にま
2015/05/27/Wed
alienationという狂気について、ラカンは次のようなたとえを述べた。
あなたは強盗から「金か命か」という脅迫を受ける。あなたは命欲しさに強盗にお金を渡す。
金を受け取った強盗は、あなたを殺す。
あなたは金も命も奪い取られる。
このことを考えていると、あるフレーズが浮かんだ。
「命短し恋せよ乙女」。
これこそalienationの「金か命か」ということじゃないだろうか。
命は短いからとあなたは恋をする。しかし、あなたはいつか必ず死ぬ。
この文章は確かに、「命は短いのだから、恋をしろ」という脅迫だとも捉えられる。
しかし、このフレーズには違うニュアンスがある。
「命は短いからと恋する乙女は、哀れである」というニュアンス。
恋とは転移である。
転移とは、死からの迂回でしかない。
死からの迂回として、恋をせざるを得ない、人間たちの哀れさ。
このフレーズは、そういった哀れさを歌っているとも考えられる。
すくなくともわたしには。
ここには誰れも 来ぬものを
迂回しようが迂回しまいが、生きて死んで、それだけ。
だからそれは迂回なんかじゃなかったりするのだが。
強盗の脅迫に対する言い訳ないし命乞いでしかない。
そういうものとしての転移たる狂気、その狂気から逃れられない人間たちの哀れさ。
仏教的に言うならば、煩悩から逃れられない人間たちの哀れさ。
命欲しさに、強盗に金を渡して、殺される人間の哀れさ。
alienationという狂気から逃れられない人間の哀れさ。
ここに誰かいると思い込んでいるその実、そこにも、ここにも、誰も来ない哀れさ。
全然違う話だがふと思っただけなんだが関係してそうかなと思ったので蛇足しておくと。
(なんかこう今はあんまないと思うんだが)昔は空気的に(わたしが言うことじゃないが)、悪いことした子に対して「そんなことしてたら人間に生まれ変われないわよ」的な論法のお説教ってあったと思うんだが、そういった考えはぶっちゃけ仏教国の日本の(かつての、かもしれんが)道徳感で、つまるところ輪廻の話だと思うんだが、仏教は輪廻から解脱するのが目的なんだよな。
であれば、その人は、悪いことした子に対し、「あなたは仏教の高僧みたいな存在だ」と言っていることになる。
いやなんか、日本って仏教国のくせに、輪廻から外れるのは悪いことだって本末転倒な考え方してると思うんだ。なんかオカルトマンガとかでも「輪廻から外れてしまうのは罪人だ」みたいな流れあったと思うんだ、具体的な作品名は覚えてないが。
輪廻から外れることが仏教の目的で、悟りなんだよ。
輪廻から外れてしまった存在は、正覚者なんだよな。
煩悩から解脱するのが仏教の目的なのに、煩悩に囚われていることを肯定するという本末転倒に陥っているのが日本の土着化した(エセ)仏教なんだな。
まあチベット仏教とかラマが輪廻転生しているから混乱しているのかもしれんが。ああいうのは「高僧でも煩悩から逃れることは難しい」「高僧ですら輪廻してしまっている」という「解脱の難しさ」を警告しているものと考えるべきだと思うんだな。
こういうのと似てる気がするんだよな、「命短し恋せよ乙女」なんかも。
alienationという狂気の苦しみから逃れるために、alienationという狂気を生きることを肯定するという、本末転倒状態になっている。
だから哀れなのだ。この歌詞は。
あなたは強盗から「金か命か」という脅迫を受ける。あなたは命欲しさに強盗にお金を渡す。
金を受け取った強盗は、あなたを殺す。
あなたは金も命も奪い取られる。
このことを考えていると、あるフレーズが浮かんだ。
「命短し恋せよ乙女」。
これこそalienationの「金か命か」ということじゃないだろうか。
命は短いからとあなたは恋をする。しかし、あなたはいつか必ず死ぬ。
この文章は確かに、「命は短いのだから、恋をしろ」という脅迫だとも捉えられる。
しかし、このフレーズには違うニュアンスがある。
「命は短いからと恋する乙女は、哀れである」というニュアンス。
恋とは転移である。
転移とは、死からの迂回でしかない。
死からの迂回として、恋をせざるを得ない、人間たちの哀れさ。
このフレーズは、そういった哀れさを歌っているとも考えられる。
すくなくともわたしには。
ここには誰れも 来ぬものを
迂回しようが迂回しまいが、生きて死んで、それだけ。
だからそれは迂回なんかじゃなかったりするのだが。
強盗の脅迫に対する言い訳ないし命乞いでしかない。
そういうものとしての転移たる狂気、その狂気から逃れられない人間たちの哀れさ。
仏教的に言うならば、煩悩から逃れられない人間たちの哀れさ。
命欲しさに、強盗に金を渡して、殺される人間の哀れさ。
alienationという狂気から逃れられない人間の哀れさ。
ここに誰かいると思い込んでいるその実、そこにも、ここにも、誰も来ない哀れさ。
全然違う話だがふと思っただけなんだが関係してそうかなと思ったので蛇足しておくと。
(なんかこう今はあんまないと思うんだが)昔は空気的に(わたしが言うことじゃないが)、悪いことした子に対して「そんなことしてたら人間に生まれ変われないわよ」的な論法のお説教ってあったと思うんだが、そういった考えはぶっちゃけ仏教国の日本の(かつての、かもしれんが)道徳感で、つまるところ輪廻の話だと思うんだが、仏教は輪廻から解脱するのが目的なんだよな。
であれば、その人は、悪いことした子に対し、「あなたは仏教の高僧みたいな存在だ」と言っていることになる。
いやなんか、日本って仏教国のくせに、輪廻から外れるのは悪いことだって本末転倒な考え方してると思うんだ。なんかオカルトマンガとかでも「輪廻から外れてしまうのは罪人だ」みたいな流れあったと思うんだ、具体的な作品名は覚えてないが。
輪廻から外れることが仏教の目的で、悟りなんだよ。
輪廻から外れてしまった存在は、正覚者なんだよな。
煩悩から解脱するのが仏教の目的なのに、煩悩に囚われていることを肯定するという本末転倒に陥っているのが日本の土着化した(エセ)仏教なんだな。
まあチベット仏教とかラマが輪廻転生しているから混乱しているのかもしれんが。ああいうのは「高僧でも煩悩から逃れることは難しい」「高僧ですら輪廻してしまっている」という「解脱の難しさ」を警告しているものと考えるべきだと思うんだな。
こういうのと似てる気がするんだよな、「命短し恋せよ乙女」なんかも。
alienationという狂気の苦しみから逃れるために、alienationという狂気を生きることを肯定するという、本末転倒状態になっている。
だから哀れなのだ。この歌詞は。
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