「差別問題に固着する症状」
2011/01/17/Mon
「差別問題」ファシズム。
差別問題に巻き込まれるという実害に対し「心からの謝罪」がなんの役に立つのか。そもそも社会から受ける実害を避けるためならば、これについての記事もとっとと削除すべきなのではないか。
これについては参考として、「もう私のためにケンカはやめて」って立場のelveさんちに書いたコメントをこっちに加筆修正してコピペする。
=====
某さんは、「別IDの人と同一視され、別IDの人がそういった職業についていたこと」(以下「要件A」とする)に関わる二点を混同している。
一つは、要件Aにより社会的生活が脅かされること。
もう一つは、大野さんの心の中にそういった人たちへの差別があったかということ。
法的に問題となるのは前者である。後者は法的倫理の問題ではなくそれこそ「個人間の感情のもつれ」である。
この二点は論理的に別要件であるのに、それら強固に連結してしまっており、別々に考えられていない。
このことについてクサヴァは非論理的だとしているわけだな。
で、後者の問題を保留して前者の問題だけを考えるなら、Midasさんのコメントにわたしは同意する。
後者の問題を考えるならば、どこまでそれを考慮するかの問題になる。無意識レベルまで「差別心はあったかどうか」を論じるならば、大野センセを精神分析しなければならないだろう。
=====
謝罪にこれほど拘る当該人物は、「要件Aにより社会的生活が脅かされること。」を問題にしているのはないことが明白である。
やはり彼女は後者の「大野さんの心の中にそういった人たちへの差別があったかということ。」と重視しているのであり、今回の問題が「社会生活が脅かされること」などではなく、「個人間の感情のもつれ」であることを裏づけている。
謝罪なんて謝罪してもらう方の支配者的な欲望の満足でしかないのである。
謝罪させれば差別がなくなるとでも思っているのか。
謝罪を強要すれば負的な感情が増幅するに決まっておろう。
結局そいつの支配者的な欲望でしかなかったんだよ。最終的に求めたのが謝罪ならばそう判断されても仕方ないだろう。
とか書いたら次わたしになるのかね? その支配者的欲望のターゲットは。
「差別問題に固着する症状」についての精神分析的解釈、か。
たとえばわたしはメンヘラだ。メンヘラ差別も社会に歴然として存在する事象である。就職活動に支障をきたすのはほとんどのメンヘラが身をもって知っていることだろう。日常生活レベルでも「メンヘラの言うことだから」と聞いてもらえない。
しかし精神疾患には治るものが多い。精神障害である自閉症などは治らないが。統合失調症の寛解問題もよく議論されているテーマだ。鬱病なども再発の可能性が高いことは一般的に認められている事実である。
治れば被差別環境から抜け出せる。単にそれだけ。
わたしはメンヘラ差別を差別問題だと思わない。わたしが「メンヘラ差別」と言うときは一種の揶揄、皮肉として言っている場合が多い。
これは差別などではなく、パニック障害者であるわたし個人の問題である。パニック障害者にもいろいろいる。そもそも精神疾患の診断などはっきり言って水物である。わたしは最初抑鬱状態と診断されていたし、ブログでは自称日本ラカン協会会員の木田原形而と精神科医の藤田博史両名から境界例だと「ネット上診断」された。わたしはそれらについて反論していない(ここのコメント欄)。彼らの指摘以前から自分の症状を「境界例っぽいなあ」と思っていたからだ。
ここからなぜ「差別問題」として訴えることになるのか。
いやわたしの場合は、って話。わたしが興味本位で勝手にやっている思考、妄想にすぎません。
さあ考えてみっべ。
いとうあさこがデブっててワロタ。
どうでもいいけど今一番気になっているのは、ああいう文章が「心からの反省と謝罪」になるのかがよくわからない。
よくわからんな、うわべにこだわる人の考え方って。うわべをきちんとしたら「心からの反省と謝罪」になるのか。小学校教育みたいだな。「礼儀正しく謝れば心からの反省とみなされる」って洗脳があったりすんじゃねえの。まあわたしは子供の頃は無表情だったらしく、別に悪いとは思ってない(「なんで怒ってるの?」とは思ってることが多い)まま謝ってもなんか「心からの反省」に見てくれたのかもしれない。リアルでは結構大人しいタイプだよ。ネット弁慶。クサヴァも実は結構そういうタイプなんじゃねえの(笑)。
ふーん。
それ、本当にお前が求めていたものかい? お前はそれを「心からの反省と謝罪」と思えるのかい?
お前が欲望しているのは、そんなことだったのかい?
お前が本当に欲望しているのは、なんだい?
そもそも相手に謝罪してもらって何が得られるのだろう?
「自閉症者は謝らない」という一般的言説がある。しかしわたしが臨床したアスペルガー症候群者のほとんどが「謝ったことがある」という。「私はよく謝る方だ」という人もいる。
しかし本音を聞き出すと、大体の場合、わたしと同様に「なぜ悪いのかわからないけれど、とりあえずその場をやりすごすために謝っている」と言う。アスペルガー症候群者はコミュニケーションにおける心の傷つきやすさもあるので、心的負担を感じながら、だけど「なぜ悪いのかわからないけれど、とりあえずその場をやりすご」そうとして謝っているその姿は、相手からすれば「心から反省している」ように見えるのかもしれない。
しかしなぜ悪いのかがわからないから、そのあとまた同じような言動を取って相手を怒らせたりするんじゃないだろうか。「反省してなどなかったじゃないか」と。わたしの小中学生の頃がそうだった。
「反省」に限らず、人はなんでこうも簡単に「心からのあれこれ」と言えるのだろう? そんなもん見た目じゃ絶対わからないことなのに。
本当にわけわからない。
あ、前記事の呼びかけの成果かこんな記事書いてくれた人がいる。
=====
自分の道徳的偏見をことごとく解消しながら、他人の汚辱のなかに、その人間に親切をほどこす理由しか見出さず、その親切のしるしが、それを受けとる側に貴重だけだと感じられれば感じられるほどそれをほどこす側の自尊心をくすぐる、あの傲慢な慈悲心(プルースト)
=====
いいこと言うなプルースト。がんばって読み進めてみるかな。
これってこの記事の、
=====
キリスト教的には人間として最悪な部類に入るババア。薄汚れたバイタに同情を寄せるババア。自分を美化させる目的で、自分がキリストにでもなったつもりで、石をぶつけられるバイタを庇うババア。そういう態度こそ本質的に石を投げつける奴らと同じものだと気づけないババア。むしろいっそ石を投げてくれる男どもの方が正直で清清しい。なのでわたしは真っ先にそのババアに唾を吐く。
=====
ということだな。親切を施す側とそれを受け取る側の視点の違いはあるが。
この流れだと自己分析になりそうなのでここでストップ。
つかまあ記事タイトルにもなっているこれだよな。
=====
悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある(ヘーゲル)
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この「悪」に「差別」を代入すれば、今回の一件の解釈として端的にまとめられると思う。
あと事務連絡だが、この記事からコメント、トラバ開放します。
差別問題に巻き込まれるという実害に対し「心からの謝罪」がなんの役に立つのか。そもそも社会から受ける実害を避けるためならば、これについての記事もとっとと削除すべきなのではないか。
これについては参考として、「もう私のためにケンカはやめて」って立場のelveさんちに書いたコメントをこっちに加筆修正してコピペする。
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某さんは、「別IDの人と同一視され、別IDの人がそういった職業についていたこと」(以下「要件A」とする)に関わる二点を混同している。
一つは、要件Aにより社会的生活が脅かされること。
もう一つは、大野さんの心の中にそういった人たちへの差別があったかということ。
法的に問題となるのは前者である。後者は法的倫理の問題ではなくそれこそ「個人間の感情のもつれ」である。
この二点は論理的に別要件であるのに、それら強固に連結してしまっており、別々に考えられていない。
このことについてクサヴァは非論理的だとしているわけだな。
で、後者の問題を保留して前者の問題だけを考えるなら、Midasさんのコメントにわたしは同意する。
後者の問題を考えるならば、どこまでそれを考慮するかの問題になる。無意識レベルまで「差別心はあったかどうか」を論じるならば、大野センセを精神分析しなければならないだろう。
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謝罪にこれほど拘る当該人物は、「要件Aにより社会的生活が脅かされること。」を問題にしているのはないことが明白である。
やはり彼女は後者の「大野さんの心の中にそういった人たちへの差別があったかということ。」と重視しているのであり、今回の問題が「社会生活が脅かされること」などではなく、「個人間の感情のもつれ」であることを裏づけている。
謝罪なんて謝罪してもらう方の支配者的な欲望の満足でしかないのである。
謝罪させれば差別がなくなるとでも思っているのか。
謝罪を強要すれば負的な感情が増幅するに決まっておろう。
結局そいつの支配者的な欲望でしかなかったんだよ。最終的に求めたのが謝罪ならばそう判断されても仕方ないだろう。
とか書いたら次わたしになるのかね? その支配者的欲望のターゲットは。
「差別問題に固着する症状」についての精神分析的解釈、か。
たとえばわたしはメンヘラだ。メンヘラ差別も社会に歴然として存在する事象である。就職活動に支障をきたすのはほとんどのメンヘラが身をもって知っていることだろう。日常生活レベルでも「メンヘラの言うことだから」と聞いてもらえない。
しかし精神疾患には治るものが多い。精神障害である自閉症などは治らないが。統合失調症の寛解問題もよく議論されているテーマだ。鬱病なども再発の可能性が高いことは一般的に認められている事実である。
治れば被差別環境から抜け出せる。単にそれだけ。
わたしはメンヘラ差別を差別問題だと思わない。わたしが「メンヘラ差別」と言うときは一種の揶揄、皮肉として言っている場合が多い。
これは差別などではなく、パニック障害者であるわたし個人の問題である。パニック障害者にもいろいろいる。そもそも精神疾患の診断などはっきり言って水物である。わたしは最初抑鬱状態と診断されていたし、ブログでは自称日本ラカン協会会員の木田原形而と精神科医の藤田博史両名から境界例だと「ネット上診断」された。わたしはそれらについて反論していない(ここのコメント欄)。彼らの指摘以前から自分の症状を「境界例っぽいなあ」と思っていたからだ。
ここからなぜ「差別問題」として訴えることになるのか。
いやわたしの場合は、って話。わたしが興味本位で勝手にやっている思考、妄想にすぎません。
さあ考えてみっべ。
いとうあさこがデブっててワロタ。
どうでもいいけど今一番気になっているのは、ああいう文章が「心からの反省と謝罪」になるのかがよくわからない。
よくわからんな、うわべにこだわる人の考え方って。うわべをきちんとしたら「心からの反省と謝罪」になるのか。小学校教育みたいだな。「礼儀正しく謝れば心からの反省とみなされる」って洗脳があったりすんじゃねえの。まあわたしは子供の頃は無表情だったらしく、別に悪いとは思ってない(「なんで怒ってるの?」とは思ってることが多い)まま謝ってもなんか「心からの反省」に見てくれたのかもしれない。リアルでは結構大人しいタイプだよ。ネット弁慶。クサヴァも実は結構そういうタイプなんじゃねえの(笑)。
ふーん。
それ、本当にお前が求めていたものかい? お前はそれを「心からの反省と謝罪」と思えるのかい?
お前が欲望しているのは、そんなことだったのかい?
お前が本当に欲望しているのは、なんだい?
そもそも相手に謝罪してもらって何が得られるのだろう?
「自閉症者は謝らない」という一般的言説がある。しかしわたしが臨床したアスペルガー症候群者のほとんどが「謝ったことがある」という。「私はよく謝る方だ」という人もいる。
しかし本音を聞き出すと、大体の場合、わたしと同様に「なぜ悪いのかわからないけれど、とりあえずその場をやりすごすために謝っている」と言う。アスペルガー症候群者はコミュニケーションにおける心の傷つきやすさもあるので、心的負担を感じながら、だけど「なぜ悪いのかわからないけれど、とりあえずその場をやりすご」そうとして謝っているその姿は、相手からすれば「心から反省している」ように見えるのかもしれない。
しかしなぜ悪いのかがわからないから、そのあとまた同じような言動を取って相手を怒らせたりするんじゃないだろうか。「反省してなどなかったじゃないか」と。わたしの小中学生の頃がそうだった。
「反省」に限らず、人はなんでこうも簡単に「心からのあれこれ」と言えるのだろう? そんなもん見た目じゃ絶対わからないことなのに。
本当にわけわからない。
あ、前記事の呼びかけの成果かこんな記事書いてくれた人がいる。
=====
自分の道徳的偏見をことごとく解消しながら、他人の汚辱のなかに、その人間に親切をほどこす理由しか見出さず、その親切のしるしが、それを受けとる側に貴重だけだと感じられれば感じられるほどそれをほどこす側の自尊心をくすぐる、あの傲慢な慈悲心(プルースト)
=====
いいこと言うなプルースト。がんばって読み進めてみるかな。
これってこの記事の、
=====
キリスト教的には人間として最悪な部類に入るババア。薄汚れたバイタに同情を寄せるババア。自分を美化させる目的で、自分がキリストにでもなったつもりで、石をぶつけられるバイタを庇うババア。そういう態度こそ本質的に石を投げつける奴らと同じものだと気づけないババア。むしろいっそ石を投げてくれる男どもの方が正直で清清しい。なのでわたしは真っ先にそのババアに唾を吐く。
=====
ということだな。親切を施す側とそれを受け取る側の視点の違いはあるが。
この流れだと自己分析になりそうなのでここでストップ。
つかまあ記事タイトルにもなっているこれだよな。
=====
悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある(ヘーゲル)
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この「悪」に「差別」を代入すれば、今回の一件の解釈として端的にまとめられると思う。
あと事務連絡だが、この記事からコメント、トラバ開放します。
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