2014/07/30/Wed
去勢自体は、男女で共通するものだが、そのあとの存在様式が男女で異なるため、男性の「去勢の承認」は女性にとって「去勢の否認」であったりする。しかし、男性の「去勢の否認」は女性の「去勢の承認」となるわけではなく、女性にとっても「去勢の否認」である。
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2014/07/22/Tue
人に限らず存在すべてに自性がないことが空であり、一切皆空也なんだがなあ。
ゆえに空とは存在するのではないし存在しないのでもない。
これわたし「不存在」と呼ぶ。
「不」ってほんと卑怯すぐる字だ。
あとまあどうでもいいが「非-知」より「不-知」の方がいいんじゃないの。
知なるものであるし知なるものでもない。
すると大学の言説が強迫症の言説になるのがすごくよくわかる。
ブログ自分で見て不知火思い出した。あ、プロレス技の方。
2014/07/15/Tue
ジョン・レノンてキリスト教批判してなかったっけか。
2014/07/10/Thu
台風が来るとわくわくするのはヒステリーのディスクールである(適当)。
2014/07/08/Tue
無も妄想で空だっつに。
有るがあるから無いがある。無いがあるから有るがある。
有るは無いではない。無いは有るではない。
有ると無いは相互依存相互否定の関係にあるので、空である。
有るにも無いにも真理などない。
不有不無。
ほんっと「不」ってひきょーな文字だよなあ。
別の話。
まああれか。わたしはリアルで鬱病と診断されてるわけだが、躁なときもないこたないんだな。
で、わたしは「欲望(それは欲望の客体でありもするが)の「破壊」ではなく「解体」だ」とか言ってるわけだが、それは「破壊」しても欲望はすぐ復活しちゃうからなのだな。
鬱になっても躁になるだけ。
欲望は破壊しても著しい自己再生能力で復活してしまう。
だから、自己再生しないように、丁寧に解体しなければならない。
欲望を本気で無くしたいのなら。
高分子だって分解すりゃ違った性質になるだろ。ゴムを熱したら弾性がなくなるように。
そんな連想。
2014/07/05/Sat
「死なる他者が、あなたを欲望している。かつ、あなたは、死なる他者の欲望を欲望している」
「物は言い様」
ときどき日本語ってすげえなと思う。
物は言い様。然りなのだ。
すべての物はすべての言い様。
言い様ではない事物などない。
事物の本質などない。
これ空なり。
2014/07/03/Thu
男女間の、構造論的な(ゆえに宿命的な、とも言える)「すれ違い」を、いかようにしてかは問わず埋めたとしても、その「すれ違い」は、彼ら二人のあいだにできた子供に引き継がれるであろう。
2014/07/03/Thu
水の入ったバケツがある。
このバケツにタオルで蓋をする。
逆さにしてみよう。
水はこぼれる。
水の入ったバケツがある。
次の蓋は、漏斗だ。
バケツと同じ直径の漏斗。細い方の口はとっても小さい。
逆さにしてみよう。
同様に水がこぼれる。
だけどおそらく、タオルのときよりかは、こぼれない。
ペットボトルを逆さにしても、脈を打つようにしかこぼれないのと同じ。
あ、あれ横方向にぐるぐる回して中の液体に渦を作るようにすると一気にこぼれるよ。
前者が剰余享楽、後者がファルス的享楽だ。
ファルス的享楽を説明するとき、もっとも適当にする説明として、
「ファルス的享楽ってのは水鉄砲だよ」とわたしは言う。
さて今度は、空になったバケツに水を入れてみよう。
タオルで蓋をしたバケツは、そのまま水を入れられるだろう。
漏斗で蓋をしたバケツには、水は入れにくかろう。
これが「男性的抗議」なんじゃねえのかなあ。ってのは
前記事で書いたことだな。
まあタオルも蓋がないときよりかは入れにくくなるけどさ。
このタオルはスクリーンでもある。
そのスクリーンには、その主体の頭の中の出来事が映し出される。
投影だな。
対象aとはヴェールで隠すようなことでもある。
そのヴェールに、人は妄想を映し出す。
ヴェールの向こう側には、実は何もない。
風呂場のカーテンの向こうに、シャワーを浴びる女の姿が見える。
映画でよくあるシーン。
しかしそれは映画と同じ。カーテンをスクリーンとして、映像を浮かび上がらせているだけ。
カーテンを開けると、そこには、答えなど、真理などない世界がある。
完全なる迷子の世界が。
煩悩を滅却すると、そんな世界に落とされる。
それは地獄でもある。無限の地獄。
解脱なんてそんないいもんじゃねえよ。
映像をきれいに映し出せるスクリーンの人なら、煩悩の世界にいた方が幸福でいられるだろうよ。
一方。プロジェクターとかなかなかきれいに映像が出ない素材ってあるじゃん。
スクリーンとして低品質な素材。
そんな人なら、向こう側の方が
まだマシってだけ。地獄の方がね。
向こう側に行けないけどな。
そんな程度の話っすよ。
仏教も宗教化してしまったからなんか大仰な話になったのだろうよ。
あんま解脱に期待しすぎるのもどうかなーって思うな。
その期待が煩悩なわけだし。
友人とか、恋人とか、家族とか、そういうものは
人間の頭の中のものでしかないのですから
妄想の産物と何ら変わりありません。
あらゆる意味でバーチャルなものです。
そんなものにあたかも実体があるかのように考えると
人間の関係には、欺瞞というか、
何か無理をしているような違和感が生じて来るのです。
「解脱に対する期待」が、「何か無理をしているような違和感」だったりしねえかい。
それは「煩悩」だったりしねえかい。
これ空亦復空なり。
まあでも、カーテン開けちゃったんだろうなあ。
恋人を殺した直後のときを思い出してみ。
そのとき、煩悩は滅却されていただろう。
解脱していただろう。
殺す直前に鬱状態だったなら、余計にそうだろう。
「無というトランポリン」の向こう側を見ちゃったのだろう。
まあうん、いいや。
わたしがやってる精神分析は、
「魔女のする精神分析」なんだよね。どうでもいいけど。
2014/07/02/Wed
ペニスには尿道という「穴」「裂け目」がある。
ファルスにも尿道があるんじゃねえの。
いやたまたま見かけた尿道オナニー動画を思い出しただけ。
綿棒入っちゃうのかー、みたいな。
旦那にやってみてと言ってどん引きされた。
ファルス的享楽は、剰余享楽の一つの変種、みたいにわたしは考えてるんだな。
なんつの、プロレスでたとえれば、必殺技を決めて勝つのが楽しいだけ、っていうのと、場外乱闘やリング外の演出ギミックも含めて楽しむのと、みたいな違い、とか適当に説明した記憶がある。プロレスあんま知らないけど。
あれか、尿道ってのは尿なり精液なりを「排出」する一方通行だけど、「穴」「裂け目」は一方通行とは限らない、みたいな違いなのか。
この一方通行さが「男性的抗議」みたいな?
あ、適当。
まあ男の子は尿道オナニーしなさい、ってことだな()。
重要なのは,その不可能という実在 le réel を,構造論的な穴として見定めることです.これはいいセリフだな。
構造主義者でもあるわたしだと「構造論における穴」とか言っちゃいそうだが。
覚えとこメモメモ。
2014/07/01/Tue
他んところでよく書いてることだがこっちに書いたことねえなあと思ったので書いとこ。
えーと。最近の記事なら
ここらへんか。
抜粋する。
まあある程度臨床して、確かに神経症者や倒錯、すなわち現代精神医学が正常とする精神は、ある局面、水上雅敏いわく「少し精神病や倒錯に近い状態」になった際、非常に強固な抵抗をしてくる、ということはわかっている。
自閉症者や精神病者は、簡単にというか蟻地獄的に精神が不安定になったり、発症する。
「ある局面で神経症者・倒錯者がしてくる強固な抵抗」を、このブログでは「トランポリン」と表現することがある。
神経症者・倒錯者たちは、精神分析アプローチをすると、「少し精神病や倒錯に近い状態」の「ある局面」において、あたかも「トランポリン」でぼよよーんと跳ね返るように、元の神経症的な、欲望構造(欲望の抑圧という欲望も含む)に戻っていく、という比喩である。
ではこの「トランポリン」とはなんだろう、と。
まあ抜粋した文章では「それが父の名なん?」って話にはしてるが、他のところでは、わたしは「無というトランポリン」と述べることがある。
これは、上記の(わたしの臨床における)「少し精神病や倒錯に近い状態」の「ある局面」とは、抑鬱的な状態であることが多いからだ。
なのでこの「トランポリン」を「喪の症状」と言ったりもする。
これはラカン派の実践においてデプレッションが重視されていることにも同調する。
まあそれだけの話。
ブログ内検索で「トランポリン」って単語検索すれば大体の話はしてるが、「無というトランポリン」ってのはブログで書いたことないなと気付いたので書いておくというだけの記事でした。