い」がちゃんとあるのかね? 『有閑倶楽部』には感じられなかった。原作に対する「敬意」はあったと思うけどね。忠実ではあった。役者たちもがんばってたと認めてあげなくはない。役者だけで評価するなら『有閑倶楽部』だが、あたしは『小次郎』の方が好きだった。
なんか違うよなー。アニメを実写化するのって。アニメが道具になっている。そういう意味では(スキゾフレニックではない)スキゾチックなんだけど、昔のマンガなんざスキゾな子供たちが(人間みなもとはスキゾ)、「熱い思い」を学ぶための教科書だったわけだろ。「熱い思い」が洗練化されて、つまり大人になって「敬意」になるわけだけど、だから「熱い思い」を教える少年マンガなんかもとからサブカルチャーじゃなかったんだよな。そうだろ? 少年マンガのあらすじなんか大体、フロイト派が「神話はすべてエディプスコンプレックスにのっとっている」としたのと同じ構造じゃん。つまり英雄物語。
だからおもしろいんだよ。少年マンガは。
ただ『怪物くん』は人間としてサブカル(とわたしが認める)な藤子Aだから、別に「熱い思い」はなくていいのかもな、と思った。ただウェンツの『鬼太郎』みたいに、もとのマンガはサブカルだけど、それにむりやりエディプスコンプレックス的な王道構造を入れ込むのは、と思ったけどアニメでもそうなってるよな。マンガにはなかったエディプスコンプレックス的王道が組み込まれている。『鬼太郎』は何度もアニメ化されているけど、最近のになっていくにしたがってそうなっている。「そんなんじゃない『鬼太郎』の原点に帰ろうじゃないか」ってバージョンもあったけどな。あ、これか、『墓場鬼太郎』。声がなつかしいだけだった。
『怪物くん』は個人的に『鬼太郎』よりスキゾチックだとは思うので(表面上カウンターカルチャーだがハイカルチャーの敵であるオカルトさえも揶揄対象にしちゃうモンティ・パイソンみたいなもん)、「冷めた笑い」を提供する、って感じで作ってくれた方がしっくりくるのか。
さてどんな作り方してくるんだろうか。
多分見ないけど。
まあこういうことだよ。木田原くんの人から嫌われる(自分で言ってたよな)「コミュ障」症状は、カウンターカルチャーの構造だが、わたしの「コミュ障」はサブカルだ、って話。
むりやりすぎる? うん自分でそう思ってる(笑)。
これおもろいな。「コミュ障とはなんぞや」を(議論とは言えないが)話している自分たちがどんどんコミュ障化していく、って感じが。ネタだけど。
それでこそ2ちゃんである。
ぬ速とVIPは2ちゃん症状の窓口としてとっても便利だな。
そらパパさんのツイッター。
こいつ自分が科学教の信者になってると思ってないんだろうか。
「科学という言説として認められるか否か科学村のルール」って本質でないものを偶像化している信者だと。
簡単だ。科学とは対象を「物」として研究する学問である。「物」が本質側にある学問である。「物」には再現性、操作性のないものもある。そういったものの、「メジャーな理屈体系の穴」の一例として、不確定性原理などがあげられる、というわけ。
だからってそれ以外にも研究すべきことがあるから研究してるだけなんだけどね、自然科学者は。別にそれをエポケーしてるわけじゃない。「メジャーな穴」以外に「マイナーな穴」が大量にあるから、その穴をいじってるだけ。「理屈は最終的に世界をあまねく表現できる」って思い込むから、信者もアンチも「メジャーな穴」に群がるだけじゃないかね? わざわざ「エポケー」なんて概念作らなきゃいけないんじゃないかね? 自然科学者は最初から自分たちの学問が完全ではないことを知っている。そらそうだ。研究対象は自然物なんて広大なものなんだから。宇宙も一部にすぎない研究対象。スタート地点で研究対象の到達不可能さがある。
理屈なんてただの道具だぜ? 言語の一形態。理屈じゃない文学的表現だって言語の一形態。
また、この「研究すべきこと」が社会の役に立つものでもなかったりするからこないだの「事業仕分け」みたいな問題が起きる。
科学者も科学者で「こちとら社会のために研究してんじゃねえんだよ、ああジコマンだよ」って言っちゃえばいいのに、実際そうなんだから、っていうのがあたしの立場。
大大大博士に群がる「信者」と同じ心理が、君の科学に対する心理にも、あるんじゃないか? ってわたしは言っているんだがなあ。
まあこういうもんだ。科学のど真ん中じゃない周辺にいる奴なんて。周辺にいるから中央に目を向けちゃう。中央以外に目を向けるところはいっぱいあるのに。
まあでも「悪いのは信じること」って方向にいってそうだから、いいか。
自分の科学に対する「信じること」を破壊するところまでいけるのかどうか。
いけねーだろーな。それが正常であるってこと。それでいいんだよ。健全。
最近にしおかすみこが好きだ。内心周囲にびくびくしてそうな感じが。女王様キャラがウケたのってこの内心を見抜いていたからか。さすがだな野郎のスケベ心ってな。女王様キャラのときは好きでも嫌いでもなかったんだがなあ。
で、予想通り周りの芸人から嫌われているらしい(嫌われてた、か)。
こいつも実はサブカル人間なんじゃね? 若干「コミュ障」の。ああうん彼女が、芸人としてやさしい仕事、旅番組とかって情報バラエティ系に出演してるときって、「コミュ障が必死にリア充とコミュニケーションしてる」感があるもんな。ヒッシ(カタカナな)な感じ。男にゃわからんかもしれんが。要するに彼女にもツレションコンプレックスみたいなもんがあるんじゃねえか、ってカンジー。
ああうん、真性喪女が「こいつの本質は喪(精神分析用語ではなく2ちゃん用語のそれ)だ」って言ってるようなことだ。
ま、こういうのってちょっとずれたらまた「痛々しい」ってなるんだろうがな。
安定してられんだろうな、これでメンヘラになってくれたらメシウマだわ。
すでに罹り済みだったりしてな。
あれだな。ハイカルとカウカルは与党と野党みたいなもんで、サブカルは村八分だ、ってことだな。だからカウカルはサブカルを取り込もうとする。野党の戦略って大体そうだろ、浮動票を取り込む。
だけどカウカル内でも村八分になるのが本当のサブカル。
こういう区別自体が「政治的視点から文化を見る」ってことになるんだが、まそゆことかと。
「理屈のメジャーな穴」に群がっているのはハイカル人間とカウカル人間。サブカル人間は他人なんてどうでもよいから「マイナーな穴」をいじくってる。無意識が「他人なんてどうでもよい」から、それがばれてしまって村八分にあう、と。で別に村八分になっててもいいんだよね、「他人なんてどうでもよい」から。
せっかく村八分になってるのに、自分の政治のために、つまり支持者獲得のために、村八分になっている家を訪問してくるのが、カウカルだ。まあ最近は定義上ハイカルとされてた党も訪問してくるけど。政権交代が活発になったからだろうな。文化政治の。
対応に出たサブカル人間は、相手がハイカルだろうとカウカルだろうとこう答えるしかできない。
「あ、はあ」
だってどうでもいいことなんだからそういう反応になるのは仕方ない。それより重要なのは家の奥でこそこそ研究している「マイナーな穴」だ。
そんな感じのことじゃね。このマンガも。
同じ趣味の人間が集おうが集わまいがどっちでもいいんだよ。やってることは変わらん。
「あ、はあ」でいいんだけど玄関で声高に口上述べられたらそらぷちってくるわ。「メジャーな穴」についてたらたら述べてるだけなのに自分の研究してる「マイナーな穴」もその一部だ、なんて言ってくる。そいつの言うことは要するにそういうことだ。そらー「メジャーな穴」に気をひくことがそいつの仕事だからな。
メジャーかマイナーかなんて多数決にすぎんだろそれこそ。
穴は穴だ。メジャーだろうがマイナーだろうが。
あ、わたしが社会人時代に思いついた「機械にはなくて人間にはある「寄らば大樹の陰理論」」ってこういうことよ。大樹の陰に寄っていくのはそれが好きとか嫌いとか、正しいか間違っているかとか関係ない。好きでも嫌いでも、正しいと思ってても間違っていると思ってても寄っていく。巨大なブラックホールかなんかがある感じ。大樹=ブラックホール。わたしには見えないけど。
おー今頃になっていい感じに言語化できた。
そらパパさんやっぱわかってねえな。ツイートから。
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科学がどんどん進歩して、文系の学問がそうでないのは、やっぱり「再現性のある知が引き継がれ積み上がっていくかどうか」の違いなんでしょうね。
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その「再現性のある積み上げられた知」が、これまでの未去勢者、たとえば自閉症者を殺してきたんだと。
「再現性とはなんぞや」をよく考えてみろよ。キチガイが「俺の前で何度も起こった」っつっても再現性にはならんだろ。んで「主観・客観問題」になるんだよ今度は。そこで現象学みたいなメソッド論ができてくる、と。
自閉症の症状自体に再現性があまりないのが療育の難しいところだと療育村はわかってるもんだとわたしは勝手に思ってたんだがそうでもないのな。そもそも自閉症かどうかって診断が職人技だろ、言語化が困難って意味で。つか精神科の診断すべてがそうなんだけどな。斎藤環もこの論文でちろっとぼやいてたりする。このあたりな。
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さらに言えば、臨床現場での「診断」こそは、この「同定認知」機能によって支えられているものであり、これは熟練した医師であるほどそうなのである。この傾向は、とりわけ皮膚科において顕著であるらしい。ベテランの皮膚科医は、病変部位を一瞥したのみで、瞬時に診断を行うという。これは特別な名人芸などではなく、皮膚科臨床医が一般に行っていることである。この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
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また、精神科や皮膚科に限らずとも、教育問題における「子供は千差万別」って奴もそうだよな。教師なんてのも職人になる。
で、自閉症者のための「再現性のある知を積み上げる」っていうなら、結局最後は科学どころが文明と対決することになると思うんだがな。分裂分析みたいなことに。
なーんか「そもそも心理学って科学?」とかわたしが言ったせいか今度は「再現性信者」になってってるな。まー確かに心理学の中では行動主義派は再現性重視だからな。とはいえ他の科学ど真ん中の学問からは科学と認めてもらえない事実。
うん、わたしが大学生のときにした思考経路を忠実にたどってってるわ(笑)。いやあたしは心理学なんて興味なかったけどねその頃は。インテリ村のたしなみでフロイトちょっと読んだくらいだわ。つかそらパパさんもとっくの昔にしてた思考だったかもしれんけど。それを今やっと言語化できているだけ、と。
わたしは最初から信じることがへたなせいでそこらへんの哲学的問いはするするいけたってだけか。
ああこの「再現性信者」になるのって、ユングの「シンクロニシティ」に関連してくることかもね。理屈的には意味のない再現性でも意味があるように思える、って奴。その再現に理屈が適用されるか適用されないか関係なく、再現性さえあれば「信仰心のような心的変化」が生じる。
「再現性なるもの」の精神分析的解釈か。
おーそらパパさんを臨床素材にした論文のテーマにしたらおもしろいもん書けそうだ。誰かやってよ。
あ、要するに、そらパパさんに聞きたいのは、「なぜ再現性なの?」って話。「積み上げられるから」って言ってるし、つまるところそれって「他人と共有できるから」って結論になると思うんだけど、その積み上げたものって共有できない人間、つまりキチガイにはあてはまらんよね。「再現性」とか拘らずに、また「積み上げよう」なんて思わずに、自然に「積み上げられて」ったものの方が、自閉症者にはいいと思うぜ。だってそれ「自然物」になるだろ? 別に「再現性」なんかなくても「積み上がって」くもんだ。再現性のない電子で物質ができているように。人間だって「自然物」だ。
だけど、君みたいに「再現性」に拘ると、その概念の真理の位置にある「他人と共有できること」が、「積み上げられたもの」を支配する。つまり「人工物」になる。
あるアスペの言葉。
「アスペは「管理」されるのは好きだが「支配」されるのは嫌う。」
これさっきの「自然物」か「人工物」かってこととつなげるなら、「自分が管理される」のは「自然物」、「自分が支配される」のは「人工物」、って感じ。
君の思考回路によって「積み上げられたもの」は、自閉症者にとって「自分を支配するもの」となるだろう。
あ、これは「呼び出し」でいいよ。独り言だけど。
ほーんと科学少年だなあ。かわいく思えてきたわ。
あ、こんなこと書くと「メタ視点」とか思われそうだから言っとくけど、「村八分視点」だからね。わたしは部外者だから概観できる、ってだけ。
療育とかどうでもいいしな。自閉症すらどうでもよくなってきてる。
あれだ、そらパパくんや、君は政治闘争、多数決獲得競争に自分勝手に翻弄されてるだけじゃよ。
問題は常に正常人の内面にあるんだよ。
まー要するに現代思想チックな用語なら「形式知・言語知」に関する問題だよな、「職人(すなわち経験知)か否か」って。
両方ありじゃん。なんでどっちかじゃないとだめなん? って素で思うんだが。
両方ありって態度でいれば、言語知も経験知も「自然に」積み上がっていくだろうよ。
つかこの「形式知・言語知」に対しクリティカルだから現象学やラカン論がブームになったんだと思うが。
どっちか、じゃないんだよ、どっちも。
それらが対立するのは当然だから(職人にその技を言語化させようとしたりすることな。機械設計者としても、自分の仕事は「形式知・言語知」であり、職人の仕事たる「経験知」を殺していくことだと自覚してやってた)、対立もあり。
それだけのこと。
だからケンカしたがりな君を支持する。
君はケンカの仕方が、「どっちの陣営に入るか」になってるのがバカ、っつってんの。
どっちの陣営も煽ってケンカさせるわ、っつーのがあたし。魔女。
あ、どっちかの陣営に所属しながら「いやうち陣営も信者ばっかでバカなんだけどね」っつーのはありだな。魔女だってどっちかの陣営に所属させられることはある。
君は自分の「信じること」に何か疑念を抱いているかい?
だからわたしはこの文章にだけ同意する。
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問題は「信者」的な方が、言語化された、本質ではないものを偶像化することなのでは。
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でもお前も「再現性」を偶像化してんじゃんかよ、っつってるわけだ。それは本質じゃなかろう、と。それにあれだ、あんたブログのコメント欄にもいるんじゃねえか? 「言語化された、本質ではないものを偶像化」している「そらパパ信者」が。わたしは部外者だからね、中立的に見れるから。「あーこいつ本質を見ようって努力なしに本質でない言語だけを見て言ってるな」って思える奴。それを中坊さん命名「なんでも鵜呑みおばさん」って呼んでるわけだが、君そいつらはスルーするの? まあそうだよね。政治的に自分が不利になるからね。自分の信者にんなこと言ったら。でもそらパパさんも大人だからな。中坊さんが「暗に」同陣営の仲間を揶揄したみたく、自分の信者たちに「暗に」注意を促すつもりでこんな台詞を言ったのかもしれない。この際名指しするけどはらぺこるいさん、あんたみたいな人に。
とはいえこの台詞おもしろいよな。「偶像化」ってところが。「形式化」なわけだから、信者も実は「経験知」を「形式知」にしている、と。
それはそうかもしれない。宗教が劣化していく過程だな。神秘主義なんてのは宗教内における「経験知か形式知・言語知か」って議論の経験知側の動きだったと。となると神秘家たちも実は「形式知・言語知」側の人間だったと。劣化させないようにしている運動が実は劣化を促進させてたと。うん、神秘主義ってのはそういうところある。
ただのキチガイを教祖と崇め奉ること自体が、「経験知」を「形式知・言語知」で殺すことと通底している。
おーおもろ。
うんこもれそう。
腹いてえ。
経験知も形式知・言語知も絡みあってんだよ。同じ知の二つの側面を述べてるだけだ。勝手に二つに分類しているだけだ。「知」がどういうものか知るために。別にどっち陣営に入るかってために分けてるんじゃねえよ。
いやだからそういうところじゃないんだよ。
うんこしてきた。
シンクロニシティか。そうなん? それだけなん?
リンクした中坊さんブログでわたしが個人的におもしろいと思えるわたしのコメントがあったのでコピペしとく。
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>あのさぁ、僕が「ちょっとトイレ」って中座して、5分以上トイレ入ってたとするじゃん。「おしっこにしては時間長い」ことから「うんこだ」と判ってもさ、だからといって「あー、お前うんこしてやんのー」ってトイレのドアの前で叫ぶか?
これさあ、ちょっと違うよ。
トイレのドアの前で、
「ねえねえ、うんこ? うんこなの? うんこしてるの? どうなの?」
ってしつこく聞いてるようなもんだ。
でドア開けて君が「ああうんこだよ!」って言った、って状態。
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これもこういうことだよな。
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