改めて「性関係は存在しない」
2014/09/11/Thu
ファリックマザーという幻想についてつらつらと。
想像的ファルス、この場合マイナスのとれたφは、ぶっちゃけペニスであるのだが、想像的なものであるゆえ他のものでもかまわない。それは膨らんだりしぼんだりするものであればなんでもよい。
というわけで、膨らんだお腹の妊婦がφとなる場合もある。
ラカンによればファルスとは-φ(つまり不安的で危険な母子関係)→Φであり、-の取れたφは彼の論述には出てこない。
一方、フロイトが「母子関係は性愛的である」とするとき、それはマイナスの取れたφによる関係だと言える。
こういった意味で、「φは存在しない」とは「性関係は存在しない」と同義なのであり、ここがラカン論とフロイト論が袂を分ける箇所であろう。
でなんの話だっけ。φか。
φってさー、φ→Φじゃなくて、やっぱ-φ→Φだと思うんだね。シニフィアン/シニフィエって形で書くなら、Φ/φじゃなくてΦ/-φだと。
じゃあなんでφってものが想定されるのか。
やっぱ大文字のΦが定立した事後的なものだと思うのだ。
あくまでたとえて言えば、エディプス期のΦを受け入れる最中の幼児が、弟や妹を身ごもった母親を見て、φだとする。
これによって、「母子カプセル」は、事後的に記憶の改竄として、その人の記憶の集積としての自我に組み込まれる。
こういったφという幻想を自我に組み込んだ主体は、ファリックマザーという幻想を持ちやすいだろう。
みたいなこと。
こういった-φ→Φ→φっていうのは、まあぶっちゃけいわゆるアダルトチルドレンたちなわけだが、こういう人が-φなヒステリーを殺すわけだな。
アダルトチルドレンは女を殺す。
ある哲学者のヘーゲルの話を聞いていた。門外漢のわたしの質問にもそこそこ応対してくれてたのだが、最終的に彼は、「弁証法とは第三者の立場に立つこと」だと言った。
まあ正反合とかそういうことであると言われたらそうかもしれないと思う。正と反という二者の言い争いについて第三者の視点を持つこと、と。それが弁証法であり、棄揚である、と。
でもそれエディプスの三角形じゃねえの、と。エディプスの三角形を固定するものがΦなわけで、これは不安に「臭いものにフタ」をするハリボテにすぎない。
要するに、弁証法は、自分の不安を、「第三者という幻想」たるハリボテでフタをすることかね、と思ったりした。
少なくともその人にとっての弁証法とはそういうものなのだろう。
彼にとっての「否定の否定」はΦだったと。
ヘーゲル本人がどうかしらんが現代哲学におけるヘーゲル理解ってこういうもんなんじゃねえの。
そうじゃない第三者の立場っていうかなー。
否定の否定として否定っていうか。
正も反も否定することで否定しか生み出さない。
いわば正反否。
それなら中観だと言ってあげなくもないけどなー。
想像的ファルス、この場合マイナスのとれたφは、ぶっちゃけペニスであるのだが、想像的なものであるゆえ他のものでもかまわない。それは膨らんだりしぼんだりするものであればなんでもよい。
というわけで、膨らんだお腹の妊婦がφとなる場合もある。
ラカンによればファルスとは-φ(つまり不安的で危険な母子関係)→Φであり、-の取れたφは彼の論述には出てこない。
一方、フロイトが「母子関係は性愛的である」とするとき、それはマイナスの取れたφによる関係だと言える。
こういった意味で、「φは存在しない」とは「性関係は存在しない」と同義なのであり、ここがラカン論とフロイト論が袂を分ける箇所であろう。
でなんの話だっけ。φか。
φってさー、φ→Φじゃなくて、やっぱ-φ→Φだと思うんだね。シニフィアン/シニフィエって形で書くなら、Φ/φじゃなくてΦ/-φだと。
じゃあなんでφってものが想定されるのか。
やっぱ大文字のΦが定立した事後的なものだと思うのだ。
あくまでたとえて言えば、エディプス期のΦを受け入れる最中の幼児が、弟や妹を身ごもった母親を見て、φだとする。
これによって、「母子カプセル」は、事後的に記憶の改竄として、その人の記憶の集積としての自我に組み込まれる。
こういったφという幻想を自我に組み込んだ主体は、ファリックマザーという幻想を持ちやすいだろう。
みたいなこと。
こういった-φ→Φ→φっていうのは、まあぶっちゃけいわゆるアダルトチルドレンたちなわけだが、こういう人が-φなヒステリーを殺すわけだな。
アダルトチルドレンは女を殺す。
ある哲学者のヘーゲルの話を聞いていた。門外漢のわたしの質問にもそこそこ応対してくれてたのだが、最終的に彼は、「弁証法とは第三者の立場に立つこと」だと言った。
まあ正反合とかそういうことであると言われたらそうかもしれないと思う。正と反という二者の言い争いについて第三者の視点を持つこと、と。それが弁証法であり、棄揚である、と。
でもそれエディプスの三角形じゃねえの、と。エディプスの三角形を固定するものがΦなわけで、これは不安に「臭いものにフタ」をするハリボテにすぎない。
要するに、弁証法は、自分の不安を、「第三者という幻想」たるハリボテでフタをすることかね、と思ったりした。
少なくともその人にとっての弁証法とはそういうものなのだろう。
彼にとっての「否定の否定」はΦだったと。
ヘーゲル本人がどうかしらんが現代哲学におけるヘーゲル理解ってこういうもんなんじゃねえの。
そうじゃない第三者の立場っていうかなー。
否定の否定として否定っていうか。
正も反も否定することで否定しか生み出さない。
いわば正反否。
それなら中観だと言ってあげなくもないけどなー。
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