女性の倒錯(という話ではない)
2014/06/11/Wed
まずこれコピペしとく。
※向井のシュレーバーについての論文から。
1 子供はまず母親の欲望の対象となり、母親を虜にしようとする。だが母親の欲望の対象が何であるか子供は知らない。それはxである。このxをファリュスと呼ぼう。子供にとってファリュスは母親の想定的な欲望の対象、つまり想像的(イマジネール)なものである。母親の欲望の対象になるということは想像的ファリュスに同一化することに相当する。子供にとって想像的ファリュスに同一化した世界は不安定かつ危険な世界である。というのは想像的ファリュスは捕えどころのないものであり、それに同一化することは、自己の存在を危うくすることに常につながるのである。
2 この不安定なイマジネールな世界を安定させるには母親の欲望が何であるかを示す印、マーク、つまり象徴があればよい。たとえばわれわれが見知らぬ土地で迷わないようにするには何かの目印を頼りにするのと同様である。この印を媒介として母親の欲望を征服できるのだ。父親の機能とはこのように母親の欲望を置き換える印であり、それによって父親は母親の欲望の対象、ファリュスを安定した形で保持するものとなるのである。こうしてファリュスは象徴界(サンボリック)、言語の世界に移行され、この世界で子供は自己の存在を保証しようとする。
この1→2の移行に問題があるのが精神病であり、倒錯とは1→2を経たのちに2の世界を否認(去勢の否認)して1の状態に戻ることである。
向井はこれを1と2に分けて書いているが、それは精神病の「父の名の排除」を臨床的にどう観察するべきかを、つまり精神病の臨床として観察される「1→2の移行に問題がある」ことを述べるためにそうしているだけだろうとわたしは思っているが、実際の幼児の心理発達上は、この1と2の過程は同時に並行して起こっている、と考えるべきだろう。
この順番はあくまで分析論理上のものである、ということだ。
どうでもいいが現象学もよくこんな言い方するよな、実際の時系列としてそういう順番で認識してるわけではなく、論理上の順番としてそうするとかって説明をぽろぽろ聞いた覚えがある。はじとかよじとかもう忘れたけど。
で。
今回はこの記事の
=====
余談になるが、日本人に限らず(わたしが言うところの)ファザコン女性(例、大野左紀子、聖テレジア等)の場合は、
言葉はすべてのものを表せない。必ず何かが省略されている。
↓
人は言葉が省略された部分にも何かの意味を見出してしまう。すなわち隠喩。
↓
「存在しない言葉」の意味をイメージ化する。
↓
イメージ化されてもそれは「イマジネールな父」であるゆえ、心理において欲望の抑圧として作用する。
よって、ファザコン娘はイマジネールな世界を生きる倒錯者でありながら欲望の抑圧が機能した神経症者として生きられる。
=====
というところを見ていこう。
……という書き出しでいろいろ書いてたが、あっちゃこっちゃに話が移ってまとめられなくなったのでやめた。
まあ女性が女性について語ればそうなるわな。
昔はもちっとがんばって書けたりしたけどな、これとか。
ただ、文章化してないが、まとめられない思考をしている途中で思ったことだけを書いておこうか。
大野さんは「構造から抜け出せない」と嘆いていた。
まあそりゃそうだ。彼女がどれだけ「イマジネールな父」を世界の支えにして1の世界に舞い戻っても、2の世界から逃れられない。
それは男性も同じで否認してるだけで2の世界は無意識だかに世界として残っているものだが、女性というか大野さんの場合はいくら倒錯しても去勢の否認にならないという点もあろう。
2の世界すなわち象徴界から逃れられない、構造から抜け出せない、というのはラカン派の定型句「人は言葉を使っているのではなく言葉に使われているのだ」「無意識は言語のように構造化されている」ということだと思われる。
大野さんのように、倒錯して1の世界に戻っても世界の支えが「イマジネールな父」である女性は、それが否認にならないことに気付いてしまう。
ここが男性と違うところ。
逆に言えば、大野さんのようなファザコン娘は、「人は言葉を使っているのではなく言葉に使われているのだ」「無意識は言語のように構造化されている」ということに気付きやすい、ということでもあるわけだ。
ファザコン娘は倒錯しても否認をつき通せない、みたいな。
男というか1の世界の支えがたとえばファリックマザーな人は、倒錯することが象徴界のルール的に否認になるわけだから、否認をつき通せる、と。逆な言い方すればだけど。
なんか大野さんとケンカして最終的な言いあいがこの「構造から抜け出せない」ってことだったとわたしは記憶してるんだが、悪いことしちゃったかなーと。
わたしはほら、資格持ちの藤田博史から境界例だと診断されてるからさー。
最近復活した小笠原さんとか、他の医師は「いや普通に境界例だろ」って患者も「統合失調症」って診断してたらしいし。
つまるところわたしは父の名が排除されてるかもしれないわけで(笑)(と付けておこう)。
いやまあ、大野さんへの個人的な話だな。
まあいいや。スルーされるだろうけどトラバ打っとこ。
あああと。
あれだ、きっちゃてんにも書いたけど、めんどいのであっちに書いたことまとめるだけにするか。
わたしはどうもこう、まあ『精神分析事典』にも似たような文章があるんだが、分析家って、去勢の否認している人(つまり倒錯者)に対して去勢を承認させるのが精神分析の役割だ、みたいな考えを持っている人が多いんだが、そこ疑問を感じるんだなー。
小笠原も「精神分析は去勢を承認させること」だと考えてるみたいだなあ。
精神分析の開始において分析家は分析者に,己れ自身 ─ すなわち,己れの存在,己れの存在欠如 [ manque à être ], 己れの欠在 [ désêtre ] ─ について ─ をめぐって ─ 語るよう求める.その言の行為において展開される精神分析の経験とは,topologique に言うなら,普段は見ずに済まそうとしている ― なぜならそれは不安と眩暈,嫌悪と嘔気を惹起するだろうから ― 存在の真理という深淵の穴の周りを回りながら,徐々にその中心へまなざしを向け,その穴の縁にできる限り近く迫り,そして最終的にそれを己れ自身の存在欠如の穴と認めることに存する.それは,他Aの欲望を己れの欲望と認める [ anerkennen, reconnaître ] ことでもあり,そして,Heidegger の表現で言えば,存在が我れらの現場存在を自有する [ er-eignen ] することである.
まあ確かにわっかりやすい「去勢の否認」してる倒錯者とかと話すと去勢を承認してほしいとは思ってしまう。
お前の露骨な欲望うぜーよ、欲望を抑圧してくれよー、的な。
露出狂うぜー、みたいな。
いや別に隠れて露出プレイAV見てるのとかは別に何にも言わないよ、いくらわたしでも。
でも特にこう「勉強できる女」って男の脳内でファリックマザーという幻想にされやすいしな。大野さんも大概そうだろ。
幻想するのは別にいいけどそれを現実のわたしに押し付けんなよ、的な。
ちんちん見飽きてるババアにちんちん見せて何が嬉しいんだよ、的な。
「(分析主体に)去勢を承認させる」とか書いてしまったが、大概の分析家はそうは言わないまでも、「分析主体が去勢を承認するのに付き添うのが精神分析」とかは素直に言えたりすんじゃね。
でもさー。
もしそうなら、要するに「去勢を否認している人に対して去勢を承認させること」であって、「倒錯者を神経症にする簡単な(じゃないけどw)お仕事」になるわけでしょ?
それつまんなくね?
たとえばさー、前精神病者に精神分析アプローチすれば精神病が発症するとラカンも認めているが、それは分析家からすれば「分析主体が享楽にたどり着くのに付き添った」ってことになるだろ。
わたしはそれも精神分析だと思うんだな。
平たく言えば「分析主体を(前精神病者であれば)精神病にするのも精神分析」と。
こういう意味でわたしは「逆精神分析」とか唱えてるんだな。
治療を目的としない精神分析。
治療を目的としないだけで、結果的に治療になるのはありで。
治療を目的としてないから、分析主体が精神病になるのもあり。
何が出てくるかわからないガチャポン。
精神のガチャポン。
課金戦士乙。
ファリックマザーでもイマジネールな父でもサントームでもなんでもいいが、そんなもんなくてもお前らの世界は壊れやしねえよ。
父の名があるなら。
父の名がない精神病者や前精神病者にとって、それは「治せはしないが病気の進行を遅らせることはできる薬」として作用するだけで。
お前らの世界にはあってもいいけどなくてもいいもんだ。
それが壊されそうになってもぎゃーぎゃーわめくな。そんなもん壊れてもお前らの世界は壊れない。
精神病者の世界はそれが壊れたら壊れるけどな。
深刻さがちげーんだよ、バーカ。
※向井のシュレーバーについての論文から。
1 子供はまず母親の欲望の対象となり、母親を虜にしようとする。だが母親の欲望の対象が何であるか子供は知らない。それはxである。このxをファリュスと呼ぼう。子供にとってファリュスは母親の想定的な欲望の対象、つまり想像的(イマジネール)なものである。母親の欲望の対象になるということは想像的ファリュスに同一化することに相当する。子供にとって想像的ファリュスに同一化した世界は不安定かつ危険な世界である。というのは想像的ファリュスは捕えどころのないものであり、それに同一化することは、自己の存在を危うくすることに常につながるのである。
2 この不安定なイマジネールな世界を安定させるには母親の欲望が何であるかを示す印、マーク、つまり象徴があればよい。たとえばわれわれが見知らぬ土地で迷わないようにするには何かの目印を頼りにするのと同様である。この印を媒介として母親の欲望を征服できるのだ。父親の機能とはこのように母親の欲望を置き換える印であり、それによって父親は母親の欲望の対象、ファリュスを安定した形で保持するものとなるのである。こうしてファリュスは象徴界(サンボリック)、言語の世界に移行され、この世界で子供は自己の存在を保証しようとする。
この1→2の移行に問題があるのが精神病であり、倒錯とは1→2を経たのちに2の世界を否認(去勢の否認)して1の状態に戻ることである。
向井はこれを1と2に分けて書いているが、それは精神病の「父の名の排除」を臨床的にどう観察するべきかを、つまり精神病の臨床として観察される「1→2の移行に問題がある」ことを述べるためにそうしているだけだろうとわたしは思っているが、実際の幼児の心理発達上は、この1と2の過程は同時に並行して起こっている、と考えるべきだろう。
この順番はあくまで分析論理上のものである、ということだ。
どうでもいいが現象学もよくこんな言い方するよな、実際の時系列としてそういう順番で認識してるわけではなく、論理上の順番としてそうするとかって説明をぽろぽろ聞いた覚えがある。はじとかよじとかもう忘れたけど。
で。
今回はこの記事の
=====
余談になるが、日本人に限らず(わたしが言うところの)ファザコン女性(例、大野左紀子、聖テレジア等)の場合は、
言葉はすべてのものを表せない。必ず何かが省略されている。
↓
人は言葉が省略された部分にも何かの意味を見出してしまう。すなわち隠喩。
↓
「存在しない言葉」の意味をイメージ化する。
↓
イメージ化されてもそれは「イマジネールな父」であるゆえ、心理において欲望の抑圧として作用する。
よって、ファザコン娘はイマジネールな世界を生きる倒錯者でありながら欲望の抑圧が機能した神経症者として生きられる。
=====
というところを見ていこう。
……という書き出しでいろいろ書いてたが、あっちゃこっちゃに話が移ってまとめられなくなったのでやめた。
まあ女性が女性について語ればそうなるわな。
昔はもちっとがんばって書けたりしたけどな、これとか。
ただ、文章化してないが、まとめられない思考をしている途中で思ったことだけを書いておこうか。
大野さんは「構造から抜け出せない」と嘆いていた。
まあそりゃそうだ。彼女がどれだけ「イマジネールな父」を世界の支えにして1の世界に舞い戻っても、2の世界から逃れられない。
それは男性も同じで否認してるだけで2の世界は無意識だかに世界として残っているものだが、女性というか大野さんの場合はいくら倒錯しても去勢の否認にならないという点もあろう。
2の世界すなわち象徴界から逃れられない、構造から抜け出せない、というのはラカン派の定型句「人は言葉を使っているのではなく言葉に使われているのだ」「無意識は言語のように構造化されている」ということだと思われる。
大野さんのように、倒錯して1の世界に戻っても世界の支えが「イマジネールな父」である女性は、それが否認にならないことに気付いてしまう。
ここが男性と違うところ。
逆に言えば、大野さんのようなファザコン娘は、「人は言葉を使っているのではなく言葉に使われているのだ」「無意識は言語のように構造化されている」ということに気付きやすい、ということでもあるわけだ。
ファザコン娘は倒錯しても否認をつき通せない、みたいな。
男というか1の世界の支えがたとえばファリックマザーな人は、倒錯することが象徴界のルール的に否認になるわけだから、否認をつき通せる、と。逆な言い方すればだけど。
なんか大野さんとケンカして最終的な言いあいがこの「構造から抜け出せない」ってことだったとわたしは記憶してるんだが、悪いことしちゃったかなーと。
わたしはほら、資格持ちの藤田博史から境界例だと診断されてるからさー。
最近復活した小笠原さんとか、他の医師は「いや普通に境界例だろ」って患者も「統合失調症」って診断してたらしいし。
つまるところわたしは父の名が排除されてるかもしれないわけで(笑)(と付けておこう)。
いやまあ、大野さんへの個人的な話だな。
まあいいや。スルーされるだろうけどトラバ打っとこ。
あああと。
あれだ、きっちゃてんにも書いたけど、めんどいのであっちに書いたことまとめるだけにするか。
わたしはどうもこう、まあ『精神分析事典』にも似たような文章があるんだが、分析家って、去勢の否認している人(つまり倒錯者)に対して去勢を承認させるのが精神分析の役割だ、みたいな考えを持っている人が多いんだが、そこ疑問を感じるんだなー。
小笠原も「精神分析は去勢を承認させること」だと考えてるみたいだなあ。
精神分析の開始において分析家は分析者に,己れ自身 ─ すなわち,己れの存在,己れの存在欠如 [ manque à être ], 己れの欠在 [ désêtre ] ─ について ─ をめぐって ─ 語るよう求める.その言の行為において展開される精神分析の経験とは,topologique に言うなら,普段は見ずに済まそうとしている ― なぜならそれは不安と眩暈,嫌悪と嘔気を惹起するだろうから ― 存在の真理という深淵の穴の周りを回りながら,徐々にその中心へまなざしを向け,その穴の縁にできる限り近く迫り,そして最終的にそれを己れ自身の存在欠如の穴と認めることに存する.それは,他Aの欲望を己れの欲望と認める [ anerkennen, reconnaître ] ことでもあり,そして,Heidegger の表現で言えば,存在が我れらの現場存在を自有する [ er-eignen ] することである.
まあ確かにわっかりやすい「去勢の否認」してる倒錯者とかと話すと去勢を承認してほしいとは思ってしまう。
お前の露骨な欲望うぜーよ、欲望を抑圧してくれよー、的な。
露出狂うぜー、みたいな。
いや別に隠れて露出プレイAV見てるのとかは別に何にも言わないよ、いくらわたしでも。
でも特にこう「勉強できる女」って男の脳内でファリックマザーという幻想にされやすいしな。大野さんも大概そうだろ。
幻想するのは別にいいけどそれを現実のわたしに押し付けんなよ、的な。
ちんちん見飽きてるババアにちんちん見せて何が嬉しいんだよ、的な。
「(分析主体に)去勢を承認させる」とか書いてしまったが、大概の分析家はそうは言わないまでも、「分析主体が去勢を承認するのに付き添うのが精神分析」とかは素直に言えたりすんじゃね。
でもさー。
もしそうなら、要するに「去勢を否認している人に対して去勢を承認させること」であって、「倒錯者を神経症にする簡単な(じゃないけどw)お仕事」になるわけでしょ?
それつまんなくね?
たとえばさー、前精神病者に精神分析アプローチすれば精神病が発症するとラカンも認めているが、それは分析家からすれば「分析主体が享楽にたどり着くのに付き添った」ってことになるだろ。
わたしはそれも精神分析だと思うんだな。
平たく言えば「分析主体を(前精神病者であれば)精神病にするのも精神分析」と。
こういう意味でわたしは「逆精神分析」とか唱えてるんだな。
治療を目的としない精神分析。
治療を目的としないだけで、結果的に治療になるのはありで。
治療を目的としてないから、分析主体が精神病になるのもあり。
何が出てくるかわからないガチャポン。
精神のガチャポン。
課金戦士乙。
ファリックマザーでもイマジネールな父でもサントームでもなんでもいいが、そんなもんなくてもお前らの世界は壊れやしねえよ。
父の名があるなら。
父の名がない精神病者や前精神病者にとって、それは「治せはしないが病気の進行を遅らせることはできる薬」として作用するだけで。
お前らの世界にはあってもいいけどなくてもいいもんだ。
それが壊されそうになってもぎゃーぎゃーわめくな。そんなもん壊れてもお前らの世界は壊れない。
精神病者の世界はそれが壊れたら壊れるけどな。
深刻さがちげーんだよ、バーカ。
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