自体愛的な意識の向け方
2010/10/21/Thu
試しに復活。
相変わらず幽体離脱練習中。精神力だけで自殺する修行。眠剤の画期的使用法。あ、ODなんかしてないよ。一日分の用量は守ってる。たりなくなったりはしないし。
ブログ休止してから笑えるほど調子がよくなった。やっぱブログが原因だったんだな、と今さらのように思う。
「じゃあやめればいいのに」
うっせ、あたしの勝手だろんなの。
「これ」を言語化できる場は以外に少ない。口頭だとあとで読み返して分析できない。書き言葉ならば。誰も読まない日記のようなものだと、あとで読み返しても何を言っているのかわけわからない。いやこのブログもそうなんだが。ときどき書いているけど昔の記事なんてわたし自分で何言っているのか本気でわかんないものもある。結構多い。
自分にのちの自分が理解できるような日記を書かせるため、このブログをやっている。公開の方がいい。その方が、いや確かに理解できない記事も多いのは事実だが、昔書いていた誰にも見せる目的のない文章よりかは理解できるし、精神分析論の勉強にもなる。自分が教授でありまた生徒でもある。まあこれはこじつけかな。でもこのこじつけ結構理由としてはでかい気がする。
さて。
現状、この一連の「藤田一派殴り込まれ事件」については、夢の出来事のような感覚である。「現実味がない」という意味ではない。わたしにとっては「日常という現実」の方が「現実味がない」からだ。では「現実味がある」のかと言うとそうでもない。他人事のような感覚。
というか、休止しているあいだ遠出などしたりしたのだが、何かこう、薄い膜が張っている感じがする。
これが離人症か、と思った。これがわかっただけでもこの休止は有用だった。
しかし、あまり物珍しさはなかった。むしろこれがわたしの「調子いい状態」である。発症する以前の状態だ。
わたしが一時期(いや今でも若干そうなのだが)座右の銘にしていた「人生は夢、世界は劇場」とは、この「薄い膜のようなもの」を表現したくて、そう言っていたのかもしれない。
今回の一連の事件におけるわたしの精神状態変化は、非常に落差が大きい。これについてはこれまでなかったんじゃないかと思えるほどである。
この落差のおかげで、「人生は夢、世界は劇場」状態こそが、離人症の(わたしの主観における)具体ではないか、と直感できることができたわけだ。
「遠出をした」と書いているが別に宿泊旅行などはしていない。近場に足をのばしただけである。
こう書くと「パニック障害としてはおかしいんじゃないか」と自分で思う。
確かにわたしはブログを休止した直後、(いつもより)症状は悪化していた。水上さんのおかげで多少好転していたとはいえ。であるならば、予期不安で外出などできないのではないか、と思う。
そうなのだ。
しかしわたしは元来予期不安は希薄だ。この記事でも述べている通り。
予期不安という症状は、「いつ発作が起こるかわからない」と恐れるあまり、人が集まる場所に行けなくなる、というものだ。
わたしにも確かにそういう症状はある。たとえば昔、この記事でも書いた通り、バイクに乗っているときにそれらしき発作が起きた。このときは大事にいたらなかったが、もしもっとひどい発作だったならば、わたしは大きな事故を起こしていたかもしれない。
また、時系列ではそのあとの話になるが、電車の中でぶっ倒れたこともある。駅員さんに担がれたりして大変な騒ぎだった。電車の中だからよかったものの、また周囲の人の厚意に救われたものの、もし万が一、ホームの線路前で電車を待っているときにそうなったら。わたしは線路に落ちていたかもしれない。それでも助かる可能性はあるかもしれないが。
こういったことを考えると、確かに「危ないな」というような気持ちは生じる。
しかし不安になって外出できないほどに「危ない」とは思えない。
なぜなら、この記事から。
=====
また食事を摂らなくなった。そのせいか病院での待ち時間、気を失いかけた。貧血のようなものだ。しかし根性で耐えた。なんとかなるものなんだよ、根性で。
ここでの「根性」とは「意識的な努力」ぐらいに読み替えといて欲しい。
=====
いや、失神とパニック発作は別々の症状だと思う。
しかし、失神という身体変化における、予期不安における意味での想像的な「予期」ではなく、実際的な、体内脳内に生じるそれらしき反応をひき起こしそうな兆候を、わたしは感知できる。そしてそれこそ「根性」でそれをなんとかできる場合がある。
ずいぶん前の話でうろ覚えだが、パニック障害関係の掲示板で、わたしこの主張と似た論旨、「意識的に発作を抑えることができる」というようなことを述べていた当事者がいた。その論は他の当事者から猛反発を喰らっていたのだが、わたしは彼の主張に一部納得してしまう。「精神疾患なんて根性でなんとかなる」的な男性原理主義的言い分に組する主張となっていしまうが、わたしの実感から「意識的に発作はある程度抑制できる」と思ってしまう。その記事でも書いた通りだ。
=====
こんなこと言うと「精神疾患なんて根性が足りないんだよ」などという体育会系的言い分を擁護しているように思われるかもしれないが、その通りなのだ。字義通り受け取れば正しい部分もある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。根性でなんとかなる部分はわたしたちが思っているより遥かに多い。精神含めた人体とは未知の世界の凝縮体である。ラカン派精神分析と対立する自我心理学的言い分も援用可能だろう。自我にはわれわれが考える以上の力が備わっている、などと。
=====
たとえば先に挙げた「バイクに乗っていたときの症状」などは、明らかにパニック発作だと言えよう。
しかしこのときは、このブログでの「藤田一派殴り込まれ事件」のわたしの精神状態と比較すると、パニック度、というと語弊がありそうなので、わたし個人の用語として「うわあああ」度と言いたいが、それは低かったように思う。
バイクを停めて数分間涙と鼻水を垂らしまくってティッシュで拭いてまたバイクに乗って劇場に向かった。停車していたのは、十分、二十分にも満たなかったと思う。劇場では知人の演劇人たちと談笑したりしていただろう。このときのわたしが「さっきこういうことがあってさー」なんて言っても誰も信じないだろう。
むしろこのときのわたしは、バイクから降りて、もっと重いパニック発作を必死で抑制していたのではないか、と思える。むしろこの発作は徴候止まりで済んだものだと。だからこそその直後の舞台鑑賞もなんなくこなせた、というわけだ。
また、まったく別の話になるが、こういった話を聞いたことがないだろうか。パニック障害でもなんでもないのだが、「貧血の達人」を自称する奴がいたとする。達人にもなると、たとえば学校朝礼で長時間立たされているときなど、「あ、貧血来るな」とわかるらしいのだ。それは「気持ち悪さ」ではあるが「何か微妙な違いがある」と。そして達人は自分の足で先生のもとに向かい、許可を取って保健室で休む。
貧血症は精神疾患とは言えないが、これも一種の「精神疾患なんて根性でなんとかなる」だとわたしには思える。
かのように、「パニック発作が起きるかもしれない」という予期は、それほどわたしを不安にさせない。
とはいえ実際に都内の駅で衆目を集める身になればわかると思うが、事後の対応が非常にめんどくさい。
そう、わたしにとって予期不安は「不安」ではなく「めんどくさい」なのだ。
いや、そうではない場合もないことはない。今回の事件におけるわたしの精神状態は、「わたしが殺意を持ってしまうそのババアと面会するとわたしはパニックを起こすだろう」という予期からなったものだと言える。これは「めんどくさい」などではない。とはいえ「不安」でもない。単純に「恐怖」と言った方がまだ妥協できる。
パニック障害の予期不安における「予期」とは、その定義上、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像的なものだ。
しかしわたしはそういった想像的な予期による不安は希薄である。
であるならば、今回の、「フジタゼミに誘われることによる、マン汁ババアと面会した場合を想像しての発作(らしきもの)」は矛盾する。
確かにわたしはそういった場合を想像した。しかしわたしに発作らしきものを生じさせた原因は、そのような想像ではないと思える。
「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」
この言葉から連想された、「物語恐怖症」だった頃や、これまで「隠喩を読み込まれる被害」を受けたことが、トラウマ的に呼び起こされたのだ、と言えよう。
であるならばパニック障害の予期不安も、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像を原因とした不安ではなく、そういった想像から、あくまで連想された、「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰し不安を覚えるのではないか。
つまり、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像が原因なのではない。それはトラウマの回帰のひき金にすぎない。
こういったところの考慮が、パニック障害関係の論には欠けているように思える。
簡単に言えば、「対人(赤面)恐怖症とパニック障害の予期不安はまったく別物である」という話である。「むしろそれはPTSDに近いのではないか」という主張だ。
むしろ対人恐怖症をパニック障害の予期不安と誤診しているケースも多いのではないだろうか、などと疑ってしまう。いやまあ、パニック発作そのものがあるかないかって決定的な診断基準はあるだろうから、この誤診は少ないか。
たとえば先の、「パニック障害関係の掲示板で、わたし主張と似た論旨、「意識的に発作を抑えることができる」というようなことを述べていた当事者が、他の当事者から袋叩きにあった」事件などは、こういったところの考慮がたりなくて生じたのではないか、と思える。
彼に対する反論は「社会的な生活は必要不可欠である」といったような論旨が多かった。「日常生活を送りながらパニック障害と闘っている人もいます」というような反論。
わたしにはこの反論がまったく理解できなかった。いや言っている意味はわかるのだが、なぜそれが「意識的に発作を抑えることができる」という主張の反論になるのかがわからなかった。
今考えると反論者たちは、予期不安の原因とされている「「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像」を、意識的に取り除けばいい、というような主張に理解したのではないか。
とはいえ、その主張をした人が、「意識的に発作を抑えることができる」という意味を「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰することを抑えることができる」として言ったのは定かではない。わたしは論点が理解できなかったのであまりその議論を読み込まなかったのだが、むしろ彼自身がそれ以前に「「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像」を抑えればいい、というような主張をしていたのかもしれない。であるなら先のような反論はありだ。現代において社会的生活を送る上で「人通りの多い場所」に行くことは必需要素と言っても過言ではない。
少なくともわたし個人が、彼の主張を「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰することを抑えることができる」と解釈した、というだけである。
もちろんこれはもともと予期不安が希薄なわたし個人の解釈であるため、この主張が他のパニック障害者たちに適用するかどうかはわからない。
断っておくが、わたしはパニック発作そのものや、「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰する」ものとしての予期不安を、完全に抑えられる、と言っているわけではない。実際、「藤田一派殴り込まれ事件」におけるわたしの精神状態について「それを抑えきれてないじゃないか」と言われても言い返せない。
起きるものは起きる。「出物腫れ物ところ構わず」である。しかしおならは我慢できる。いや確かに腫れ物は精神的な作用で抑えることは難しいかもしれないが、たとえば皮膚を清潔にするなどといった予防が可能である。
予防にしろ常に継続できるほど簡便な予防策などない場合もあるだろう。その場合は、その徴候を感知し、発作が悪化する直前だけ、なんらかの可能な予防的措置を施せばいいのである。
要するに、それを完全に防ぐことはできないが、ある程度の対応は可能だろう、と言っているわけである。
パニック発作などはそれこそ「常に継続できるほど簡便な予防策などない場合」にあてはまろう。であるならば、もし予防的対策を施すのならば、まずその徴候を感知しなければならない。
ここが問題なのである。
これは「正常な精神」「正常という精神疾患」においてもっとも難しい作業なのだ。
これは自身の脳内という体内反応に対する感知である。いわば意識を体内に向けている状態である。しかし「正常な精神」がこれが非常に困難だ。彼らの意識は常に皮膚の外部へと向けられている。内部に向けられているのは睡眠欲や食欲などといった本能的なことに限られている。
これを精神分析論にあてはめるならば、自体愛という概念に相当するとわたしは考える。生まれたばかりの赤ん坊における意識の向け方が自体愛だ。赤ん坊は皮膚の外側と内側の区別なしに、感覚器官の反応も内臓の反応も筋肉の反応もそういう刺激として感知している。(数的に)過剰な刺激の中を生きている。
こういった意識の向け方たる自体愛が発達し自己愛になるのだが、これは皮膚という外面へ意識を集中させることであり、自体愛とは別物である。自己愛へと発達できた幼児は、それ以降「感覚器官や内臓や筋肉などといった(数的に)過剰な刺激」に惑わされることはない。
この自体愛から自己愛への発達を、鏡という比喩を用いて論じたのがラカンの鏡像段階論である。鏡は体内の反応を映し出さない。そこにあるのは皮膚のみである。
この鏡像段階(生後六ヶ月から十八ヶ月)を経て、幼児は自体愛から自己愛へと発達し、かつ対象愛へと発達するのだが、そこは省略する。ここで論じようとしているのは自体愛だからだ。
余談になるが、こういった「自体愛的な意識の向け方」を自身に復興させようという作業が、禅の修行であったり暗黒舞踏の稽古だったりするのではないか、とわたしには思える。たとえば暗黒舞踏の演劇論には、「外的発散」の対として「内的強度」なるキーワードがあるのだが、そういったことではないかと。暗黒舞踏とは「観客によりよく魅せるため」ではなく自身の「内的強度」に重心を置いた表現手法なのである。
このような「自体愛的な意識の向け方」を自身に復興させようという作業は、文化人類史スパンで考えても非常にマイナーである。歴史の表舞台に表れてこない。
それは「正常な精神」が、「自体愛的な意識の向け方」そのものを忘れさってしまっているからではないだろうか。
この「忘れさり」は非常に強力なものである。だからこそ禅の修行や暗黒舞踏の稽古は困難・難解を極める。だからこそ「正常な精神」にとって困難な作業になる。
むしろ人は「赤ん坊の頃の精神状態」を忘れさってしまっている、ということを認めない。たとえば「私は赤ん坊の頃を覚えている」などと言い張る人がいる。だがその記憶を聞いても、まったく自体愛的ではないことが多い。大人が聞いても想像しやすいようなまとまりがある絵としてその記憶はある。赤ん坊は視覚も聴覚も大人よりはるかに未熟な状態で生まれてくるという器質的な事実があるにも関わらず、その赤ん坊の視覚や聴覚は大人のごとく発達した感覚器官として「赤ん坊の頃の記憶」を認知している。
こういった「赤ん坊の頃の記憶」はむしろ自己愛が発達した以降の精神状態がする妄想でしかないのだが、それを認めようともしない。
ただし、事例にもよるが、百歩譲って「赤ん坊の頃の、感覚器官や内臓や筋肉からの各刺激を受けている状態におけるたまたまそのうちの感覚器官の刺激について、発達した目や耳で構築される「大人の認識パターン」により、脚色されたあるいは再構築された妄想」とは言えるかもしれない。この「再構築された妄想」を「記憶」と定義するならば、それを「赤ん坊の頃の記憶」としても言語的に間違っていないだろう。
自己愛が発達した以降の、鏡像段階以降の人の精神状態にとって、赤ん坊の頃の精神状態を、(斜線がひかれていない)ナマのエスを惹起することは非常に困難なのである。
こういった困難さの一因として、「忘れさってしまっている事実を認められない」という「正常という精神疾患」の一症状がある。
このようにわたしには思える。
フロイトは言う。
「子供時代は、そのものとしては、もうない」
またこの「忘れさり」は、クリステヴァ論における「アブジェクシオン」に相当するだろう。
かく言うわたしは、「赤ん坊の頃の記憶」なんて覚えていない。
しかし、人間関係などといったことより、自身の脳内体内反応の方に興味を向けてしまう傾向がある。この記事やこの記事やこの記事はそういった症状が表れているとわたしは考える。「わたしという症状」について。
パニック発作とは、「大人の認識パターン」では計れない精神状態である。現代ではてんかんとパニック発作は別物とされているが、てんかんの一種だと考えられていた時代がある。わたしは子供時代てんかんを疑われていた。てんかんという脳波異常を示す体内・脳内反応を感知することは、「自体愛的な意識の向け方」である。
ここで「脳が刺激を感知するなら脳の刺激を感知することはできないだろう」という反論があるかもしれないが、たとえば、あくまでたとえばではあるが、大脳皮質の脳内反応を嗅脳が感知していてもおかしくはないだろう。
この辺の詳細を述べるならば、脳地図論的考え方ではなく、神経系としての考え方の方が便宜的だ。たとえばこの記事で言うならば、(ヒトの脳に特徴的な)「言語信号系」と「感覚信号系」の反応を、「無条件反射信号系」が感知してもおかしくない、という言い方になるだろうか。脳の信号系は、初期の神経学においては一方通行的に伝わるものだと考えられていたが、シナプスのミクロな研究が進むにつれて、(これまでとは)逆方向にも信号は伝達することがわかってきた。
そもそも量子力学を考えれば、すべての物質はその波動性によって相関している。これを原理にすえて自然科学全般を見直そう、というのが「相関基礎科学」であり、したがって複雑系研究なども取り入れられたりしているわけだが、東大ではなんか意味がよくわからない「新領域創成科学」とかって名称になっちゃったしな。「相関」という意味には「学問領域間の相関」ももちろん射程に入っているが、物質的な原理をもとにした名称だったのである。それをわけのわからない奴らが「学問領域間の相関」としての意味だけと勘違いしたから「新領域なんちゃら」なんて名前にした、とわたしは推測している。国語力のない奴のセンスだなあ、って思ったわ。この名称はじめて見たとき。
フロイトは神経生理学者だったのだが、そちら方面での功績はまったく認められていない。とはいえ「φニューロン」「ψニューロン」「接触防壁」などという概念は、先の「脳の信号系は、初期の神経学においては一方通行的に伝わるものだと考えられていたが、シナプスのミクロな研究が進むにつれて、(これまでとは)逆方向にも信号は伝達することがわかってきた。」という現代の神経学を予見したものともわたしには思える。まあんなこと言っても現代神経生理学者からはバカにされるだけだろうがな。
あ、ごめんあたし基本的に理系脳で「精神分析は科学なんかじゃねえだろ」って思ってる部分あるからさ。精神分析村の住人なのにね。
科学はもうお腹いっぱい。うんこ出すだけだわ。
栄養分のない食べ物。あとに何も残らない。
科学をいくらやってもわたしは楽に生きられない。
「もっと隠喩が豊かな学問をやりたい」
自傷的に言ってみた。揶揄でもあるな。脳内お花畑な奴らに対する。
あ、ごめん独り言。
なんの話だっけ。
パニック障害の発作における「意識的に発作を抑えること」を可能にせしめるには、まずその徴候を感知するやり方である「自体愛的な意識の向け方」を覚えなければならない、って話か。
単にそれだけ。
つかさー、「それ」って病自体を見つめないと、「それ」をどうこうすることなんかできないわけじゃん? 根本解決にならないわけじゃん?
まあ確かに「それ」はいやなものだけど。苦痛だけど。だから精神疾患なわけだけど。
でもなー。
苦痛ではあるんだが、それだけでもないんだよなー。
てんかん症者がオナニーのように発作を楽しむ事例があったりするんだが、それと似たようなものかな、という自覚はなきにしもあらずだ。シモ師は宜保愛子の後釜としてはいまいち。
うんこ。
「接触防壁」(ビオンのじゃなくてフロイトの)って肛門じゃね。
肛門の中見たがる奴って結構多いよな。すげーいやだったわ。
見せたくないってわけじゃないが、見たいなら「わたし」を殺してからにしてくれ。
=====
「もっと隠喩が豊かな学問をやりたい」
自傷的に言ってみた。
=====
とか書くと水上あたりから「その彼女も自傷的にそう言ったかもしれない」とか言ってきそうでうざいんだが、まあ一応説明しておこう。
二階堂奥歯は「もっとたくさんの物語を読みたい」だった。これはわたしにとって「もっと隠喩が豊かな小説を読みたい」とほぼ等しい。
しかしわたしは二階堂には(カチンとくることはあっても)別に殺意を覚えなかった。
なぜならこの記事に書いているように彼女は「隠喩を読み込まれることの被害」を知っていると思えたからだ。
ではマン汁ババアはどうか。
少なくともそのBBSにおける彼女には「隠喩を読み込まれることの被害」の症状は見られなかった。
「そこで見られなかっただけ、隠しているだけかもしれない」
うん、そうだね。
だからわたしはこう言ってるじゃないか。
「エスをさらけ出せよ」と。
「ヒステリーになれよ」と。
そうして確認しなければ、彼女が「隠喩を読み込まれることの被害」を受けたかどうかはわからない。
むしろ、被害を訴えないからにはその被害を受けていない可能性が高い、と考えるのは非論理的か?
もちろん被害を受けた可能性を完全に捨てさっているわけではない。わたしはババアのほんの一部しか知らない。
だからそれを確認するために「エスをさらけ出せよ、ヒステリーになれよ」と言っているわけだが、論理的に矛盾しているか?
どうだい? わたしの脳内水上や。
この被害が問題なんだよ。
「言語信号系」や「感覚信号系」から受ける「無条件反射信号系」の被害が。
だるいー。無料動画漁ってる。すげーね中国サイト。
あれだ、二宮和也くんって、演技うまいとは言わないけど、演技派になる才能がありそうだ。ジャニーズの中では。
ドラマ主体の仕事させてんのかね。
相変わらず幽体離脱練習中。精神力だけで自殺する修行。眠剤の画期的使用法。あ、ODなんかしてないよ。一日分の用量は守ってる。たりなくなったりはしないし。
ブログ休止してから笑えるほど調子がよくなった。やっぱブログが原因だったんだな、と今さらのように思う。
「じゃあやめればいいのに」
うっせ、あたしの勝手だろんなの。
「これ」を言語化できる場は以外に少ない。口頭だとあとで読み返して分析できない。書き言葉ならば。誰も読まない日記のようなものだと、あとで読み返しても何を言っているのかわけわからない。いやこのブログもそうなんだが。ときどき書いているけど昔の記事なんてわたし自分で何言っているのか本気でわかんないものもある。結構多い。
自分にのちの自分が理解できるような日記を書かせるため、このブログをやっている。公開の方がいい。その方が、いや確かに理解できない記事も多いのは事実だが、昔書いていた誰にも見せる目的のない文章よりかは理解できるし、精神分析論の勉強にもなる。自分が教授でありまた生徒でもある。まあこれはこじつけかな。でもこのこじつけ結構理由としてはでかい気がする。
さて。
現状、この一連の「藤田一派殴り込まれ事件」については、夢の出来事のような感覚である。「現実味がない」という意味ではない。わたしにとっては「日常という現実」の方が「現実味がない」からだ。では「現実味がある」のかと言うとそうでもない。他人事のような感覚。
というか、休止しているあいだ遠出などしたりしたのだが、何かこう、薄い膜が張っている感じがする。
これが離人症か、と思った。これがわかっただけでもこの休止は有用だった。
しかし、あまり物珍しさはなかった。むしろこれがわたしの「調子いい状態」である。発症する以前の状態だ。
わたしが一時期(いや今でも若干そうなのだが)座右の銘にしていた「人生は夢、世界は劇場」とは、この「薄い膜のようなもの」を表現したくて、そう言っていたのかもしれない。
今回の一連の事件におけるわたしの精神状態変化は、非常に落差が大きい。これについてはこれまでなかったんじゃないかと思えるほどである。
この落差のおかげで、「人生は夢、世界は劇場」状態こそが、離人症の(わたしの主観における)具体ではないか、と直感できることができたわけだ。
「遠出をした」と書いているが別に宿泊旅行などはしていない。近場に足をのばしただけである。
こう書くと「パニック障害としてはおかしいんじゃないか」と自分で思う。
確かにわたしはブログを休止した直後、(いつもより)症状は悪化していた。水上さんのおかげで多少好転していたとはいえ。であるならば、予期不安で外出などできないのではないか、と思う。
そうなのだ。
しかしわたしは元来予期不安は希薄だ。この記事でも述べている通り。
予期不安という症状は、「いつ発作が起こるかわからない」と恐れるあまり、人が集まる場所に行けなくなる、というものだ。
わたしにも確かにそういう症状はある。たとえば昔、この記事でも書いた通り、バイクに乗っているときにそれらしき発作が起きた。このときは大事にいたらなかったが、もしもっとひどい発作だったならば、わたしは大きな事故を起こしていたかもしれない。
また、時系列ではそのあとの話になるが、電車の中でぶっ倒れたこともある。駅員さんに担がれたりして大変な騒ぎだった。電車の中だからよかったものの、また周囲の人の厚意に救われたものの、もし万が一、ホームの線路前で電車を待っているときにそうなったら。わたしは線路に落ちていたかもしれない。それでも助かる可能性はあるかもしれないが。
こういったことを考えると、確かに「危ないな」というような気持ちは生じる。
しかし不安になって外出できないほどに「危ない」とは思えない。
なぜなら、この記事から。
=====
また食事を摂らなくなった。そのせいか病院での待ち時間、気を失いかけた。貧血のようなものだ。しかし根性で耐えた。なんとかなるものなんだよ、根性で。
ここでの「根性」とは「意識的な努力」ぐらいに読み替えといて欲しい。
=====
いや、失神とパニック発作は別々の症状だと思う。
しかし、失神という身体変化における、予期不安における意味での想像的な「予期」ではなく、実際的な、体内脳内に生じるそれらしき反応をひき起こしそうな兆候を、わたしは感知できる。そしてそれこそ「根性」でそれをなんとかできる場合がある。
ずいぶん前の話でうろ覚えだが、パニック障害関係の掲示板で、わたしこの主張と似た論旨、「意識的に発作を抑えることができる」というようなことを述べていた当事者がいた。その論は他の当事者から猛反発を喰らっていたのだが、わたしは彼の主張に一部納得してしまう。「精神疾患なんて根性でなんとかなる」的な男性原理主義的言い分に組する主張となっていしまうが、わたしの実感から「意識的に発作はある程度抑制できる」と思ってしまう。その記事でも書いた通りだ。
=====
こんなこと言うと「精神疾患なんて根性が足りないんだよ」などという体育会系的言い分を擁護しているように思われるかもしれないが、その通りなのだ。字義通り受け取れば正しい部分もある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。根性でなんとかなる部分はわたしたちが思っているより遥かに多い。精神含めた人体とは未知の世界の凝縮体である。ラカン派精神分析と対立する自我心理学的言い分も援用可能だろう。自我にはわれわれが考える以上の力が備わっている、などと。
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たとえば先に挙げた「バイクに乗っていたときの症状」などは、明らかにパニック発作だと言えよう。
しかしこのときは、このブログでの「藤田一派殴り込まれ事件」のわたしの精神状態と比較すると、パニック度、というと語弊がありそうなので、わたし個人の用語として「うわあああ」度と言いたいが、それは低かったように思う。
バイクを停めて数分間涙と鼻水を垂らしまくってティッシュで拭いてまたバイクに乗って劇場に向かった。停車していたのは、十分、二十分にも満たなかったと思う。劇場では知人の演劇人たちと談笑したりしていただろう。このときのわたしが「さっきこういうことがあってさー」なんて言っても誰も信じないだろう。
むしろこのときのわたしは、バイクから降りて、もっと重いパニック発作を必死で抑制していたのではないか、と思える。むしろこの発作は徴候止まりで済んだものだと。だからこそその直後の舞台鑑賞もなんなくこなせた、というわけだ。
また、まったく別の話になるが、こういった話を聞いたことがないだろうか。パニック障害でもなんでもないのだが、「貧血の達人」を自称する奴がいたとする。達人にもなると、たとえば学校朝礼で長時間立たされているときなど、「あ、貧血来るな」とわかるらしいのだ。それは「気持ち悪さ」ではあるが「何か微妙な違いがある」と。そして達人は自分の足で先生のもとに向かい、許可を取って保健室で休む。
貧血症は精神疾患とは言えないが、これも一種の「精神疾患なんて根性でなんとかなる」だとわたしには思える。
かのように、「パニック発作が起きるかもしれない」という予期は、それほどわたしを不安にさせない。
とはいえ実際に都内の駅で衆目を集める身になればわかると思うが、事後の対応が非常にめんどくさい。
そう、わたしにとって予期不安は「不安」ではなく「めんどくさい」なのだ。
いや、そうではない場合もないことはない。今回の事件におけるわたしの精神状態は、「わたしが殺意を持ってしまうそのババアと面会するとわたしはパニックを起こすだろう」という予期からなったものだと言える。これは「めんどくさい」などではない。とはいえ「不安」でもない。単純に「恐怖」と言った方がまだ妥協できる。
パニック障害の予期不安における「予期」とは、その定義上、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像的なものだ。
しかしわたしはそういった想像的な予期による不安は希薄である。
であるならば、今回の、「フジタゼミに誘われることによる、マン汁ババアと面会した場合を想像しての発作(らしきもの)」は矛盾する。
確かにわたしはそういった場合を想像した。しかしわたしに発作らしきものを生じさせた原因は、そのような想像ではないと思える。
「もっと隠喩が豊かな作品を読みたい」
この言葉から連想された、「物語恐怖症」だった頃や、これまで「隠喩を読み込まれる被害」を受けたことが、トラウマ的に呼び起こされたのだ、と言えよう。
であるならばパニック障害の予期不安も、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像を原因とした不安ではなく、そういった想像から、あくまで連想された、「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰し不安を覚えるのではないか。
つまり、「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像が原因なのではない。それはトラウマの回帰のひき金にすぎない。
こういったところの考慮が、パニック障害関係の論には欠けているように思える。
簡単に言えば、「対人(赤面)恐怖症とパニック障害の予期不安はまったく別物である」という話である。「むしろそれはPTSDに近いのではないか」という主張だ。
むしろ対人恐怖症をパニック障害の予期不安と誤診しているケースも多いのではないだろうか、などと疑ってしまう。いやまあ、パニック発作そのものがあるかないかって決定的な診断基準はあるだろうから、この誤診は少ないか。
たとえば先の、「パニック障害関係の掲示板で、わたし主張と似た論旨、「意識的に発作を抑えることができる」というようなことを述べていた当事者が、他の当事者から袋叩きにあった」事件などは、こういったところの考慮がたりなくて生じたのではないか、と思える。
彼に対する反論は「社会的な生活は必要不可欠である」といったような論旨が多かった。「日常生活を送りながらパニック障害と闘っている人もいます」というような反論。
わたしにはこの反論がまったく理解できなかった。いや言っている意味はわかるのだが、なぜそれが「意識的に発作を抑えることができる」という主張の反論になるのかがわからなかった。
今考えると反論者たちは、予期不安の原因とされている「「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像」を、意識的に取り除けばいい、というような主張に理解したのではないか。
とはいえ、その主張をした人が、「意識的に発作を抑えることができる」という意味を「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰することを抑えることができる」として言ったのは定かではない。わたしは論点が理解できなかったのであまりその議論を読み込まなかったのだが、むしろ彼自身がそれ以前に「「もし万が一たとえば人通りの多い場所で発作が起きたら」という想像」を抑えればいい、というような主張をしていたのかもしれない。であるなら先のような反論はありだ。現代において社会的生活を送る上で「人通りの多い場所」に行くことは必需要素と言っても過言ではない。
少なくともわたし個人が、彼の主張を「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰することを抑えることができる」と解釈した、というだけである。
もちろんこれはもともと予期不安が希薄なわたし個人の解釈であるため、この主張が他のパニック障害者たちに適用するかどうかはわからない。
断っておくが、わたしはパニック発作そのものや、「「発作が起きた状態」がトラウマ的に回帰する」ものとしての予期不安を、完全に抑えられる、と言っているわけではない。実際、「藤田一派殴り込まれ事件」におけるわたしの精神状態について「それを抑えきれてないじゃないか」と言われても言い返せない。
起きるものは起きる。「出物腫れ物ところ構わず」である。しかしおならは我慢できる。いや確かに腫れ物は精神的な作用で抑えることは難しいかもしれないが、たとえば皮膚を清潔にするなどといった予防が可能である。
予防にしろ常に継続できるほど簡便な予防策などない場合もあるだろう。その場合は、その徴候を感知し、発作が悪化する直前だけ、なんらかの可能な予防的措置を施せばいいのである。
要するに、それを完全に防ぐことはできないが、ある程度の対応は可能だろう、と言っているわけである。
パニック発作などはそれこそ「常に継続できるほど簡便な予防策などない場合」にあてはまろう。であるならば、もし予防的対策を施すのならば、まずその徴候を感知しなければならない。
ここが問題なのである。
これは「正常な精神」「正常という精神疾患」においてもっとも難しい作業なのだ。
これは自身の脳内という体内反応に対する感知である。いわば意識を体内に向けている状態である。しかし「正常な精神」がこれが非常に困難だ。彼らの意識は常に皮膚の外部へと向けられている。内部に向けられているのは睡眠欲や食欲などといった本能的なことに限られている。
これを精神分析論にあてはめるならば、自体愛という概念に相当するとわたしは考える。生まれたばかりの赤ん坊における意識の向け方が自体愛だ。赤ん坊は皮膚の外側と内側の区別なしに、感覚器官の反応も内臓の反応も筋肉の反応もそういう刺激として感知している。(数的に)過剰な刺激の中を生きている。
こういった意識の向け方たる自体愛が発達し自己愛になるのだが、これは皮膚という外面へ意識を集中させることであり、自体愛とは別物である。自己愛へと発達できた幼児は、それ以降「感覚器官や内臓や筋肉などといった(数的に)過剰な刺激」に惑わされることはない。
この自体愛から自己愛への発達を、鏡という比喩を用いて論じたのがラカンの鏡像段階論である。鏡は体内の反応を映し出さない。そこにあるのは皮膚のみである。
この鏡像段階(生後六ヶ月から十八ヶ月)を経て、幼児は自体愛から自己愛へと発達し、かつ対象愛へと発達するのだが、そこは省略する。ここで論じようとしているのは自体愛だからだ。
余談になるが、こういった「自体愛的な意識の向け方」を自身に復興させようという作業が、禅の修行であったり暗黒舞踏の稽古だったりするのではないか、とわたしには思える。たとえば暗黒舞踏の演劇論には、「外的発散」の対として「内的強度」なるキーワードがあるのだが、そういったことではないかと。暗黒舞踏とは「観客によりよく魅せるため」ではなく自身の「内的強度」に重心を置いた表現手法なのである。
このような「自体愛的な意識の向け方」を自身に復興させようという作業は、文化人類史スパンで考えても非常にマイナーである。歴史の表舞台に表れてこない。
それは「正常な精神」が、「自体愛的な意識の向け方」そのものを忘れさってしまっているからではないだろうか。
この「忘れさり」は非常に強力なものである。だからこそ禅の修行や暗黒舞踏の稽古は困難・難解を極める。だからこそ「正常な精神」にとって困難な作業になる。
むしろ人は「赤ん坊の頃の精神状態」を忘れさってしまっている、ということを認めない。たとえば「私は赤ん坊の頃を覚えている」などと言い張る人がいる。だがその記憶を聞いても、まったく自体愛的ではないことが多い。大人が聞いても想像しやすいようなまとまりがある絵としてその記憶はある。赤ん坊は視覚も聴覚も大人よりはるかに未熟な状態で生まれてくるという器質的な事実があるにも関わらず、その赤ん坊の視覚や聴覚は大人のごとく発達した感覚器官として「赤ん坊の頃の記憶」を認知している。
こういった「赤ん坊の頃の記憶」はむしろ自己愛が発達した以降の精神状態がする妄想でしかないのだが、それを認めようともしない。
ただし、事例にもよるが、百歩譲って「赤ん坊の頃の、感覚器官や内臓や筋肉からの各刺激を受けている状態におけるたまたまそのうちの感覚器官の刺激について、発達した目や耳で構築される「大人の認識パターン」により、脚色されたあるいは再構築された妄想」とは言えるかもしれない。この「再構築された妄想」を「記憶」と定義するならば、それを「赤ん坊の頃の記憶」としても言語的に間違っていないだろう。
自己愛が発達した以降の、鏡像段階以降の人の精神状態にとって、赤ん坊の頃の精神状態を、(斜線がひかれていない)ナマのエスを惹起することは非常に困難なのである。
こういった困難さの一因として、「忘れさってしまっている事実を認められない」という「正常という精神疾患」の一症状がある。
このようにわたしには思える。
フロイトは言う。
「子供時代は、そのものとしては、もうない」
またこの「忘れさり」は、クリステヴァ論における「アブジェクシオン」に相当するだろう。
かく言うわたしは、「赤ん坊の頃の記憶」なんて覚えていない。
しかし、人間関係などといったことより、自身の脳内体内反応の方に興味を向けてしまう傾向がある。この記事やこの記事やこの記事はそういった症状が表れているとわたしは考える。「わたしという症状」について。
パニック発作とは、「大人の認識パターン」では計れない精神状態である。現代ではてんかんとパニック発作は別物とされているが、てんかんの一種だと考えられていた時代がある。わたしは子供時代てんかんを疑われていた。てんかんという脳波異常を示す体内・脳内反応を感知することは、「自体愛的な意識の向け方」である。
ここで「脳が刺激を感知するなら脳の刺激を感知することはできないだろう」という反論があるかもしれないが、たとえば、あくまでたとえばではあるが、大脳皮質の脳内反応を嗅脳が感知していてもおかしくはないだろう。
この辺の詳細を述べるならば、脳地図論的考え方ではなく、神経系としての考え方の方が便宜的だ。たとえばこの記事で言うならば、(ヒトの脳に特徴的な)「言語信号系」と「感覚信号系」の反応を、「無条件反射信号系」が感知してもおかしくない、という言い方になるだろうか。脳の信号系は、初期の神経学においては一方通行的に伝わるものだと考えられていたが、シナプスのミクロな研究が進むにつれて、(これまでとは)逆方向にも信号は伝達することがわかってきた。
そもそも量子力学を考えれば、すべての物質はその波動性によって相関している。これを原理にすえて自然科学全般を見直そう、というのが「相関基礎科学」であり、したがって複雑系研究なども取り入れられたりしているわけだが、東大ではなんか意味がよくわからない「新領域創成科学」とかって名称になっちゃったしな。「相関」という意味には「学問領域間の相関」ももちろん射程に入っているが、物質的な原理をもとにした名称だったのである。それをわけのわからない奴らが「学問領域間の相関」としての意味だけと勘違いしたから「新領域なんちゃら」なんて名前にした、とわたしは推測している。国語力のない奴のセンスだなあ、って思ったわ。この名称はじめて見たとき。
フロイトは神経生理学者だったのだが、そちら方面での功績はまったく認められていない。とはいえ「φニューロン」「ψニューロン」「接触防壁」などという概念は、先の「脳の信号系は、初期の神経学においては一方通行的に伝わるものだと考えられていたが、シナプスのミクロな研究が進むにつれて、(これまでとは)逆方向にも信号は伝達することがわかってきた。」という現代の神経学を予見したものともわたしには思える。まあんなこと言っても現代神経生理学者からはバカにされるだけだろうがな。
あ、ごめんあたし基本的に理系脳で「精神分析は科学なんかじゃねえだろ」って思ってる部分あるからさ。精神分析村の住人なのにね。
科学はもうお腹いっぱい。うんこ出すだけだわ。
栄養分のない食べ物。あとに何も残らない。
科学をいくらやってもわたしは楽に生きられない。
「もっと隠喩が豊かな学問をやりたい」
自傷的に言ってみた。揶揄でもあるな。脳内お花畑な奴らに対する。
あ、ごめん独り言。
なんの話だっけ。
パニック障害の発作における「意識的に発作を抑えること」を可能にせしめるには、まずその徴候を感知するやり方である「自体愛的な意識の向け方」を覚えなければならない、って話か。
単にそれだけ。
つかさー、「それ」って病自体を見つめないと、「それ」をどうこうすることなんかできないわけじゃん? 根本解決にならないわけじゃん?
まあ確かに「それ」はいやなものだけど。苦痛だけど。だから精神疾患なわけだけど。
でもなー。
苦痛ではあるんだが、それだけでもないんだよなー。
てんかん症者がオナニーのように発作を楽しむ事例があったりするんだが、それと似たようなものかな、という自覚はなきにしもあらずだ。シモ師は宜保愛子の後釜としてはいまいち。
うんこ。
「接触防壁」(ビオンのじゃなくてフロイトの)って肛門じゃね。
肛門の中見たがる奴って結構多いよな。すげーいやだったわ。
見せたくないってわけじゃないが、見たいなら「わたし」を殺してからにしてくれ。
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「もっと隠喩が豊かな学問をやりたい」
自傷的に言ってみた。
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とか書くと水上あたりから「その彼女も自傷的にそう言ったかもしれない」とか言ってきそうでうざいんだが、まあ一応説明しておこう。
二階堂奥歯は「もっとたくさんの物語を読みたい」だった。これはわたしにとって「もっと隠喩が豊かな小説を読みたい」とほぼ等しい。
しかしわたしは二階堂には(カチンとくることはあっても)別に殺意を覚えなかった。
なぜならこの記事に書いているように彼女は「隠喩を読み込まれることの被害」を知っていると思えたからだ。
ではマン汁ババアはどうか。
少なくともそのBBSにおける彼女には「隠喩を読み込まれることの被害」の症状は見られなかった。
「そこで見られなかっただけ、隠しているだけかもしれない」
うん、そうだね。
だからわたしはこう言ってるじゃないか。
「エスをさらけ出せよ」と。
「ヒステリーになれよ」と。
そうして確認しなければ、彼女が「隠喩を読み込まれることの被害」を受けたかどうかはわからない。
むしろ、被害を訴えないからにはその被害を受けていない可能性が高い、と考えるのは非論理的か?
もちろん被害を受けた可能性を完全に捨てさっているわけではない。わたしはババアのほんの一部しか知らない。
だからそれを確認するために「エスをさらけ出せよ、ヒステリーになれよ」と言っているわけだが、論理的に矛盾しているか?
どうだい? わたしの脳内水上や。
この被害が問題なんだよ。
「言語信号系」や「感覚信号系」から受ける「無条件反射信号系」の被害が。
だるいー。無料動画漁ってる。すげーね中国サイト。
あれだ、二宮和也くんって、演技うまいとは言わないけど、演技派になる才能がありそうだ。ジャニーズの中では。
ドラマ主体の仕事させてんのかね。
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