そうやって歩いている分にはなんともないんだよね。そこから、そうだな、たとえば、刃物のようにとがった石ころが敷きつめられた河原、とか。上流とかそんな感じでしょ、あれをもっとギザギザさせたような。あ、川はなしで。
僕が歩いているのは車も通れないような細い路地で、迷路みたいになってて、でも一箇所として同じ風景はなくて、同じところをぐるぐる回っているって感じはしない、つねに何かを発見し驚いている。
また別の寺院では、碁石のような坊さんたちがおたがいの皮膚をいじりあっている。猿の毛づくろいみたい。ちっちゃな猿。ちっちゃすぎて、デブの金持ちが食べ残した肉片と見分けがつかないような。
デブの金持ちは、コウサという名前で、僕の左手の薬指から生まれた生物。要するに登場人物だ。架空かどうかはわからないけど。架空だとは思うけどほんとにいたら申し訳ないのでそう言っておく。
それと同じことで、僕が「わたし」を、架空でいいけど、「わたし」は架空でしか存在できないからいいんだけど、架空じゃなかった可能性も考えておくと、コウサは死なない。あ、僕がコウサを殺すつもりならいいや。わたしはどっちでもいい。ただの読者だから。
よりそいすぎてる、コウサは。持病で伏せっている母親に。自分の食べ物を買ってもまだお金が余ってるから、もうろくに歩けもしない、ただ死にゆくだけの母親を生かしている。ペットのようなもの、いや多分ペットより価値はあるんだろうけど。
コウサはあまり働かなくてもいい。一日数時間仕事場にいるだけでお金が入ってくる。そういう仕組みになっている。残りの時間はずっと家にいる。母親の面倒を見ている。熱帯魚も飼っていて、熱帯魚の面倒も見ている。
彼の部屋だけがあって、他は大道具だ。書割。
書割のうしろには碁石の坊さんたちがすしづめになっている。
坊さんたちは血まみれだ。床にはギザギザの石が敷きつめられているから。
撮影所のキャットウォークには、たくさんのほうせんかが咲いている。照明のせいかとてもカラフルなほうせんか。
水槽の中で「わたし」が泣いている。
僕はもう何も書けない。脚本を書けない。
わたしは、そうだな、水槽の中の砂利?
お話はもういいよ。作り話は。いや話せるなら話していいけど、話せないなら話さないでいい。
君の世界はそれだけじゃない可能性は、残しておくから。
死んでいいけど、死ななくてもいい。
生かしておくなんてことはできない。水槽の中の砂利にそんなことはできない。
でも、多分、坊さんたちの足元に転がる肉片は、「わたし」になり損ねたものである可能性を、……やっぱいいや、そんなこと言いはじめたらキリがないもんね。
半透明の線、二、三本が平行して、幾束のそれが絡みあってて、あれ、うなぎの稚魚って見たことある? ああいう感じ。動いてるし。
ギザギザの石のあいだから、むくむくと、ゴムボールが細胞分裂して増殖していくみたいに、「わたしの気持ち」が形になる。
でもそれは僕の物語には書き込めない。コウサの大腸の中、寄生虫になってしまったのだ。僕の言葉は。
コウサはそれで幸せなのだから、そっとしといてやろう。僕が続きを書きさえしなければ。
水槽は、なかったことにしよう。はじめから書き直さなきゃならなくなる。
僕の体から、フケのように、何かがはがれて落ちていく。熱帯魚のエサにでもなればいいんだけれど。
そんなのいらない。熱帯魚とかどうでもいいし。
だからだめなんだよ、「ゴムボールの細胞分裂」だって「石鹸の泡」とかにすればまだ僕は書ける。
ああまあ、「石鹸の泡」の方が正しいかもしれない。それは非生物だから。ゴムボールは細胞分裂しない。生物ではない、ないから、どうすれば、どうしようも、どうかしてる「わたしの気持ち」。
そんなのいらない。「わたし」の気持ちなど僕はいらない。僕はそんなこと書きたいわけではない。そんなのはどこにでもある。映画にも日常にも。
ほら、同じ。結局僕も。コウサの部屋から出たいだけだ。水槽の砂利じゃ外に出られない。
そんなことわたしに言われても。出られないなら出なければいい。
砂利に僕の気持ちがわかるもんか。
生物の気持ちなんてわかるわけがない。
わかるよ。わかってるつもりだよ。わかってないけど僕の頭の中だけでわかってるよ。「わたし」は登場人物で架空の存在だけど、そうじゃない可能性は残しておく。だから水槽は残しておく、やっぱり。
そこから。