シリア? しりあんねえ。
2014/06/10/Tue
やる気がない。
書こうと思ったネタがあり、頭の中で文章化し体裁も整えたりできるのだが、それを打ち込む気力がなくいつのまにか忘れてる。
パニックは楽しくもあるが恐ろしいものでもある。
楽しければ文章化する必要ない。文章化することはあるがそれは普通の文章とは別物だ。人工無能がアウトプットする文章だ。
恐ろしければそれから逃避するために文章化するが、打ち込む気力がない。
頭の中にあれば逃避になるから。
でも書けば逃避は続くからなー。機能として書いた方がいいんだろうけど。
頭が生理不順。
サントームなんて、あってもなくてもいいものだ。
ファリックマザーなんて幻想も。
精神病者にとって、神経症者や倒錯者の父の名ほど世界の混乱を治める力はないが、世界の混乱をある程度抑えるあくまで補助的な機構として役に立つだけで。
父の名がある人にすればそれはあってもなくてもいいものだ。
神経症者や倒錯者には必要ない学問。
神経症者や倒錯者には必要ない芸術。
だからそっとしといてくれよ。
人類の九割は。
お前らには必要なく、あっても困らないしなくても困らないものだ。
忘れたと言ったが最初の数ステップの理屈は覚えてるので再度書くことはできなくなく再度頭の中で文章したりしてみてるんだがそれとは関係なく何かがあって、わたしが書こうとしているのはそんなことじゃない的な。
書きたいから書くじゃなくて書くから書く。
それが。
あれ。
まあいいや。
欲望か、欲望ね。
承認されたいというより、パニックは怖いものだという固定なキガス。
誰かの欲望以前に、そのパニックは怖いものだとされる作用というか。
これは欲望じゃないのか。
でも、欲望してるっつか転移してるなあ最近わたしと思うときの方がパニックが怖い。
そこはパニックを知られたら欲望してくれなくなるという理屈があるのか。
あるのだとしたらそれでいいんだけどね。
そうじゃなくて、それもありでいいけど、何かある気がする。
「母という他者」が持つ力として。
今でも発達障害児の親たちと話す機会がある。
彼女らの子供に対するそれは明らかに欲望であり、「奇跡の詩人」でネット民から「キチガイババア」呼ばわりされてた母親とまったく同じ。
しかし逆に言えば、そういった母親はまったくキチガイではないのだ。
「奇跡の詩人」のケースはたまたまFC法という現代医学で否定されている手法を取っただけである。
FC法という問題を除外して考えても、子供がたまたまダウン症だったから、母親という役割がいかにキチガイかばれてしまっただけ。
現代医学でまともとされている療育を施す発達障害児の親たちも、子供と接するその姿は、キチガイに見える。
実際、発達障害児の親には、抑鬱症をはじめ境界例的な症状、そこまで行かなくても自己愛の誇大化や健康的とは言えない解離症状が見られるケースが少なくない。
林公一の言う「お助けおじさん」もそういう話だった。それは境界性人格障害の話で、そういった人には当人を支える家族なり親近者が「お助けおじさん」になり、それが治療の妨害になることがある、という主旨だったのだが、そういった「お助けおじさん」たち自身に精神疾患的症状が見られることがあるとも彼は書いていた。ぶっちゃけフォリ・ア・ドゥって奴であろう。
話がそれたが、「奇跡の詩人」の母親にしろ発達障害児の母親どちらにしても、精神分析的に見れば抑鬱であったり境界例であったり自己愛の誇大化が見られたとしても、子供が健常児であれば、彼女らはまったく社会的に普通な母親とされていただろう、と思える。
彼女らは、母親という立場を考慮すれば、かつ子供が健常児であればという想定をすれば、まったく社会的に普通である。
精神分析的に見て、わたしはそう断言できる。
ゆえに、社会が定める「母親という役割」がおかしいのだ、と考えるべきであろう。
その役割担当についている限り、いくら抑鬱であっても境界例であっても自己愛の誇大化があっても、彼女らは社会的に普通とされる。
こういった話を藤田博史の『人形愛の精神分析』と絡めて書こうとした記憶をこないだ思い出して再読してるがあらら、という感じ。
わたしの今の考えでは、「母親とは、社会が唯一パラノイアであることを許す役割である」ということなのだが、それに繋がること書いててわたしのこの考えはその本が元ネタみたいに思ってたのだがそうでもないらしい。
あるえええ。
自称小児科医で行動療法を実践する方がこのブログに書き込んでいた時期があるのだが(「自閉症児に行動療法は効きにくい」という立場の人でそらパパさんとやりあってたときに来たんだっけか忘れたわ)、彼は「発達障害児の場合、私はまず親に行動療法をかけます」と言っており、わたしは「ほうほうやるじゃないか」とかは言わないけど内心同意して彼の話に興味を持つようになったのだが、どうなのだろうなあ。
自閉症つかアスペの治療は、今でも寛解は難しく、症状をどうにか押さえて社会的に適応するようにさせるって療育がメインなんだが、親に対するケアはどうなんだろう。
わたしが知ってる限り、発達障害児の親は、「病んでる」人が多い。
それは当然子供が原因であるのはそうだと思うから、子供を治しゃいいってのは合理的なんだが、自閉症は寛解なんてしないだろ。
親を、発達障害児という環境に適応させるためのアプローチが、もっと必要なんじゃねえのかい。
どうだい? そらパパさんよ。
ああそうそうどうでもいいけどそらパパくんや前言ったっけ、あんたの学科の(多分)先輩の新保信長さんとか何度か飲んだことあるって。
どっかですれ違ってるかもねー。
書こうと思ったネタがあり、頭の中で文章化し体裁も整えたりできるのだが、それを打ち込む気力がなくいつのまにか忘れてる。
パニックは楽しくもあるが恐ろしいものでもある。
楽しければ文章化する必要ない。文章化することはあるがそれは普通の文章とは別物だ。人工無能がアウトプットする文章だ。
恐ろしければそれから逃避するために文章化するが、打ち込む気力がない。
頭の中にあれば逃避になるから。
でも書けば逃避は続くからなー。機能として書いた方がいいんだろうけど。
頭が生理不順。
サントームなんて、あってもなくてもいいものだ。
ファリックマザーなんて幻想も。
精神病者にとって、神経症者や倒錯者の父の名ほど世界の混乱を治める力はないが、世界の混乱をある程度抑えるあくまで補助的な機構として役に立つだけで。
父の名がある人にすればそれはあってもなくてもいいものだ。
神経症者や倒錯者には必要ない学問。
神経症者や倒錯者には必要ない芸術。
だからそっとしといてくれよ。
人類の九割は。
お前らには必要なく、あっても困らないしなくても困らないものだ。
忘れたと言ったが最初の数ステップの理屈は覚えてるので再度書くことはできなくなく再度頭の中で文章したりしてみてるんだがそれとは関係なく何かがあって、わたしが書こうとしているのはそんなことじゃない的な。
書きたいから書くじゃなくて書くから書く。
それが。
あれ。
まあいいや。
欲望か、欲望ね。
承認されたいというより、パニックは怖いものだという固定なキガス。
誰かの欲望以前に、そのパニックは怖いものだとされる作用というか。
これは欲望じゃないのか。
でも、欲望してるっつか転移してるなあ最近わたしと思うときの方がパニックが怖い。
そこはパニックを知られたら欲望してくれなくなるという理屈があるのか。
あるのだとしたらそれでいいんだけどね。
そうじゃなくて、それもありでいいけど、何かある気がする。
「母という他者」が持つ力として。
今でも発達障害児の親たちと話す機会がある。
彼女らの子供に対するそれは明らかに欲望であり、「奇跡の詩人」でネット民から「キチガイババア」呼ばわりされてた母親とまったく同じ。
しかし逆に言えば、そういった母親はまったくキチガイではないのだ。
「奇跡の詩人」のケースはたまたまFC法という現代医学で否定されている手法を取っただけである。
FC法という問題を除外して考えても、子供がたまたまダウン症だったから、母親という役割がいかにキチガイかばれてしまっただけ。
現代医学でまともとされている療育を施す発達障害児の親たちも、子供と接するその姿は、キチガイに見える。
実際、発達障害児の親には、抑鬱症をはじめ境界例的な症状、そこまで行かなくても自己愛の誇大化や健康的とは言えない解離症状が見られるケースが少なくない。
林公一の言う「お助けおじさん」もそういう話だった。それは境界性人格障害の話で、そういった人には当人を支える家族なり親近者が「お助けおじさん」になり、それが治療の妨害になることがある、という主旨だったのだが、そういった「お助けおじさん」たち自身に精神疾患的症状が見られることがあるとも彼は書いていた。ぶっちゃけフォリ・ア・ドゥって奴であろう。
話がそれたが、「奇跡の詩人」の母親にしろ発達障害児の母親どちらにしても、精神分析的に見れば抑鬱であったり境界例であったり自己愛の誇大化が見られたとしても、子供が健常児であれば、彼女らはまったく社会的に普通な母親とされていただろう、と思える。
彼女らは、母親という立場を考慮すれば、かつ子供が健常児であればという想定をすれば、まったく社会的に普通である。
精神分析的に見て、わたしはそう断言できる。
ゆえに、社会が定める「母親という役割」がおかしいのだ、と考えるべきであろう。
その役割担当についている限り、いくら抑鬱であっても境界例であっても自己愛の誇大化があっても、彼女らは社会的に普通とされる。
こういった話を藤田博史の『人形愛の精神分析』と絡めて書こうとした記憶をこないだ思い出して再読してるがあらら、という感じ。
わたしの今の考えでは、「母親とは、社会が唯一パラノイアであることを許す役割である」ということなのだが、それに繋がること書いててわたしのこの考えはその本が元ネタみたいに思ってたのだがそうでもないらしい。
あるえええ。
自称小児科医で行動療法を実践する方がこのブログに書き込んでいた時期があるのだが(「自閉症児に行動療法は効きにくい」という立場の人でそらパパさんとやりあってたときに来たんだっけか忘れたわ)、彼は「発達障害児の場合、私はまず親に行動療法をかけます」と言っており、わたしは「ほうほうやるじゃないか」とかは言わないけど内心同意して彼の話に興味を持つようになったのだが、どうなのだろうなあ。
自閉症つかアスペの治療は、今でも寛解は難しく、症状をどうにか押さえて社会的に適応するようにさせるって療育がメインなんだが、親に対するケアはどうなんだろう。
わたしが知ってる限り、発達障害児の親は、「病んでる」人が多い。
それは当然子供が原因であるのはそうだと思うから、子供を治しゃいいってのは合理的なんだが、自閉症は寛解なんてしないだろ。
親を、発達障害児という環境に適応させるためのアプローチが、もっと必要なんじゃねえのかい。
どうだい? そらパパさんよ。
ああそうそうどうでもいいけどそらパパくんや前言ったっけ、あんたの学科の(多分)先輩の新保信長さんとか何度か飲んだことあるって。
どっかですれ違ってるかもねー。
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