水上雅敏へ質問 その2
2010/10/08/Fri
前記事から。
=====
「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え。
その1。
一種の「揶揄」「挑発」、わたしから言えば「じゃれあい」。
50%。
その2。
分析家同士は普通そうしているものだという素人の思い込み。
5%。
その3。
わたしが精神分析飽きてきたのでいいネタだから。
10%。
その4。
このブログで主張してきた理屈と合致するから。
35%。
=====
これまでのわたしの症状を見返して、この言い分を読むと、「すげー嘘くせー」と自分自身で思えた。
いやこれが「嘘」ってわけじゃなくて、なんか違うだろ、と。
と思ってあっさり気づいた。
そして悔しくなった。
わたしは本気で「話を巧みにそらされた」。いやわたし自身がそらしたがっていたのだろうが。
悔しい。泣きそうになった。
もういやだ、ほんとに死んでくれないかな、あのマン汁ババア。いやマン汁ババアに限らない。「もっと隠喩の多い作品を読みたい」なんて言う馬鹿文学少女どもは絶滅しろ。わたしが加藤智大ばりに虐殺しに行ってやってもいい。
隠喩を全否定しているわけじゃないぞ? 隠喩には隠喩の楽しみがある。わたしはそれは否定していない。しかし「隠喩を否定する原理」もある。ある人がいる。ババアのこの言い分は、彼女の無意識がこの原理を全否定していることを表している。彼女の無意識にこの原理は欠片も存在していない。
だから本気で死ねと思う。本気で殺意が湧く。
おい、ババア読んでるのか? つかきっちり読ませろよ、藤田門派の阿呆ども。あのババアの心をずたずたに切り裂いてやんないと気が済まない。
つかババア読んでるなら出てこいよ。
殺しあおうぜ。
要するに、先の「「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え。」は、この一点を隠蔽していた。藤田や中野や水上の誘導によって。わたしの症状によって。
その5。
ババアに対する妄想分裂態勢的なわたしの症状をごまかすため。隠蔽するため。
「トラウマの抑圧」的な機制。
(裏側において)100%。
ごめん水上さん、それ嘘だったわ。
死ね、死ね、死ね、死ね。
おいババア出てこいよ。言葉で殺してやっから。お前の「想像的なものでしかない自我」を。
死にたい。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
水上さんの誘導はうまかったな。あなた本職のカウンセラーか何か? いやわたしもそれから逃れたかったんだろうから文句を言うわけじゃないけど。まあ、わたしの逃れようとした態勢とあなたのいい感じな「話を巧みにそらす」やり方が、たまたま同調して、功を奏したのだろう。
いい仕事してますねー。
ごめん調べさせてもらった。ってぐぐっただけだけど。
=====
水上雅敏
1960年生
臨床心理士(日本臨床心理士資格認定協会認定第6734号)
芸術療法士(日本芸術療法学会認定第000131号)
=====
ああ、この人なかなかいい心理士だと思うよ。
心理士批判繰り返してきたあたしが言うんだから間違いない。
嫌味とかそんなんじゃなく本気で言っている。
ま、たまたま偶然だろうけどね。偶然だから「わたしにとっては」いい心理士だった。
ここで「ちっ、うまく行ってたのに」とか思わないんだろうな、天然っぽいもんな。天然であり偶然だからわたしは釣られてしまったのだろう。
いい仕事してるよ、ほんと。あんた。
天然で偶然だから、この記事で書いているような、
=====
大体そういう使い分けは演劇が役者論として心理学なんか問題にならないほど昔から探求し続けているわけで、そういうものを何故イヤな患者に会うと引きつった笑顔を見せるようなカウンセラーが諭せるのだろう
====
の「ひきつった感じ」がなかった。むしろ藤田の文章の方に顕著だな。この「ひきつった感じ」は。
いい仕事だった。評価してやる。メンヘラとして。
参りました。
いや、ほんとに。悔しいわ。いい意味で。あなたからすれば。
って芸術療法士か。芸術療法自体は批判的なんだけどな。実際に芸術やってきた人間として。
芸術は人間の精神を健全にする作用だけではなく、狂気に導く作用もある、って考えだから。
あなたとなら芸術療法についての議論もできそうだな。マン汁ババアを忘れれば。
あたしと語りたいならマン汁ババアを殺してからにしてくれ。
お前にもあのマン汁がこびりついていると思ってしまったから嫌悪感が湧いてきた。
ごめんなさい。
どうせこういう態度示したら「狂気に固執している」とか言われるんだろうけど、悔しいんだ。これを明らかにしない限り、それはただの隠蔽でしかない、根本解決にならない、と思うから。
つか巷の「ひきつった笑顔」しかできない心理士どもはこの天然オヤジを見習え。
あなたにしてみれば、わたしがしたその1から4の返答は、「よしよし」ってなもんだったろうね。嫌味じゃなくて。うん、「してやられた」って言っているんだよ。「敵ながらあっぱれ」的なね。
わたしだっていやなんだよ。こんな殺意。
あははのはー。
ぱらっぱっぱっぱぱぱっぱぱぱ。
くやちい。いい意味で。「わたし」としては。わたしとしては悪い意味で。
なんか、すごく、いい、臨床シーンじゃね? あれ、声が、遅れてくるよ。
=====
おだやかな時代 鳴かない獣が好まれる時代
=====
まあこの時期移行みゆき自身が「鳴かない獣を好む症状」の味方につくんだがね。
昔のどろどろぐちょぐちょした「鳴く獣としてのネクラ女」への惜別の歌だった。
ああいいね、この解釈。
今この歌ちょうどいいわ。
くやちい。
あたしってしょせんその程度。
そら藤田から「つまらない症状」と思われるわな。
まああたしからすれば「お前の方がわたしなんかよりよっぽどつまらないだろ」だけど。渡辺哲夫とやらはお前じゃない。お前の
=====
人間の根幹に関わる重要な症例が数多くありますので(たとえば渡辺哲夫先生の症例などはわたしも診させていただいたことのある大変貴重な症例です)
=====
というセリフはただの虎の威を借る狐だ。
外野で見てるだけの人間がえらそうな口聞くな。
あ、これもただの「挑発」なんで通用しなくていいですよ。わたしが勝手に言ってるだけですので。
そらそうよ、ただの一メンヘラなんだから。
正直、藤田には敵意がない。じゃれあい程度の「挑発」「揶揄」だ。エスカレートして敵意っぽくなる自分がいるときもあるが、長続きしない。
つまりわたしにとって藤田博史は、「藤田博史という症状」は、結構どうでもいい。どうでもよくないのは、これから逃れるための一時的なおもちゃとして、という点のみである。
わたし自身がいやな思いをしているそのババアへの殺意、「もっと隠喩が多い作品を読みたい」などとなんの考えもなしに言う文学少女たちへの敵意、それが問題だ。
なんかもう涙出てきたわ。
あはは。
フジタゼミに誘われたことについての、断る口実としてそのババアの一件を挙げているのか。
それはない。実際それ以前からわたしはババアに殺意を持っていた。この記事が証拠である。日付からそれは明らかである。
わたしにとってはまさに「もっと隠喩の豊かな作品を読みたい」というセリフ自体が、こういうことを言える無意識が、問題なのである。
しかし中野雅哉などはこの要件について一切無視している。彼がわたしの論の要約として提出したテクストには、この件に関することの欠片も記されていない。
確かに中野にとってはこんなこと「どうでもいいこと」なのだろう。しかしわたしにとっては「どうでもいいことじゃない」。この記事参照のこと。
そもそもわたしがそのババアについて最初に書いた記事がこれだ。わたしは最初からそれを最重要点として書いているのに、なぜこの点を削除した文章が要約となりうるのだろう?
わたしは隠喩を全否定するつもりはない。その利便性も認めているし、おもしろいと思うこともある。
しかしわたしにとって隠喩は暴力であるのも事実なのだ。
この事実を蔑ろにされることは、わたしの症状を明らかにするというこのブログの存在価値がなくなるということでもある。
だからわたしは必死なのだ。
この要件がないことにされないようにするために必死になっている。
正直「藤田博史という症状」などどうでもいい。わたし自身がいやなその要件から逃れるためのおもちゃでしかない。
わたしはなぜそのババアに対して殺意を持ってしまうのか。
なぜわたしにとって隠喩は暴力となるのか。
それが問題なのである。
わたしは、精神分析を学ぶ以前に精神疾患と診断されたわけだが、自分の症状を「物語恐怖症」と称していたことがある。
物語とはいわば隠喩の集大成である。これも一つのわたしが隠喩から暴力を受けていることの証拠である。
もしかして藤田一派はわたしの「物語恐怖症」を詐病などと思っているのだろうか。もしそうなら殺してやる。これは事実である。この事実をないことにされたらわたしは存在しない。
「わたし」はそれでいいんだろうな。わたし。
ああ、「藤田博史という症状」全体はどうでもいいんだが、そのうちの一点、どうでもよくないことがあったわ。
藤田は「わたしという症状」の解釈だかなんだかしらないが、それを公表すると明言した。
それ自体はいい、わたしの症状を明らかにするというこのブログの主旨にも合致する。
しかしその解釈はあくまでも「藤田博史という症状」によりアウトプットされたものである。藤田博史という解釈機械の固有のクセとして「藤田博史という症状」がある。
そのアウトプットにこの要件は含まれるのかどうか。
わたしはなぜそのババアに対して殺意を持ってしまうのか。
なぜわたしにとって隠喩は暴力となるのか。
藤田博史という思考機械はこの要件について思考するのかどうか。
それには「藤田博史という症状」という要件が必然的に絡んでくる。
この一つの関わりにおいて、「藤田博史という症状」はわたしにとってどうでもよくない。
ああ、水上さんや、「「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え」の厳密バージョンだと思ってくれ。裏の答えがわかったから厳密化できた。
わたしは「物語恐怖症」だった。そのため、物語に対して敵対している立場を取っている。二階堂奥歯とは逆だ。しかしわたしは二階堂を批判する気にはならない。カチンとくることはあっても例のババアみたいに殺意は覚えない。むしろ親近感すら覚える。
二階堂は死人だからか? いや、わたしは平気で死人に対しても殺意を覚える。このブログでならガタリがそうだ。ブログ内検索して調べろ。
要するに、隠喩や物語に対する必死度だ。
いやババアだってそこそこな文学少女だから必死ではあるのだろう。
違うのだ。わたしはこう書いた。「このババアは「隠喩されることの重み」を知らない(だろう)」と。
いわば、隠喩や物語に対して受動的な立場における必死度だ。
二階堂は、たとえば「女という症状」についての文章などから、それがわかっているように思える。「私は、女のドラァグ・クイーンだ。」などというセリフはまさにこの「重み」だ。
受動的な立場からの隠喩や物語の重みを知りつつ彼女は「物語の守護者」になろうとした。
それならいい。わたしは彼女を批判しない。「物語の破壊者」という反対の立場に立つわたしは彼女に殺意を覚えない。
しかしそのババアはどうだ?
どうなのだ?
今わたしと対話しているのは水上雅敏だった。ブログ的にも中野や藤田の反応をシャットアウトしている。
正直、水上がいれば藤田はいらないや。この件に関しては。
マン汁ババアと議論していたのもこいつだしな。
水上、質問だ。この記事ですでにしている質問だ。お前はこの質問に対して一度スルーしているということになる。もし再度スルーするなら、お前はこの要件についてないことにしようとしていると判断する。
つまりお前もわたしを殺そうとしている人間だと。
=====
でもあれだな、「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」アピールしたついでに番頭さんに聞きたいんだけどさ、お前あのマン汁ババアとバタイユ議論してたとき、妙にうざく思えなかった?
いや「うざい」とは思わないのか。彼アスペっぽくはないし。
んー。
「バタイユを研究したくて議論しているというより、誰かと会話したくて議論している」
って感じしなかった? あのババアについて。
しないか。つかもう忘れてるよな。
いいやもう。
ぐあ死んだ。いやゲームの話。
むかつく。
うぜえよもうこの話やめようぜ。
わたしがキチガイの妄想でそのババアに殺意を持っているってことでいいよもう。
だからと言って殺意が消えるわけではありませんが。
そんな人為的にどうにかなるものなら最初から処理してるわアホタレ。
=====
答えろ、水上。
マン汁をなすりつけられたお前の解答が聞きたい。
水上、あのババアはお前の教え子かなんかか? 彼女とツーカーで会話していたから結構懇意な仲なのだろう。
ならばわかるはずだ。
あのババアは、二階堂奥歯のように、隠喩や物語に対して受動的な立場における必死さはあるのか?
あるのなら、なぜあんなに何も考えてないように、無意識の表出のごとき態度で、「もっと隠喩が多い作品を読みたい」などと言えたのだ?
「隠喩されることの重み」がわかっていたならば、こんなことは無意識の言葉として絶対言えないはずだ。
どうだ?
あのババアはどうなのだ?
「二階堂奥歯という症状」や「わたしという症状」などと対比して、「マン汁ババアという症状」を考慮してみろ。
それでわたしの推測が間違っているというなら聞いてやる。
しかしきちんとどこがどう間違っているか説明しろ。
中野みたいに「俺の主観でw」などと言って逃げずに。
あのババアも芸術療法の一派なのか?
もしそうなら本気でわたしは芸術療法を批判する。
芸術とは精神を健常化させる作用を確かに持っているが、まったく逆の、狂気に導く作用も持っている。
芸術療法は、「精神を健常化させる」という目的のために、芸術から芸術の「狂気に導く作用」という一側面を排除するだろう。
であればそれはすでに芸術などではない。芸術という言葉を使うな。使い続ければ、芸術療法は芸術を劣化させるウイルスでしかなくなるだろう。
あるいは「精神を健常化させる」などという目的を捨てることだ。
あんなババアみたいな人間が、芸術療法というウイルスで芸術を劣化させるのだ。
どうだ? わたしのこの論は妄想か?
答えろ、水上。
「カウンセリングになるから答えない」なんて言うなら金払ってやんよ。十万か? 二十万か? 住所調べてうタッパーにうんこと札束入れて送りつけてやるよ。
答えろよ。
水上が答えないならババアここに連れてこいよ。
そいつの心をずたずたに切り裂いてやる。
お望み通り「隠喩が過剰な主観世界」にせしめてやるよ。
その隠喩は「被害妄想」や「分裂病者の大文字の他者に欲望される苦痛としての妄想」だがな。
水上、答えろ。
できないならババアを連れてこい。
どこかにも書いたが、わたしには一種「言葉で人を殺せるかどうか」という研究をやってみたい部分がある。実際に言葉だけのいじめで自殺する若者もいる。ならばそれを体系化してみようじゃないか、というわけだ。
この研究の手はじめとしては持ってこいのケースだな。
ババアは恨むんなら中野を恨め。
中野の誘いがなければわたしはこのことを忘れていただろう。
また水上、そのババアを守る目的でわたしからこの殺意を除去したければ、わたしに触れるな。藤田BBSの連中、藤田の関係者全員わたしと接触しないように通達しろ。
そうでもしなければ。
だめだ、ほんとに。
藤田はアルトーや二階堂に友好的な態度を示しておいて、ルイス・キャロルを批判しておいて、なんであのババアについて何も言わないんだ? あのババアは女ルイス・キャロルだよ。「知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」だよ。まさにまさにそういうセリフじゃないか、「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」なんて。
いやむしろ正常人全員がルイス・キャロルなんだよ。
藤田お前、もしかして見分けがつかないのか?
ならばそれがお前という観測機械のクセだよ。「ポスト・フェストゥム的な、強迫症的な人格」という。
お前という観測機械は「女という症状」やヒステリーに対しては相性が悪い。
二階堂は自殺するぐらいの気持ちで「物語の守護者」になったんだと思う。「隠喩されることの重み」を知っている人間ならばそうなる。そういう必死さになる。
わたしは自殺するぐらいの気持ちで「物語の破壊者」をやっている。物語、隠喩との心中。構造主義の「構造」との心中。
それが「言語の死刑囚」の「女という症状」バージョンだよ。
あのババアは「言語の死刑囚」なのか?
考えろ。
ババアについての記事をまとめておく。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-482.html
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-790.html
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-797.html
そしてこの記事だ。
ババアに読ませろ。
連れてこい。
それがいやなら水上が代理で説明しろ。
つかここ明確になったらまじで藤田いらなくなったわ。
水上さんだけでいい。
=====
「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え。
その1。
一種の「揶揄」「挑発」、わたしから言えば「じゃれあい」。
50%。
その2。
分析家同士は普通そうしているものだという素人の思い込み。
5%。
その3。
わたしが精神分析飽きてきたのでいいネタだから。
10%。
その4。
このブログで主張してきた理屈と合致するから。
35%。
=====
これまでのわたしの症状を見返して、この言い分を読むと、「すげー嘘くせー」と自分自身で思えた。
いやこれが「嘘」ってわけじゃなくて、なんか違うだろ、と。
と思ってあっさり気づいた。
そして悔しくなった。
わたしは本気で「話を巧みにそらされた」。いやわたし自身がそらしたがっていたのだろうが。
悔しい。泣きそうになった。
もういやだ、ほんとに死んでくれないかな、あのマン汁ババア。いやマン汁ババアに限らない。「もっと隠喩の多い作品を読みたい」なんて言う馬鹿文学少女どもは絶滅しろ。わたしが加藤智大ばりに虐殺しに行ってやってもいい。
隠喩を全否定しているわけじゃないぞ? 隠喩には隠喩の楽しみがある。わたしはそれは否定していない。しかし「隠喩を否定する原理」もある。ある人がいる。ババアのこの言い分は、彼女の無意識がこの原理を全否定していることを表している。彼女の無意識にこの原理は欠片も存在していない。
だから本気で死ねと思う。本気で殺意が湧く。
おい、ババア読んでるのか? つかきっちり読ませろよ、藤田門派の阿呆ども。あのババアの心をずたずたに切り裂いてやんないと気が済まない。
つかババア読んでるなら出てこいよ。
殺しあおうぜ。
要するに、先の「「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え。」は、この一点を隠蔽していた。藤田や中野や水上の誘導によって。わたしの症状によって。
その5。
ババアに対する妄想分裂態勢的なわたしの症状をごまかすため。隠蔽するため。
「トラウマの抑圧」的な機制。
(裏側において)100%。
ごめん水上さん、それ嘘だったわ。
死ね、死ね、死ね、死ね。
おいババア出てこいよ。言葉で殺してやっから。お前の「想像的なものでしかない自我」を。
死にたい。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
水上さんの誘導はうまかったな。あなた本職のカウンセラーか何か? いやわたしもそれから逃れたかったんだろうから文句を言うわけじゃないけど。まあ、わたしの逃れようとした態勢とあなたのいい感じな「話を巧みにそらす」やり方が、たまたま同調して、功を奏したのだろう。
いい仕事してますねー。
ごめん調べさせてもらった。ってぐぐっただけだけど。
=====
水上雅敏
1960年生
臨床心理士(日本臨床心理士資格認定協会認定第6734号)
芸術療法士(日本芸術療法学会認定第000131号)
=====
ああ、この人なかなかいい心理士だと思うよ。
心理士批判繰り返してきたあたしが言うんだから間違いない。
嫌味とかそんなんじゃなく本気で言っている。
ま、たまたま偶然だろうけどね。偶然だから「わたしにとっては」いい心理士だった。
ここで「ちっ、うまく行ってたのに」とか思わないんだろうな、天然っぽいもんな。天然であり偶然だからわたしは釣られてしまったのだろう。
いい仕事してるよ、ほんと。あんた。
天然で偶然だから、この記事で書いているような、
=====
大体そういう使い分けは演劇が役者論として心理学なんか問題にならないほど昔から探求し続けているわけで、そういうものを何故イヤな患者に会うと引きつった笑顔を見せるようなカウンセラーが諭せるのだろう
====
の「ひきつった感じ」がなかった。むしろ藤田の文章の方に顕著だな。この「ひきつった感じ」は。
いい仕事だった。評価してやる。メンヘラとして。
参りました。
いや、ほんとに。悔しいわ。いい意味で。あなたからすれば。
って芸術療法士か。芸術療法自体は批判的なんだけどな。実際に芸術やってきた人間として。
芸術は人間の精神を健全にする作用だけではなく、狂気に導く作用もある、って考えだから。
あなたとなら芸術療法についての議論もできそうだな。マン汁ババアを忘れれば。
あたしと語りたいならマン汁ババアを殺してからにしてくれ。
お前にもあのマン汁がこびりついていると思ってしまったから嫌悪感が湧いてきた。
ごめんなさい。
どうせこういう態度示したら「狂気に固執している」とか言われるんだろうけど、悔しいんだ。これを明らかにしない限り、それはただの隠蔽でしかない、根本解決にならない、と思うから。
つか巷の「ひきつった笑顔」しかできない心理士どもはこの天然オヤジを見習え。
あなたにしてみれば、わたしがしたその1から4の返答は、「よしよし」ってなもんだったろうね。嫌味じゃなくて。うん、「してやられた」って言っているんだよ。「敵ながらあっぱれ」的なね。
わたしだっていやなんだよ。こんな殺意。
あははのはー。
ぱらっぱっぱっぱぱぱっぱぱぱ。
くやちい。いい意味で。「わたし」としては。わたしとしては悪い意味で。
なんか、すごく、いい、臨床シーンじゃね? あれ、声が、遅れてくるよ。
=====
おだやかな時代 鳴かない獣が好まれる時代
=====
まあこの時期移行みゆき自身が「鳴かない獣を好む症状」の味方につくんだがね。
昔のどろどろぐちょぐちょした「鳴く獣としてのネクラ女」への惜別の歌だった。
ああいいね、この解釈。
今この歌ちょうどいいわ。
くやちい。
あたしってしょせんその程度。
そら藤田から「つまらない症状」と思われるわな。
まああたしからすれば「お前の方がわたしなんかよりよっぽどつまらないだろ」だけど。渡辺哲夫とやらはお前じゃない。お前の
=====
人間の根幹に関わる重要な症例が数多くありますので(たとえば渡辺哲夫先生の症例などはわたしも診させていただいたことのある大変貴重な症例です)
=====
というセリフはただの虎の威を借る狐だ。
外野で見てるだけの人間がえらそうな口聞くな。
あ、これもただの「挑発」なんで通用しなくていいですよ。わたしが勝手に言ってるだけですので。
そらそうよ、ただの一メンヘラなんだから。
正直、藤田には敵意がない。じゃれあい程度の「挑発」「揶揄」だ。エスカレートして敵意っぽくなる自分がいるときもあるが、長続きしない。
つまりわたしにとって藤田博史は、「藤田博史という症状」は、結構どうでもいい。どうでもよくないのは、これから逃れるための一時的なおもちゃとして、という点のみである。
わたし自身がいやな思いをしているそのババアへの殺意、「もっと隠喩が多い作品を読みたい」などとなんの考えもなしに言う文学少女たちへの敵意、それが問題だ。
なんかもう涙出てきたわ。
あはは。
フジタゼミに誘われたことについての、断る口実としてそのババアの一件を挙げているのか。
それはない。実際それ以前からわたしはババアに殺意を持っていた。この記事が証拠である。日付からそれは明らかである。
わたしにとってはまさに「もっと隠喩の豊かな作品を読みたい」というセリフ自体が、こういうことを言える無意識が、問題なのである。
しかし中野雅哉などはこの要件について一切無視している。彼がわたしの論の要約として提出したテクストには、この件に関することの欠片も記されていない。
確かに中野にとってはこんなこと「どうでもいいこと」なのだろう。しかしわたしにとっては「どうでもいいことじゃない」。この記事参照のこと。
そもそもわたしがそのババアについて最初に書いた記事がこれだ。わたしは最初からそれを最重要点として書いているのに、なぜこの点を削除した文章が要約となりうるのだろう?
わたしは隠喩を全否定するつもりはない。その利便性も認めているし、おもしろいと思うこともある。
しかしわたしにとって隠喩は暴力であるのも事実なのだ。
この事実を蔑ろにされることは、わたしの症状を明らかにするというこのブログの存在価値がなくなるということでもある。
だからわたしは必死なのだ。
この要件がないことにされないようにするために必死になっている。
正直「藤田博史という症状」などどうでもいい。わたし自身がいやなその要件から逃れるためのおもちゃでしかない。
わたしはなぜそのババアに対して殺意を持ってしまうのか。
なぜわたしにとって隠喩は暴力となるのか。
それが問題なのである。
わたしは、精神分析を学ぶ以前に精神疾患と診断されたわけだが、自分の症状を「物語恐怖症」と称していたことがある。
物語とはいわば隠喩の集大成である。これも一つのわたしが隠喩から暴力を受けていることの証拠である。
もしかして藤田一派はわたしの「物語恐怖症」を詐病などと思っているのだろうか。もしそうなら殺してやる。これは事実である。この事実をないことにされたらわたしは存在しない。
「わたし」はそれでいいんだろうな。わたし。
ああ、「藤田博史という症状」全体はどうでもいいんだが、そのうちの一点、どうでもよくないことがあったわ。
藤田は「わたしという症状」の解釈だかなんだかしらないが、それを公表すると明言した。
それ自体はいい、わたしの症状を明らかにするというこのブログの主旨にも合致する。
しかしその解釈はあくまでも「藤田博史という症状」によりアウトプットされたものである。藤田博史という解釈機械の固有のクセとして「藤田博史という症状」がある。
そのアウトプットにこの要件は含まれるのかどうか。
わたしはなぜそのババアに対して殺意を持ってしまうのか。
なぜわたしにとって隠喩は暴力となるのか。
藤田博史という思考機械はこの要件について思考するのかどうか。
それには「藤田博史という症状」という要件が必然的に絡んでくる。
この一つの関わりにおいて、「藤田博史という症状」はわたしにとってどうでもよくない。
ああ、水上さんや、「「なぜ脂さんは「藤田博史という症状」解釈をしたいのかな、という疑問もわきました」についての答え」の厳密バージョンだと思ってくれ。裏の答えがわかったから厳密化できた。
わたしは「物語恐怖症」だった。そのため、物語に対して敵対している立場を取っている。二階堂奥歯とは逆だ。しかしわたしは二階堂を批判する気にはならない。カチンとくることはあっても例のババアみたいに殺意は覚えない。むしろ親近感すら覚える。
二階堂は死人だからか? いや、わたしは平気で死人に対しても殺意を覚える。このブログでならガタリがそうだ。ブログ内検索して調べろ。
要するに、隠喩や物語に対する必死度だ。
いやババアだってそこそこな文学少女だから必死ではあるのだろう。
違うのだ。わたしはこう書いた。「このババアは「隠喩されることの重み」を知らない(だろう)」と。
いわば、隠喩や物語に対して受動的な立場における必死度だ。
二階堂は、たとえば「女という症状」についての文章などから、それがわかっているように思える。「私は、女のドラァグ・クイーンだ。」などというセリフはまさにこの「重み」だ。
受動的な立場からの隠喩や物語の重みを知りつつ彼女は「物語の守護者」になろうとした。
それならいい。わたしは彼女を批判しない。「物語の破壊者」という反対の立場に立つわたしは彼女に殺意を覚えない。
しかしそのババアはどうだ?
どうなのだ?
今わたしと対話しているのは水上雅敏だった。ブログ的にも中野や藤田の反応をシャットアウトしている。
正直、水上がいれば藤田はいらないや。この件に関しては。
マン汁ババアと議論していたのもこいつだしな。
水上、質問だ。この記事ですでにしている質問だ。お前はこの質問に対して一度スルーしているということになる。もし再度スルーするなら、お前はこの要件についてないことにしようとしていると判断する。
つまりお前もわたしを殺そうとしている人間だと。
=====
でもあれだな、「お前にあんだけ罵倒されたが俺にはこんなに仲間がいるんだぞ」アピールしたついでに番頭さんに聞きたいんだけどさ、お前あのマン汁ババアとバタイユ議論してたとき、妙にうざく思えなかった?
いや「うざい」とは思わないのか。彼アスペっぽくはないし。
んー。
「バタイユを研究したくて議論しているというより、誰かと会話したくて議論している」
って感じしなかった? あのババアについて。
しないか。つかもう忘れてるよな。
いいやもう。
ぐあ死んだ。いやゲームの話。
むかつく。
うぜえよもうこの話やめようぜ。
わたしがキチガイの妄想でそのババアに殺意を持っているってことでいいよもう。
だからと言って殺意が消えるわけではありませんが。
そんな人為的にどうにかなるものなら最初から処理してるわアホタレ。
=====
答えろ、水上。
マン汁をなすりつけられたお前の解答が聞きたい。
水上、あのババアはお前の教え子かなんかか? 彼女とツーカーで会話していたから結構懇意な仲なのだろう。
ならばわかるはずだ。
あのババアは、二階堂奥歯のように、隠喩や物語に対して受動的な立場における必死さはあるのか?
あるのなら、なぜあんなに何も考えてないように、無意識の表出のごとき態度で、「もっと隠喩が多い作品を読みたい」などと言えたのだ?
「隠喩されることの重み」がわかっていたならば、こんなことは無意識の言葉として絶対言えないはずだ。
どうだ?
あのババアはどうなのだ?
「二階堂奥歯という症状」や「わたしという症状」などと対比して、「マン汁ババアという症状」を考慮してみろ。
それでわたしの推測が間違っているというなら聞いてやる。
しかしきちんとどこがどう間違っているか説明しろ。
中野みたいに「俺の主観でw」などと言って逃げずに。
あのババアも芸術療法の一派なのか?
もしそうなら本気でわたしは芸術療法を批判する。
芸術とは精神を健常化させる作用を確かに持っているが、まったく逆の、狂気に導く作用も持っている。
芸術療法は、「精神を健常化させる」という目的のために、芸術から芸術の「狂気に導く作用」という一側面を排除するだろう。
であればそれはすでに芸術などではない。芸術という言葉を使うな。使い続ければ、芸術療法は芸術を劣化させるウイルスでしかなくなるだろう。
あるいは「精神を健常化させる」などという目的を捨てることだ。
あんなババアみたいな人間が、芸術療法というウイルスで芸術を劣化させるのだ。
どうだ? わたしのこの論は妄想か?
答えろ、水上。
「カウンセリングになるから答えない」なんて言うなら金払ってやんよ。十万か? 二十万か? 住所調べてうタッパーにうんこと札束入れて送りつけてやるよ。
答えろよ。
水上が答えないならババアここに連れてこいよ。
そいつの心をずたずたに切り裂いてやる。
お望み通り「隠喩が過剰な主観世界」にせしめてやるよ。
その隠喩は「被害妄想」や「分裂病者の大文字の他者に欲望される苦痛としての妄想」だがな。
水上、答えろ。
できないならババアを連れてこい。
どこかにも書いたが、わたしには一種「言葉で人を殺せるかどうか」という研究をやってみたい部分がある。実際に言葉だけのいじめで自殺する若者もいる。ならばそれを体系化してみようじゃないか、というわけだ。
この研究の手はじめとしては持ってこいのケースだな。
ババアは恨むんなら中野を恨め。
中野の誘いがなければわたしはこのことを忘れていただろう。
また水上、そのババアを守る目的でわたしからこの殺意を除去したければ、わたしに触れるな。藤田BBSの連中、藤田の関係者全員わたしと接触しないように通達しろ。
そうでもしなければ。
だめだ、ほんとに。
藤田はアルトーや二階堂に友好的な態度を示しておいて、ルイス・キャロルを批判しておいて、なんであのババアについて何も言わないんだ? あのババアは女ルイス・キャロルだよ。「知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」だよ。まさにまさにそういうセリフじゃないか、「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」なんて。
いやむしろ正常人全員がルイス・キャロルなんだよ。
藤田お前、もしかして見分けがつかないのか?
ならばそれがお前という観測機械のクセだよ。「ポスト・フェストゥム的な、強迫症的な人格」という。
お前という観測機械は「女という症状」やヒステリーに対しては相性が悪い。
二階堂は自殺するぐらいの気持ちで「物語の守護者」になったんだと思う。「隠喩されることの重み」を知っている人間ならばそうなる。そういう必死さになる。
わたしは自殺するぐらいの気持ちで「物語の破壊者」をやっている。物語、隠喩との心中。構造主義の「構造」との心中。
それが「言語の死刑囚」の「女という症状」バージョンだよ。
あのババアは「言語の死刑囚」なのか?
考えろ。
ババアについての記事をまとめておく。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-482.html
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-790.html
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-797.html
そしてこの記事だ。
ババアに読ませろ。
連れてこい。
それがいやなら水上が代理で説明しろ。
つかここ明確になったらまじで藤田いらなくなったわ。
水上さんだけでいい。
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