この記事から。
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ジジェクは「身体なき器官」としてファルスを述べているが、わたしは『アンチ・オイディプス』の言う「器官なき身体」は、アルトーの原文の意味を劣化させて、ファルスにしたものだと思っている。アルトーのは「器官なき身体」だが『アンチ・オイディプス』の「器官なき身体」は「身体なき器官」になっている、ってことだな。
「器官なき身体」も「身体なき器官」も(非オイディプスという意味で)「孤児」である。
しかしこの二人の「孤児」には決定的違いがある。
この差異は谷山浩子(タイトルそのまんますぎるが)『よその子』が見事に表現できている。
丘の上から見下ろす町は いくつもの家 いくつもの窓
全ての窓はあかない窓だ そう言って君は泣いたよ
燃えあがる赤い夕焼け 町を焼き尽くせ 跡形もなく
これが「器官なき身体」。
それでも僕は 全ての家の 全ての人の幸せを
祈れるくらいに強い心を
強い心を僕は持ちたい
これが「身体なき器官」。
まさにキリスト。言いすぎなら『アンチ・オイディプス』の「オイディプスの三角形以前にある社会野」でもよい。
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とこの辺。
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要するに「母」や「父」の登場により「リビドー的な構造」が形成されるのではなく、「母との蜜月関係」や「父にぶたれる」以前に、「オイディプスの三角形以前にある社会野」たる想像的かつ象徴的なその下地がある、ってことだな。
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つまり『アンチ・オイディプス』の言いたいことは、発達過程において、伝統的な精神分析のエディプスコンプレックス「オイディプスの三角形」が形成される以前に、全人類と「リビドー的な構造」「欲望機械」が形成されている、ってことだな。
「ぶっちゃけありえなーい」と思われるかもしれないが、これ素で考えたら納得できる。
たとえば発達心理学っつーかそれ系のあっぱらぱーママたち向けの本などでこんな言葉が見受けられる。
「王様としての子供」。
要するに万能感に満ち溢れた状態。で、この時期が子育てとしては親はストレスマッハな時期だけど(そらそうよね、そのときの子供は「無知な王様」なんだから)、あとあと考えると、こういった時期が人格形成あるいは自我の確立にとって非常に重要なんですよ、という意味である。
まあ理屈にゃあってんだよ。精神分析理論から言っても。
でさ、このときこの「王様の子供」は、母や父に対してだけ「王様」だろうか。そうではないだろう。突然来訪した客に対しても、彼を臣下のように扱うだろう。
このときの「王様の子供」は、母や父に対してだけではなく、全人類に対して「王様」なのだ。
これが「「母との蜜月関係」や「父にぶたれる」以前に、「オイディプスの三角形以前にある社会野」たる想像的かつ象徴的なその下地がある」ってことかなあ、と。
オイディプスは母と父の息子として生まれたのではなく、王として生まれたのだ、と。
ジャップ向けに言うなら「天上天下唯我独尊」ってのもそうだな。
でだな、『アンチ・オイディプス』は、「分裂分析」の適用対象を社会に限定している。「ガタリという症状」にも明らかだ。他者を精神病化(分裂症化)させる、という点ではわたしの主張する
「逆精神分析」と同調するが、わたしのそれは適用対象はあくまで個人である。この点が異なる。
(神経症の)主体が分裂症化する際、脱オイディプス化するのは理論的に言って当然のことだ。
脱オイディプス化の結果、「オイディプスの三角形以前にある社会野」に帰郷つまり退行するのはありえるだろう。
これについてはおそらく「サルトルという症状」がよい素材となる。
彼の言う「実存」は、わたしはラカン理論で言う現実界的なものだと考えているので、実存的な主体とはエスすなわちヒステリー的主体だ、となる。
わたしは一応は構造主義者だが、サルトルを「西洋中心主義」と批判したレヴィ=ストロースはここがわかってなかったものと思われる。「西洋中心主義」を伝統的な精神分析の解釈通りエディプスコンプレックスの集団症状だと考えれば、レヴィ=ストロースの批判は的外れである。サルトルの実存主義はエディプスコンプレックスの症状ではない。むしろ脱オイディプスの症状である。とはいえ、サルトルに追随する者たちが、彼の言う「主体」を、伝統的な哲学における主体
「コギトのような確実性の基盤となる主体」と誤読していた可能性もある。もしそうであったならば、またレヴィ=ストロースの批判は「実存主義という派閥」に対してのものだったとすれば、あながち的外れではなかっただろう。
これが
この記事で述べた
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サルトルなんかヒステリーっぽくはあるよな。
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という意味である。
あと
ここも関係してくるか。
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そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
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レヴィ=ストロースの構造主義には、エス=分析主体≒実存主義の主体≒ヒステリー的主体が、射程に入っていなかったため、サルトルのそれを「西洋中心主義」と考えてしまったのだ、ということだな。
精神分析はヒステリー研究からはじまったと言っても過言ではない。ラカンに限らない精神分析が、構造主義に含まれないそれを射程に含んでいるのは当然のことである。
ちなみにサルトルって精神分析齧ってたんだよな。まあ頭おかしくなったんならやるだろ、わたしもそうだし。
おお、すげーしっくりじゃん!
わたしの言葉なら
この記事から。
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要するに「構造主義には、ヒステリーが、精神疾患者が存在しない」という意味になるが、ラカンを学ぶ以前から構造主義を齧っていたわたしでも、この言い回しならすとんと納得できる。
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ところで、サルトルがいくらがんばってもそれは「コギトのような確実性の基盤となる主体」に誤読されてったんだろうな、っていうのは、ほんと現状の精神分析界隈を見てもたやすく想像できてしまうのがうーやーたー。
しかし、逆に言えば、これらのことから、わたしは『アンチ・オイディプス』の言う「器官なき身体」は、アルトーが言った「器官なき身体」とは別物になっている、と考える。
ジジェクは「身体なき器官」と言い換えそれをファルスだとしているが、『アンチ・オイディプス』の言う「器官なき身体」こそが、「王様としての子供」たるファルスであり、アルトーの言う「器官なき身体」とは別物になっている。また、ガタリ自身このことに気づいていないようで、「オイディプスの三角形以前にある社会野」を肯定しながらアンチ・ファルスをぶっている。ガタリはファルスという概念をよく理解していない、と判断できる。
アルトーの言う「器官なき身体」とはエスである。むしろサルトルに近い。「即自」。「木の根っこ」を見て「工場」は「過熱」し「嘔吐」という「生産」をしたのである。
ではアルトーとサルトルの違いは。
エスをどう表現するか、の違いだろう。
アルトーはあくまで演劇人である。その「嘔吐を生産する過熱した工場」を舞台にするため「残酷演劇」という概念を考案した。
一方サルトルは文筆家である。「嘔吐を生産する過熱した工場」を、社会参画によって隠蔽劣化している。これはガタリも同様である。ガタリはその「工場」に気づけているとは思えないが。
場所が舞台か社会か、という違い。
もちろん舞台も社会もある程度の隠蔽劣化はされる。人間に「器官」がある限り。
しかし、(アンガージュマンにおける)社会とは、いわばテレビや映画である。(エスからすれば)間接的である。無数の「器官」により構成されたのがここで言う社会である。
一方演劇は一回性の芸術であり、いわば演者と観客の殺しあいなのである。
「嘔吐を生産する過熱した工場」からすれば。
「嘔吐を生産する過熱した工場」をテレビで見るか、ナマで見るかの違い。
なので、ガタリは論外だが、サルトルもおしいよねー、という話ですた。ニーチェもそうなんだよな。物足りない。
この記事から。
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ニーチェとアルトーの違いもここだ。ニーチェは残酷演劇の観客でしかない。アルトーはその演者だ。
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アルトーは、それをナマで見せようとした演劇人である。
とはいえ、「器官なき身体」の「生産」を「器官の破壊」と規定するならば、なるほどサルトルやガタリのやり口は効率的だと思える。
一人一人をいちいち分裂症化させるより、社会を分裂症化させた方が、効率的かもしれない。
しかし、そういった効率化を否定するのが科学である。機械工学は効率化を目的としているが、どうしてもそれにそぐわない現象が起きる。故障などと。生産技術の研究対象は、効率化を阻害する事象である。
効率化とは、人間の「そのようにすれば効率化できる」という思い込みにすぎない。
何が効率的なのか、何にとって効率的なのか。
わたしは、一人一人を分裂症化させる方が、効率的になると思える。
それだけのことだよ。
まあさ、観客の殺し方にもいろいろあるわけよ。お金を考えたらそりゃ大劇場でやった方がいいけど、大劇場ほど制約が多いのね。だから昔の駒場小劇場みたいな劇場は非常に価値があった。まあその分事故も多かったけどさ。鉄パイプから落ちて脳震とう起こしてた子もいたな。女子で。タクシーで病院連れてかれたんだっけか。ほら、そんな事故あったとばれたら潰されちゃうから救急車呼べないの。うん、そんな危険な場所学内にあったら困るってのはすげーよくわかる(笑)。かけよった団員がまるで舞台の演技みたいに「大丈夫か!」とか言ってるのがなんかおかしかった。人間追いつめられたら言動は「あざとく」なるもんだと思うよ、ってこれは
ここのコメント欄の話。「あざとくない演技」ってのは逆に心的に余裕があるということだ。わたし室井滋のこと「安定感」つって誉めてるだろ。心に余裕がありそうに見える、ってことだろうな。
さてユッケでも喰うか。
フーコー? 彼なんか生理的にだめだ。頭頂部に切り傷つけて「ちんぽー」とかやらかしそう。わたしが。
結局エディプスコンプレックス者の問題は、「ボクチンの父へのリビドーこそ美しいリビドーで、他のは汚らわしい!」なんだよな。
科学としての精神分析にしてみれば、そんなのそれぞれのリビドーでしかない。「父への欲望」も「母への欲望」もリビドー関係でしかない。科学においては「水分子と空気分子どちらが美しい? 優れている?」などというアホな議論はなされない。
「母への欲望」をばっちいものとするのがヘーゲルの言う「否定性」だろうな。クリステヴァ論にも符号する。
精神分析は、エディプスコンプレックスの症状である「ボクチンの父へのリビドーこそ美しいリビドーで、他のは汚らわしい!」を肯定するための理論ではない。
少年ジャンプくんはここがわかってないんだろうな。