0の迷子
2014/06/27/Fri
しつこいようだが向井のシュレーバーについての論文から。
1 子供はまず母親の欲望の対象となり、母親を虜にしようとする。だが母親の欲望の対象が何であるか子供は知らない。それはxである。このxをファリュスと呼ぼう。子供にとってファリュスは母親の想定的な欲望の対象、つまり想像的(イマジネール)なものである。母親の欲望の対象になるということは想像的ファリュスに同一化することに相当する。子供にとって想像的ファリュスに同一化した世界は不安定かつ危険な世界である。というのは想像的ファリュスは捕えどころのないものであり、それに同一化することは、自己の存在を危うくすることに常につながるのである。
2 この不安定なイマジネールな世界を安定させるには母親の欲望が何であるかを示す印、マーク、つまり象徴があればよい。たとえばわれわれが見知らぬ土地で迷わないようにするには何かの目印を頼りにするのと同様である。この印を媒介として母親の欲望を征服できるのだ。父親の機能とはこのように母親の欲望を置き換える印であり、それによって父親は母親の欲望の対象、ファリュスを安定した形で保持するものとなるのである。こうしてファリュスは象徴界(サンボリック)、言語の世界に移行され、この世界で子供は自己の存在を保証しようとする。
この1→2の移行に問題があるのが精神病であり、倒錯とは1→2を経たのちに2の世界を否認(去勢の否認)して1の状態に戻ることである。
わたしはこの1,2の以前の段階を想定している。それを文章化するならば、
0.子供はいまだ母の欲望すら知らない。すべてが未知の世界。完全なる迷子。
とでもなろうか。
この世界と比べれば、1の世界も安定してはいる。その世界には、「答え」はないが「母の欲望」というヒントがある。宝探しで言えば、お宝そのものの在処は示されていないが、宝の地図の切れっ端を、幼児は手に入れている。
しかしそれは切れっ端にすぎない。幼児はヒントを手に入れてはいるがいまだ迷子である。
その状態から2の世界に移行する。
幼児はその世界に目印を発見する。しかしそれは宝の在処を示すものではない。自分がいる位置を確認できるだけの目印だ。
とはいえこれは迷子の状態からすればめざましい進歩だ。
目印で自分の位置を確認した幼児は、もともと持っていた地図の切れ端と照らし合わせ、自分のいる世界に宝がないことを知る。別の世界にあると。
幼児は別の世界へ旅立つ。言語の世界へ。
言語の世界でも、宝は見つからぬのだが。
以上は、ラカン論で言えば神経症者と倒錯者、自閉症研究で言えば定型発達者の精神世界について述べたものである。
わたしは、自閉症者は、0の世界が残っている主体だと考えている。
1とは母との鏡像関係であるのは明らかだ。
『精神分析事典』にある言葉、「鏡像関係の組み込みの失敗例」を考慮するべきである。
自閉症者は「鏡像関係の組み込みの失敗例」なのである。
ラカン理論では、精神病者も1の世界には参入しているとなっている。
そのせいか、ラカニアンたちは、0の世界、鏡像段階以前の世界を想定しない。
それを想定しない限り、いくら自閉症を解釈しても、それは強迫神経症やヒステリーあるいは倒錯と同じ構造の解釈となってしまう。
ラカン派がそうするならそうすればよい。強迫神経症もヒステリーも心因性である。自閉症は心因性だとはっきり公言するべきである。
上野千鶴子が、著作で自閉症を心因性だと書いたように。
これについては上野自身が自分の不勉強さからくる誤りだと認め、当該著作を絶版にした。
ラカン派の自閉症研究は、数十年議論が遅れている。
自閉症が発見された直後の議論をいまだに蒸し返している。
わたしの目から見れば、ラカニアンたちが「すべての人間は(精神病者ですらも!)鏡像関係を経験している」という「全体性の幻想」にすがっているようにしか見えない。
彼らの自閉症についての議論は、分析家同士のディスクールではなく、主人のディスクールである。
「偉大な師ラカン自身が重要な発見とした鏡像段階を否定する臨床素材なんてあるわけがない」
ラカンは自閉症についてなんにも言及していないのに、奴隷たちは「物言わぬ主人」の命令に服従し、「全体性の幻想」に酔いしれている。
サッカーワールドカップに熱狂する人たちの「全体性の幻想」の方がまだ健康的である。
フロイトの言う「幼児の寄る辺なさ」ということを、もう少しちゃんと考えるべきではないだろうか。
斜線の引かれてないエスについて。
1 子供はまず母親の欲望の対象となり、母親を虜にしようとする。だが母親の欲望の対象が何であるか子供は知らない。それはxである。このxをファリュスと呼ぼう。子供にとってファリュスは母親の想定的な欲望の対象、つまり想像的(イマジネール)なものである。母親の欲望の対象になるということは想像的ファリュスに同一化することに相当する。子供にとって想像的ファリュスに同一化した世界は不安定かつ危険な世界である。というのは想像的ファリュスは捕えどころのないものであり、それに同一化することは、自己の存在を危うくすることに常につながるのである。
2 この不安定なイマジネールな世界を安定させるには母親の欲望が何であるかを示す印、マーク、つまり象徴があればよい。たとえばわれわれが見知らぬ土地で迷わないようにするには何かの目印を頼りにするのと同様である。この印を媒介として母親の欲望を征服できるのだ。父親の機能とはこのように母親の欲望を置き換える印であり、それによって父親は母親の欲望の対象、ファリュスを安定した形で保持するものとなるのである。こうしてファリュスは象徴界(サンボリック)、言語の世界に移行され、この世界で子供は自己の存在を保証しようとする。
この1→2の移行に問題があるのが精神病であり、倒錯とは1→2を経たのちに2の世界を否認(去勢の否認)して1の状態に戻ることである。
わたしはこの1,2の以前の段階を想定している。それを文章化するならば、
0.子供はいまだ母の欲望すら知らない。すべてが未知の世界。完全なる迷子。
とでもなろうか。
この世界と比べれば、1の世界も安定してはいる。その世界には、「答え」はないが「母の欲望」というヒントがある。宝探しで言えば、お宝そのものの在処は示されていないが、宝の地図の切れっ端を、幼児は手に入れている。
しかしそれは切れっ端にすぎない。幼児はヒントを手に入れてはいるがいまだ迷子である。
その状態から2の世界に移行する。
幼児はその世界に目印を発見する。しかしそれは宝の在処を示すものではない。自分がいる位置を確認できるだけの目印だ。
とはいえこれは迷子の状態からすればめざましい進歩だ。
目印で自分の位置を確認した幼児は、もともと持っていた地図の切れ端と照らし合わせ、自分のいる世界に宝がないことを知る。別の世界にあると。
幼児は別の世界へ旅立つ。言語の世界へ。
言語の世界でも、宝は見つからぬのだが。
以上は、ラカン論で言えば神経症者と倒錯者、自閉症研究で言えば定型発達者の精神世界について述べたものである。
わたしは、自閉症者は、0の世界が残っている主体だと考えている。
1とは母との鏡像関係であるのは明らかだ。
『精神分析事典』にある言葉、「鏡像関係の組み込みの失敗例」を考慮するべきである。
自閉症者は「鏡像関係の組み込みの失敗例」なのである。
ラカン理論では、精神病者も1の世界には参入しているとなっている。
そのせいか、ラカニアンたちは、0の世界、鏡像段階以前の世界を想定しない。
それを想定しない限り、いくら自閉症を解釈しても、それは強迫神経症やヒステリーあるいは倒錯と同じ構造の解釈となってしまう。
ラカン派がそうするならそうすればよい。強迫神経症もヒステリーも心因性である。自閉症は心因性だとはっきり公言するべきである。
上野千鶴子が、著作で自閉症を心因性だと書いたように。
これについては上野自身が自分の不勉強さからくる誤りだと認め、当該著作を絶版にした。
ラカン派の自閉症研究は、数十年議論が遅れている。
自閉症が発見された直後の議論をいまだに蒸し返している。
わたしの目から見れば、ラカニアンたちが「すべての人間は(精神病者ですらも!)鏡像関係を経験している」という「全体性の幻想」にすがっているようにしか見えない。
彼らの自閉症についての議論は、分析家同士のディスクールではなく、主人のディスクールである。
「偉大な師ラカン自身が重要な発見とした鏡像段階を否定する臨床素材なんてあるわけがない」
ラカンは自閉症についてなんにも言及していないのに、奴隷たちは「物言わぬ主人」の命令に服従し、「全体性の幻想」に酔いしれている。
サッカーワールドカップに熱狂する人たちの「全体性の幻想」の方がまだ健康的である。
フロイトの言う「幼児の寄る辺なさ」ということを、もう少しちゃんと考えるべきではないだろうか。
斜線の引かれてないエスについて。
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