2012/09/28/Fri
マジで。
十年以上前にガンが見つかって早期発見だったから大丈夫だったらしいんだけど、ガンかどうかはわからないけど検査入院してそのまま。
いかん、母よりは早く死なないと。
2012/09/25/Tue
ファルスとは自然渋滞のようなもの、か。
イナゴの大群。ネットイナゴ。
いや、うん。
イナゴの大群など一過性のもので、存続するものではない。
津波。うん。津波のエネルギーは海を渡り地面にぶつかるなどして分散していく。
そういうものである。
しかし、その大群を、ヒトという種に特徴的な言語的思考により、存続させようというのがファルスか。
いや両方か。
やっかいだねえ。ファルスという病理は。
人間とはシンボルに群がるイナゴである。
2012/09/23/Sun
「恐怖の権力」って要するに神経症の根本はいわば恐怖症だってことか。
2012/09/21/Fri
あ、ごめん、やっぱ
前記事嘘。
自我が生じるから欲望のシーソーがある、でもいけるなあ、と。
んー。
つかまあ自我以前には因果がないとか言っちゃえば、自我以前だからどちらが因果かとは問えない、って話に脳内でなって、うわー中観仏教だなーと思えて、ちょっと不満である。
因果はないかもしれないが、微分的なベクトルはあると思うんだなー。
それは方向性ではあるが、無数のばらばらな矢印のごとく、全体としては全方向となるゆえ無方向だとなりはするが。
そんなこと言う奴には生きたまま心臓抉り出して目の前に持ってきてあげて「これこれ」と言ってやりたい。
龍樹にも仏陀にも。
心臓を抉り出して、血管をなんかすごいチューブで延長させて、人工心肺装置みたいにして、その装置を体とは別のところに置かせて、そうして生きている人が「因果はある」と言って、やっとわたしは「然り」と言える。
龍樹や仏陀が「不因不果」と述べても嘘に聞こえる。
なぜならわたしは彼らの心臓を抉り出して目の前にちらつかせて「ほらこれが君の心臓」と言えるからだ。
その上でなお「不因不果」と言うならば、仕方がない、お前の心臓をもらってやろう。生きたまま。
しかしわたしはそうしていない。ゆえに仏教にもわたしは「然り」と言えない。
手品師は言った これはきみのもの
ぼくの命 きみにあげる
指先でそっと触れてごらん ほら
怖くないよ 抱いてごらん
抱いたら次は、はわたしにはないが。
2012/09/21/Fri
鏡像段階とは欲望のシーソーである。
自我が生じるから欲望のシーソーとなるのではなく、欲望のシーソーが自我を生む。
いわば欲望のシーソーとは自我の幼生であり、自我のある場合における産物として欲望のシーソーと呼ばれる症状が見られるわけではない。
一般的には、欲望のシーソーが見られる主体を「わがまま」だとか「自己愛が強い」などと言う。つまり欲望のシーソーの原因は自我のせいだということだ。
それは、一部間違いではないが、誤りも含んでいる。自我と欲望のシーソーは確かに因果関係を持っているので、この箇所は間違ってはない。しかし、自我を欲望のシーソーの原因にすえるのは誤りだ。それは本末転倒だ。
去勢済み主体とは去勢されてなるのであり、去勢済み主体として人は生まれるわけではない。
2012/09/15/Sat
『CSI』のモーフィアスさんの役がちょっと直球すぎというか主役としてトラウマ持ちというありがちな点を早くも見せていて結局「他者の欲望である欲望」がテーマになるとわたしが勝手に予想してしまってちょっと残念な気がした。などとつらつら考えてたんだが、
『CSI』シリーズのよさはやはりグロ好きというか悪趣味層をターゲットにしていた点だと思われるのだが、それだけではないよなーと思っていろいろ考えた。
で思ったのが、タイトルで差別化をはかっているのは「ラスベガス」「マイアミ」「ニューヨーク」という地名である。であれば制作側にもそういった意図(無意識かもしれぬが)があると考えられる。
ふと思ったのが、わたしは日本人なのでよくわからないが、ラスベガス、マイアミとも、日本人のイメージになかった地域の特色が描かれている点があると思えた。
というのは、ラスベガスなどはカジノの街でそれは日本人でもわかるだろうが、街が砂漠地帯と隣接していて、この郊外の砂漠で主要キャストが死にかけたりするなど、そういった「意外な地域の特殊性」がフィーチャーされていると言える。
マイアミはあの湿地帯、エバーグレイズだ。なんかの意図かと思えるくらいにワニが出てくる。まあそういった地域特色があるなら死体をワニに食わせようと殺人犯はわりと普通に思ったりするのかもしれない、マイアミのリアル殺人犯も。泥炭火災がネタにされてたときなどは個人的に和んだ。東南アジアでなんか知っただけだけど。アメリカでもあるんだーと。
「意外な」というのはもちろん日本人であるわたしの感覚にすぎない。
しかしラスベガス、マイアミとも都市化されており、こういった砂漠や湿地帯は一種の都市の「人工的さ」と対比可能である。演出的に。
ではニューヨークはどうなんだろ、と思う。ラスベガスの砂漠地帯、マイアミの湿地帯というわかりやすい「人工的さ」と対比可能な自然の象徴はあまりない。
『CSI:NY』は「都会物」にはありがちな象徴だが「都会の盲点」みたいな言葉がよく使われる。まあ盲点だからこそ犯罪が起こるのだろうが。
「都会の盲点」とはそれこそ都市の「人工的さ」に対する反意である。都市の「人工的さ」と対比させている構造がここにも見られると言えよう。強調している部分がラスベガスとマイアミと多少違うとも言えるが。
まあいかにもな構造主義的解釈だけどそんな話かなーと。
個人的に『CSIシリーズ』の中でマイアミが好きなのはもちろんホレイショ様の魅力もあるが、湿地帯という自然が東南アジアを連想させるからかもなー、とも。
マイアミはドラマ構成的には西洋的勧善懲悪だが、じめじめどろどろしててよいwww
2012/09/14/Fri
人間はつねに他者の欲望を求めている。
うんざりだ。
「人間は全員他者の欲望を求めている」となると人間主義、ヒューマニズムなどになるのだろう。
この人間の傲慢さはどこからきたのだろう。
不思議だ。
人間にはじめからあったのもなのか。
ファルスとは。
2012/09/09/Sun
この記事でも書いたことだがもう一度。
そりゃわたしブログの読者なのだろうからわたしの文章を読んでいるのかもしれないが、わたしは読者のほとんどが誰か知らないし、知ろうとも思ってない。誰だかわかってないのにどうやって知ろうと思うのか。
なのにわたしと会話したつもりなっているのならば、それはお前の脳内わたしであり、お前の妄想への固着というパラノイア症状である。
2012/09/08/Sat
『ロイヤル・ペインズ~救命医ハンク』をこの時間帯だから見てたのだが、あれに登場してた主人公ハンクの浮気相手のエミリーってのがなんかこうこそばいと思ってたのだが、
この記事の彼女っぽいからだ、と気づいた。
ハンクがエミリーと別れた理由は、もちろん本命のジルという存在もあろうが、エミリーが本当の姿を見せないからだ。
しかしエミリーはハンクとの付き合ってるときが本当の自分だったと言う。
これその彼女と重ねあわせるとうやむやする。
そういえばハンクは父の不在なキャラなんだよな。それと対照的なエミリーは母の不在なキャラだったのかもしれない。
ハンクのだらしない父と思えないような父、それと同様な悩みをエミリーが母に持っていたら心理的におもしろい対照は取れるが、できすぎな気もするのでやっぱいいや。
あ、ドラマ自体はすげーそふぃひしちけいてっどなウェルメイドってかそんな。
舞台ならカトケン事務所がやるような。あ、ファンです。
こういうのも実は嫌いではない。
正直、例の彼女とエミリーを重ねあわせる(転移か)と、ハンクが「本当の君を見せてくれない」と言っているのは、ハンクが見えないのはハンクの脳内エミリーの話で、ハンクの考えすぎ、一人相撲だと思える。
ハンクの転移の話なのだ。ここにおいて分析主体はハンクである。
エミリーは本当に単純にそれが本当だったのだろう。ハンクがうがっただけで。
ハンクはエミリー本人にとっては本当の自分だった姿を偽物とだとし、脳内エミリー、元型的考えをすればアニマが見えなかった、というわけだ。
ハンクの欲望の身勝手さなのだ。
でもそれでジルというアニマの転移が可能なところに戻るのがウェルメイドだなーと。
エミリーはおいしい役だなあ、ほんま。
あ、あとどうでもいいけど。
「人は飽きやすい生き物でしょ? 面白くなければ”消えて”ます。」
いつかは消えるものです。
2012/09/08/Sat
「死ななきゃ」と焦燥感まではないが「あーやらないとなー」ぐらいの感じで、ある。
眠剤変えたせいか寝始めはすごい眠くなって寝るんだけど3時間ぐらいで起きてしまう。
起きたまま、というか半分は寝ててつまり夢うつつのまま布団の中でだらだらしているのもおもしろくて好きなんだけど、「死ななきゃ」のせいで起きてしまう。死の不安? 死の不安から逃れるために起きるんじゃなくて、死のうとして起きるんだから、なんか違う。
頭の中がふわーっとしている。夢で聞いた谷山浩子の曲を探してみる。意外とそのまま聞いていた。谷山のこの曲はわたしの頭の中にあったものの方がオリジナルに思える。こう考えると、もともとわたしの頭の中にあった旋律を谷山が思考盗聴みたいなもので盗んだ、とか考えると統合失調症みたいだ、と思った。わたしはそこまで頭が回らなかった。
縦糸と横糸だなあ、と思ったが何が縦糸で何が横糸か忘れてしまった。
ふわーの感じで谷山のアルバム聞いているが結構普通である。何も新しい感覚は生じてない。
でも、まあ普通に聞いててもときどき泣いてしまう
『秋ぎつね』でぼろぼろ泣いている。
ふわーっとした感覚のままで。
ふわーっとしたままで号泣しているこの合わせ技は、新しい感覚かもしれない。
2012/09/07/Fri
欲望を否定するのではない。そんなこと倫理に任せておけばよい。
欲望を肯定するのではない。そんなこと情愛に任せておけばよい。
欲望を科学するのだ。
2012/09/02/Sun
あれだなーなんかわたしってほんとパラノイア者のいいエサなのかもな。
わたしという他者のことを考えているようで実は自分の妄想に執着しているだけという。
ネットとリアルでいろいろあってげっそりした。
ほんともう人間とつきあいたくない。
愚かな人間どもとは。
いやもうほんと疲れた。人間に。