『ズルい女』
2011/05/16/Mon
大野さんちのコメント欄に書こうと思ったけど長くなったし最近更新してないのでこっちにうp。
経緯はこの記事とこの記事とこの記事(コメント欄含む)。
「長い」? 知るかボケ、お前の都合なんざ。
「少年時代に性的暴行を受けたことがある校長先生」とか「ハードゲイで家にはおびただしい数のハードSM器具があるフーコーみたいな校長先生」とか妄想してちょっと文章化してたんだけど飽きた。
あと、悪魔と契約した校長と戦う、「選ばれし者」の新任の先生、とか。最初は生徒たちも校長が悪魔だなんて気づかず新任の先生を迫害するが、やがて事実を知る生徒も少しずつ出てきて……というありがちな展開。
他には、2ちゃんのひろゆきみたいな無責任な校長だったら、とかね。
さて、「解釈」ではなく「妄想」でよいなら、このようにいろいろな校長先生や大人を想像できる。
なぜなら何度も言っているように彼らの心を「解釈」するためのソースが少ないからだ。
大野さんは自分のそれが「解釈」ではなく「妄想」だということを認めている。
分析家が行う無意識の「解釈」が「妄想」であってはらない理由にはもう一つある。
それは、精神病者(パラノイア)が行うごとき相手の無意識についての「妄想」は、相手の無意識についての言及ではなく、精神病者自身の欲望による症状となるからだ。
精神病者は、表面上相手の無意識について語っているつもりでも、それは彼自身の欲望についての言及となっている。
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
ところで、すでにフロイトの時点で、こういったパラノイアの機制が正常人にもあることは指摘されている。
パラノイアではなくとも、分析家が「妄想」で無意識を語ると、それは分析家自身の欲望についての言及となる。
それは精神分析の「クライエントの無意識を研究対象にした学問」という原則と反してしまう。
したがって、分析家は無意識を「妄想」してはならないのだ。
この理論を今回の大野さんの言動にあてはめてみよう。
大野さんはイギリスの校長先生や大人あるいはブコメの人たちの無意識を「推察」あるいは「妄想」している。
この記事で「脳内校長先生」を出していることもそういうことである。
そういった「推察」あるいは「妄想」の結果、Midasさんのコメントの「同性愛」という言葉が彼女の心に「響いた」。
先の理論をあてはめると、大野さんはイギリス人の校長先生や大人たちを欲望しており、「私はなぜ彼らを欲望しているのか」の一つの答えが、イギリス人の校長先生や大人たちの無意識にある(と大野さんが妄想している)「(男性)同性愛」だった。
要するに、おおまかに言えば、彼女のこの事件についての言及は、彼女自身の「男性同性愛」への欲望による症状だったわけだ。
こう考えると、彼女がわたしについて述べた「ずるい」という感情も理解できる。
わたしは最初からこの事件についての「解釈」は放棄しており、「解釈」ではなく単なる「理論のあてはめ」、物理学で言えば実験もなしにある事象について理論をあてはめている。学問としてはおざなりな態度だ。
これについては、実験が可能な環境ではない、つまりこの事件に登場する各主体を「臨床」「解釈」するだけの発言つまり実験素材がないので、していない、と述べた。
したがってわたしのこの「おざなりな理論のあてはめ」も「解釈」とは言えない。定義によっては「妄想」だということになるだろう。
このわたしの「妄想」、「おざなりな理論のあてはめ」における「ホモソーシャル」という概念には、「男性同性愛」という要件も含まれている。
わたしはそう言っているにすぎないのだが、大野さんは「ずるい」と感じた。
なぜ大野さんは「ずるい」と思ったのか。
それは彼女が「男性同性愛」を欲望していたからである。
わたしは、この事件に限れば、「男性同性愛」を別に欲望していない。「おざなりな理論のあてはめ」のうちの一部にそういった要件があり、そう主張した。
このとき彼女のうちに、彼女は欲望していたものをわたしに取られた、というような機制が生じたのではないか。
わたしも「男性同性愛」を欲望しており(わたし自身腐女子であるのでそういった部分があるのは否定しない。他のケースではそれを欲望していることもあろう)、「最初からそれに気づいていた」と言っている、と大野さんは考えた。
大野さんがようやく発見した欲望の一つの解答である「男性同性愛」を、大野さんの脳内わたしは「すでに所有していた」と言い張っている。
だから彼女は「ずるい」と言った。
わたしはそもそもこの事件に限ってはそれを欲望していないので、所有しているつもりもない。なのでわたしは「何がずるいのか」がわからなかった。
いわば、大野さんは、大野さんの脳内わたしと「欲望のシーソー」をしていたのだ。
大野さんの脳内わたしは、「男性同性愛」という「欲望のシーソー」で、大野さんより上になった。いや、「わたしの方が上」と言い張っている。
要するに、大野さんと大野さんの脳内わたしとの、「男性同性愛」の奪いあいなわけだ。
わたしはそもそもそんなシーソーに乗っていないのに。
そういう話かなー、と思った。
これのちゃらららららららちゃらっちゃってイントロがかかると店員どもみんな立ちあがって妙なダンスをするヘンなメンズバーがいきつけでした。
結局男の言う『ズルい女』ってこういう構造なのかもな。
昨日までラブラブだったのに、あるときなんの前触れもなく「え、欲望なんかしてないけど?」と言ってくる。
すみませんほんと記憶障害チックなところがあるのでほんとすみません。
ここのコメント欄から。
=====
そうか。だからヴェール心理療法の人がスキゾイドは
>与える(giving)よりも摂る(taking)
と言ったのか。
=====
わたしは大野さんから欲望を「摂っている」、ってことか。
経緯はこの記事とこの記事とこの記事(コメント欄含む)。
「長い」? 知るかボケ、お前の都合なんざ。
「少年時代に性的暴行を受けたことがある校長先生」とか「ハードゲイで家にはおびただしい数のハードSM器具があるフーコーみたいな校長先生」とか妄想してちょっと文章化してたんだけど飽きた。
あと、悪魔と契約した校長と戦う、「選ばれし者」の新任の先生、とか。最初は生徒たちも校長が悪魔だなんて気づかず新任の先生を迫害するが、やがて事実を知る生徒も少しずつ出てきて……というありがちな展開。
他には、2ちゃんのひろゆきみたいな無責任な校長だったら、とかね。
さて、「解釈」ではなく「妄想」でよいなら、このようにいろいろな校長先生や大人を想像できる。
なぜなら何度も言っているように彼らの心を「解釈」するためのソースが少ないからだ。
大野さんは自分のそれが「解釈」ではなく「妄想」だということを認めている。
分析家が行う無意識の「解釈」が「妄想」であってはらない理由にはもう一つある。
それは、精神病者(パラノイア)が行うごとき相手の無意識についての「妄想」は、相手の無意識についての言及ではなく、精神病者自身の欲望による症状となるからだ。
精神病者は、表面上相手の無意識について語っているつもりでも、それは彼自身の欲望についての言及となっている。
「言述は自分を表象=代理するものであり、それどころか、言述は自己の表象=代理そのものであるのだ。」
ところで、すでにフロイトの時点で、こういったパラノイアの機制が正常人にもあることは指摘されている。
パラノイアではなくとも、分析家が「妄想」で無意識を語ると、それは分析家自身の欲望についての言及となる。
それは精神分析の「クライエントの無意識を研究対象にした学問」という原則と反してしまう。
したがって、分析家は無意識を「妄想」してはならないのだ。
この理論を今回の大野さんの言動にあてはめてみよう。
大野さんはイギリスの校長先生や大人あるいはブコメの人たちの無意識を「推察」あるいは「妄想」している。
この記事で「脳内校長先生」を出していることもそういうことである。
そういった「推察」あるいは「妄想」の結果、Midasさんのコメントの「同性愛」という言葉が彼女の心に「響いた」。
先の理論をあてはめると、大野さんはイギリス人の校長先生や大人たちを欲望しており、「私はなぜ彼らを欲望しているのか」の一つの答えが、イギリス人の校長先生や大人たちの無意識にある(と大野さんが妄想している)「(男性)同性愛」だった。
要するに、おおまかに言えば、彼女のこの事件についての言及は、彼女自身の「男性同性愛」への欲望による症状だったわけだ。
こう考えると、彼女がわたしについて述べた「ずるい」という感情も理解できる。
わたしは最初からこの事件についての「解釈」は放棄しており、「解釈」ではなく単なる「理論のあてはめ」、物理学で言えば実験もなしにある事象について理論をあてはめている。学問としてはおざなりな態度だ。
これについては、実験が可能な環境ではない、つまりこの事件に登場する各主体を「臨床」「解釈」するだけの発言つまり実験素材がないので、していない、と述べた。
したがってわたしのこの「おざなりな理論のあてはめ」も「解釈」とは言えない。定義によっては「妄想」だということになるだろう。
このわたしの「妄想」、「おざなりな理論のあてはめ」における「ホモソーシャル」という概念には、「男性同性愛」という要件も含まれている。
わたしはそう言っているにすぎないのだが、大野さんは「ずるい」と感じた。
なぜ大野さんは「ずるい」と思ったのか。
それは彼女が「男性同性愛」を欲望していたからである。
わたしは、この事件に限れば、「男性同性愛」を別に欲望していない。「おざなりな理論のあてはめ」のうちの一部にそういった要件があり、そう主張した。
このとき彼女のうちに、彼女は欲望していたものをわたしに取られた、というような機制が生じたのではないか。
わたしも「男性同性愛」を欲望しており(わたし自身腐女子であるのでそういった部分があるのは否定しない。他のケースではそれを欲望していることもあろう)、「最初からそれに気づいていた」と言っている、と大野さんは考えた。
大野さんがようやく発見した欲望の一つの解答である「男性同性愛」を、大野さんの脳内わたしは「すでに所有していた」と言い張っている。
だから彼女は「ずるい」と言った。
わたしはそもそもこの事件に限ってはそれを欲望していないので、所有しているつもりもない。なのでわたしは「何がずるいのか」がわからなかった。
いわば、大野さんは、大野さんの脳内わたしと「欲望のシーソー」をしていたのだ。
大野さんの脳内わたしは、「男性同性愛」という「欲望のシーソー」で、大野さんより上になった。いや、「わたしの方が上」と言い張っている。
要するに、大野さんと大野さんの脳内わたしとの、「男性同性愛」の奪いあいなわけだ。
わたしはそもそもそんなシーソーに乗っていないのに。
そういう話かなー、と思った。
これのちゃらららららららちゃらっちゃってイントロがかかると店員どもみんな立ちあがって妙なダンスをするヘンなメンズバーがいきつけでした。
結局男の言う『ズルい女』ってこういう構造なのかもな。
昨日までラブラブだったのに、あるときなんの前触れもなく「え、欲望なんかしてないけど?」と言ってくる。
すみませんほんと記憶障害チックなところがあるのでほんとすみません。
ここのコメント欄から。
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そうか。だからヴェール心理療法の人がスキゾイドは
>与える(giving)よりも摂る(taking)
と言ったのか。
=====
わたしは大野さんから欲望を「摂っている」、ってことか。
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