「トラウマ」という概念が一般的な語彙として「生理的嫌悪」と同義になっているのは誤り。
2011/06/30/Thu
あついだるい。
他人ちのコメント欄からの流用でお茶を濁す、ってお茶を濁すって意味がわからんわ。
脂 2011/06/30 20:41
>あの人時間差あるから今頃キてるんじゃないかと思うのだがどうなんだろうなぁ。
つーかさ、印象論じゃなくて理屈的に考えてほしいんだが。
わたしが今回旗子さんの側に立っているのは、クサヴァの
=====
旗子は女の装う目的を「セックスするかしないか問いやすいようにアピールしている」と決め付けて女の主体的行動を否定しているのだから、それは自ら性の商品化を強化維持して同性を窮地に追い込む悪魔のような所業に他ならないのである
=====
っていう「主体的行動を否定する旗子さんを否定する」論に対してだ、とは書いたよな。
で、大野さんの「したくないセックスはしたことがない」というのは、「セックスするしないという主体的行動」が前提にあるわけだよな。
わたしはそれに嫌悪を示している。
理屈的に整合しているわけだよ。
「トラウマ」って言葉が印象論で一人歩きするのも不愉快なんだよな。
「トラウマ」って言葉が「生理的嫌悪」とほぼ同義になるのは、理屈的に誤り。
「生理的嫌悪」とは、快楽原則による不快を避けることを意味する場合も含まれる。
しかし「トラウマ」は、フロイトが規定した通り、快楽原則のほころびでなければならない。
脂 2011/06/30 20:43
不愉快なことを避けるための言動が「トラウマ」なわけではない。
不愉快なことなのにそちらに向かってしまうのが「死の欲動」としての「トラウマの回帰」だ。
脂 2011/06/30 20:48
つまり、クサヴァの「主体的行動を否定する旗子さんを否定する」のも、大野さんの「したくないセックスはしたことがない」というのも、女性の主体的行動を当然のこととして語っているわけだ。
大野さんは自分のそれを「80年代の俗流フェミの影響」と述べたが、クサヴァの論も同じだ、とは書いたよな。
で、わたしはフェミニズムとは学問ではなく自己啓発セミナーと同じだ、という批判はこの記事でもあるようにしている。
http://d.hatena.ne.jp/elve/20110618
=====
ただの自己啓発セミナーにしかなっていない日本フェミは一回絶滅してやり直した方がいいんじゃねえの。小倉や上野みたいな老害もいるわけだし。
=====
どこも矛盾しておらんだろ。
「主体的行動を取らなければならない」という権力。
たとえば自閉症はいわば器質因的に主体的行動が取れない障害だ。
自閉症じゃなくても主体的行動が取られない人間は取らなくていい。
わたしはそう主張しているだけ。
快楽原則も現実原則も「主体的行動」が前提となっている。ここでの「主体」とはこの記事の
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
=====
における「コギトのような確実性の基盤となる主体」であり、「分析主体の主体」ではない。
フェミニズムも構造主義も「分析主体の主体」を語れていない。
それを語ろうとしている学問は、わたしの管見では、精神分析のみである。
他人ちのコメント欄からの流用でお茶を濁す、ってお茶を濁すって意味がわからんわ。
脂 2011/06/30 20:41
>あの人時間差あるから今頃キてるんじゃないかと思うのだがどうなんだろうなぁ。
つーかさ、印象論じゃなくて理屈的に考えてほしいんだが。
わたしが今回旗子さんの側に立っているのは、クサヴァの
=====
旗子は女の装う目的を「セックスするかしないか問いやすいようにアピールしている」と決め付けて女の主体的行動を否定しているのだから、それは自ら性の商品化を強化維持して同性を窮地に追い込む悪魔のような所業に他ならないのである
=====
っていう「主体的行動を否定する旗子さんを否定する」論に対してだ、とは書いたよな。
で、大野さんの「したくないセックスはしたことがない」というのは、「セックスするしないという主体的行動」が前提にあるわけだよな。
わたしはそれに嫌悪を示している。
理屈的に整合しているわけだよ。
「トラウマ」って言葉が印象論で一人歩きするのも不愉快なんだよな。
「トラウマ」って言葉が「生理的嫌悪」とほぼ同義になるのは、理屈的に誤り。
「生理的嫌悪」とは、快楽原則による不快を避けることを意味する場合も含まれる。
しかし「トラウマ」は、フロイトが規定した通り、快楽原則のほころびでなければならない。
脂 2011/06/30 20:43
不愉快なことを避けるための言動が「トラウマ」なわけではない。
不愉快なことなのにそちらに向かってしまうのが「死の欲動」としての「トラウマの回帰」だ。
脂 2011/06/30 20:48
つまり、クサヴァの「主体的行動を否定する旗子さんを否定する」のも、大野さんの「したくないセックスはしたことがない」というのも、女性の主体的行動を当然のこととして語っているわけだ。
大野さんは自分のそれを「80年代の俗流フェミの影響」と述べたが、クサヴァの論も同じだ、とは書いたよな。
で、わたしはフェミニズムとは学問ではなく自己啓発セミナーと同じだ、という批判はこの記事でもあるようにしている。
http://d.hatena.ne.jp/elve/20110618
=====
ただの自己啓発セミナーにしかなっていない日本フェミは一回絶滅してやり直した方がいいんじゃねえの。小倉や上野みたいな老害もいるわけだし。
=====
どこも矛盾しておらんだろ。
「主体的行動を取らなければならない」という権力。
たとえば自閉症はいわば器質因的に主体的行動が取れない障害だ。
自閉症じゃなくても主体的行動が取られない人間は取らなくていい。
わたしはそう主張しているだけ。
快楽原則も現実原則も「主体的行動」が前提となっている。ここでの「主体」とはこの記事の
=====
そもそも、分析における「主体」とは、「語る存在において想定されたもの」であり、実体的な主体でもなければ、思考の主体でも認識の主体でもない。「分析主体[analysant]」の主体は、分析という特殊な状況においてのみ、垣間見ることができるものなのである。これがまさに、ラカンを構造主義から分かつ点であり、同時にコギトから直接由来する哲学すべてに反対させる点である(Lacan, E93)。構造主義においては主体が存在せず、構造がある。ラカンは構造主義的な「構造」という概念を用いるが、また主体という概念も用いる。しかし、それはコギトのような確実性の基盤となる主体ではなく、「満ちたパロール」の析出によってはじめて姿をあらわすような主体である。
=====
における「コギトのような確実性の基盤となる主体」であり、「分析主体の主体」ではない。
フェミニズムも構造主義も「分析主体の主体」を語れていない。
それを語ろうとしている学問は、わたしの管見では、精神分析のみである。
スポンサーサイト
/ 未分類