なんか興味が向いてローマ帝国の歴史についてたらたら調べてみた。その流れでキリスト教の東西分裂(「シスマ」って言うのね)とかもちょろちょろと。
いやまあ数ヶ月だけ教会通ってた時期もあっからさ。教徒たちに生理的嫌悪を感じてやめたけど。プロテスタントだった。
で、思ったのが、ローマ帝国にとって原始キリスト教は、精神分析のような役割を担っていたのではないか、ということ。
まあいろいろ説明するのめんどいんであっさり言うと、国家、
共同体のイデアみたいなものって要するにファルスなわけだ。で、キリスト教の神もファルスみたいなもんだ。
すると、膨張していく国家を一つにまとめようとしてきたローマ帝国、ローマ皇帝などは、意識におけるファルスの意味作用によって翻弄されてきた、あるいはローマ皇帝や元老院は、意識におけるファルスの意味作用を求め続けていた、となる。
一方、神としてのファルスは無意識的なものだ。無意識の奥底に眠るファルスの探索が神に近づく道だ。
つまり、ファルスに対するアプローチが、ローマ帝国(の皇帝や元老院)は意識的なものであり、原始キリスト教は無意識的なものだった、となる。
精神分析とは無意識を研究する学問である。フロイトがそうであったし、フロイトの影響も多少受けた構造主義の「構造」も(その文化に属する人々にとっては)無意識的なものとされており、ラカンなどは構造主義の考え方を逆輸入的に大きく精神分析理論に反映させた、となる。もちろん、
この記事で書いているように、「構造主義には分析主体、精神疾患者が存在しない」という精神分析と構造主義の決定的な違いはあるが。
着目点が、キリスト教は精神分析的であったのではないか、と思った。いや、そもそも宗教が、社会的な事柄ではなく個々人の内面的な問題を取り扱うものであるのなら、それは無意識の探求となり、精神分析と同じ着目点になるのはむしろ必然だろう。
しかし、精神分析はあくまで学問、科学であり、宗教ではない。
ファルスや父からは一歩離れてなくてはならない。
それらを否定するのではなく、それらに対しなんらかの価値観をもって接してはならない。
それらも人間の心という物性の一つにすぎない。精神分析という科学からすれば。
そもそも、ローマ帝国は最初はキリスト教を弾圧していたが、皇帝選出や元老院のごたごたで求心力を失ってきたから、当時信者を増やしまくっていたキリスト教の力を借りようとして、国教になったわけだ。そしてローマ帝国が東西分裂してキリスト教も東西分裂してしまった。
キリスト教以前にも、歴代ローマ皇帝には、ギリシャ神話の神を模すことで、自らを神聖化する者がいた。精神的な国家統治とも言えるやり方を、ローマ帝国はキリスト教以前から行っていた。
しかしこの「精神的な統治」ってのは、社会工学的なアプローチでどうにかなるものではない。民心、「愚民ども」というのは設計図通りに加工されてくれない。民心などというのはほんと水物である。
実際に、寛大な皇帝の時代などには、民衆は皇帝を揶揄するお芝居などをしていた。
ローマ帝国は、隆盛を極めていた時期ですら、皇帝や元老院から民心はある程度離れていた、ということでもある。言いすぎなら民心は中枢権力機構から一歩離れていたところにあった、と言える。現代若者の「政治離れ」と似たような風潮があったんじゃないだろうか。
この、「相手に対し心的距離として一歩離れる」というのは、分析家にとってもそうではなくてはならないことだ。「分析家はクライエントに転移させて、自分がクライエントに転移してはならない」、「逆転移」はご法度だ。
このように、中枢権力機構から心的距離が一歩離れた民心というのは、中枢権力機構に対し、一種の精神分析家的な目線で見ていた、と言える。
こういった態度が、キリスト教を、「無意識におけるファルスの探求」たるメソッドとして、受けいれる素地になったのではないか、と。無意識的なことへの着目、そのメソッドとしてキリスト教があったのではないか、と。民衆にとって。
ちなみに、ここで見てきたローマ帝国とキリスト教の関係は、要約すると、国家を「意識的なファルスの意味作用へのアプローチ」だとし、宗教を「無意識の奥底にあるファルスへのアプローチ」だとしているわけだが。
そうだとすると、東方正教の
「ビザンティン・ハーモニー」とかは、意識と無意識の融合、統合だ、となるわけで、ユングの主張のようなことか、と思える。「影という元型と自己の統合」とかって奴。
しかしこの融合、統合はままならないもの。ままならないことが精神疾患だ。
東方正教自身がこのままならなさについて、「一人の人間において、体が欲しているが心が欲していない場面、心が欲しているが体が欲していない場面といった葛藤があるのと同様に、国家においても体と心が葛藤する場合がある」と述べているように。
「エスあるところにエゴあらしめよ」とは簡単なことではない。
「エゴあるところにエスあらしめよ」なんてのは、無意識的すなわちそいつ自身が認めたくないエスに対する否認にすぎない。
まあそんな妄想をめぐらしてみた、って話。
あとさ、ギリシャ神話とかも流れで調べたんだけどさ。
ガイアの曾孫あたりに、ゼウスとクロノスの父子ゲンカで、クロノスについた女神がいるんじゃないか、と。
その名はゼウスによって消されてしまった、ネロ皇帝のように。
名もなき女神。
それが、ゼウスに敵対したガイアや、キルケやリリスやヘカテーと結びついたんじゃないか、と。
名もなき神。
名のある神は、その名において、無意識を隠蔽・抑圧する。
まあだから精霊とかいるんだろうけどさ。キリスト教なら天使やプネウマとかか。
名もなき神は、意識を無意識に誘う役割も担うが、「ままならぬ」意識と無意識との葛藤そのものでもあるのだ。
まさに「離接」。
あとさー、別の話なんだけど、精神分析の言説見てるとさー、「頭の中の小人、その頭の中の小人、その頭の中の小人……」って論法が否定的に語られてるのが多いんだけども、こういうのこそ「精神分析の宗教化」だと思えるわ。
elveさんちから。=====
脂 2011/08/30 19:24
「頭の中の小人、その頭の中の小人、その頭の中の小人……」
これこそ=====
しかし,おそらくそのような状況としての出立が問題なのではなく,その状況が招く「自分自身の言葉で語ることの突然の要請」が問題なのである.こう言って良ければ,それは「語りの出立」ということになろう.自分自身の言葉で,誰の助けも借りずに発言すること.このような状況では,人は父の機能に対する問いに直面させられることになる.精神病者の発病契機となる事態は,「自分自身の言葉で語ることが不成功に陥る」こととして一括できる.例えば,会社の朝礼で他の社員の前に立たされ演説をさせられたある女性は,その翌日から被害的内容を持つ幻聴と実体的意識性の出現をみた.そして,当時を回想して「(朝礼のときは)うまく喋ることができなかった」と語る.このように,前精神病者は,自分自身の言葉で発言しようとした瞬間,語りが「うまくいかない」という事態に陥る.ここにおいて,宮本のいう「言語危機」*2をラカンの理論と対応させることができよう.
分析がときに精神病の発病を招くという事実は,自由連想の規則がまさに自分自身の言葉で話すことを求めることによる.
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という状態でもある。
つかさー、「頭の中の小人、その頭の中の小人、その頭の中の小人……」ってさ、なんか批判的な意味の比喩として用いられる(「そういう論だからダメだ」って風に)、「小石を半分に割って、さらに半分に割って、さらに半分に割って……」で分子や電子を発見した物理学の思考だと思うんだがな。
科学の思考様式だろ、むしろ。
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お前が「精神疾患者だ」と言われるのがいやなだけだろ、って思うわ。
それが「ダメ」なのは、精神疾患への差別心の表れなんじゃねーの。その言述の根拠にはなんらかの価値観があるんじゃねーの。
精神科医は「お薬くれる自動販売機」って考えればいいんだけどさ、心理カウンセラーとかこういう差別心丸出しだから治らないんだよ。
そもそも「精神疾患は治すべきものだ」っての自体が精神疾患者に対する差別心だろ。
「病は治すものだ」
ふうん、フロイト自身が「精神分析はペストである」つってんだがな。
精神分析をなくせよ、じゃあ。
こうやって科学はイルミナティ化していくわけですねわかります。
ほんとあれだ、精神分析はまだましかなと思って精神分析村にいるわけだが、村民がバカばっかだと思うようになってきた。
お前らって村民なら精神分析はペストじゃなくなると思うよ。
立派な宗教になっていくだろう。
まあわたし一人が村民とか無視して科学としての精神分析やってりゃいいんだけどさ。