きっちゃてんに書いたことをこっちにざっくりまとめてみる。
日本人一般は、西洋と比して文化的に倒錯性が強いとは思う。2ちゃんねるの言葉なら「日本人の性欲は異常」って奴だ。
ここを少し考えてみたい。
まず、熊谷高幸の著作のタイトル「日本語は映像的である」って文章なんだが、このときの「映像」とは視覚映像のことではなくイメージなわけだな。引用されてた一部の文章を読んだだけだがそこではそういう話だった、「親密さ」とか「甘え」とは目に見えないものだろ。それは「イメージ」だ。
これはだな、議論がちょっと飛躍していると思うんだ。
日本語は、西洋言語と比べて、省略することが多い。英語でも省略はあるが、省略の文法規則というのがある一方、日本語の省略は文法規則を認めにくい省略の仕方をする。省略の規則がゆるいんだな。
省略が多くその仕方に規則性を認めるのが困難であるということが、言語学上の日本語の特徴だ。
次に認知学の方に少し寄ってみよう。言語学で言えば意味論でこの省略を考える。
人は相手の話した言葉の省略部分に、何かしらの意味を読み込む。
これはすなわち明言されてない意味を読み込むことで、すなわち隠喩だ。
認知学的かつ言語学意味論的に言えば、日本語の特徴は隠喩が多い言語だ、となる。
この次にやっと心理学、精神分析学の話になる。
日本語は、言語学的に言えば、省略が多くその仕方に規則性を認めるのが困難である。それは意味論的に言えば隠喩が多い言語だとなる。
精神分析においては、隠喩とはフロイトの「夢の検閲」における「圧縮」であり、「抑圧」だ。
これをもってして水上雅敏などは「隠喩とは死の欲動側のものだ」としていたのだろう。
その通りではある。西洋言語の世界で生まれた精神分析の理論はそうなる。水上は間違っていない。教科書的に。
しかし、ここで日本語の西洋言語と異なる特性を考えるべきなのではないだろうか。
精神分析理論においては、隠喩とは抑圧であり死の欲動側のものとされている。フロイト-ラカンでは。
しかしそれは省略が少なく、あっても文法規則がある省略の仕方をされる西洋言語における隠喩の作用だと考えなければならない。
西洋言語における隠喩は「欠如」として作用する。言語上の欠如であるゆえ父の名の作用がある。
西洋言語における隠喩は「父への欲望」「大文字の他者への欲望」「欲望の抑圧(欲望を抑圧してくれる他者への欲望)」を誘導する。
一方、省略が多くその文法規則が認められない日本語の隠喩はどうか。
隠喩とは言葉の省略部分に何かしらの意味を読み込むことだ。
もちろんそれは明言されてないのだからその意味には「欠如」の作用が含まれるはずなのだが、日本語は次から次へと省略される。隠喩される。
それでも「意味は通じ合っている」という幻想を保持するため、日本人は、隠喩された意味をイメージ化する。意味はサンボリックかつイマジネールなものであるゆえ、イマジネールなものであることができる。
たとえば、この隠喩されたイメージを何かしらの物だということにすれば、フェティシスムだ。これも倒錯である。
以上のように、日本語における省略すなわち隠喩は、西洋言語における「抑圧」として作用せず、向井のシュレーバー論文における「1→2を経たのちに2に舞い戻る」(※)すなわちイマジネールな世界に退行させる、倒錯へと誘う作用があるのではないか。
熊谷高幸「日本語は映像的である」でも、土居健郎の「甘えの構造」を引いて、「甘える」という母と子供の親密な関係を示す言葉は、西洋言語にはない、としている。
精神分析においては、去勢後、去勢を否認して母と子供の親密な関係に舞い戻ろうとするのが倒錯である。
つまり、「日本語は映像的である」ということが、日本語による倒錯性を示しているのである。
以上から、日本人、日本語を母国語にする主体は、倒錯者が多い、となる。
そう言えば、心理士でラカニアンの河野一紀って人も、日本人はとは言ってないが、現代社会は、社会的に倒錯化しているという話をしていた。
そのときは、それは資本主義のせいで、ほしいものがすぐ手に入るから、欲望が欲求化してしまい、つまるところフェティシスムとして社会的に倒錯化している、という話であったが。
もう一つ、同様に心理士でラカニアンの水上雅敏も、若い子たちをカウンセリングしていて「他の人から嫌われない人が偉い人」という価値観を大体の子が持っていることに違和感を覚えた、という文章から始まる論文を書いていた。「他の人から嫌われても偉人として名を残している人はいるでしょ」という話をしても聞かない。
水上はそれを倒錯とは言ってなかったが、少なくとも自己愛的なイマジネールな世界に固着していることだとして、若い子たちは去勢を否認している子が多いという話であった。
わたしなどは思春期なんかむしろ去勢を否認するのが健康である証だとは思うが、水上の言う「若い人」というのが水上と比べて若いだけ、つまり3,40代とかも含まれるとなれば、水上の感じた違和感は納得できなくない。
また、小此木の(ってか古澤か)アジャセコンプレックスなんかも、フロイトのエディコンが日本人には理解が難しいだろうからと作り出した苦肉の概念だったりするわけだな。まあ今ではトンデモ論として(引用した元ネタの神話も故意かしらんが誤用だったりする)まともにそれを考える人は少ないが。
加えて、河合隼雄の「母性社会日本の病理」なんて本もある。ちょっと忘れたがこれは初版はかなり前の本だ(1976年が初版らしい)。
これらの論は、大体のところ共通しているのは、日本文化は母性社会であり、すなわち母子の双数的関係のイマジネールな世界を重視する文化であり、倒錯的だ、という話なわけだな。
水上、河野という現役心理士や、故河合などという御大が「現代日本の文化的倒錯性」を指摘しているわけで、指摘ではないが日本精神分析の草分けでもある小此木がアジャセコンプレックスを主張したのは日本文化がエディコンって概念を適用しづらいからだったわけであり、そういった日本の倒錯性が理由だったとすれば、むしろなぜ日本精神分析はそこについて論じなかったのだろう。
河野については、自分の臨床体験から一般的に倒錯化していると思ってそういう話をしたのだろうが、それを資本主義に持っていくのは間違ってると思うんだな。
資本家のディスクールなるものもあるが、細かく考えず大雑把に言えば、資本主義的な貨幣の流通構造こそがシニフィアンの連鎖と同じことであって、それが神経症(抑圧)の原因だとするのはともかく(
こちらを参照のこと)、倒錯の原因だとするのは、ラカン理論的にちょっと無理があるというかややこしい理屈が必要になると思われる。
そこはやはり日本語を理由にすべきだろうと思う。ラカニアンであれば。
これまでの話をまとめてみよう。
言葉はすべてのものを表せない。必ず何かが省略されている。
↓
人は言葉が省略された部分にも何かの意味を見出してしまう。すなわち隠喩。
↓
それは「存在しない言葉」の意味であるゆえ、それは「父の名」(言語上の欠如、言語構造の不完全性)として作用する。
↓
人の心理において欲望の抑圧として作用する。
というのがフロイト-ラカンの教科書なわけで、だから水上は「隠喩は死の欲動側だと思う」と言ったり藤田博史などはオヤジギャグで「シニフィアンはシノフアン」とか言ったりするわけだ。
一方、日本文化はちょっと違う。
日本語は省略が多い言語である。
↓
人は言葉が省略された部分にも何かの意味を見出してしまう。すなわち隠喩。
↓
次から次へと隠喩されてしまうので、「存在しない言葉」の意味をイメージ化する。
↓
人の心理において欲望を誘導する作用となる。
よって、イマジネールな快感原則的な世界を生きる倒錯者となる。
余談になるが、日本人に限らず(わたしが言うところの)ファザコン女性(例、大野左紀子、聖テレジア等)の場合は、
言葉はすべてのものを表せない。必ず何かが省略されている。
↓
人は言葉が省略された部分にも何かの意味を見出してしまう。すなわち隠喩。
↓
「存在しない言葉」の意味をイメージ化する。
↓
イメージ化されてもそれは「イマジネールな父」であるゆえ、心理において欲望の抑圧として作用する。
よって、ファザコン娘はイマジネールな世界を生きる倒錯者でありながら欲望の抑圧が機能した神経症者として生きられる。
聖テレジアなら「イマジネールな父」との交接が「神の槍(もろペニス)に貫かれて恍惚となる」ってものになろう。
「イメージの世界」というと何か自由な感じを受けるかもしれないが、倒錯者の妄想はまったく自由ではない。彼らのイメージは「母とのオナニー」(※ここでは向井のシュレーバーについての論文における1の世界)に拘束されている。
「母とのオナニー」という原図が最初からあって、それに当てはめるようなイメージを組み立てる。
だからどんなイメージをしても必然的に「母とのオナニー」という構図の絵になってしまう。
クラインなどはこう言う。「すべての芸術は母の乳房を求めている」(わたしは同意しかねるが)。
まさにこの2ちゃんコピペそのまんま。
165 名前: 名無しさん 投稿日:2005/12/18 23:16
妹「お兄ちゃんって落ち込んだ時どうする?」
俺「んー、別に何も。寝るかな」
妹「ふーん・・」
俺「どうした?何かあったか?」
俺「ううん、ちょっとね」
俺「何だよ水くさいな、言ってみろよ」
俺「う、うんとさ・・・」
俺「おう」
俺「お兄ちゃん、この間一緒に歩いてた人、彼女?」
俺「・・・は?」
俺「前学校の近くで話してたじゃん」
俺「ああ・・・あいつか。なわけないだろ、ただのクラスメートだよ」
俺「ほんと?」
俺「嘘言ってどうすんだよ」
俺「そっか」
俺「てかそんな話はいいんだよ。落ち込んでたんじゃなかったのか?」
俺「ううん、それならいいんだ!えへへ」
俺「おかしな奴だな」
俺「ふふ♪お兄ちゃんに彼女なんてできるわけないよね、よく考えたら。」
俺「こらこら、失礼だぞ」
166 名前: 名無しさん 投稿日:2005/12/20 16:53
途中から 全部 俺じゃん
上記のコピペネタを詳しく見てみよう。
この会話における妹の最後の発言は
妹「ふーん・・」
である。
この「・・」とは三点リーダー「…」の派生だと思われる。
三点リーダーとは、無音、省略を意味する。
一時期「…」を多用したコメントを書いていたkという主体いた。
これについて彼になぜ「…」を多用するのか質問した際、「距離が取れるから」というようなことを言っていた。
これは「人間関係における心理的距離が取れる」という意味だと思われる。
人間関係の距離は遠すぎても近すぎてもいけない。それが「欲望」と「欲望の抑圧」ということであり、神経症者は欲望機械のこれら二つの拮抗する作用を同時に用いて自身の世界を安定化する。
つまり、kという主体においては、「…」は「欲望の抑圧」として(も)作用していたと考えられる。
彼は日本人としては倒錯者より比較的少数派であろう神経症者だと、わたしは考えている。
一方、上記の「俺」はというと。
彼は妹の「ふーん・・」という三点リーダーすなわち無音あるいは省略を含む返答に対して、その後イメージが膨らんでいる。
彼は妹によって欲望が促されている、と言える。
このときの妹は、実際の母ではないが、精神分析的に言えば「欲望を促す他者」という意味で「母」である。
こう考えると、このコピペこそ、日本語を母国語とする主体が、倒錯が多くなることの臨床的証拠だと言えないだろうか。
同時にこれは、日本語という隠喩を多用できる言葉においては、隠喩は、倒錯的なイメージの世界に誘う作用がある、という、今までの精神分析理論と矛盾することが、臨床的に示されているわけである。
このコピペも見事だよなあ。
特に妹の最後の「ふーん・・」の「・・」が鋭い表現である。
フロイトは詩人たちが自分が臨床を積み重ねて作った理論をあっさりと述べていることに驚きを隠さない。
現代にもそういった詩人たちはいると思うんだな。
フロイトが驚嘆する詩歌は現代にもある。
2ちゃんなどといった「便所の落書き」において。
※向井のシュレーバーについての論文から。
1 子供はまず母親の欲望の対象となり、母親を虜にしようとする。だが母親の欲望の対象が何であるか子供は知らない。それはxである。このxをファリュスと呼ぼう。子供にとってファリュスは母親の想定的な欲望の対象、つまり想像的(イマジネール)なものである。母親の欲望の対象になるということは想像的ファリュスに同一化することに相当する。子供にとって想像的ファリュスに同一化した世界は不安定かつ危険な世界である。というのは想像的ファリュスは捕えどころのないものであり、それに同一化することは、自己の存在を危うくすることに常につながるのである。
2 この不安定なイマジネールな世界を安定させるには母親の欲望が何であるかを示す印、マーク、つまり象徴があればよい。たとえばわれわれが見知らぬ土地で迷わないようにするには何かの目印を頼りにするのと同様である。この印を媒介として母親の欲望を征服できるのだ。父親の機能とはこのように母親の欲望を置き換える印であり、それによって父親は母親の欲望の対象、ファリュスを安定した形で保持するものとなるのである。こうしてファリュスは象徴界(サンボリック)、言語の世界に移行され、この世界で子供は自己の存在を保証しようとする。この1→2の移行に問題があるのが精神病であり、倒錯とは1→2を経たのちに2の世界を否認(去勢の否認)して1の状態に戻ることである。