「美/醜」という身体感覚は体の奥底に染みついている。
2010/10/14/Thu
ここのコメント欄で暗黒舞踏とか語ってるけどそんなに見てはいないんだよな。それこそそこに書いた伊藤キムさんと田中泯さんと名前忘れたけど演出家が暗黒舞踏齧った人の舞台。全然暗黒舞踏っぽくなかったけど。頭剃ってないし白塗りしてないし衣装着てるし。いわゆるコンテンポラリーなんだけど、まあ「スタイリッシュ」ではなかったな。故意にそうしていたとは思うが。暗黒舞踏なんだし。つかキムさんもコンテンポラリーになるのね。うぃきぺだと。キムさんも確かにクラブハウス的な大音響でテクノ系(?)の現代音楽流して、舞台装置もそういう感じで、あ、舞台上にDJがいたステージもあったな。ああコンテンポラリーだな。でもダンス自体は暗黒舞踏ぽかった。痙攣あったし。
田中泯のが世間一般が思うような暗黒舞踏に近いと思う。
わたしは舞台袖で見てたから評論にならないと思うけど、「高尚だなー」って思ったんだよな。すげえ緊張感がある。針でできた蜘蛛の巣。『武士の一分』とかそういったところ買われて出演したんだろうけどやっぱ映像じゃだめだったな。
針でできた蜘蛛の巣とはガラスに入ったひびだ。ピシッという音が痙攣だ。
ああうん、硬質、硬派なんだな。田中さん。確かにそう言われればキムさんのは軟派だ。軟派だから好きだった。
だけど名前忘れたその舞台はすでに暗黒舞踏じゃなかった。
なんの違いか。
やっぱ「欲動が赤裸々に語り出す」言葉としての身体表現だったかどうか、なんだよなー。
そうだよな、その舞台武美系だったと思うけど(うろ覚え)、多分ダンサーが暗黒舞踏じゃなかったんだろうな。「スタイリッシュ」じゃないけど暗黒舞踏になりきれてなかった。いやまあ「暗黒舞踏目指している」とは言ってなかったし。多分暗黒舞踏系のそれこそキムさん公演の折り込みで見に行ったんじゃなかったかな。観客としての暗黒舞踏つながりならキムさん公演しかありえない(笑)。だからあたしが勝手にそっち系だと思って見て「違うじゃん」って思っただけか。
「中途半端なスタイリッシュ」ってだけだったな。
暗黒舞踏って「美/醜」の「醜」に進むものだ、とか言われているが、全然「醜」じゃなかった。「スタイリッシュ」な身体感覚のいわば「リア充ダンサー」たちがカッコだけで「醜」やりました、って感じ。いやまあそれこそダンスは、っつか身体表現すべては、カッコからはじめるもんだとは思うけど。
でもあれなら素直に「スタイリッシュ」方向に進む『珍しいキノコ舞踏団』とかの方がおもしろいわ、と思った。暗黒舞踏も好きだけどそういった「スタイリッシュ系」も好きだった。仕込んだことあるし。たまたまだったけど。ダンスってリノリウムって床材を敷くんだけど、リノにペンキでデザインとかしてたんだよな。大道具泣かせだったわ。リノに普通のペンキなんか乗るわけないだろ。まあそういった素人さもよかった。『キノコ舞踏団』。好きでした。って今もやってるのな。『キノコ』って明大系だったっけ。明大の校舎に行った記憶が蘇った。京王線明大前の。ごめん嘘かもしれない。
「美/醜」という身体感覚は本当に体の奥底に染みついているものなんじゃないかな。奥底だから、「美」であれ「醜」であれさらけ出すのが難しい、と。
ダンス表現は難しい、と。
独り言。
水上さーん、芸術療法の話しよーよー。
こういった「現代舞台芸術ミーハー」でかつ現役メンヘラでかつ精神分析の知識持っているわたしみたいな臨床素材めったにいないよ? いるのかな? 現代芸術って結構メンヘラ多そうだし。いやあたしの妄想で。
ねーねーったらー。
この記事の「芸術には貴賎があるべき」っていうのはさ、あたしにとっては本場オペラなんだよな。
小劇場アングラ畑のわたしですら「すごい」としか言えない。
圧倒的。
即物的なスケールだけじゃない。ここにも書いたように、ミクロな部分にも気を遣って舞台が成り立っている。
=====
演劇人だった頃、小劇場ふって本場オペラに乗り換えたんだが(自分でも極端だとは思う)、実際スタッフで関わったこともある。んである舞台で、客席から見ると、幕で作った石柱が本物に見えるのに感動した。実際自分が仕込んだんだから知ってるんだよ。あれは幕だって。幕って言ってもただ上から吊るすだけじゃないんだ、もちろん。上部をバトンにくくりつけて吊ってるだけだとしわができるから、幕(もちろん柱なんだから細長い幕だ)の一番下に金属のプレートがつけられててね、そのプレートをさらに床に釘で打ちつける。あとはバトンを微妙に上げながら、しわを伸ばす。折り目とかついてるんじゃないの? とか思ったあなたはど素人。折り目がつかないたたみ方ってのがあるんだよ。でもそういうしわがつく時もある。そういう時は、やっすい幕なら霧吹きで水をかけると、吊ってるだけでやがて自重で消える。その柱の時は、幕の表面にもちろん柱の絵が描かれてあるんだけど、実際補修作業見たんだけど、絵の具にラテックスみたいなん混ぜてるんだよね。絵に厚みがある。だから、服にできるようなしわは最初からつきにくいんだ。
=====
こういった物性物理的なミクロ視点もある程度考慮に入れて、本場オペラは成り立っている。
まさに「全体性の幻想」じゃないか。
全体性だがミクロの領域でも嘘を成立させようとしている。
こういった経験から、わたしは「本場オペラはやっぱり「貴」で、アングラは「賎」だ」と思う。
芸術療法は、長い歴史を持つ本場オペラに勝てるのかい?
芸術療法なんていらないんじゃないか?
「芸術が精神疾患者に及ぼす作用、そのうちの正常人化方向に向かわせる作用」として研究するならまあありだと思うが。
「精神疾患者を正常化させることを目的とする」なら、芸術療法は正直わたしはいらないと思う。わたしの狭い主観世界においては本場オペラだけでいい。
「ミクロの精密さを兼ね備えたマクロ的圧倒的さ」
彦坂が似たようなことを論じていたが、彼建築にはまってるんだよ。
これそういったことじゃないのかって思うんだが。
いやまああたしは建築で感動したことあんまないからな。某建築科の学生とつきあったことがあって都内の様々な建築的名所(青山のぼろっちい共同住宅とか、名前忘れた)に連れて行かれたことあるんだが、あんまピンとこなかったもんな。
本場オペラの方がすげえよ。まあ演出部視点だが。
水上や、わたしが言っているのはそんな難しいことじゃない。
「「主人のディスクール」において無意識で共有されている「全体性の幻想」を、具体的に教えてくれ」
と言っているだけ。
「無」なんてそっち側に都合のいいだけの妄想でごまかさないで、具体を教えてくれ、と。
南風に誘われて浜辺で君と出会った
えぐるような水着に恋に落ちた
十字星の岩陰でコクのあるキスその上
キレもよくて気持ちいい人魚姫
ステキ コンナノハジメテヨ
モウハナサナイ
ニドトヒトリニシナイデ
なんてこと!
サビはいらない。
この歌こそ精神分析のテーマ曲なんじゃねえのかい?
「「女」という隠喩への適応障害」なんて小難しく言ってるけどさー、簡単な話だよ。
「お前ら女に幻想抱きすぎ。「抱いていない」つっても「無」なんて妄想でごまかしてるだけ」
この曲もそういうこったろ? 「リゾラバの女なんてのは「まやかし」で「冷やかし」で存在しない」だろ?
「無」じゃんか。
この曲サビのとこのベースラインの、怖いほどのって言うと言いすぎだけど、そんな「機械的さ」がいいんだよ。
ギャグソングだけどきちんと「機械的であることの不安さ」を残している。
それが「リゾラバ」という「幻想としての恋愛」ってテーマと見事なコントラストを構築している。
わっかるー?
あ、一応言っとくけど「ギャグ」だよ?
「無」なんてのは言葉があるからこそ生じる幻想にすぎん。去勢されたからこそ存在すると思い込んでしまう幻想にすぎん。
いやむしろ「「無」を知って去勢される」ってしたらクライン+ラカンの
妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階
って乳児の精神発達論とも合致する。
嘘なんだよ、妄想分裂態勢の赤ん坊にしてみりゃ。んなの。全部。言葉も「無」も。
いつからか いつからか 気づかずに
僕たちは住んでいた
さかさまの国
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
「わたしの言っていることも嘘だが、あなたの言っていることも嘘だ」
これがヒステリーの隠喩の隙間に落ちている真理だ。
そゆこと。
つか本場オペラの方がヒステリー研究進んでるんじゃねえの? 『トスカ』とかさ。
「日本人は『トスカ』を上演できない」みたいなことをある日本演劇人が言ったんだが、単純に「日本女性にヒステリーは少ない」ってことなんじゃねえの? って今思ったわ。
隠してるだけなんだがな。
隠すのがうまいだけ。ヒステリーを。
お前らが見てない「パジャマッコリ」では『トスカ』してますよ。日本女性でも。つつましやかに。
「フェミニストの女性たちは言う、「私たちは去勢されてなんかない!」。これはまったく正しいのだ」
なあ、「去勢されていること」ってそんなに大事なの?
そもそも「去勢されていること」って具体的にどういうこと?
機能的に何が大事なの?
「川上未映子の作品は未去勢的である」として、まあお前個人が不愉快なのはありとして、それでなんの不都合があるの?
教えてくれよ。
お前らが「去勢」「大人であること」なんて妄想に執着してるだけなんじゃねえの?
あ、ごめん。『武士の一分』じゃなくて『たそがれ清兵衛』だったわ。
ぐ、キムタクなんかより真田さんの方が好きなのにこんな間違いするとわ……。
でも『武士の一分』のキムタクは予想外によかった。スマップ侮っておったわ。
テレビでもあれだけ真面目な芝居しろよキムタクってわかりますバラエティも大事だからねスマップは特にバラエティで売れたしテレビで真面目な芝居してもひかれるしね。
よくわかってるよな。「お約束」を。ほんとテレビの中で生きてきた人なんだろうな。
それに比べ映像に慣れていない舞台役者のひどさっつったらもう。
『振り返れば奴がいる』の西村雅彦さんとかほんと見てるこっちが恥ずかしかったわ。演技浮きまくりで。
メンヘラは「社会」や「文化」により治療されるとは限らない。
「社会」や「文化」が原因で精神疾患を患っているのではあろうが(心因性なら)。
だからねー、芸術療法士の水上さんここんとこ語ろうよー。
「芸術で治療する」なんて言っておきながら「芸術」って仮面をかぶせた「文化」を押しつけているだけだったりしない? 君の芸術療法。いやシアターセラプーとかほとんどそうだよ。「お前たちを病ませた毒物に甘い味つけしてみました」ってだけ。あんなのやるならまじもんの劇団がやってるワークショップに参加した方が百倍マシ。
いやほんっと心理士って肩書き便利ね。まじもんの劇団ワークショップを劣化させたことやってお金取れるなんて。
ねーねー、水上さあん、君の芸術療法てどんなの?
「社会」とか「文化」って「生きる意味」なんて妄想じゃない「生きる土台」があるってことが大事なんじゃねえの。
魔女ってキャラほんと便利だわ。自分で書いた小説に自分が救われた。まさにオナヌー。
魔女とはなんぞや。
んー、のれん、かなあ。めくって「よっ、やってるかい?」ってな。
あるいはスカートの裾。
フラメンコだっけか。あれの裾だけ見てたら足の周りに海蛇が高速でじゃれあってるみたいだもんな。
境界だが動性が必要なんだよ。
動性のある境界。それが魔女。
トスカも魔女キャラ覚えてれば多少ましだったかもしれんな。
この魔女キャラのときに「俺は見抜いてるぜ!」ってきたなら、まあ表面上は反抗したとしてもそれこそ否認、つまり内心認めてたかもしれないのにな。
演技していないときに「見抜いている」とか言われましても。
ほーんととんちんかんだな。
つかほんと「境界」なわけだから隠すと同時にさらしているんだよな。だから「動性」が必要。隠しているけどさらしている。妥協的に隠しつつ妥協的にさらす。んー。まあわかんねえだろうなあ。フラメンコのスカートの裾は中身の躍動する肉体を隠しつつ、それそのものの一部としてさらされている。
とゆうわけで通常営業に戻ったので藤田くんもうここ見なくていいお? いやあなたが見たいのなら止めないけど。
「うわあああ」ってなったあたしを心配してか「メンヘラを自殺に追い込んだ精神科医」とかって自分の評判を心配してか知らないけど、もう大丈夫だから。バイバイ。
水上さんは答えてね。
田中泯のが世間一般が思うような暗黒舞踏に近いと思う。
わたしは舞台袖で見てたから評論にならないと思うけど、「高尚だなー」って思ったんだよな。すげえ緊張感がある。針でできた蜘蛛の巣。『武士の一分』とかそういったところ買われて出演したんだろうけどやっぱ映像じゃだめだったな。
針でできた蜘蛛の巣とはガラスに入ったひびだ。ピシッという音が痙攣だ。
ああうん、硬質、硬派なんだな。田中さん。確かにそう言われればキムさんのは軟派だ。軟派だから好きだった。
だけど名前忘れたその舞台はすでに暗黒舞踏じゃなかった。
なんの違いか。
やっぱ「欲動が赤裸々に語り出す」言葉としての身体表現だったかどうか、なんだよなー。
そうだよな、その舞台武美系だったと思うけど(うろ覚え)、多分ダンサーが暗黒舞踏じゃなかったんだろうな。「スタイリッシュ」じゃないけど暗黒舞踏になりきれてなかった。いやまあ「暗黒舞踏目指している」とは言ってなかったし。多分暗黒舞踏系のそれこそキムさん公演の折り込みで見に行ったんじゃなかったかな。観客としての暗黒舞踏つながりならキムさん公演しかありえない(笑)。だからあたしが勝手にそっち系だと思って見て「違うじゃん」って思っただけか。
「中途半端なスタイリッシュ」ってだけだったな。
暗黒舞踏って「美/醜」の「醜」に進むものだ、とか言われているが、全然「醜」じゃなかった。「スタイリッシュ」な身体感覚のいわば「リア充ダンサー」たちがカッコだけで「醜」やりました、って感じ。いやまあそれこそダンスは、っつか身体表現すべては、カッコからはじめるもんだとは思うけど。
でもあれなら素直に「スタイリッシュ」方向に進む『珍しいキノコ舞踏団』とかの方がおもしろいわ、と思った。暗黒舞踏も好きだけどそういった「スタイリッシュ系」も好きだった。仕込んだことあるし。たまたまだったけど。ダンスってリノリウムって床材を敷くんだけど、リノにペンキでデザインとかしてたんだよな。大道具泣かせだったわ。リノに普通のペンキなんか乗るわけないだろ。まあそういった素人さもよかった。『キノコ舞踏団』。好きでした。って今もやってるのな。『キノコ』って明大系だったっけ。明大の校舎に行った記憶が蘇った。京王線明大前の。ごめん嘘かもしれない。
「美/醜」という身体感覚は本当に体の奥底に染みついているものなんじゃないかな。奥底だから、「美」であれ「醜」であれさらけ出すのが難しい、と。
ダンス表現は難しい、と。
独り言。
水上さーん、芸術療法の話しよーよー。
こういった「現代舞台芸術ミーハー」でかつ現役メンヘラでかつ精神分析の知識持っているわたしみたいな臨床素材めったにいないよ? いるのかな? 現代芸術って結構メンヘラ多そうだし。いやあたしの妄想で。
ねーねーったらー。
この記事の「芸術には貴賎があるべき」っていうのはさ、あたしにとっては本場オペラなんだよな。
小劇場アングラ畑のわたしですら「すごい」としか言えない。
圧倒的。
即物的なスケールだけじゃない。ここにも書いたように、ミクロな部分にも気を遣って舞台が成り立っている。
=====
演劇人だった頃、小劇場ふって本場オペラに乗り換えたんだが(自分でも極端だとは思う)、実際スタッフで関わったこともある。んである舞台で、客席から見ると、幕で作った石柱が本物に見えるのに感動した。実際自分が仕込んだんだから知ってるんだよ。あれは幕だって。幕って言ってもただ上から吊るすだけじゃないんだ、もちろん。上部をバトンにくくりつけて吊ってるだけだとしわができるから、幕(もちろん柱なんだから細長い幕だ)の一番下に金属のプレートがつけられててね、そのプレートをさらに床に釘で打ちつける。あとはバトンを微妙に上げながら、しわを伸ばす。折り目とかついてるんじゃないの? とか思ったあなたはど素人。折り目がつかないたたみ方ってのがあるんだよ。でもそういうしわがつく時もある。そういう時は、やっすい幕なら霧吹きで水をかけると、吊ってるだけでやがて自重で消える。その柱の時は、幕の表面にもちろん柱の絵が描かれてあるんだけど、実際補修作業見たんだけど、絵の具にラテックスみたいなん混ぜてるんだよね。絵に厚みがある。だから、服にできるようなしわは最初からつきにくいんだ。
=====
こういった物性物理的なミクロ視点もある程度考慮に入れて、本場オペラは成り立っている。
まさに「全体性の幻想」じゃないか。
全体性だがミクロの領域でも嘘を成立させようとしている。
こういった経験から、わたしは「本場オペラはやっぱり「貴」で、アングラは「賎」だ」と思う。
芸術療法は、長い歴史を持つ本場オペラに勝てるのかい?
芸術療法なんていらないんじゃないか?
「芸術が精神疾患者に及ぼす作用、そのうちの正常人化方向に向かわせる作用」として研究するならまあありだと思うが。
「精神疾患者を正常化させることを目的とする」なら、芸術療法は正直わたしはいらないと思う。わたしの狭い主観世界においては本場オペラだけでいい。
「ミクロの精密さを兼ね備えたマクロ的圧倒的さ」
彦坂が似たようなことを論じていたが、彼建築にはまってるんだよ。
これそういったことじゃないのかって思うんだが。
いやまああたしは建築で感動したことあんまないからな。某建築科の学生とつきあったことがあって都内の様々な建築的名所(青山のぼろっちい共同住宅とか、名前忘れた)に連れて行かれたことあるんだが、あんまピンとこなかったもんな。
本場オペラの方がすげえよ。まあ演出部視点だが。
水上や、わたしが言っているのはそんな難しいことじゃない。
「「主人のディスクール」において無意識で共有されている「全体性の幻想」を、具体的に教えてくれ」
と言っているだけ。
「無」なんてそっち側に都合のいいだけの妄想でごまかさないで、具体を教えてくれ、と。
南風に誘われて浜辺で君と出会った
えぐるような水着に恋に落ちた
十字星の岩陰でコクのあるキスその上
キレもよくて気持ちいい人魚姫
ステキ コンナノハジメテヨ
モウハナサナイ
ニドトヒトリニシナイデ
なんてこと!
サビはいらない。
この歌こそ精神分析のテーマ曲なんじゃねえのかい?
「「女」という隠喩への適応障害」なんて小難しく言ってるけどさー、簡単な話だよ。
「お前ら女に幻想抱きすぎ。「抱いていない」つっても「無」なんて妄想でごまかしてるだけ」
この曲もそういうこったろ? 「リゾラバの女なんてのは「まやかし」で「冷やかし」で存在しない」だろ?
「無」じゃんか。
この曲サビのとこのベースラインの、怖いほどのって言うと言いすぎだけど、そんな「機械的さ」がいいんだよ。
ギャグソングだけどきちんと「機械的であることの不安さ」を残している。
それが「リゾラバ」という「幻想としての恋愛」ってテーマと見事なコントラストを構築している。
わっかるー?
あ、一応言っとくけど「ギャグ」だよ?
「無」なんてのは言葉があるからこそ生じる幻想にすぎん。去勢されたからこそ存在すると思い込んでしまう幻想にすぎん。
いやむしろ「「無」を知って去勢される」ってしたらクライン+ラカンの
妄想分裂態勢→抑鬱態勢→鏡像段階
って乳児の精神発達論とも合致する。
嘘なんだよ、妄想分裂態勢の赤ん坊にしてみりゃ。んなの。全部。言葉も「無」も。
いつからか いつからか 気づかずに
僕たちは住んでいた
さかさまの国
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
「わたしの言っていることも嘘だが、あなたの言っていることも嘘だ」
これがヒステリーの隠喩の隙間に落ちている真理だ。
そゆこと。
つか本場オペラの方がヒステリー研究進んでるんじゃねえの? 『トスカ』とかさ。
「日本人は『トスカ』を上演できない」みたいなことをある日本演劇人が言ったんだが、単純に「日本女性にヒステリーは少ない」ってことなんじゃねえの? って今思ったわ。
隠してるだけなんだがな。
隠すのがうまいだけ。ヒステリーを。
お前らが見てない「パジャマッコリ」では『トスカ』してますよ。日本女性でも。つつましやかに。
「フェミニストの女性たちは言う、「私たちは去勢されてなんかない!」。これはまったく正しいのだ」
なあ、「去勢されていること」ってそんなに大事なの?
そもそも「去勢されていること」って具体的にどういうこと?
機能的に何が大事なの?
「川上未映子の作品は未去勢的である」として、まあお前個人が不愉快なのはありとして、それでなんの不都合があるの?
教えてくれよ。
お前らが「去勢」「大人であること」なんて妄想に執着してるだけなんじゃねえの?
あ、ごめん。『武士の一分』じゃなくて『たそがれ清兵衛』だったわ。
ぐ、キムタクなんかより真田さんの方が好きなのにこんな間違いするとわ……。
でも『武士の一分』のキムタクは予想外によかった。スマップ侮っておったわ。
テレビでもあれだけ真面目な芝居しろよキムタクってわかりますバラエティも大事だからねスマップは特にバラエティで売れたしテレビで真面目な芝居してもひかれるしね。
よくわかってるよな。「お約束」を。ほんとテレビの中で生きてきた人なんだろうな。
それに比べ映像に慣れていない舞台役者のひどさっつったらもう。
『振り返れば奴がいる』の西村雅彦さんとかほんと見てるこっちが恥ずかしかったわ。演技浮きまくりで。
メンヘラは「社会」や「文化」により治療されるとは限らない。
「社会」や「文化」が原因で精神疾患を患っているのではあろうが(心因性なら)。
だからねー、芸術療法士の水上さんここんとこ語ろうよー。
「芸術で治療する」なんて言っておきながら「芸術」って仮面をかぶせた「文化」を押しつけているだけだったりしない? 君の芸術療法。いやシアターセラプーとかほとんどそうだよ。「お前たちを病ませた毒物に甘い味つけしてみました」ってだけ。あんなのやるならまじもんの劇団がやってるワークショップに参加した方が百倍マシ。
いやほんっと心理士って肩書き便利ね。まじもんの劇団ワークショップを劣化させたことやってお金取れるなんて。
ねーねー、水上さあん、君の芸術療法てどんなの?
「社会」とか「文化」って「生きる意味」なんて妄想じゃない「生きる土台」があるってことが大事なんじゃねえの。
魔女ってキャラほんと便利だわ。自分で書いた小説に自分が救われた。まさにオナヌー。
魔女とはなんぞや。
んー、のれん、かなあ。めくって「よっ、やってるかい?」ってな。
あるいはスカートの裾。
フラメンコだっけか。あれの裾だけ見てたら足の周りに海蛇が高速でじゃれあってるみたいだもんな。
境界だが動性が必要なんだよ。
動性のある境界。それが魔女。
トスカも魔女キャラ覚えてれば多少ましだったかもしれんな。
この魔女キャラのときに「俺は見抜いてるぜ!」ってきたなら、まあ表面上は反抗したとしてもそれこそ否認、つまり内心認めてたかもしれないのにな。
演技していないときに「見抜いている」とか言われましても。
ほーんととんちんかんだな。
つかほんと「境界」なわけだから隠すと同時にさらしているんだよな。だから「動性」が必要。隠しているけどさらしている。妥協的に隠しつつ妥協的にさらす。んー。まあわかんねえだろうなあ。フラメンコのスカートの裾は中身の躍動する肉体を隠しつつ、それそのものの一部としてさらされている。
とゆうわけで通常営業に戻ったので藤田くんもうここ見なくていいお? いやあなたが見たいのなら止めないけど。
「うわあああ」ってなったあたしを心配してか「メンヘラを自殺に追い込んだ精神科医」とかって自分の評判を心配してか知らないけど、もう大丈夫だから。バイバイ。
水上さんは答えてね。
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