「筋を通すこと」
2010/11/02/Tue
複雑系研究者金子邦彦の言葉。
「(複雑系研究とは)複雑な物を複雑なまま理解する」
精神分析家向井雅明の言葉。
「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである」
これらは同じ意味だとわたしは考えている。向井の文中の「精神分析理論」を「複雑系研究」と代入すれば、ほとんど同じ意味となるのがわかるだろう。
「複雑系研究」にしろ「精神分析理論」にしろ、「複雑な物」や「その対象」という研究対象を後追いしている。
科学の理論はそうでなくてはならない。
反証主義とは、「反証可能な理論こそが科学である」という意味ではない。「研究対象(の実験や観察)によって理論は覆る、つまり理論は研究対象の後追いである」という意味である。
理論とは単なるシニフィアンの連鎖にすぎない。しかし、どうも一部の人間たちは、その研究対象より「単なるシニフィアンの連鎖」にすぎない「理論」を優先しがちである。
具体よりシニフィアンに執着している。
こういった人格傾向には、木村敏論における「ポスト・フェストゥム」という概念が相当するだろう。
……めんどくさくなった。
あほらし。
ほんと「思考実況」できなくなった。
「筋を通すこと」ってのを考えてたんだよね。
しかし現実は複雑だ。紆余曲折している。そんな中「筋を通そう」とするから大変なのだ。
いや逆な場合もある。現実を考慮しなければ、「筋を通すこと」は簡単だ。ただしこの場合の「筋」は「嘘」とほぼ同義になってしまうが。
現実があるからこそ「筋を通すこと」は困難なのである。
理論とはまさに「筋」だ。「論理的思考」とは筋道をきちんと立てて考える思考方法である。
しかし現実は紆余曲折している。
まるでブラウン運動する粒子のように無数の「筋」が絡まりあうだろう。現実という液体の上に浮かんだ「筋」という粒子の動き。
そうであるだけなのだ。
そういった、残酷的な現実であるだけ。
なのに現代の「筋」は、わたしから見ると「嘘」とほぼ同義になっているように思えて仕方がない。
言葉の実用面での意味として。
現代の「筋を通すこと」とは、「現実を棄却すること」になってはいないだろうか?
現代の「筋」は「嘘」とほぼ同義になってはいないだろうか?
紆余曲折している現実に、まっすぐな一本の線を引くことが、「筋を通すこと」になってはいないだろうか?
紆余曲折している現実の上で、曲がりくねっていながらも、その過程が連続していることが「筋が通っている」ことである。
ブラウン運動している各粒子の一つ一つを取り違えていないことである。
「筋」は「通す」ものではない。「筋」は「通っている」か「通っていないか」が判断されるのみだ。
曲がりくねっていながらも「過程が連続している」すなわち「筋が通っている」粒子を無視して、大きな川の流れのごとき一本の線を引くことが、「筋を通すこと」になっている。
それは、現実を無視していることになる。
わたしにとって、少なくとも現代の「筋を通す」と言う言葉の意味は、「嘘を通す」と同義である。
「(複雑系研究とは)複雑な物を複雑なまま理解する」
精神分析家向井雅明の言葉。
「つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである」
これらは同じ意味だとわたしは考えている。向井の文中の「精神分析理論」を「複雑系研究」と代入すれば、ほとんど同じ意味となるのがわかるだろう。
「複雑系研究」にしろ「精神分析理論」にしろ、「複雑な物」や「その対象」という研究対象を後追いしている。
科学の理論はそうでなくてはならない。
反証主義とは、「反証可能な理論こそが科学である」という意味ではない。「研究対象(の実験や観察)によって理論は覆る、つまり理論は研究対象の後追いである」という意味である。
理論とは単なるシニフィアンの連鎖にすぎない。しかし、どうも一部の人間たちは、その研究対象より「単なるシニフィアンの連鎖」にすぎない「理論」を優先しがちである。
具体よりシニフィアンに執着している。
こういった人格傾向には、木村敏論における「ポスト・フェストゥム」という概念が相当するだろう。
……めんどくさくなった。
あほらし。
ほんと「思考実況」できなくなった。
「筋を通すこと」ってのを考えてたんだよね。
しかし現実は複雑だ。紆余曲折している。そんな中「筋を通そう」とするから大変なのだ。
いや逆な場合もある。現実を考慮しなければ、「筋を通すこと」は簡単だ。ただしこの場合の「筋」は「嘘」とほぼ同義になってしまうが。
現実があるからこそ「筋を通すこと」は困難なのである。
理論とはまさに「筋」だ。「論理的思考」とは筋道をきちんと立てて考える思考方法である。
しかし現実は紆余曲折している。
まるでブラウン運動する粒子のように無数の「筋」が絡まりあうだろう。現実という液体の上に浮かんだ「筋」という粒子の動き。
そうであるだけなのだ。
そういった、残酷的な現実であるだけ。
なのに現代の「筋」は、わたしから見ると「嘘」とほぼ同義になっているように思えて仕方がない。
言葉の実用面での意味として。
現代の「筋を通すこと」とは、「現実を棄却すること」になってはいないだろうか?
現代の「筋」は「嘘」とほぼ同義になってはいないだろうか?
紆余曲折している現実に、まっすぐな一本の線を引くことが、「筋を通すこと」になってはいないだろうか?
紆余曲折している現実の上で、曲がりくねっていながらも、その過程が連続していることが「筋が通っている」ことである。
ブラウン運動している各粒子の一つ一つを取り違えていないことである。
「筋」は「通す」ものではない。「筋」は「通っている」か「通っていないか」が判断されるのみだ。
曲がりくねっていながらも「過程が連続している」すなわち「筋が通っている」粒子を無視して、大きな川の流れのごとき一本の線を引くことが、「筋を通すこと」になっている。
それは、現実を無視していることになる。
わたしにとって、少なくとも現代の「筋を通す」と言う言葉の意味は、「嘘を通す」と同義である。
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