あーなんかもいっこ「自爆」発見してもた。
この記事。=====
大衆へ媚を売ることばかりに気を配っている輩
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これとかさ、
この記事で「感情のむすびつき」を主張するお前は、「大衆に媚を売ることばかりに気を配っている輩」ではないのか? 言っておくがまさにそういった「輩」が、災害をネタにさらに増えており(ここはお前と同意見になろう)、お前もその一人だ、というのがわたしの指摘なんだが。
こう考えると、ほんとこう、こいつの文章ほとんど一人相撲なんじゃないだろうか。
自分が示した症状について別の記事では他者の症状として批判する。
まさに「自分の欠点を他人に投影して批判すること」だ。
それに気づいているんだろうか。
いやそういった心理が自分も含める多くの人間にあることはこいつもわかってはいるんだろうが(
この記事とかそういった意味だよな)、具体的にわたしは指摘してやっているんだが。「ここがそう」って。
でさ、その続きの
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ツイッターなどは、ある面、まさにそういった連中を量産するシステムといってよい。本来、研究者として「知」に専念している筈の少数者までをも、「知識人」となることへの誘惑に身を晒させ、まさにそのように振舞わせてしまう
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とか、「感情のむすびつき」を主張してしまったお前が言うことじゃないと思うんだよな。
ツイッターとか関係なく、それはお前の症状としてある。
また、お前が「知識人」という「想像的な人間のあるタイプ」を欲望しているのは、
この記事でも見て取れる。
ほとんど自分の症状に対する批判なんだよね。
一人相撲。
一応少しは会話していたわたしとしては、何が何やら。よくわからない。
自分にある「知識人」という「想像的な人間のあるタイプ」への欲望による症状を、他人に投影して批判している、ってことくらいしか。
ここのコメント欄から。
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(何やら次の記事にある「当たり前の前提を何深刻ぶって言っちゃってんの君?」に当てはまりそうなコメントになってしまいましたが、偉人幻想を未だに持っている凡人愚民大衆な私は、知的水準の高い人達が小学生並みの脊髄反射でぐだぐだしているのを見るとすげい哀しい気持になるのでぃす。勝手な期待と言うか、夢見る夢子ちゃん的な私の妄想幻想夢想の類であることは頭ではわかっているのですけれど)
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このぬりかべくんとは別のチャットでさんざん議論したんだが、お前のような「知識人への欲望」すなわち「偉人幻想」を「エディプスコンプレックスだ」と指摘し否認されて、というありがちなやり取りもよくしてたのだな。
わたしはそういうのほんとわからんのだよ。
理系ってさ、そういった「偉人幻想」って少ないと思うのだよね。物理に興味があるだけ、人体に興味があるだけ、というような。偉い物理学者や偉い医者に対する憧れは、まったくないとは言わないが、先人ではなく純粋に研究対象への興味の比重が大きい。お前のような
「原典主義者」は少ない(当然「原典」を否定しているわけではない。「原典」も「三文解説」も同列のデータだ、ということだ)。
逆におそらく、その学を志していない、物理や医学の専門外の人間たちの方が、その分野の偉い学者たちに「妄想幻想夢想」を抱いているように思う。「隣の芝生」って奴か。違うか。
これ当時から言ってたんだよね。で、東大卒だとそんな幻想にしこたまやられるんだ。「東大生なんだから人格者なんだろう」的な。「俺たち凡人が欲望するに値する人間だろう」的な。
男ならまだいいかもしれない。だけど東大女なんてのは、院に残ってたらまだましだったかもしれんが、社会に出てしまったら、ほんと珍獣扱いだ。地方工場から出張してきたオヤジとか何の用事もないのにただわたしを見物するためだけにうちの部署にやってきたくらいだ。今考えたらセクハラか。「動物園の猿だ」って自分では言ってたわ。同僚には。
そういった「知識人への欲望」すなわち「偉人幻想」のない(とは言いすぎかもしれないが希薄な)人間からすれば、そんなくだらない幻想に囚われているお前ら愚民なんてのは、「動物園の観客」なんだよ。
こういったことも、精神を病んだストレスの一因ではあると思う。まあぶっちゃけよくある「過剰なプレッシャー」って奴ですよ。おかしくなった当初は抑鬱状態って診断されてたしな。直接上司から「わが社初の女性取締役」とか言われたこともある。冗談でだが。こっちも笑って流したが。だけどこんなどうでもいい一言が結構効くんだよ。ほんと「メンヘラになっちゃってすみません」だ。
わたしは子供だ。大人になりきれない人間だ。学歴など、幼児的な知的好奇心にしたがってやってきたことの、ただの一つの結果にすぎない。むしろ演劇はまってた頃はまじで中退を考えてたような落ちこぼれだ。
わたしは、お前ら愚民どもが無差別に垂れ流す、「知識人への欲望」すなわち「偉人幻想」の被害者だ。
ほんとうぜえんだよ、そういうの。別にお前個人が、「知識人への欲望」すなわち「偉人幻想」で、柄谷やら蓮實やらバルトやらフーコーやらという脳内「父」ハーレムで、キャッキャウフフしているのは全然構わないのだが、それを周囲に垂れ流すな。他人に投影するな。科学を侵食するな。
お前自身は
「科学教」信者ではないかもしれないが、それは「科学教」信者たちと同様の精神構造だ。
垂れ流すなら自分個人の「妄想幻想夢想」すなわち「信仰」だと自覚してからやれ。学問ではないと自覚しながら。
ちなみにその記事の藤田vs向井の「ごちゃごちゃ」は、わたしがチャットでぬりかべくんに教えた。わたしは素で「なんかおもしれーことやってるよ」ってノリだったんだが、彼は「哀しい気持にな」った。
このとき、彼の「知識人」という「想像的な人間のあるタイプ」周辺の
「リビドー的な構造」が「弛緩」されていた、ということだな。
なんかこう、わけわからんわ。
一人相撲だと気づくことが分析主体の入り口だと思うんだがな。
それこそ
『レーダーマン』だ。
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自分を見つめる孤独な毎日
悲しみに暮れる家族たち
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「悲しみに暮れる家族たち」をよそに「主人公」は「孤独」に「自分を見つめ」る。
「感情のむすびつき」から疎外された場所で。
『アンチ・オイディプス』の言う「孤児」の状態で。
今君はそういった状態なのだろうか。
分析主体になっているのだろうか。
ふと気にかかったので書いてみた。
いや分析主体になんかなりたくねえよ、って言うならいいんだが(笑)。
なんつか、精神分析そのものを誤解してたんじゃないだろうか、彼。
斎藤環の論文から。
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ラカンはかつて「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析にはなんでもできる」と語ったというが、
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「ばかな人間を利口にすること」はできない、してはならないんだよ、精神分析は。
「知識人」「偉人」を生み出す学問などではない。「狂人」を研究してきた学問だ。
補足しておくと、この「ばか」は「大衆」レベルにとどまらない。「大衆」は「ばか」ではない。どんな非文明国の民であっても。そう言ってサルトルとケンカしたのがレヴィ=ストロースだろ。
加えて、「大衆」は「自然」などでもない。どんな非文明国の民であっても、「人間は本能が壊れている動物である」。
ラカン理論において、「大衆」とは立派な「知」でありS2だ。「自然」とはエスであり、ヒステリー的主体だ。
これが
この記事における「ラカン理論は構造主義プラス分析主体である」ということだ。
精神分析における「ばか」は、狂気まで射程に入っている。当然だろ、キチガイを研究する学問なんだから。
そしてわたしはリアルメンヘラだ。
なりたくてなったわけではない。
それとも何か、お前はわたしが大衆に欲望されたくて、疎外されようとして、パニック障害になった、とでも言いたいのか?
それってヒステリー解釈だよな。「あんたその夢の男にレイプされたがってんだよ」。
ふうん。「知識人」とはヒステリーなわけだ。それならまあ同意しなくもない。サルトルなんかヒステリーっぽくはあるよな。あの顔がトラウマになったのだろう。ヒステリー者も「父」に愛されたくて自己疎外しているわけだしな。精神分析理論上は。
まあお前も柄谷もわたしとはまったく異なる主観世界を生きているんだろうな、とは思う。それだけ。
エディプスコンプレックス者同士の「鏡像関係の泥沼」にわたしを巻き込まないでくれ、と言っている。
「知性」って単語も微妙だよな。多くの場合、「知性」という言葉を使うと、「知識を持っている人間の性質」すなわち「知識人」という「想像的な人間のあるタイプ」の意味になる。
わたしは「知の性質」という意味に考えてしまう。平たく言えば「知の本性」。なのでそれを「知的好奇心」と同じ意味に解釈してしまう。
意味が違う。
お前が求めている「知性」はどちらだい? 「知識を持っている人間の性質」か「知の本性」か。
もう説明すんのもめんどい。
お前のその症状は、「父への欲望」だ。
お前は、典型的なオイディプスだ。
人間という動物の種にもっとも多い類型。
柄谷がそこで述べているのは単なるエディプスコンプレックスの症状だ。そこでの吉本は去勢を承認した症状である。
それはまた、先に見たように君自身の症状でもある。
いい加減少年ジャンプ卒業しろよ、お前ら。
大事なことだからもう一度言うね。
精神分析は「ばか」を「利口」にする学問ではないんだよ。
少年ジャンプくんは素直にヘーゲルでもやってればよい。
向井雅明は、「ヒステリー的主体になることで新しい知を発見できる」と言っているよな。
これと、「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析にはなんでもできる」という文章と、「知の本性」としての「知的好奇心」。
「非知」であることとは、「ロマン派」などという間主観的な言葉で、単なる印象論で片づけられることだろうか。
君の、あるいは柄谷行人の、あるいは吉本隆明の考える、「ばか」の、「非知」の、「自然」の射程が浅いだけなんじゃないか。
その思考に分析主体が存在していないのではないか。
そうであれば、君の思考は「構造主義プラス分析主体」たるラカン理論ではない。
もちろん、柄谷や蓮實の言説もそうだ。彼らの言説は「主人のディスクール」である。学問ではなく政治、大文字の他者ゲームである。
政治をやりたいなら、そちらでどうぞ、とわたしは言っているにすぎない。
それに、「欲動のディスクール」としての「科学」の用語を、つまり精神分析用語を持ち込む君は、まさに蓮實が書く
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……議会では、物理学用語の「運動」だの「抵抗」だのがそのまま情勢判断の流行語となり、そんなわけのわららぬ言葉を口にする連中の演説は、「手相見のわけのわからぬおまじないだ」と小説家バルザックを嘆かせる。(蓮實重彦『物語批判序説』)
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ということじゃないか。
「議会」で「科学」の用語を使うのが問題だと言っているわけだろ。それは「主人のディスクール」に
「ならざる得ない」君が精神分析用語を使うことである。
科学者が「科学」の用語を使うのをどうこう言っているわけではない。それとも何か、蓮實重彦あるいはバルザックは科学用語全般を否定しているのか?
君はこの文章をどのように解釈したのだい? どう解釈して「笑った」のだい?
「主人のディスクール」に「ならざる得ない」のに精神分析用語を使っている自分のことだと解釈したかい?
あー、あたしの
この記事とか「大衆への媚」と思われるんだろうか。
「ばか」にしてるじゃん、ワハハとか。いやお笑いなんて「ばか」にされてナンボだが。
ほんとちゃんと考えろよ、お前は。
つか「大衆」も「知識人」も同じS2でしかないんだけどな、あたしゃ。同次元の人間たち。つか東大とかいってみろよ、ほんと教授とか人間的にくっだらねー奴ばっかだぞ。
みんな同じそういう人間でしかない。もちろんそれぞれに個性はある。天才もばかもそういう個性の人間だ。
ここでも書いているだろ、
=====
どっかの記事にも書いたが、わたしはエライ学者先生にもつっこむし、アムカ癖のある女子高生やラノベ作家を目指す高校生にもつっこむ。同じ思考で。ある奴からは「脂さんはそういう意味で平等主義者ですよね」と言われたことがある。こいつな。それは相手が中高生だろうがエライ学者先生だろうが、等しく批判し、また批判しない、ということだ。
=====
わたしゃ平等主義者だ。平等に等しく優しくあるって平等主義ではなく、等しく批判し、また批判しない、という。
それに怒ってくるのが理解できん。つかこの態度に対し大体怒ってくるから「くっだらねー奴」となる。
お前もその一人ってだけの話だ。
「じゃあその「批判する、批判しない」の判断基準って何?」
そのときの気分。
仕方ねえだろ、パニ障なんだから。ある「偉い医者」も言ってたぞ。「発作は自分でどうにかできるものではありません、無理する必要はありません」ってな。
だから無理していない。それだけ。
いやまあ、その文章は予期不安で苦しむ患者向けに言ったものであって、
予期不安は希薄だと自覚しているわたしがどうこうする文章じゃないかもしれないがな(笑)。
知るかアホ。
酔っ払ってるときなんか大体「そのときの気分」だろ。
あ、いい文章見つけた。
ここ。=====
その国の住人は大多数が洗脳されていた。
たまたま洗脳がうまくかからなかった少女は、洗脳にかかったふりをして生きていた。
ある日少女は、その国が洗脳を施すのに利用している武器を納めた倉庫を発見する。
これを使ってこの国は洗脳の施されていない辺境人たちを攻撃しているのだった。
この国の洗脳技術はあまりにも高いため、本当にほとんどの国民が洗脳されていた。従って特に都市部の住人は武器庫へのアクセスが容易だった。みんながみんなきちんと洗脳されているので、その矛先をまさか自分たちに向けるとは思われていなかったのだ。
少女は洗脳されているふりをしていたおかげでアクセスが容易だった。
しかし少女は洗脳されているふりをし続けることに疲弊していた。洗脳そのものに対しルサンチマンを抱いていた。
少女は武器庫に並んでいる武器を見つめながら、テロを決意する。
通りがかりの住人をその武器を用いて殺戮する。
相手が自分と同じ洗脳されているふりをしているだけの人かもしれない、ということは少女は理解していた。
しかしその武器を用いなければ洗脳されているのか洗脳されているふりをしているだけなのかもわからないので、無差別に攻撃するしかなかった。
少女のテロは連続殺人事件として報道されていた。
=====
この「武器庫」って精神分析理論なわけだが、要するに無差別殺人なのよね。
無差別って平等ってことでしょ? 字義通りに考えれば。
「父」は死んでいる。死んでいるからお前は呪縛されている。
『ハムレット』か(嘲笑)。
ルチアにとってジョイスは死んでない。この記事から。
=====
父の死を知らされたルチアは信じようとせず、「あのお馬鹿さんたら、地面の下で何してるのかしら。いつ出てくるつもりなのかしらね。あの人はいつでもわたしたちのことを見ている」と言ったという。彼女はその後も精神病院暮らしを続けた。
=====
ルチアの言う通りだろう。「地面の下」で分解されていようが、ジョイスという物体はそこにある。
物がわたしたちを見ている。原子分子に観察されている。
自然科学者が陥る妄想。
ルチアにとって、ジョイスは物だった。
最初から「父」という意味は存在していなかった。「人間」という幻想は存在していなかった。
当然だ、意味そのものが幻想なんだから。
ルチアのこの言葉を「妄想だ」と言うお前たちの方が、妄想狂なのである。
あ、わかった。
この人、わたしが「知識人」になりたがっているとでも思っているのだろうか。
そんなら自分がメンヘラであることなんて言う必要なかろうが。
わたしは精神疾患に罹りその流れで精神医学を齧り精神分析を学ぶようになった、と何度も書いておろう。
こちとら「知識人になりたい」とか考える余裕なんかねえよ。まず「自分の症状について知る」だ。
はーあ。
なんでこう人間って自分の欲望を他人に投影したがるんだろう。これほど執拗に。
それはお前の脳内<あなたがた>である。それはお前の欲望である。
わたしが「知識人」になりたがっている、と言っているのなら、証拠出して。こんだけ文章書いているんだから。
ああそれとわたしが「テクスト論者に対し愛を述べている」証拠も。
「欲望は文字通りに捉えなければならない」
なんじゃないの?
わたしのどの文字に、そういった欲望が解釈できるの?
わたしの
藤田博史という症状解釈も、
お前という症状解釈も、お前たちの言葉を「字義通りに」捉えているだろ? 基本的に。ときどき脱線はしてるが。
精神分析やるならちゃんとやれよ。
ああ、わたしこういう字義通りに解釈して議論するのよくやるんだけど、よく「屁理屈」だとか「言い訳」だとか言われるわ。
それこそ「岡村」の言う「小脳」状態。こういうの「言い訳」になるの? 相手の言葉を字義通りに捉えて相手の症状を解釈していることが。だとしたら精神分析の解釈はすべて「言い訳」になるよな。
お前もちっと考えようよ。
そういう字義通りじゃない何かしらのメタ言語を読み込んで思考するから、平たく言えば印象だけを根拠に思考するから、自分の欲望を他人に投影している文章にしかならないんだよ。
ここでは、<あなたがた>の言葉を文字通りにかつ厳密に捉えて欲望を論じなければならない。なのに君はしていない。
そういうのがいやだから「僕は引用だけしかしましぇん! 臨床なんかしましぇん!」って言ってたんじゃないか?
まあどっちにしろそんな思考(志向)に精神分析は必要ないと思うんだが。印象を根拠に論じるのにも、臨床なしで論じるのにも。
「パパ」という幻想を助長する目的でやってるなら、精神分析は不適格だと思うぞ。特にラカンは。
まあ、ちと分析主体になってごらんよ。いい機会じゃん。
「オイディプスであるボクチンの父への欲望が正しくてお前らの欲望は間違ってる!」
ってことか。
あーお前の対象関係論へのアレルギー的反応もわかってきたよ。父への欲望じゃない欲望としては母への欲望が一番先にくるもんな。
どっちも人間という動物の習性だろ、ってわたしは言っているんだが。
=====
彼らは知識人を拒否しているし、また知識人ではない。大衆が彼らを支持することはありえないが、彼らもそれを求めていない。彼らを動かしているのは、いわば「知性」というものの本性である。
=====
これなんかもろ柄谷の「父への欲望」だよな。「父的な幻想」をサルトルやフーコーにおっかぶせている、と。
「父」ってのは「自分を欲望してくれない人という幻想」だ。
これが「すべての人間を欲望しない人という幻想」になる。
柄谷の言い分は、巷の「知識人」は疎外されることによって大衆から欲望されようとしている、ってことだろ。「欲望とは他者の欲望である」だからそれは「知識人の欲望」だ。
しかし、フーコーやサルトルが他者を欲望していなかったかどうかは、臨床されていない。
そういった柄谷個人の欲望による幻想をおっかぶせている限り、柄谷はサルトルやフーコーを、ただのそういう臨床素材として、臨床できないだろうな。
彼はサルトルやフーコーが「大衆を求めていなかった」ことを論じられない。
いやまあ、臨床した結果そうだ、って言うならいいんだが。わたしがその臨床結果としての解釈を読んでいないだけで。
でまあちらちらそのブログの過去記事とか読んでいるんだが、ほんと、対象関係論批判もそうだけど、大体が「ラカン理論は「父」を、エディプスコンプレックスを論じているんだ!」って主張だな。
クラインもエディプスコンプレックスを論じてるんだがな。むしろ『アンチ・オイディプス』はクラインのそういうところを批判している。「なんでもかんでもエディコンにすんなよババア」って。
彼の脳内クラインはエディプスコンプレックスをまったく論じていなかったりするんだろうか。
こういうところほんと君にとってラカンは「主人」(ラカンなのでこう言う)だったんだね、と思うよ。
彼は、ラカン理論を読むとき、脳内ラカンという主人の物言わぬ意を汲みながら、読んでたんだろうな。
君さ、これまでの自分がバイアスなしで読んでたなんて思わない方がいいよ。
いいじゃん、バイアスあって。
欲望があるのが普通。
ラカンも言っているだろ、「欲望を譲歩してはならない」と。
「欲望を抑圧する人という幻想」たる「父」を欲望することで、君は自分の欲望がないものと思い込んでいる。その補償としてネカマキャラがある、ってとこだろうな。ほんと巷の哲学でギャルゲを語るオタクとおんなじ。
あ、ごめん、エディコンな人ってむちゃくちゃ多いしね、すでに飽きてるから適当な物言いになっちゃった。
わたしが話の通じなさそうな人だとやっとわかってきた、ってだけ。
いいよ、「なんかキチガイに絡まれてるw」とか言いふらして。
そうやって「大衆」に媚びている自分に自覚しているなら。
こういう風にわたしが被害妄想になるだけ。いつものことだから気にするな。
つかさ。
ここ。=====
彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。
=====
これさ、分析家も同じことやってるわけっしょ。無意識を解釈するのが精神分析。
だとしたら、分析家はパラノイアと同じだ、となる。
でもそうであっちゃだめ、って話じゃん。他者と「リビドー的な構造」を共有しているのがパラノイアで、分析家はそれを禁じている。
この差異を、方法論として述べたのが、「欲望は文字通りに捉えなければならない」ってことだと思うんだが。
つまり逆に言えばこれは、「われわれは欲望を文字通りに捉えている点が、パラノイアとは違うのである」ってことの「言い訳」だと思うんだよな。
違う?
いやこの「言い訳」有効だと思うけど。クライエントの言葉を大文字の他者ではなく言葉そのものとして受け取る、ってことでしょ。「欲望とは他者の欲望である」なわけだからそりゃ確かに欲望じゃなくなる。
いい「言い訳」だと思う。
どっかでも書いたけど学問理論はすべて「言い訳」だと思ってる人の言ってることだけどね。
簡単なことなんだけどな。
精神分析とは、精神疾患を研究してきた学問だろ。物理学は物質を、医学は人体を研究する学問であるのと同様に。
ラカンやフロイトなどという個人を研究する学問ではない。
もちろん、「人間皆神経症者」なのだから、精神疾患者の一人として、ラカンやフロイトを論じるのはよい。また、社会とはそういった集団精神疾患的な症状であると考えれば、集団心理についてわたしは否定していないので、社会学などに流用するのも理解できる。わたしが興味ないってだけで。
それだけなんだけど。わたしの主張は。
それがなんで「原典」やら柄谷やら「知識人」やらって話になるのかがわからん。
よくわからんのでわたしは「原典」を主張しはじめた彼自身や柄谷や「知識人」をそういう精神疾患的症状だとして思考した。
結果、わたしがわからない彼の思考回路は、彼のエディプスコンプレックスの症状だと解釈した。
わたしの言っていることおかしいか?
わかる人誰か教えてくれ。「曖昧さのない言葉」で。
わたし精神分析学ぶ以前からこういった考え方なんだよな。だから
「お前の議論は相手をナイフで刺すようなものだ」とか言われたんだろうな。ぐさっときたんだろ。
知るか。議題はお前の心なんかじゃないだろ。邪魔なんだよ、そういうの。
脳内反論。
「「原典」を考えないと各人の理論がばらばらになるだろ」
ん、研究対象が決まってたらいいんじゃねえの。そもそも各人の理論がばらばらで何が悪いの? そのばらばらな、自分とは異なる理論に新しい発見があるかもしれないじゃないか。
学問って他人と意見をすりあわせる目的でなされている営為じゃないだろ。それは政治だ。学問とは己の身勝手な知的好奇心にしたがって行われるものだ。
わたしはそう考える、って話。
わたしの欲望を解釈したいのなら「文字通り」に読んでね。
以前わたし自分で「学問アナーキスト」って言ったことあるんだが、自分で読み返すとそうだなと思うしかないわ。
東大ってそういう風潮あるからのう。個人主義というか「他人は他人」的な。理系だけかもしれんが。
こういう印象が、愚民どもから「エリート意識」とか言われてるんだろうな。
別に当人たちはそんなつもりはないんだけど。ほんと「他人は他人」ってだけ。そんなことよか研究の方が大事ってだけ。
この構図とか
嫉妬妄想の論文における
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関係妄想の意味するところは、彼らがすべての見知らぬ人から、なにか愛情のごときものを期待していることである。ところが他人たちはそういう素振りをしめすこともなく、なにげなくひとりで笑ってみたり、通りすがりにステッキを振りまわしたり、あるいは地面に唾をはいたりする。かりに親しい気持ちを傍の人にたいしてもつ場合に、そういう仕事をするはずがない。傍の人にまったく無関心のときや、それをかるくあしらうときだけにそういうことをするものである。「よそよそしい」ことと「敵意がある」ということは根本的には似ているので、パラノイア患者が、他人の無関心を敵意があると感ずるのは、彼らの愛情を期待することの強さに照らし合わせてみて、さほど不思議ではない。
=====
ってことだと思うんだが。この場合愚民どもが「パラノイア患者」「嫉妬妄想の男」と同じ心理だ、ってことになるな。
こんな嫉妬妄想の愚民たちの言い分に屈したのが「社会に開かれた大学を目指す」
「東大改革」だった、ってことだな。「わたしたちに「敵意」はありません。社会に、あなたたちに愛情を持っています」という表明だったわけだ。
東大を「リビドー的な構造」に巻き込もうとした、と。
あ、すっきり。
やっと卒業できた気がするわ。
東大潰しちゃっていいよ。長年気持ち悪く思ってたことがわかったから。
まああれだ、自分たちのやってきたことがこういう心理構造だったことは自覚しとけ。
ストーカーと同構造の心理を助長する改革だったことはな。