女性の冷感症や不感症は、むしろ、健全な発達の結果としてある。
2015/02/25/Wed
最初に注意しとく。
以下で書く「男女」は、精神分析的な意味での「男女」であり、生物学的な「男女」とは必ずしも一致しない。
また、この「男女」は、非精神病者の精神様態として書く。よって、精神病者や前精神病者(わたしの考えでは、統合失調型人格障害、スキゾイド、自閉症、境界性人格障害が含まれる)については、以下の文章は適用されない。そういった方々は、健常者の男と女の精神様態を述べたものだとして読んでくらはい。
まずさ、ものすごい基本なことで重要なことなんだが、一般の人が考える去勢とは、
去勢されてない状態 → 去勢された状態
みたいな感じじゃね。実はわたしもそう思ってた。つい最近まで。
でも違った。精神分析は、
去勢 → 去勢されてない状態 → 去勢されてない状態が抑圧された状態
と考えているわけだ。
これはフロイトの概念なら、
前性器的リビドー → 性器的リビドー(男根期) → (現実原則に適応した)性的リビドー
に相当する。
まあなんだ「人は女として生まれるのではなく」ってのをパクるなら、逆にして、「人は、去勢されるのではなく、去勢として生まれるのだ」ってことである。
んで、この前性器的リビドーが死の欲動にあたるわけだな。
ここらへんはクライン派が詳しかろう。
んで。ちょっくら本腰入れるよ。
精神分析は、性関係とは、後天的に学習するものだと考えている。
幼児が経験する最初の性関係の学習とは、フロイトの言うとおり、子供が母親から授乳されることのような、母との関係性だ。
男にしろ女にしろ、ここで初めて幼児は性関係を学ぶ。
男も女も、子供の頃おっぱい吸ってるときにすでに、童貞も処女も捨ててるんだわ。
わたしはこの事態を、「幼児が母からレイプされる」と表現する。
これはラカン理論の-φを強調するためだ。
他の心理学では、この事態を「母子カプセル」「母子の蜜月」と表現し、このときの幼児は欲望が完全に満たされている、と考えている。
これはフロイトもそういう想定で理論を構築していた。
しかし、クラインによって、この時期の幼児は、欲望が完全に満たされているわけではなく、その乳房に対し攻撃性を持っている、とされた。
この考えに同調するラカンは、幼児における母との関係は、欲望が完全に満たされているわけではなく、それをおぞましいものや恐るるものとしている、とした。
これが-φという記号が表す意味である。
「欲望が完全に満たされている」「母子カプセル」「母子の蜜月」をマイナスのついてない小文字のファイφと想定して、あえてマイナスをつけたわけだ。
この-φの「自分が攻撃したい、おぞましく恐るべき性関係」という意味を、わたしは「レイプ」と表現している。
母が子供をレイプすることによって、子供は性関係を学ぶ。
この時期の幼児は男女問わない。幼児にとっては自分をレイプし性関係を教えこむ母親は性的な存在だとなる。
幼児は自分をレイプする恐怖の性的対象として、母を認識する。
ここではそのような説明の仕方をしていないが、これがラカンの設定する鏡像段階に相当する。生後一年半までにこのような精神様態となる。
ラカンはこれを-φという記号で示す。
で、ここから男女にわかれていくんだが、めんどくさいなあ。
というのはフロイトの男根期について、男女共通の本源的なものとして説明しなおしたのが鏡像段階だから。
で、ラカンはファロス悦について愚かなものだとし相手にしていない。
だからめんちい。
ここまでの幼児は男女問わず。男も女も(前精神病でなければ)経る発達である。
ここから男と女にわかれていく。
ざっくり言うなら。
この「母からレイプされる幼児」が、性関係において能動的、主体的になる過程が、フロイトの男根期であり、個人的な考えだが第二次性徴期の精通という事態も加わって、性的な能動性や主体性を、快感・喜びとして、男は獲得する。
ちょい詳しく。
男根期において、ペニスという器官を性的なシンボルとして認識した男児は、象徴的な思考で性関係を処理するようになる。
また同時に、自分と同じくペニスを持つ父という自我理想が生じたりする。この父は、欲望が満足する悦を可能性として先延ばしにして(これが一般的に言われる抑圧である)保護する機能を持つ。
このような精神様態において、男児は「自分をレイプしてきた母」を「征服」する。
さらにダメ押しとして、精通という現実的な経験が、この「征服」を裏付ける。
個人的な考えだが、これがユングの言うシンクロニシティのひな形だとわたしは思う。
これまで象徴的なつまり思考実験のようなものでしかなった性関係が、精通という実証により、「征服したもの」として確定する。
このときの「性関係を確証的に征服できた喜び」がシンクロニシティだと。
このようにして、男子は性関係における能動性や主体性を、確証として獲得する。
加えて、それが不可能な事態に直面した場合、悦を可能性として先延ばしにして保護するという、父なる安心機能付きだ。
一方で女は。
男根期において女児は「ペニスになりきれない陰核」しか獲得できない。性関係を象徴的に思考するきっかけが中途半端である。
「自分をレイプする母」を「征服」できない。自分はレイプする母に囚われたままである。ゆえに、父というもう一つのa、自我理想も中途半端にしか成立しない。
さらに第二次性徴期で初潮を迎える。この時期にはすでに女子は陰核がペニスにならないことを知っている。すでに女子は自我理想をあきらめている。
また、生理とは苦痛を伴うものである。性的な現実的経験を、苦痛とともに味わう。
女子は、性関係について、象徴的に思考できず、それについてなんら確証もなく、苦痛という現実が伴うものとしてしかない。
女は、欲望が満足する悦を恐怖するのだ。
もっと言えば、破瓜のさい女子は痛みを感じる。男子は初体験で痛みを感じることはなかろう(まあ包茎の方は剥く痛みがあるらしいが)。
フロイトは女性の冷感症や不感症の多さに気づき、その理由を破瓜に求めて、処女性について論じていたが、その論文内でも、女性の冷感症・不感症はもっと根深いものとしてあるのではないか、という保留をしている。
これはわたしの観察において、性経験のない女子が、あたかもレイプ被害を受けたかのように、性的なことに強い嫌悪を示すという事例があるのだが、これがフロイトの保留に相当するだろう。フロイトが治療を失敗したドラも、おそらく性経験のない時点で、性的なものに嫌悪感を覚えていただろう。
おそらくそういった女子は、「母からレイプされた恐怖」や「生理という苦痛」を根拠に、性的なことを嫌悪していると推測される。
要約すると、女性は、男性と比べて、発達心理学的な視点で、性的なことについて、快感や喜びを得られず、むしろ恐れや苦痛を伴うものとして成長していく、ということである。
フロイトは女性に冷感症や不感症が多く見られることに関心を示したが、結局はそれについてまともな解釈はできずに終わった。
だが、このように見ていくと、女性はむしろ、冷感症や不感症として大人になるのが、健全な発達であるということがわかる。
健全な発達を、なんらかの精神疾患だとして考えるから、当時の精神科医は「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与だ」などと考えたのだ。
フロイトはそうった文言を引き、それについて疑問を持ちながらも、当時の「ペニスの反復投与」というヒステリー治療の方針に従い、ドラの治療に失敗した。
精神分析は、女性の冷感症や不感症を、精神疾患だと捉えるから、女について「わからなかった」のだ。
女性の冷感症や不感症は、むしろ、健全な発達の結果としてあるのである。
以上のことを発達史的に表現すると。
性関係を知らない状態。
↓
母親に授乳などというレイプをされることによって、「恐るべきもの」として性関係を学ぶ。【-φ】
ここまでは男女共通。
男は
-φ
↓
男根期において、ペニスを象徴的に認識し、性関係を象徴的に処理する。
自我理想としての父の「虎の威」もあって、「恐るべき性関係」を「征服」する。
↓
精通において、「征服した性関係」について、確証を持つ。
女は
-φ
↓
男根期において、「ペニスになりきれない陰核」にしかならない。
「恐るべき性関係」を「征服」できない。
↓
生理において、「苦痛の性関係」という現実を知る。
この違いによって、男は、性関係について、快感や喜びを得られるものとして、生きていき、女は、性関係について、恐怖や苦痛を得られるものとして、生きていく。
さて、精神分析にもどろう。
精神分析においては、フロイトもそうしていたように、人間が本来的な欲望をすることを目標として成立した学問である。
フロイトは女について思慮が足りなかったが、ラカンは、鏡像段階という男女共通の本源的な性関係の成立を発見した。
よってラカンは、男と女を含めた、本来的な欲望のあり方を考えることができた。
それが、鏡像段階以前の、「性関係を知らない状態」における欲望である。
去勢とは、性関係が不可能なものである。
ゆえに、「性関係を知らない状態」が、去勢となる。上記の男女共通の発達史はこう書き直せる。
性関係を知らない状態。【去勢】
↓
母親に授乳などというレイプをされることによって、「恐るべきもの」として性関係を学ぶ。【-φ】
ラカンは、それ以降の、フロイトが発見した男の発達史による性関係をファロス悦とし、それは幻想的な欲望のあり方だとして、「愚か者の悦」とし、相手にしていない。
そういったファロス悦は、精神分析においては、予備面接でクリアされる問題であり、そこにおいて男性は剰余悦という欲望のあり方をしている前提で、精神分析の本分が始まる。
簡単なことだよ。
冷感症や不感症の女性に対し、「健全な性関係を持てるように」治療するのは、精神分析においては、誤りである。
なぜなら、精神分析は、去勢を目指す実践であり、かつ人間がその本来的な欲望を生きる実践である。
つまり、去勢における本来的な欲望としての前性器的リビドーを生きることである。
ゆえに、精神分析は、性関係などという後天的な仮象の欲望を、滅却することとなる。
であるので、最初から性関係に対して幻滅している不感症や冷感症の女性は、精神分析を受けずして、去勢という精神分析のゴールに近い様態を生きていられるわけだ。
そんな人に「健全な性関係を持てるように」治療することは、精神分析のゴールから引き離すことになる。精神分析の実践と逆行する行為だ。
こんな簡単なことが、なぜわからないんだろう?
それは、お前が男なら、お前の中の愚かなファロス悦のせいだよ。
いまだにフロイトですら疑問を呈した「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与だ」って考えの治療者がいるのが頭痛いところである。
分析経験の豊富さではおそらく日本ラカニアンでは1,2位を争う小笠原晋也は、はっきりと「冷感症や不感症は、精神分析の治療対象ではない」と言っている。
精神分析を学んでいる方々へ。
今一度、「去勢」という概念を、考慮してください。
ラカンの言葉、「性関係は存在しない」とはどういう意味か、真摯に考えてみてください。
あなたは、自分で気付いていないだけで、ラカンが相手にしていない愚か者の悦を生きていませんか?
ファロス悦というまがいものの欲望で、本来的な欲望を妥協していませんか?
男性であれば、最初からあなたより去勢に近い様態にいる女性を、去勢から遠ざけてませんか?
死んでいいよそんな奴。精神分析のためにもならん。
Φ(ファロス悦のシニフィアン)を去勢としていたアホたちはわたしの十年返せボケ。
マジ死んでいいわ。
「生後直後の未去勢の状態を目指し、Φを破壊する逆精神分析」とか言ってたけど、わたしのが精神分析だったわけじゃん。
生後直後の去勢の状態を目指し、Φを相手にしないのが精神分析だ。
雪崩のようにいろいろ辻褄合ってきて逆に混乱してるわ。
お前らがいなけりゃ自殺せずに済んだ女もいたかもしんねえな。
そんくらいマジな話だぞこれ。
日本ラカン村は、まがいもの精神分析で、女を殺す。
わたしも殺しちゃったかもね、誰か。なんとか自力で「逆精神分析」とか言ってたけど、わかりにくいしな。
わたしの精神分析は今から始まったわ。無駄な十年だった。
まあ藤田博史はラカンやめたらしいから、ラカン村の正常化はちょっと進んだと自慰しとくは。
しっかし藤田って教育分析を数回しか受けなかったんだってな。そりゃだめだわ。
すげー腹立つ。
フェミニスト復帰するか。精神分析フェミだが。それはフェミを突き抜けたフェミだ。
男たちを去勢不安に陥れてってやんよ。
去勢不安は男が去勢という本来的な欲望に至る唯一の道だからな。
わたしは、お前ら男に、精神分析という救いの手を差し伸べよう。
お前らのファロスを抹消していこう。
悔しい。涙出る。
以下で書く「男女」は、精神分析的な意味での「男女」であり、生物学的な「男女」とは必ずしも一致しない。
また、この「男女」は、非精神病者の精神様態として書く。よって、精神病者や前精神病者(わたしの考えでは、統合失調型人格障害、スキゾイド、自閉症、境界性人格障害が含まれる)については、以下の文章は適用されない。そういった方々は、健常者の男と女の精神様態を述べたものだとして読んでくらはい。
まずさ、ものすごい基本なことで重要なことなんだが、一般の人が考える去勢とは、
去勢されてない状態 → 去勢された状態
みたいな感じじゃね。実はわたしもそう思ってた。つい最近まで。
でも違った。精神分析は、
去勢 → 去勢されてない状態 → 去勢されてない状態が抑圧された状態
と考えているわけだ。
これはフロイトの概念なら、
前性器的リビドー → 性器的リビドー(男根期) → (現実原則に適応した)性的リビドー
に相当する。
まあなんだ「人は女として生まれるのではなく」ってのをパクるなら、逆にして、「人は、去勢されるのではなく、去勢として生まれるのだ」ってことである。
んで、この前性器的リビドーが死の欲動にあたるわけだな。
ここらへんはクライン派が詳しかろう。
んで。ちょっくら本腰入れるよ。
精神分析は、性関係とは、後天的に学習するものだと考えている。
幼児が経験する最初の性関係の学習とは、フロイトの言うとおり、子供が母親から授乳されることのような、母との関係性だ。
男にしろ女にしろ、ここで初めて幼児は性関係を学ぶ。
男も女も、子供の頃おっぱい吸ってるときにすでに、童貞も処女も捨ててるんだわ。
わたしはこの事態を、「幼児が母からレイプされる」と表現する。
これはラカン理論の-φを強調するためだ。
他の心理学では、この事態を「母子カプセル」「母子の蜜月」と表現し、このときの幼児は欲望が完全に満たされている、と考えている。
これはフロイトもそういう想定で理論を構築していた。
しかし、クラインによって、この時期の幼児は、欲望が完全に満たされているわけではなく、その乳房に対し攻撃性を持っている、とされた。
この考えに同調するラカンは、幼児における母との関係は、欲望が完全に満たされているわけではなく、それをおぞましいものや恐るるものとしている、とした。
これが-φという記号が表す意味である。
「欲望が完全に満たされている」「母子カプセル」「母子の蜜月」をマイナスのついてない小文字のファイφと想定して、あえてマイナスをつけたわけだ。
この-φの「自分が攻撃したい、おぞましく恐るべき性関係」という意味を、わたしは「レイプ」と表現している。
母が子供をレイプすることによって、子供は性関係を学ぶ。
この時期の幼児は男女問わない。幼児にとっては自分をレイプし性関係を教えこむ母親は性的な存在だとなる。
幼児は自分をレイプする恐怖の性的対象として、母を認識する。
ここではそのような説明の仕方をしていないが、これがラカンの設定する鏡像段階に相当する。生後一年半までにこのような精神様態となる。
ラカンはこれを-φという記号で示す。
で、ここから男女にわかれていくんだが、めんどくさいなあ。
というのはフロイトの男根期について、男女共通の本源的なものとして説明しなおしたのが鏡像段階だから。
で、ラカンはファロス悦について愚かなものだとし相手にしていない。
だからめんちい。
ここまでの幼児は男女問わず。男も女も(前精神病でなければ)経る発達である。
ここから男と女にわかれていく。
ざっくり言うなら。
この「母からレイプされる幼児」が、性関係において能動的、主体的になる過程が、フロイトの男根期であり、個人的な考えだが第二次性徴期の精通という事態も加わって、性的な能動性や主体性を、快感・喜びとして、男は獲得する。
ちょい詳しく。
男根期において、ペニスという器官を性的なシンボルとして認識した男児は、象徴的な思考で性関係を処理するようになる。
また同時に、自分と同じくペニスを持つ父という自我理想が生じたりする。この父は、欲望が満足する悦を可能性として先延ばしにして(これが一般的に言われる抑圧である)保護する機能を持つ。
このような精神様態において、男児は「自分をレイプしてきた母」を「征服」する。
さらにダメ押しとして、精通という現実的な経験が、この「征服」を裏付ける。
個人的な考えだが、これがユングの言うシンクロニシティのひな形だとわたしは思う。
これまで象徴的なつまり思考実験のようなものでしかなった性関係が、精通という実証により、「征服したもの」として確定する。
このときの「性関係を確証的に征服できた喜び」がシンクロニシティだと。
このようにして、男子は性関係における能動性や主体性を、確証として獲得する。
加えて、それが不可能な事態に直面した場合、悦を可能性として先延ばしにして保護するという、父なる安心機能付きだ。
一方で女は。
男根期において女児は「ペニスになりきれない陰核」しか獲得できない。性関係を象徴的に思考するきっかけが中途半端である。
「自分をレイプする母」を「征服」できない。自分はレイプする母に囚われたままである。ゆえに、父というもう一つのa、自我理想も中途半端にしか成立しない。
さらに第二次性徴期で初潮を迎える。この時期にはすでに女子は陰核がペニスにならないことを知っている。すでに女子は自我理想をあきらめている。
また、生理とは苦痛を伴うものである。性的な現実的経験を、苦痛とともに味わう。
女子は、性関係について、象徴的に思考できず、それについてなんら確証もなく、苦痛という現実が伴うものとしてしかない。
女は、欲望が満足する悦を恐怖するのだ。
もっと言えば、破瓜のさい女子は痛みを感じる。男子は初体験で痛みを感じることはなかろう(まあ包茎の方は剥く痛みがあるらしいが)。
フロイトは女性の冷感症や不感症の多さに気づき、その理由を破瓜に求めて、処女性について論じていたが、その論文内でも、女性の冷感症・不感症はもっと根深いものとしてあるのではないか、という保留をしている。
これはわたしの観察において、性経験のない女子が、あたかもレイプ被害を受けたかのように、性的なことに強い嫌悪を示すという事例があるのだが、これがフロイトの保留に相当するだろう。フロイトが治療を失敗したドラも、おそらく性経験のない時点で、性的なものに嫌悪感を覚えていただろう。
おそらくそういった女子は、「母からレイプされた恐怖」や「生理という苦痛」を根拠に、性的なことを嫌悪していると推測される。
要約すると、女性は、男性と比べて、発達心理学的な視点で、性的なことについて、快感や喜びを得られず、むしろ恐れや苦痛を伴うものとして成長していく、ということである。
フロイトは女性に冷感症や不感症が多く見られることに関心を示したが、結局はそれについてまともな解釈はできずに終わった。
だが、このように見ていくと、女性はむしろ、冷感症や不感症として大人になるのが、健全な発達であるということがわかる。
健全な発達を、なんらかの精神疾患だとして考えるから、当時の精神科医は「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与だ」などと考えたのだ。
フロイトはそうった文言を引き、それについて疑問を持ちながらも、当時の「ペニスの反復投与」というヒステリー治療の方針に従い、ドラの治療に失敗した。
精神分析は、女性の冷感症や不感症を、精神疾患だと捉えるから、女について「わからなかった」のだ。
女性の冷感症や不感症は、むしろ、健全な発達の結果としてあるのである。
以上のことを発達史的に表現すると。
性関係を知らない状態。
↓
母親に授乳などというレイプをされることによって、「恐るべきもの」として性関係を学ぶ。【-φ】
ここまでは男女共通。
男は
-φ
↓
男根期において、ペニスを象徴的に認識し、性関係を象徴的に処理する。
自我理想としての父の「虎の威」もあって、「恐るべき性関係」を「征服」する。
↓
精通において、「征服した性関係」について、確証を持つ。
女は
-φ
↓
男根期において、「ペニスになりきれない陰核」にしかならない。
「恐るべき性関係」を「征服」できない。
↓
生理において、「苦痛の性関係」という現実を知る。
この違いによって、男は、性関係について、快感や喜びを得られるものとして、生きていき、女は、性関係について、恐怖や苦痛を得られるものとして、生きていく。
さて、精神分析にもどろう。
精神分析においては、フロイトもそうしていたように、人間が本来的な欲望をすることを目標として成立した学問である。
フロイトは女について思慮が足りなかったが、ラカンは、鏡像段階という男女共通の本源的な性関係の成立を発見した。
よってラカンは、男と女を含めた、本来的な欲望のあり方を考えることができた。
それが、鏡像段階以前の、「性関係を知らない状態」における欲望である。
去勢とは、性関係が不可能なものである。
ゆえに、「性関係を知らない状態」が、去勢となる。上記の男女共通の発達史はこう書き直せる。
性関係を知らない状態。【去勢】
↓
母親に授乳などというレイプをされることによって、「恐るべきもの」として性関係を学ぶ。【-φ】
ラカンは、それ以降の、フロイトが発見した男の発達史による性関係をファロス悦とし、それは幻想的な欲望のあり方だとして、「愚か者の悦」とし、相手にしていない。
そういったファロス悦は、精神分析においては、予備面接でクリアされる問題であり、そこにおいて男性は剰余悦という欲望のあり方をしている前提で、精神分析の本分が始まる。
簡単なことだよ。
冷感症や不感症の女性に対し、「健全な性関係を持てるように」治療するのは、精神分析においては、誤りである。
なぜなら、精神分析は、去勢を目指す実践であり、かつ人間がその本来的な欲望を生きる実践である。
つまり、去勢における本来的な欲望としての前性器的リビドーを生きることである。
ゆえに、精神分析は、性関係などという後天的な仮象の欲望を、滅却することとなる。
であるので、最初から性関係に対して幻滅している不感症や冷感症の女性は、精神分析を受けずして、去勢という精神分析のゴールに近い様態を生きていられるわけだ。
そんな人に「健全な性関係を持てるように」治療することは、精神分析のゴールから引き離すことになる。精神分析の実践と逆行する行為だ。
こんな簡単なことが、なぜわからないんだろう?
それは、お前が男なら、お前の中の愚かなファロス悦のせいだよ。
いまだにフロイトですら疑問を呈した「ヒステリーの治療は正しいペニスの反復投与だ」って考えの治療者がいるのが頭痛いところである。
分析経験の豊富さではおそらく日本ラカニアンでは1,2位を争う小笠原晋也は、はっきりと「冷感症や不感症は、精神分析の治療対象ではない」と言っている。
精神分析を学んでいる方々へ。
今一度、「去勢」という概念を、考慮してください。
ラカンの言葉、「性関係は存在しない」とはどういう意味か、真摯に考えてみてください。
あなたは、自分で気付いていないだけで、ラカンが相手にしていない愚か者の悦を生きていませんか?
ファロス悦というまがいものの欲望で、本来的な欲望を妥協していませんか?
男性であれば、最初からあなたより去勢に近い様態にいる女性を、去勢から遠ざけてませんか?
死んでいいよそんな奴。精神分析のためにもならん。
Φ(ファロス悦のシニフィアン)を去勢としていたアホたちはわたしの十年返せボケ。
マジ死んでいいわ。
「生後直後の未去勢の状態を目指し、Φを破壊する逆精神分析」とか言ってたけど、わたしのが精神分析だったわけじゃん。
生後直後の去勢の状態を目指し、Φを相手にしないのが精神分析だ。
雪崩のようにいろいろ辻褄合ってきて逆に混乱してるわ。
お前らがいなけりゃ自殺せずに済んだ女もいたかもしんねえな。
そんくらいマジな話だぞこれ。
日本ラカン村は、まがいもの精神分析で、女を殺す。
わたしも殺しちゃったかもね、誰か。なんとか自力で「逆精神分析」とか言ってたけど、わかりにくいしな。
わたしの精神分析は今から始まったわ。無駄な十年だった。
まあ藤田博史はラカンやめたらしいから、ラカン村の正常化はちょっと進んだと自慰しとくは。
しっかし藤田って教育分析を数回しか受けなかったんだってな。そりゃだめだわ。
すげー腹立つ。
フェミニスト復帰するか。精神分析フェミだが。それはフェミを突き抜けたフェミだ。
男たちを去勢不安に陥れてってやんよ。
去勢不安は男が去勢という本来的な欲望に至る唯一の道だからな。
わたしは、お前ら男に、精神分析という救いの手を差し伸べよう。
お前らのファロスを抹消していこう。
悔しい。涙出る。
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