『阿修羅ガール』舞城王太郎――三島由紀夫賞選評とともに。
2006/10/24/Tue
※ネタバレ注意!
メフィスト系作家というのは京極夏彦氏と森博嗣氏ぐらいしか読んでない。
清涼院流水氏の『コズミック』は古本屋で買ったけど数ページで挫折している。
それと一緒に舞城王太郎氏の『阿修羅ガール』を何となく手に取った。
彼の作品は初めてである。ということで読んでみた。
なるほど。どこかの書評ブログでもあったが、
「わけわかんないけど面白い」
これに尽きる作品だ。
三島由紀夫賞というものの権威がどういうものかわからないので、この作品がその賞にふさわしいかどうかなんてわからない。
賞なんて売上げランキングと同程度の目安と考えている私は、事前の知識はあったものの余り気にならなかった。
というわけで選評があったので読んでみた。
うん。わかる。皆さんいちいちごもっともだ。「他の作品がイマイチだったんだもんよー」感がよく出ている。
島田雅彦氏の
>逆に彼を落胆させるには「自意識の崩壊現象を緻密に描いている」などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい。
という文章にインスパイヤされ、ちょっと批評みたいなものを書いてみようかと思い立ったのがこの記事である。
前半から引き込まれた。主人公は、今時の女子高生というものだろうか。いやちょっと古い感じがする。ちょうど宮台真二氏の「ブルセラ少女」「まったり革命」みたいな感じか。とか言いながら、今も昔もあんまり関係ない気もする。若い時分は皆こういうナンセンス的な思考をしていたものだ、と過去を懐かしく思ってしまった。いや私は全然ブルセラ少女時代より前の人間だが。
冒頭の一文だけで、自分の体までナンセンス化、記号化しつつある感じがよく出ている。
島田氏の選評に、
>舞城王太郎という奴がいて、少女フィギュアに憑依して、あれこれ語っていますよ。
とあるが、これはもっともな話である。
『動物化するポストモダン』で東浩紀氏が指摘しているように、宮台氏の「ブルセラ少女」と現代の「オタク文化」には共通性があるからだ。
彼、彼女らは、記号化匿名化された世界のなかで、データベース的物語の消費さえ難しくなり、宮台氏言うところの「有意味化戦略」を放棄し、「まったり革命」を起こしつつあったのだ。
「オタク」は妄想を記号化し、「ブルセラ少女」は自分の身体を記号化していたのだ。
アニメキャラの仮面を被る「オタク」と、大人から与えられた「女子高生」という仮面を被る「ブルセラ少女」。被る仮面が違うだけである。
この主人公には、そういう2000年前後の女子高生というイメージがある。
だからこの作品からは、「オタク文化」と「ブルセラ少女」両方の臭いがする。両方の悪いところだけ鼻についたらこの作品を嫌悪してしまうのだろう。
彼、彼女らは記号化された世界を自覚的に、「わざと」「だからこそ」引き受ける。
若者特有のナンセンス的思考を表出する態度として、ニヒリズムからスノビズム、そしてシニシズムへ、という流れになっていると思う。
90年代の「消費化される大きな物語」「記号化、無意味化していく世界」の中で、データベース的物語への代替や、それらの要素となる記号をシンボル化することで、「小さな物語化」「小さな有意味化」を行っていたスノビズムの若者は、今や有意味化さえ放棄し、「小さな物語」さえ消費するようになってしまった。
わかりやすく言えばサブカルチャーさえも消費構造に組み込まれてしまった、ということか。「渋谷系」などは割と時期も早く良い道標だったのかもしれない。
加速度的に、構造的にナンセンス化されつつある世界。そういう状況を自覚的に引き受けているシニシズム。
このスノビズムとシニシズムの中間ぐらいに位置している主人公という感じだ。
シニシズムについては現在進行中なので私もよくわからないが、多少勘のいい若い子ならそういう雰囲気は理解できるのではなかろうか。
このシニシズムが「まったり革命」の最終帰着点なのかもしれない。
私なんかはスノビズムはわかる世代なので、他の候補作品を全部読んでいないが、スノビズムをテーマにしている嶽本野ばら氏が一番好き、ということになりそうだ。
シニシズムは「わざと」ナンセンス化、記号化された世界を引き受ける。
そういう時代に生きている若者であるから、冒頭からそういう態度でいるわけだ。
そして物語の最後でそんな世界をまた引き受ける。
自覚が少し強くなっただけ、弱いシニシズムから強めのシニシズムに移行するシニシズム寄りからスノビズム寄りへ移行するだけなので(※訂正については文末参照)、主人公の変化は感じ取りにくい。
ここが、物語論として、カタルシス=浄化が弱く感じられる所以ではないだろうか。
しかし現代若者文化をモチーフとしているからには仕方のないことだと思う。
宮台氏言うところの「終わりなき日常」を未だに生きていくしかないのだから。
また、暴力シーンについて。
私は個人的には暴力感は感じられなかった。登場人物が記号的だからだ。
しかし、こうは解釈できないだろうか。
記号化、ナンセンス化している世界の中で、自らをも記号化している若者にとって、唯一記号的でないものは血と肉、エロかグロなのだ。
従って高樹氏の言うように、
>この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え
という風に感じ取られてしまうのだろう。
恨みなどの情念に由来しない無邪気な暴力性だから「>著しく不快」になるのだろう。
実は私もこの感覚はうっすらと感じた。
深い森というフロイト的に言うなら無意識に換喩される中で、中心にいるグロテスクな怪物。無意識が暴力性だけだとすると、それはいくら何でもやっぱり怖い。
高樹氏の感想が私は一番近いかもしれない。「わけのわからないおもしろさ」以外は。
物語論として考えるなら、上で言った「わざと」という感覚は、ナンセンスや風刺などの、アイロニーに通ずるところがある。
作者の「わざと」感を出すことで、受け取り手を感情移入から一歩引いた位置に「わざと」押し返し、客観的視点を要求する。「異化効果」と似たようなものと言えばわかりやすいか。
リアル時代背景の「わざと」はわかるが、では、この作品中に「わざと」感はあったのだろうか。
これは幾分弱い理由になるが、選評で筒井氏も言っているように、第三章「森」以降の描写との対比にある。
これだけの文章が書けるなら、この頭の悪そうな主人公も「わざと」わかって書いているのだな、という感じになるわけだ。
この作者の「わざと」と時代背景のシニシズムの「わざと」感が二重構造になっている、という自分で書いてて少々恥ずかしい評価点があると思う。
だから、筒井氏の
>こういう若い人の作品と共時性を持ったことは嬉しくもあり誇らしくもある。
という評価となったのだと思う。
簡単にいうと、この「わざと」感への嗅覚が強いナンセンス好きの方が「わざと」に気付けばそれなりに楽しめる、という側面があると思うのだ。
ナンセンス大家の筒井氏が推したのは頷ける。
島田氏などは以下の文章から、その「わざと」感は感づいていそうである。
>「ええかげんにせえや」といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、
高樹氏は「わざと」は感じられなかったようだが、主人公=現代の若者が自分まで記号化していることは伝わったようである。
>登場人物に流れる血も赤くなく青い印象だ。要するに気色悪い。
反対票を入れた宮本氏が「わざと」感を一番よく見抜いているのかもしれない。
>どっちにしても、面白くもなんともないただのこけおどしだ。
こけおどしをわざとらしさと読み替えれば納得できる。
しかし、福田氏の
>レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いた時の感じ。
だけは理解できませんでした……。
※訂正について
もう一度読み直して、主人公はシニシズムからスノビズム的感覚への移行、時代からすればちょっとした逆行という風に考えを直した。
シニシズムとスノビズムは、自分のまわりの社会や世界の「形式」を「自覚的」に引き受ける、という点については共通しているが、違いは、「自覚的」が能動的かどうかである。
つまり、スノビズムは「形式」を自ら選択して「自覚的」になるが、シニシズムにはこの自らの選択という要素は薄い。
オタク文化に比して言うなら、スノビズムはデータベース的小さな物語を記号として「自ら進んで自覚的に」消費していたが、シニシズムは商業主義の徹底によりメニューが揃ってしまっており、「自覚的ではあるが自ら進むことなく」消費する、ということになる。
よって、この作品の主人公の変化は、能動的に世界を受け入れる態度を示したということで、シニシズムからスノビズムへという時代の流れからすれば逆方向の変化ということになる。
メフィスト系作家というのは京極夏彦氏と森博嗣氏ぐらいしか読んでない。
清涼院流水氏の『コズミック』は古本屋で買ったけど数ページで挫折している。
それと一緒に舞城王太郎氏の『阿修羅ガール』を何となく手に取った。
彼の作品は初めてである。ということで読んでみた。
なるほど。どこかの書評ブログでもあったが、
「わけわかんないけど面白い」
これに尽きる作品だ。
三島由紀夫賞というものの権威がどういうものかわからないので、この作品がその賞にふさわしいかどうかなんてわからない。
賞なんて売上げランキングと同程度の目安と考えている私は、事前の知識はあったものの余り気にならなかった。
というわけで選評があったので読んでみた。
うん。わかる。皆さんいちいちごもっともだ。「他の作品がイマイチだったんだもんよー」感がよく出ている。
島田雅彦氏の
>逆に彼を落胆させるには「自意識の崩壊現象を緻密に描いている」などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい。
という文章にインスパイヤされ、ちょっと批評みたいなものを書いてみようかと思い立ったのがこの記事である。
前半から引き込まれた。主人公は、今時の女子高生というものだろうか。いやちょっと古い感じがする。ちょうど宮台真二氏の「ブルセラ少女」「まったり革命」みたいな感じか。とか言いながら、今も昔もあんまり関係ない気もする。若い時分は皆こういうナンセンス的な思考をしていたものだ、と過去を懐かしく思ってしまった。いや私は全然ブルセラ少女時代より前の人間だが。
冒頭の一文だけで、自分の体までナンセンス化、記号化しつつある感じがよく出ている。
島田氏の選評に、
>舞城王太郎という奴がいて、少女フィギュアに憑依して、あれこれ語っていますよ。
とあるが、これはもっともな話である。
『動物化するポストモダン』で東浩紀氏が指摘しているように、宮台氏の「ブルセラ少女」と現代の「オタク文化」には共通性があるからだ。
彼、彼女らは、記号化匿名化された世界のなかで、データベース的物語の消費さえ難しくなり、宮台氏言うところの「有意味化戦略」を放棄し、「まったり革命」を起こしつつあったのだ。
「オタク」は妄想を記号化し、「ブルセラ少女」は自分の身体を記号化していたのだ。
アニメキャラの仮面を被る「オタク」と、大人から与えられた「女子高生」という仮面を被る「ブルセラ少女」。被る仮面が違うだけである。
この主人公には、そういう2000年前後の女子高生というイメージがある。
だからこの作品からは、「オタク文化」と「ブルセラ少女」両方の臭いがする。両方の悪いところだけ鼻についたらこの作品を嫌悪してしまうのだろう。
彼、彼女らは記号化された世界を自覚的に、「わざと」「だからこそ」引き受ける。
若者特有のナンセンス的思考を表出する態度として、ニヒリズムからスノビズム、そしてシニシズムへ、という流れになっていると思う。
90年代の「消費化される大きな物語」「記号化、無意味化していく世界」の中で、データベース的物語への代替や、それらの要素となる記号をシンボル化することで、「小さな物語化」「小さな有意味化」を行っていたスノビズムの若者は、今や有意味化さえ放棄し、「小さな物語」さえ消費するようになってしまった。
わかりやすく言えばサブカルチャーさえも消費構造に組み込まれてしまった、ということか。「渋谷系」などは割と時期も早く良い道標だったのかもしれない。
加速度的に、構造的にナンセンス化されつつある世界。そういう状況を自覚的に引き受けているシニシズム。
このスノビズムとシニシズムの中間ぐらいに位置している主人公という感じだ。
シニシズムについては現在進行中なので私もよくわからないが、多少勘のいい若い子ならそういう雰囲気は理解できるのではなかろうか。
このシニシズムが「まったり革命」の最終帰着点なのかもしれない。
私なんかはスノビズムはわかる世代なので、他の候補作品を全部読んでいないが、スノビズムをテーマにしている嶽本野ばら氏が一番好き、ということになりそうだ。
シニシズムは「わざと」ナンセンス化、記号化された世界を引き受ける。
そういう時代に生きている若者であるから、冒頭からそういう態度でいるわけだ。
そして物語の最後でそんな世界をまた引き受ける。
自覚が少し強くなっただけ、
ここが、物語論として、カタルシス=浄化が弱く感じられる所以ではないだろうか。
しかし現代若者文化をモチーフとしているからには仕方のないことだと思う。
宮台氏言うところの「終わりなき日常」を未だに生きていくしかないのだから。
また、暴力シーンについて。
私は個人的には暴力感は感じられなかった。登場人物が記号的だからだ。
しかし、こうは解釈できないだろうか。
記号化、ナンセンス化している世界の中で、自らをも記号化している若者にとって、唯一記号的でないものは血と肉、エロかグロなのだ。
従って高樹氏の言うように、
>この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え
という風に感じ取られてしまうのだろう。
恨みなどの情念に由来しない無邪気な暴力性だから「>著しく不快」になるのだろう。
実は私もこの感覚はうっすらと感じた。
深い森というフロイト的に言うなら無意識に換喩される中で、中心にいるグロテスクな怪物。無意識が暴力性だけだとすると、それはいくら何でもやっぱり怖い。
高樹氏の感想が私は一番近いかもしれない。「わけのわからないおもしろさ」以外は。
物語論として考えるなら、上で言った「わざと」という感覚は、ナンセンスや風刺などの、アイロニーに通ずるところがある。
作者の「わざと」感を出すことで、受け取り手を感情移入から一歩引いた位置に「わざと」押し返し、客観的視点を要求する。「異化効果」と似たようなものと言えばわかりやすいか。
リアル時代背景の「わざと」はわかるが、では、この作品中に「わざと」感はあったのだろうか。
これは幾分弱い理由になるが、選評で筒井氏も言っているように、第三章「森」以降の描写との対比にある。
これだけの文章が書けるなら、この頭の悪そうな主人公も「わざと」わかって書いているのだな、という感じになるわけだ。
この作者の「わざと」と時代背景のシニシズムの「わざと」感が二重構造になっている、という自分で書いてて少々恥ずかしい評価点があると思う。
だから、筒井氏の
>こういう若い人の作品と共時性を持ったことは嬉しくもあり誇らしくもある。
という評価となったのだと思う。
簡単にいうと、この「わざと」感への嗅覚が強いナンセンス好きの方が「わざと」に気付けばそれなりに楽しめる、という側面があると思うのだ。
ナンセンス大家の筒井氏が推したのは頷ける。
島田氏などは以下の文章から、その「わざと」感は感づいていそうである。
>「ええかげんにせえや」といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、
高樹氏は「わざと」は感じられなかったようだが、主人公=現代の若者が自分まで記号化していることは伝わったようである。
>登場人物に流れる血も赤くなく青い印象だ。要するに気色悪い。
反対票を入れた宮本氏が「わざと」感を一番よく見抜いているのかもしれない。
>どっちにしても、面白くもなんともないただのこけおどしだ。
こけおどしをわざとらしさと読み替えれば納得できる。
しかし、福田氏の
>レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いた時の感じ。
だけは理解できませんでした……。
※訂正について
もう一度読み直して、主人公はシニシズムからスノビズム的感覚への移行、時代からすればちょっとした逆行という風に考えを直した。
シニシズムとスノビズムは、自分のまわりの社会や世界の「形式」を「自覚的」に引き受ける、という点については共通しているが、違いは、「自覚的」が能動的かどうかである。
つまり、スノビズムは「形式」を自ら選択して「自覚的」になるが、シニシズムにはこの自らの選択という要素は薄い。
オタク文化に比して言うなら、スノビズムはデータベース的小さな物語を記号として「自ら進んで自覚的に」消費していたが、シニシズムは商業主義の徹底によりメニューが揃ってしまっており、「自覚的ではあるが自ら進むことなく」消費する、ということになる。
よって、この作品の主人公の変化は、能動的に世界を受け入れる態度を示したということで、シニシズムからスノビズムへという時代の流れからすれば逆方向の変化ということになる。


