ピキーンとくる論を思いついたのだが文字にする気力がない。
でもさっきうんこしたからちょっとだけ書いてみようという気になった。排便こそがわたしの活力。でもあれだな、下痢と便秘ばっかでまともな排便生活してない気がする。まいったな。
この記事や
この記事で、また
ママさんところでもやってるんだが、最近のわたしは脳科学づいている。意識しているわけじゃないんだけどね。
この記事とかで自閉症を論じるとき、脳科学的アプローチは説明しやすいな、と思っただけで。
だけど脳科学で「正常であることとはどういうことか」がいまだ解明されていないのにも関わらず、「脳科学的な正常さ」を棚上げにして、精神疾患者の脳科学的異常ばかり論じられているのがよくわからない。個体数としては「精神医学的な正常人」の方が圧倒的に多数なはずだ。ではまずそちらを厳密に解明すべきだろう、と。
精神医学における精神疾患とは、正常な人間を基準にして判断される。精神的に正常であることからはずれているから、精神疾患なのだ、と。
脳科学を精神医学に接続するには、まずこの精神医学における文脈を理解してから、行わなければならない。まさに「物質としての「正常さ/異常さ」と、精神医学的な「正常な人/異常な人」は別物」なのだ。その「正常/異常」という言語的な定義は、それぞれ引きずっている文脈が違うのだ。
なんつーか、めんどくせえなあ。どっから説明していいのかがわからない。
んー。
脳機能局在論については、わたしは実はあまり信用していない。というのは、「ある特定の機能を持つ部位が損傷を受けたとしても、違う部位がその役割を担うことがある」からだ。ママさん記事のコメント欄から。
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先天的な脳障害者は、後天的に脳に障害が生じた人より、長い期間、障害のある脳を機能させていることになる。とすれば、後天的脳障害ですら、「他の部位が損傷した部位の機能を補う」という補完機能が確認されているのだから、この補完機能による影響は、後天的脳障害者より先天的脳障害者の方が、大きいと考えられる。理屈的に。
つまり、先天的脳障害者の脳は、一般的な(正常な)「脳地図」からは、多かれ少なかれ逸脱したものになっていると考えられる。
実際「脳地図」も、違う種であれば、物質的に相当するとされる脳の部位であっても、それが担う機能が同じとは限らない、ということがわかっている。たとえば、人と猿の脳の、物質的に同じ部位と言える脳部位が、別々の機能を担っている、なんて場合もあるだろう(ほんとかどうかはしらん。あくまでも「たとえば」だ)。
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種が違えばその局部における機能は変わる。脳機能局在論は、あくまで「脳地図」であり、普遍的真理のごときものではない。地図だって時代が変われば変わる。江戸時代と現代の地図は違っている。「脳地図」とはあくまで「ベンチマーク」(すまん製造業畑なもんでこんな語彙しか浮かばない)のようなものと考えるべきだ、と。
であれば、違うスケールの地図を用いたって構わない。「脳地図」ではなく「神経系」という「ベンチマーク」で、脳全体のシステムを見渡してもよい。
つまり、それらはそれぞれ一つの「物の見方」にすぎない、というわけだ。
精神分析は人間の心を科学する学問である。科学とは研究対象を物質として扱う学問である。科学である医学は人体を物質として研究する学問だ。しかし人は物質として扱われるのをいやがる。そういったことが医学全般の問題としてあると思う。
この記事のコメント欄から。
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余談だけど、医学なんてのは、「人体という自然物」を研究対象にしている。だからといって自然科学的な態度だと「人」に怒られる、っていうのの最前線にある学問だと思う。クローン研究の倫理問題とかそういうことだろ、って思うわ。クローン研究が「人」に関係しなかったならば、倫理問題にはならないわけだろ? 生命を操作するのが問題だなんて言うけれど、人間ってのは現代学問が成立する以前から、犬とか交配して品種改良してきたわけじゃん。
結局さ、「人」ってのの自意識過剰さからくる問題なんだと思うよ。これら。
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精神分析も同じだ。人間の心を物質として取り扱う。「人は物質として扱われるのをいやがる」のは心のせいなわけだから、この問題のもっともクリティカルなところと対峙する破目になる。
それはともかく、心を物として取り扱っているのだから、「物の見方」としての一つの「ベンチマーク」として利用できるはずだ。
要するに、何を長々としゃべっているのかと言うと、脳科学用語と精神分析用語を混淆させて今から述べようと思っているわけだが、その言い訳としての前フリである。
この記事などで「ラカン論の「想像界/象徴界」とはニセ科学で言うところの「右脳/左脳」のようなものである」とわたしは述べている。しかしこれは脳機能局在論アプローチでの語用であり、それより神経系アプローチの方が、ラカン論に接続するには正確だろう、と言っているのが
この記事である。要約すると、一つの無条件反射系と二つの条件反射系という三つの高次神経系があり、二つの条件反射系とは「感覚信号系」と「言語信号系」になるが、「感覚信号系」が「想像界」に、「言語信号系」が「象徴界」に相当する、ということである。
とはいえ、精神分析論も神経学も、はたまた脳機能局在論もただの「物の見方」でしかないため、脳機能局在論でも表現は可能なはずである。「右脳/左脳」などという大雑把なニセ科学じゃない表現で。
そんなことをいろいろ考えながらママさんとこにコメントしたんだよな。
で、最新の脳科学研究による
「脳の言語地図」なんかを参考にし、脳内妄想をおっぴろげてたんだ。したらピキーンときちゃったんだよ。でも脳科学なんて基本あたし疎いし、口では精神分析村への義理立てで逆言ってるけど「どうせ精神分析なんて科学じゃねえだろ」と思ってるし(
根が物理系だからな、どうしてもそう思っちゃう)、なんか自分の立場を固定して述べられないから、めんどくさいなあ、と思ってたんだ。つか大体の思考がこうなんだよね。精神分析の中でだけなら「自分の立場を固定しないで述べる」のは楽なんだけどな。今回はそうじゃない。
ま、だらだらと述べてみるか。もしかしたら統辞的にまとめられないままうpしないかもしんない。
先にリンクした記事内にも貼ってるけどもう一度貼っとくな。
ここ。このテクストがわたしの妄想を増長させた。責任取れよ川村光毅(誰だか知らんが)。
「感覚信号系」つまり「想像界」は、その「中枢はひろく大脳皮質に形成され」ているらしい。つまり大脳皮質全体が「想像界」だ、とも言えよう。
では「言語信号系」は。「脳の言語地図」でわかるように、それは、細かい機能別に分散はしているが、局在化している。脳の左側に集中している。
この「言語信号系」とは人間という動物に特徴的なものだ。他の多くの動物は、三つではなく二つの高次神経系により脳処理している。つまり「無条件反射信号系」と「感覚信号系」で。ラカン論で換言するなら「現実界」と「想像界」で。
ちなみに「無条件反射信号系」すなわち「現実界」は「中枢は大脳皮質下から脊髄にあ」るらしい。確かに大脳皮質の機能以外を考えるならば、それはもう脳に特徴的な機能とは言えず、「脊髄の延長としての脳」という発想になるのもうなずける。
2ちゃんねるでよく「脊髄反射」という煽り文句を見かけるが、そう言われる対象は大体「ヒステリー的主体」である。「ヒステリーの語らい」とは/Sを能動者としている。/Sとは「棄却された現実界」である(斜線のなくなったSが「現実界」である)。ラカン論における傍系の理屈ともそれは合致する。
元々神経学者であったフロイトは、自分が臨床から築きあげた理論を、詩人や作家たちがいともあっさり見抜いていることに驚きを隠していないが、2ちゃんねらは現代の詩人なのかもしれない(新宮一成の「漫画家は現代の詩人なのかもしれない」の口調で。つまり揶揄)。
進化論的な考え方では、「中枢はひろく大脳皮質に形成され」ている「感覚信号系」の一部が発達して「言語信号系」になったと推測できる。
新宮は言う(『ラカンの精神分析』P137)。
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創造論と進化論を対比させるなら、ラカンはきっぱりした創造論者である。フロイトはダーウィンの発見を自分の精神分析に引きつけて考えていたが、ラカンには全くそのようなところはない。動物における言語と人間における言語は、進化の連続線上にはない。
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フロイトが元々神経学者であったことを考えると、このラカンとの態度の違いはおもしろい。
ともかく、霊長類あたりだと微妙だが、少なくとも鳥類などといった動物の神経系とは、人間の高次神経系はまったく異なるのである。それが「言語信号系」の存在である、ということだ。
動物にはなく、人間にはある。何か禅問答を思い出す。
「仏性は獣にもあるかないか」
「ある」
「では人間と獣の違いは」
「獣は自らの仏性に気づくことができないが、人間は気づくことができる」
おそらく、二つの高次神経系しかないとされる動物にも、「発達すれば言語信号系となりうる一部神経系」があるのだろう。たとえば鳥類レベルでも。しかし人間はそれが発達している。このことをこの禅問答は言っているのではないだろうか。
ともかく、精神医学と神経学を接続するにはまず、それがどういったものか解明しなければならないだろう。精神医学は精神病研究をルーツにしている(フロイトなどが携わった神経症研究はあとである)。精神医学における精神疾患の元々の診断基準は、「精神的な人間らしさの欠如」である。
動物にはなく人間にはあるそれが、人間を人間として特徴づけているのならば、それを解明すべきである。つまり「言語信号系」を。
フロイトは神経学と医学を基礎に精神分析学を創始した。
ラカンは言語学という人文科学を流用し、フロイトを読み直した。
神経学や医学と、精神医学を接続させる役割を、精神分析は運命づけられている……、なんてことまで言ってしまいそうだ。ごめん元舞台役者だから言い方が大仰になる。揶揄風味で言ってるんだけどね。平たく言えば、神経学、脳科学、解剖学的医学と、精神医学とのあいだを取り扱う隙間商法、ニッチ学問が、精神分析だ、ってことにすぎない。
……ふー、疲れた。休憩でうんこしてきた。ごめん、まだ前フリ。ピキーンときたところにはまだ鼻毛の先ほども触れていない。つかどうでもよくなってきた。ってどんなピキーンだっけか。あ、思い出した。
えー、さて。
このブログはおそらく他人から「ラカン理論で自閉症を臨床しているメンヘラのブログ」みたいに思われているだろう。とはいえ本人はラカニアンじゃなくてクリステヴァ派だと思っているし、
自閉症を臨床しているのではなく「去勢とは」を研究しているんだと思っているが、まあいい。
というわけで、わたしのフィールドに話を移す。もいっかい
ママさんとこのコメント欄読んどいてね。
自閉症は想像的なコミュニケーションの障害だ。それは、想像力が欠如しているから障害となるのではなく、人間の心の同調(共感)を主体にした想像の仕方をしないから、コミュニケーション障害が生じるのである。想像力のフレームがないがために、コミュニケーション障害になる、と。正常人にはある想像力のフレームがないために、つまり想像力が正常人より自由であるがゆえに、想像力の障害だとされているのである。
ではそのフレームとはなんなのか。これはわたしは
ロボット工学における「フレーム問題」の文脈でそう言っている。自閉症療育研究家のそらパパくんなども
同じ文脈でこの言葉を使っている。コンピューターにはなく、人間にはあるフレームとは、どのようなものになるのだろう。
ラカン派の自閉症解釈は、「鏡像関係の組み込みの失敗例」である(『精神分析事典』より)。鏡像関係とは想像的なものである。これが自我となる。したがって「自我とは想像的なものである」となる。
鏡像段階を図式化したのがあの有名な
シェーマLである。
ラカン理論に則るならば、コンピューターには、自閉症者にはなく、正常人にはあるフレームとは、鏡像関係だ、となる。つまり生後六ヶ月から十八ヶ月で、正常人がなべて経過する鏡像段階に、不具合があるのが自閉症だ、となるわけだ。
人間が会話するとき、いくら「言語を使って会話をしている」と言えど、そこには非言語的な、想像的なコミュニケーションが成り立っている。人間は、相手が述べる文章について、どういう表情をして述べているのか、を想像しながら解釈している。傾向的に女性の多くはそういった想像を優先させたコミュニケーションをしている。これはパロールに限らずエクリチュールも同様である。喜怒哀楽などといった表情に基づいた、「定型的な感情」を読み取りながら会話している。小説やブログ日記などといったテクストは、「表情の想像」を優先させる「女性的コミュニケーション」であると言える。顔文字などはその端的な症状だと言えるだろう。
いや、これを排除しようとする会話もある。「学問のディスクール」である。学問とは感情論であってはならない。学問は古代ギリシャの時代からパトスを排除してきた。
しかしだ。コミュニケーションのルールとして、パトスを排除したとしても、実際はどうだろう? 論文を書く学者の内面において、パトスはまったく存在しないと言えるだろうか?
否、である。
そもそもパトスがまったくなければ論文を書こうともしないだろう。精神医学において、情動が著しく減退した症状とは鬱状態である。
では、「学問のディスクール」とは、表面的にパトスを排除しているだけのコミュニケーションである、と考えなければならない。少なくともそれは「鬱病者のディスクール」ではない。症状として。要するに、パトスを排除しているのではなく、パトスを抑圧しているだけなのだ。
つまり、人間のコミュニケーションを、言語的コミュニケーションと、非言語的・想像的コミュニケーションに二分するのならば、「学問のディスクール」は非言語的・想像的コミュニケーションを抑圧した表面上だけの言語的コミュニケーションだ、となる。
ここで自閉症を考える。それは想像的なコミュニケーション障害である。
彼らは鬱病者ではない(二次障害で抑鬱状態になることはよくある)。パトスがまったくないというわけではない。積極奇異などになるとイメージとしてはむしろ躁状態に近い。
問題は、喜怒哀楽などといった表情に基づいた「定型的な感情」における定型、すなわちフレームのあるなしなのである。
つまり、パトス、感情、情動、想像性、それらがどういった物を指しているか、物性として定型化されているか否か、という話である。わたしは
「分裂症化とは情性をフーリエ展開することである」などという記事を書いたことがあるが、そういった話である。この論を使うなら、自閉症者のパトスは、正常人のそれのように定型化されておらず、あたかもパトスという波動をフーリエ展開した各項のようなものとして存在する、という表現になるだろう。
ここまで考えると、コンピューターや自閉症者にはなく、正常人にはあるフレームとは、脳科学、神経学的にどういったものか、が見えてくる。
脳科学的な視点に戻ろう。まず先ほどの
「脳の言語地図」を覚えておいてもらいたい。物足りない人は
こことか参照しとけ。
非常に粗雑な論法になる、と最初に断っておく。
人がパロールから感情を読み取るとき、言語の何が重要となるだろう。文法か、文章理解か、単語か、アクセントか。
おそらくアクセントである。アクセントによって人はその言葉から情動を読み取る。顔を見なくても、声だけ録音した会話を聞かせるだけで、人は話者の感情を読み取れる。
となると、脳地図的には、左側頭葉に、フレームがあるのではないか、となる。
もちろんこれは暴論である。トンデモ論である。研究が進み、まったく違う箇所に自閉症の脳器質の異常が見つかるかもしれない。
神経系で考えよう。「言語信号系」の、情動を読み取る部分がフレームだ、となる。
とりあえずここは仮にそうだとして論を進める。
ここで、自閉症者の知的障害がない場合、つまりアスペルガー症候群者を考えよう。
杉山登志郎の言「非言語性学習障害はなべてPDDである」を思い出そう。彼らに言語性学習障害の症状は見られない。言語的知能に障害は見られない。むしろそういった知能に限って、一般より秀でている場合もある。事実、わたしの知人のアスペルガー症候群者は、自分でコンピューターゲームをプログラミングしているし、高機能自閉症の中学生は自分でホームページを作っていた。
ここのコメント欄に登場しているドードーとら氏もアスペルガー症候群当事者なのだが、彼は(
一般の精神科医ですら「ラカンはわからん」とダジャレを言う)ラカン論をある程度理解できていた。
これは「脳の言語地図」における、文法、文章理解の部分に関しては、異常がない、ということであろう。
「言語信号系」の文法、文章理解の部分について、彼らに異常は見られない、と、部位としては左前頭葉に異常はない、となる。
この、アスペルガー症候群者において、異常があると思われる「左側頭葉」「アクセントについての神経系」を、Bとし、異常がないと思われる「左前頭葉」「文法、文章理解についての神経系」をCとしよう。
ここでいわゆる「本能」と呼ばれる物についても考慮しておこう。
ラカンにおける「現実界」、つまり「大脳皮質下から脊髄」部分、つまり「無条件反射信号系」をAと考える。
「学問のディスクール」とは、パトスを排除しているのではなく抑圧しているディスクールである。パトスははじめからある。これはつまり
A→B→C
と表現される。
(定型的な)感情優先の「女性的ディスクール」は
A→B(→C)
などと表現できるだろう。
ここでたとえば「学問のディスクール」を「男性的ディスクール」と換言すれば、その違いは「→C」の影響が強いか弱いかの違いでしかない、と言えるだろう。
では「アスペルガー症候群者のディスクール」はどうか。
彼らはBの機能において障害がある。しかしCの機能に異常は見られない。
ではこう書けるだろう。
A(→B)→C
しかしCが機能するために必ずBが必要というわけではない。先に書いた通り、人間の脳には、完全に補えるわけではないが、「他の部位が損傷した部位の機能を補う」性質がある。また、脳の神経回路は一方通行ではない。いわば蜘蛛の巣のようにつながっている。であるならば、先の定式は、
A→C
と簡素化して考えることができよう。
A→B→C
と
A→C
を組みあわせた図を考えると、それは三角形になる。Aを始点とし、Bを迂回してCを目指すか、直接Cに向かうか、というモデル化された地図となる。ここでCが最終地点となっているが、人間の前頭葉は系統発生的に最も発達した脳部位だとも言われている。
この三角形ABCを記憶しておいてもらったまま、ラカン論に戻ろう。
ラカンのシェーマLとは鏡像段階を示した図である。それは、Sなる主体が、鏡像他者であるa'を発見し、そこから自我たるaを想像する。これによりAという大文字の他者(他人が述べる自分の評判みたいなものと考えとけ)からの作用は、「鏡に映った自分」である自我aが受けることとなる。a'→aという矢印が、Sにとっての防護柵となって、Aの作用はSに直接届かない。無意識的にしか。
ところでこの図は単純化することができる。
a'とaは鏡像関係にある。つまり同一化している。であるならばこれを一つにまとめることができる。
こうやって、三角形SaAができあがる。それぞれの頂点を、主体、小文字の他者、大文字の他者とした三角形である。
ここでラカン派の自閉症解釈を思い出そう。「鏡像関係の組み入れの失敗例」である。自閉症者は鏡像関係、つまりa'→aの組み入れに失敗している。
こう考えると、先の三角形ABCと相似することに気がつく。
正常人における「言語信号系」の処理は、S→a→Aである。彼らは言語をそのようにして学ぶ。
一方アスペルガー症候群者のそれは、S→Aである。
彼らは、言語の学び方が、言語の獲得の仕方が、正常人と異なっているのだ。
三角形ABCに戻ろう。アスペルガー症候群者の「言語信号系」は、A→B→Cたる正常人と異なり、A→Cである。脳部位として考えるならば、前頭葉の信号と皮質下の脳幹あるいは辺縁系の信号が直接的につながっている、ということになる。
Bとは「左側頭葉」「アクセントについての神経系」である。つまり「定形化された情動」と言語を接続する役割をしている。
アスペルガー症候群者は、相手が怒っているか笑っているかは認識できる。
であるならば、彼らはA→B→CとA→Cの二種類のルートを選ぶことができる、となる。
ではむしろなぜ正常人と差異が生じるのか、という疑問になる。彼らはなぜ精神障害とされているのか。
ここで逆転の発想が必要となる。いやそんなに難しいことじゃない。先に書いた「(自閉症とは)正常人にはある想像力のフレームがないために、つまり想像力が自由であるがゆえに、想像力の障害だとされているのである。」とすることと同じようなことだ。
「正常という精神疾患」という考え方。要するに、正常人が、A→Cというルートを取れない精神障害者なのだ、と考えるべきである、ということだ。
なぜ取れないのか。
三角形ABCを逆にシェーマLに展開してみよう。
Bとは「定形化された情動」の認識である。それは大雑把に言えば「情動の、ラベリングという意味での言語化」である。
これを学習するのが、
この記事で述べている「人間ごっこ」たる「情動の模倣」である。
いわば「定形化された情動」のごっこ遊び。笑うごっこ遊び、怒るごっこ遊び……。
これが鏡像段階の正体なのではないだろうか。
このごっこ遊びにより「定形化された情動」を学んだ乳児は、それが自分自身だと思い込む。それが自我となる。
Bを模倣し、ごっこ遊びすることで、B'が生じる。
しかしそれらは現実的に同一ではない。模倣する情動はおそらく養育者のそれの場合であることが多いだろう。
ここで気をつけてもらいたいのが、養育者の情動が乏しいから自閉症となる、などと言っているのではない。自閉症は「情動のラベリング」機能という、先天的な脳機能に不具合があるのだ。だからいくら自閉症の乳児に向かって情動豊かな顔を作っても無意味であろう。
そうではなく、わたしは「正常という精神疾患」を解明しようとしているのだ。
話を戻す。
Bとけして同一にならないB'が生じる。このあいだには強いリビドーの備給がある。乳児は母と同一化している。
このB'という自分は、「自分の表面」である。表面だけ子は母と同一化している。精神分析において自我とは「鏡に映った自分」すなわち「自分の表面」なのである。
このBとB'が、シェーマLのa'とa('の位置が逆なのはご愛嬌)に相当するのは、もうおわかりだろう。
シェーマLにおいて、a'→aの矢印が、A→Sの矢印を遮断している。ということは、このBとB'の同一化的なつながりが、A→Cというルートを取れなくしている、となる。
ここにおける正常人とは「鏡像関係の組み入れの成功例」である。
鏡像関係の組み入れが成功しているがゆえに、「正常という精神疾患」者は、A→Cというルートを取れないのである。
そのルートとは、いわゆる本能のごとき「無条件反射信号系」すなわち「大脳皮質下から脊髄」と、前頭葉が直結するルートである。
とはいえ、A→Cというルートが取れるということは、主体Sにとってけして望ましいことではない。それは、大文字の他者Aが、「鏡に映った自分」「自分の表面」という防護柵なしに、Sに作用してくることでもある。
この状態を具体的に述べるなら、まさに
この記事で述べている分裂病者たちの被害妄想的苦痛がそうである。典型的な例が「集団ストーキングされているという被害妄想」である。あるいは、
この記事で述べている「言語の物質化」でもある。これらは分裂病者の症状であるが、彼らも自閉症者と等しくa'→aという防護柵がほころんでいる。Sに直接的に大文字の他者Aや、大文字の物あるいは「原初的な大文字の他者の代わりをする」/Aが作用する。
とはいえ分裂病者は、そういった状態になる直前までは、防護柵は(正常人と同じようにという意味で)正常に機能していただろう。突然それが決壊するから、このような明確な症状として表れるのである。いわゆる陽性症状である。
一方自閉症者はどうだろう。彼らは幼児期から防護柵が不安定な状態を生き続けてきた。彼らの症状は分裂病のそれより地味であろう。陰性症状の方に共通の症状が多いであろう。具体的には、
この記事で述べている「テレビをつけっぱなしにして寝る」ことなどが、症状として相当するだろう。
現状、自閉症の症状として被害妄想はあまり語られていない。確かに妄想とは言えないが、妄想になっていないだけで、分裂病者も感じている、彼らの被害妄想の原因たる「精神病的不安」を、自閉症も感じているのではないか、とわたしは考える。実際わたしの臨床でも、被害妄想と同じ心理だと思えるアスペルガー症候群者の症状が、いくつかあった。中には「被害妄想だから」と自分で言う当事者もいる。もちろん冗談めかした表現ではあるが、ここが分裂病との大きな違いとなろう。「自分で妄想と言っているなら妄想とは言えない」ということだ。
ともかく、表に出てくる症状こそ違えど、原因にある「精神病的不安」とは、Sに直接的にAや/Aや大文字の物が作用してくることであり、それは分裂病と自閉症で共通しているのではないか、というのがわたしの主張である。
以上の具体例は、A→Cというより、A←Cの症状である。合理的思考からの本能的な脳機能への信号作用である。矢印で書いているが、これらは神経信号系であるため、相互作用になっている、と考えなければならない。つまり正しくは
A←→C
である、と。
これはA→B→Cにもあてはまる。ただ、Bが防護柵になっていることを考慮すれば、
A→B←→C
と書かねばならないだろう。
実際、脳幹部の神経伝達と、大脳皮質の神経伝達の、物質的機制は異なることがわかっている。たとえば
ここなど参照できるだろう。AとB、Cでは、情報処理のハード機器が別物なのである。とはいえ、それらは断絶しているわけではない。AとB、Cはスタンドアローンであるわけではない。信号系として連結している。こういった物質的な問題も、Aからの矢印の向きと関わっているのではないだろうか。
それはともかく、ではA→Cの具体例はどういった症状か、を述べておく。
犯罪心理学では、スキゾイド系の犯罪傾向のある人格が論じられることが多い。映画などでも、犯罪心理分析官などのような主人公であると、その敵役として登場する犯罪者は、ほぼ必ずと言っていいほどスキゾイド系人格である(『羊たちの沈黙』、『ボーン・コレクター』など)。
こういった犯罪者の特徴は、非常に合理的な思考をし、沈着冷静に犯罪を行うところである。
前頭葉で行われているとされる合理的思考。それは正常な人間においては、欲望を抑圧する役割を担う。ところが、こういった人格類型においては、合理的思考が快楽殺人などといった犯罪に利用されている。
悪趣味だと自覚しているが、これがA→Cの具体例だ、としておこう。
悪趣味でない具体例を挙げるとなると、それはぱっと見正常人と見分けがつかなくなるため、説明がややこしくなる。それでもあえて述べるなら、地位や名誉やお金などにはほとんど無頓着で、ただ知的好奇心にしたがって研究を行う学者なども、A→Cだと言えるだろう。地位や名誉に無頓着だから、世間の評判など気にしない。なので世間が眉をひそめるような研究をしている場合もあろう。先の例と比較すれば、ただ興味があるのが殺人などではないだけである。この学者は自らの知的好奇心のために合理的思考を利用している。
ちなみにわたしは
「学徒はマッドサイエンティストであるべきだ」などという極端な考え方をしているが、この「マッドサイエンティスト」とはこういった学者を指している。『スーパーマン』の敵役のような「世界を支配してやる」などというマッドサイエンティストは、これに含まれない。この場合、本能的な精神力動のために合理的思考を利用しているとは言えない。
AとCが直結していること。これが重要なのである。そしてそれは分裂病者やスキゾイド系犯罪傾向人格の症状と、精神における機制は同じなのである。
これが、抑圧などではなく本当にパトスを排除した、「学問のディスクール」なのである。
最後に、この「三角形とシェーマL」論を、脳科学的な視点に戻して組み立てた、わたしのトンデモ推論を書き棄てて終わることにしよう。
自閉症の脳科学的原因はミラーニューロンである、という最近はやりの学説をここで採用しておく。
ミラーニューロンとしての働きが可能なニューロンは、わたしは大脳皮質全体に偏在していると思う。偏在とは言わなくても、「感覚信号系」のごとく散在していると。
そして、三角形ABCにおけるBとは、つまりシェーマLにおけるa'→aとは、「左側頭葉」の「アクセントについての神経系」において、ミラーニューロンの働きが関与することだ、と考える。
アスペルガー症候群者は、「左側頭葉」の「アクセントについての神経系」自体が機能していない、というわけではないと思う。それが発達する幼児期のある段階において、その周辺にあるはずのミラーニューロンに不具合があったから、Bがa'→aとならず、つまり防護柵とならず、三角形ABCという二つのルートを取れる神経回路になったのではないか、と。
ま、ただのトンデモ推論だ。
あと、このa'→aという防護柵をぶっ壊すのが、つまりA→Cというルートを拓くのが、仏教の元々の目的だった、と思うんだよなあ。ラカンじゃなくて羅漢ってそういうものだったと思う。羅漢はキリスト教や顕教がそうだとする聖人などではなく、グノーシス的な聖人だったのではないか、と。だから、彼らは大乗仏教では仏とされていない、と。
あるアスペルガー症候群者がこんなことブログで書いたんだな。
「自閉症研究の書籍によると、自閉症は他人の気持ちがわからない障害らしい。自分も他人の気持ちがわからなくて生きづらい思いをした。二次障害もそういったことが原因で起きていると思われる。では今後無理に他人の気持ちを考えるのはやめにしよう」
もちろんどっと反論がきた。当事者からも。
よくあることだと思う。反論した人たちを責めるわけにはいかない。それが社会というものである。しかし、この当事者の話ではないが、こんなことが何度もあるからか、「共感」恐怖症みたいになっている当事者もいる。周囲の人間がそいつに「共感」してるからこそ「共感」の大事さをその当事者に訴える。その結果、そいつはより「共感」できなくなった、って感じの症状が、成人アスペルガー症候群者に見られたのも事実だ。
でもなー、これってちょっと言い方が悪かっただけで、A→B→Cじゃなくて、A→Cで人とつきあっていこう、って意味だと思うんだよな。
だけどそれでもやっぱり「他人の気持ちを考えない」生き方であるのは間違いない。語義通りに。
羅漢もそういった人たちだったと思うんだよな。小乗の悪い面の象徴みたいなもんでもあるし。禅では尊敬されてるみたいだけど。
グノーシスもそりゃーすたれるわ。他人のことなんて考えず、
「この現象する存在世界に対し、積極的な否定を声明」し、ひたすら自分の内界の旅をする人を聖人なんてしてたら、そりゃー正常人は怒るわな。「もっと私たちのことも考えてよ!」
「私たちがあなたを欲望しているんだからあなたも私を欲望しなさいよ!」みたいな。
以上。
あーつかれた。なんかピキーンときたことを書ききれてない気がするが、思い出したら補足するわ。
なんか今読み返すととっても普通なこと言ってて、ピキーンとか言っているわりに、他の記事と比べても自分でつまらない感じがする。
ま、この三角形とオイディプスを連関させたことを考えてたんだが、要するに三角形って簡素化しちゃうから、正常人はA→Cができると思い込んじゃってるんじゃないの? と思ったんだな。Cとは前頭葉機能である。つまり合理的な思考である。つまり、本当はパトスを抑圧しているだけなのに、排除できている、できるはずと信じ込んでされる「学問のディスクール」は、なんだやっぱりオイディプス、とは言わないまでも三角形だと思い込むことが原因なんじゃねえの? って思っただけ。なんかこの辺どうでもいいからどうでもいい。
つまんねーつまんねー。
ぶぎぉどゅくうをっぢむぃが。
余談。
放浪人さんのブログであたしいいこと言った。ほんと精神分析界隈の人はさ、「メタ」って言葉慎んだ方がいいと思うよ。こういう誤解がある。
精神分析が科学村にとって「メタ」でなければならないのはそう思うんだ。でも現代では「メタ」って言うと「キング」になっちゃう。「キング」になったら対象aじゃなくなるっしょ? 「聖人とは屑である」だ。「糞べらについた乾いた糞」は「キング」じゃないだろ。
「メタ視点」じゃなくて「村八分視点」だよ。ほんとに。
「キング」じゃなくてどちらかと言うと
「魔女」であるべきなんだよ、精神分析は。少なくともラカン派は。
新宮も言ってるやんけ。
=====
分析家は、さしあたって人類でなくチンパンジーでありうるほど人間から隔たっている
=====
「魔女」ってな西洋の定義じゃ、知識があり、獣を操る存在っしょ。自身も獣に変身する。
おわかりぃ?