人格者=ボーン・トゥ・ビ・ライアー
2010/04/21/Wed
なんかこの記事で投資の話になったのでついでに。
ボルカールールなあ。
金融規制は、必要なときもあればそうじゃない場合もある、ってのがわたしの立場。とっても卑怯な立場。
たとえば数年前の原油高騰なんか、実質価値を無視した投機ゲームになっていたのは明らかだ。
とはいえ、わたしは「実質価値」なんてのも存在しないと思っている。投機ゲームによって高騰した原油価格など、いわば幻想の産物なのだが、実質価格がすでに幻想なのだ、と。
そんなもの「実質」として存在しない。
結局は死の欲動と生の欲動のバランスゲームなんだよな。
投資市場ってのはそれが顕著な臨床素材だと思うんだが、分析家はあんま語らないよね。いや分析家視点で見てたら大損物故気そう、って気持ちはわかるんだが。わたしはだからそうしない(笑)。
要するに、市場を一個の臨床現場だと考えれば、「転移関係の構築」なんてしちめんどくさい手順なんか踏まずに、欲動が直接的に影響した症状が観察できる、という話だ。
とはいえ「転移関係の構築」がまったくないとは言えないけどね。市場だって。あれだ、「市場取引は、最終的には「データ」などではない、「信頼」という要素にいきつく」って奴だ。逆に言えば「転移関係の構築」を原理的な前提にしているから、わざわざ臨床家が構築しなくても済む、ってことだ。
ま、だからこそあくまでも「ゲーム」なんだけど。
んでー。
思ったんだけどさ。
確かに生の欲動による症状が過剰になれば、死の欲動がみょみょみょーんって蠢きだして、「抑圧」やら「デプレッション(この言葉便利よね、経済的でもあるし精神分析的でもある)」やらになるわけだが、つかわかりやすく言えば「幸福と不安は表裏一体」ってことなんだが、今回のボルカールールに限っては、生の欲動の過剰さは、わたしは見られないと思うんだな。
じゃあなんで? ってなると、やっぱ巷で言われているような、「貧民層に支持者が多いオバマ政権の人気取り」とかって話を採用したくなっちゃう。もちろんそれだけではないだろうけど、支持率最低なタイミングでのGS訴追なんかは、この要素が原因の一つとして影響していると考えざるをえない。
前回のリーマンショックによる不況は、各大手投資会社が各メガバンの傘下に入ることを促進した。メガ化の促進という結果を生んだ。
日本でもあったよな、東京三菱とUFJの合併とか。でもこれって一種政府の要請もあったことだ。
メガバンのメガ化助長は別に悪いことじゃないんだよ。国際競争力を持つには、そういう手もありだ。
で、これはなんていうか、死の欲動が過剰になったゆえの生の欲動方向の症状だ、と言えるんだな。各投資会社は生き残るためにそうした。
では今は生の欲動は過剰になっているのか?
わたしはそうは思えないんだな。アメリカの景気回復は着実なものとなりつつあるが、まだ市場には多くの不安がこびりついているだろう。好景気のときよりプレイヤーは警戒しているだろう。
ここで生の欲動を抑圧するボルカールールをひけらかすなんてえのは、精神分析的に、自然じゃないんだよな。症状として。
なんらかの作意があるとしか思えない。欲動という自然の理ではない、違った要件の関与を考えざるをえない。
いや、好景気になって、生の欲動が過剰になったとき、すみやかに実行できるようにするため、今議論しておくのだ、なんて論法ならいいんだ。余計な心配をする人がいなければ文明は発達しなかった。
だけど、そういう態度で、この話を取りあげているようには、わたしには見えない。
そーゆー話。
正直あたしオバマ嫌いなんだよな。ナチュラルな嘘つきって感じ。ボーン・トゥ・ビ・ライアー、みたいな。子ブッシュとか2ちゃんでネタにされるほどには本音を言っちゃう人なんだろう。本音が態度に出ちゃう人。
まあ政治家としてはボーン・トゥ・ビ・ライアーの方が有能となるんだがな。だから、もしわたしがアメリカ国民だったら、「人間としては嫌いだけど政治的に支持する」ってことにはなってたかもしれない。嫌いだから不支持とかって単純な話じゃないよー、ってこと。
人格者=ボーン・トゥ・ビ・ライアー、って話さ。
あ、いや売りポジ増やせって話じゃないぜ? 意外と市場この件についてヌルーしてるし。
つかもっとトヨタ叩きがんばれよプリオン人どもよ。
構造主義の言う「構造」は、歴史という幻想からも浮かびあがるものだ。よく言うじゃないか、「歴史から学ぶ」などと。これは、歴史からある再現性のありそうなパターンを読み取り、現代ひいては未来に活用しよう、という意味だ。この「パターン」が構造主義の言う「構造」である。広義の。
この「パターン」は、歴史の最中に生きている人間たちにしてみれば、意識できないものだ。いわば無意識なのである。
こういった通時視点から「構造」を見いだす研究は、それ以前から広く長く行われ続けてきた。
レヴィが画期的だったのは、共時視点からも、「構造」を見いだせる、としたところである。
構造主義ははじめ未開文明の婚姻体系から読み取られたのだが、レヴィはその手法を神話にも適用した。その適用の仕方は、構造主義をちらっとでも齧った人なら知っていると思うが、通時視点、つまり「時代の前後」などを考慮しないやり方だった。もちろんその弟子などがそれに通時視点から注釈を入れることはあるが。弟子とは言えないが中沢新一が提唱する「環太平洋神話体系」のような論も、そういったものだと言える。彼のこの仮説においては「時代の前後」が考慮されている。
しかし、ちょっと考えてみよう。レヴィの「共時視点で「構造」を見いだす」研究手法を、素で行っていたのは精神分析である。精神分析は当初のヒステリー研究の時代から、「無意識のパターン」を見いだすことに注力していた。
レヴィのやり方だと、それこそ中沢のように、「構造」についてどうしても通時視点を介入させたくなる。何せ神話そのものが歴史を背負っているのだから。
こういった介入は、精神分析においては、希薄だ。
ま、そういうことじゃねえの?
別に通時視点が介入してても説明できりゃいいんだし。
うんこ。
ボルカールールなあ。
金融規制は、必要なときもあればそうじゃない場合もある、ってのがわたしの立場。とっても卑怯な立場。
たとえば数年前の原油高騰なんか、実質価値を無視した投機ゲームになっていたのは明らかだ。
とはいえ、わたしは「実質価値」なんてのも存在しないと思っている。投機ゲームによって高騰した原油価格など、いわば幻想の産物なのだが、実質価格がすでに幻想なのだ、と。
そんなもの「実質」として存在しない。
結局は死の欲動と生の欲動のバランスゲームなんだよな。
投資市場ってのはそれが顕著な臨床素材だと思うんだが、分析家はあんま語らないよね。いや分析家視点で見てたら大損物故気そう、って気持ちはわかるんだが。わたしはだからそうしない(笑)。
要するに、市場を一個の臨床現場だと考えれば、「転移関係の構築」なんてしちめんどくさい手順なんか踏まずに、欲動が直接的に影響した症状が観察できる、という話だ。
とはいえ「転移関係の構築」がまったくないとは言えないけどね。市場だって。あれだ、「市場取引は、最終的には「データ」などではない、「信頼」という要素にいきつく」って奴だ。逆に言えば「転移関係の構築」を原理的な前提にしているから、わざわざ臨床家が構築しなくても済む、ってことだ。
ま、だからこそあくまでも「ゲーム」なんだけど。
んでー。
思ったんだけどさ。
確かに生の欲動による症状が過剰になれば、死の欲動がみょみょみょーんって蠢きだして、「抑圧」やら「デプレッション(この言葉便利よね、経済的でもあるし精神分析的でもある)」やらになるわけだが、つかわかりやすく言えば「幸福と不安は表裏一体」ってことなんだが、今回のボルカールールに限っては、生の欲動の過剰さは、わたしは見られないと思うんだな。
じゃあなんで? ってなると、やっぱ巷で言われているような、「貧民層に支持者が多いオバマ政権の人気取り」とかって話を採用したくなっちゃう。もちろんそれだけではないだろうけど、支持率最低なタイミングでのGS訴追なんかは、この要素が原因の一つとして影響していると考えざるをえない。
前回のリーマンショックによる不況は、各大手投資会社が各メガバンの傘下に入ることを促進した。メガ化の促進という結果を生んだ。
日本でもあったよな、東京三菱とUFJの合併とか。でもこれって一種政府の要請もあったことだ。
メガバンのメガ化助長は別に悪いことじゃないんだよ。国際競争力を持つには、そういう手もありだ。
で、これはなんていうか、死の欲動が過剰になったゆえの生の欲動方向の症状だ、と言えるんだな。各投資会社は生き残るためにそうした。
では今は生の欲動は過剰になっているのか?
わたしはそうは思えないんだな。アメリカの景気回復は着実なものとなりつつあるが、まだ市場には多くの不安がこびりついているだろう。好景気のときよりプレイヤーは警戒しているだろう。
ここで生の欲動を抑圧するボルカールールをひけらかすなんてえのは、精神分析的に、自然じゃないんだよな。症状として。
なんらかの作意があるとしか思えない。欲動という自然の理ではない、違った要件の関与を考えざるをえない。
いや、好景気になって、生の欲動が過剰になったとき、すみやかに実行できるようにするため、今議論しておくのだ、なんて論法ならいいんだ。余計な心配をする人がいなければ文明は発達しなかった。
だけど、そういう態度で、この話を取りあげているようには、わたしには見えない。
そーゆー話。
正直あたしオバマ嫌いなんだよな。ナチュラルな嘘つきって感じ。ボーン・トゥ・ビ・ライアー、みたいな。子ブッシュとか2ちゃんでネタにされるほどには本音を言っちゃう人なんだろう。本音が態度に出ちゃう人。
まあ政治家としてはボーン・トゥ・ビ・ライアーの方が有能となるんだがな。だから、もしわたしがアメリカ国民だったら、「人間としては嫌いだけど政治的に支持する」ってことにはなってたかもしれない。嫌いだから不支持とかって単純な話じゃないよー、ってこと。
人格者=ボーン・トゥ・ビ・ライアー、って話さ。
あ、いや売りポジ増やせって話じゃないぜ? 意外と市場この件についてヌルーしてるし。
つかもっとトヨタ叩きがんばれよプリオン人どもよ。
構造主義の言う「構造」は、歴史という幻想からも浮かびあがるものだ。よく言うじゃないか、「歴史から学ぶ」などと。これは、歴史からある再現性のありそうなパターンを読み取り、現代ひいては未来に活用しよう、という意味だ。この「パターン」が構造主義の言う「構造」である。広義の。
この「パターン」は、歴史の最中に生きている人間たちにしてみれば、意識できないものだ。いわば無意識なのである。
こういった通時視点から「構造」を見いだす研究は、それ以前から広く長く行われ続けてきた。
レヴィが画期的だったのは、共時視点からも、「構造」を見いだせる、としたところである。
構造主義ははじめ未開文明の婚姻体系から読み取られたのだが、レヴィはその手法を神話にも適用した。その適用の仕方は、構造主義をちらっとでも齧った人なら知っていると思うが、通時視点、つまり「時代の前後」などを考慮しないやり方だった。もちろんその弟子などがそれに通時視点から注釈を入れることはあるが。弟子とは言えないが中沢新一が提唱する「環太平洋神話体系」のような論も、そういったものだと言える。彼のこの仮説においては「時代の前後」が考慮されている。
しかし、ちょっと考えてみよう。レヴィの「共時視点で「構造」を見いだす」研究手法を、素で行っていたのは精神分析である。精神分析は当初のヒステリー研究の時代から、「無意識のパターン」を見いだすことに注力していた。
レヴィのやり方だと、それこそ中沢のように、「構造」についてどうしても通時視点を介入させたくなる。何せ神話そのものが歴史を背負っているのだから。
こういった介入は、精神分析においては、希薄だ。
ま、そういうことじゃねえの?
別に通時視点が介入してても説明できりゃいいんだし。
うんこ。
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