『AMEBIC』金原ひとみ――深層の母性。
2006/11/12/Sun
何かサブタイルの「スローリーディング」の割にはがんがん書評書いてるじゃねえか。と言われかねないので断っておきますと、この作品は大分前に読みました。今年は今年かな。で、書評を書くにいたって読み直した、というわけです。ということで。
私は金原ひとみが嫌いだ。
例えば『蛇とピアス』。これなんて倒錯信仰に過ぎない。
実は私にも彫り師の友人がいた(今は行方不明だが)。彼にこれを読ませると、「彫り師になるだけでセックスできたら苦労しねーよ」とか言いそうだ。
彼女の視点は異世界の人間を下から見上げている。これは上から見下げるのと何ら変わりがない。彼らは同じ地平で自分の周りに枠を作っているだけにすぎない。
と『蛇のピアス』の書評になりそうなのでこの辺にしとこう。
何故嫌いなのか。作品に対しての揚げ足とりは上のようにいくらでもできる。そうじゃない。彼女の作家性が嫌いなのだ。だから彼女の作家性のどこが嫌いなのか。
『AMEBIC』を読んでうっすら理解できた。
悔しいが、認めたくないが、近親憎悪的な、自己嫌悪的な嫌悪だった。
自分が嫌だと思う自分をまざまざと見せつけられるのだ。
別に彼女と私が似ているとは言わない。彼女の作品から得られる作家性と私が似ているとも言わない。
違うところなんてたくさんある。
例えば。彼女の文章はどこか男に対して倒錯的な媚の売り方をする。「陰部」や「ウンコ」や「尿」や「チンコ」などといった、セックスに関わる語や下品な言葉がよく用いられる。
これは好きな男と飲んでてわざとセックスの話をしたり生理の話をしたりするのと似ている。これは倒錯的な媚なのだ。
私はそんなことしない。……しないとも限らないが、してないと思う、いや、深酒したときはしたりすることもなくはないが。
ともかく、彼女のそういった幼稚さが嫌いなのだ。嫌な幼稚さをまざまざと見せつける。そして多分それが彼女の狙いなのだろう。
普通の大人があえて隠すようなこの「嫌な幼稚さ」を何でもないことのように作品の上に載せる。異化効果というと話は簡単に済みそうだ。それにより読者は作品に対する自分のスタンスを決めかねる。その隙間をついてくる形で各作品の主題を捻じ込ませるのだ。
この「嫌な幼稚さ」は何もセックス関連やシモネタだけではない。彼女は所々に作家性として未熟な部分を見せる。
例えばこの『AMEBIC』では、「錯文」というネタ。単なる自動筆記ネタだ。目新しくもなんともない。それをメインに扱っていながら「錯文」自体についての掘り下げがないところなんか、まさに作家性としての未熟さが窺える。
ここで終わればどうでもいい。流行純文学作家として消え行くだけだ。ただ、彼女は違う。何が違うのか。
情念的なものが、彼女の作品には共通している。これも、これだけならどうでもいい。
「作家性の未熟さ」と、「作家の情念」。これだけだったらそんな作家は吐いて捨てるほどいる。それと何が違うのか。
化粧だ。身体改造だ。拒食による痩身だ。
これをメタファーとして置き、彼女は「未熟」で「情念的」な作家を「身体的」に演じていて、それを冷静に見ている彼女がもう一人いるという構造であろう。
世阿弥の「離見の見」と言ったらいいすぎかもしれない。
これは、ルックスを気にする女性には身体的に理解できる感覚だ。彼女はそれを推し進め、化粧や身体改造や拒食による痩身というメタファーを、「鏡」として作用させることに成功している。
読者は、小説のキャラを見ているようで、自分を見ているのだ。だから、鏡の向こうに透けて見える「未熟さ」や「情念」が、自分の体に纏わりついているような錯覚を起こさせるのだ。その錯覚を、もう一人の彼女がコントロールする。
このもう一人の彼女は、作品や作家性からは、欠片たりとも感じさせない、「母性」を帯びている。母性は平等を意味する。裏返せば無個性だ。だから読者は無個性的に、その鏡に映る自分と透けて見える何かを混同してしまう。
この母性の中で、作中の登場人物とともに、読者は包括されてしまうのだ。
この「母性」は、技術論的なものではない。金原ひとみという作家性の深層にあるもの、と言ってよいだろう。
つまり、金原ひとみという作家はその深層で、自己満足と違う意味で、自分の作家性と読者を「母性的」に「受容」しているわけだ。
楽観的といってもいい。あっけからかんさといってもいい。どちらかというと放任主義的な、肝っ玉かあさん的な「母性」だ。
家族に起こる不幸を、真剣に受け止めつつ、明るさを失わない。そんなイメージの「母性」。
『蛇とピアス』はそれがイマイチ感じられなかった。いや、薄々感じていたのかもしれないが、私は『AMEBIC』で確信した。
まだ「母性」というには語弊があるかもしれない。気風の良いアネキ的な、「姉性」なるものがあればそういう感じだ。
この「楽観」は、彼女が影響受けたという村上龍氏にもあるものだ。楽観というか、生に対するポジティブさだ。村上氏は「母性」とは言い辛いので、指向性を持った楽観、金原氏は「母性的」な、方向性のない、受容的な楽観、と言い直そうか。
うん、今読み返して誤解を生みそうな文章であることに気付いた。しかし私の文章力ではこういう表現しかできない。
試しに具体的に書いてみよう。
彼女は、主人公に対し入り込む。一人称主体であることからもわかるだろう。大雑把に言えば私小説的である。しかし、同時に彼女はその主人公に対しカウンセラー的な立場にもある。精神分析家の方がいいか。精神分析家だから、その人物を類型化するなどといった関わり方ではなく、その立場も主人公へベクトルが向いている。「他人として主人公と同調しよう」という立場だ。主人公と同一化しよう、している自分が意識層にあり、他人として同調しよう、という立場が無意識層にある、というイメージか。
無意識層は精神分析家のように振舞う。つまり主人公を受容する。ひいては彼女自身を受容する。
次に主人公の人格だ。主人公に共通しているのは、身体改造、拒食による痩身という身体的表層への拘りだ。ここで主人公の皮膚は仕切りとなる。身体的形式主義と言えばよいか。この仕切りの裏に、綿密な主人公の心理への拘りがある。主人公の内面は複層的になる。これで、感情移入できた読者は主人公の中に自分と共通の部分を発見しやすくなる。しかし、作品中では彼女には仕切りがある。読者も排除されてしまう。これが「鏡」となるプロセスだろう。跳ね返ってきた姿は主人公に練り込んだ作家性も纏わりついている。鏡像なのに鏡像でないそれが、読者を襲う。
しかし、登場人物は、精神分析家である作者に受容されている。主人公の皮膚に跳ね返された、鏡の中の世界を見ている読者も受容されたような気になる。なので読者は感情移入(=主観的)の立場から、遠い客席の、客観的な位置までは跳ね返されない。先に異化効果と書いたが、異化効果とは感情移入(=主観的)の立場から客観的立場まで押し返すことを言う。であるから、半異化効果とでもいうべきものが、拒食や身体改造といったメタファーにより作用している、という言い方もできるだろう。絡めとられるように物語から離れられなくなるのだ。
うん。まだわかりにくい文章だ。だが私の文章力ではこれが限界のようだ。
結論にしよう。
わからないけど、読んでしまう。そんな作品だった。
情念好きな私としては、未熟とはいいつつその情念だけで面白いと思ってしまう。
著者は若い。私の勝手な予想では、年を経ればこの「深層の母性」が彼女の持ち味になっていくのではないだろうか。
刺青やピアスや拒食症や、いろんな現代人の歪んだ姿をも平等に受容し、時には無個性化する。そんな風に時代を抉り出す作家になって欲しい。
今日のところはこれで勘弁して下さい……。
私は金原ひとみが嫌いだ。
例えば『蛇とピアス』。これなんて倒錯信仰に過ぎない。
実は私にも彫り師の友人がいた(今は行方不明だが)。彼にこれを読ませると、「彫り師になるだけでセックスできたら苦労しねーよ」とか言いそうだ。
彼女の視点は異世界の人間を下から見上げている。これは上から見下げるのと何ら変わりがない。彼らは同じ地平で自分の周りに枠を作っているだけにすぎない。
と『蛇のピアス』の書評になりそうなのでこの辺にしとこう。
何故嫌いなのか。作品に対しての揚げ足とりは上のようにいくらでもできる。そうじゃない。彼女の作家性が嫌いなのだ。だから彼女の作家性のどこが嫌いなのか。
『AMEBIC』を読んでうっすら理解できた。
悔しいが、認めたくないが、近親憎悪的な、自己嫌悪的な嫌悪だった。
自分が嫌だと思う自分をまざまざと見せつけられるのだ。
別に彼女と私が似ているとは言わない。彼女の作品から得られる作家性と私が似ているとも言わない。
違うところなんてたくさんある。
例えば。彼女の文章はどこか男に対して倒錯的な媚の売り方をする。「陰部」や「ウンコ」や「尿」や「チンコ」などといった、セックスに関わる語や下品な言葉がよく用いられる。
これは好きな男と飲んでてわざとセックスの話をしたり生理の話をしたりするのと似ている。これは倒錯的な媚なのだ。
私はそんなことしない。……しないとも限らないが、してないと思う、いや、深酒したときはしたりすることもなくはないが。
ともかく、彼女のそういった幼稚さが嫌いなのだ。嫌な幼稚さをまざまざと見せつける。そして多分それが彼女の狙いなのだろう。
普通の大人があえて隠すようなこの「嫌な幼稚さ」を何でもないことのように作品の上に載せる。異化効果というと話は簡単に済みそうだ。それにより読者は作品に対する自分のスタンスを決めかねる。その隙間をついてくる形で各作品の主題を捻じ込ませるのだ。
この「嫌な幼稚さ」は何もセックス関連やシモネタだけではない。彼女は所々に作家性として未熟な部分を見せる。
例えばこの『AMEBIC』では、「錯文」というネタ。単なる自動筆記ネタだ。目新しくもなんともない。それをメインに扱っていながら「錯文」自体についての掘り下げがないところなんか、まさに作家性としての未熟さが窺える。
ここで終わればどうでもいい。流行純文学作家として消え行くだけだ。ただ、彼女は違う。何が違うのか。
情念的なものが、彼女の作品には共通している。これも、これだけならどうでもいい。
「作家性の未熟さ」と、「作家の情念」。これだけだったらそんな作家は吐いて捨てるほどいる。それと何が違うのか。
化粧だ。身体改造だ。拒食による痩身だ。
これをメタファーとして置き、彼女は「未熟」で「情念的」な作家を「身体的」に演じていて、それを冷静に見ている彼女がもう一人いるという構造であろう。
世阿弥の「離見の見」と言ったらいいすぎかもしれない。
これは、ルックスを気にする女性には身体的に理解できる感覚だ。彼女はそれを推し進め、化粧や身体改造や拒食による痩身というメタファーを、「鏡」として作用させることに成功している。
読者は、小説のキャラを見ているようで、自分を見ているのだ。だから、鏡の向こうに透けて見える「未熟さ」や「情念」が、自分の体に纏わりついているような錯覚を起こさせるのだ。その錯覚を、もう一人の彼女がコントロールする。
このもう一人の彼女は、作品や作家性からは、欠片たりとも感じさせない、「母性」を帯びている。母性は平等を意味する。裏返せば無個性だ。だから読者は無個性的に、その鏡に映る自分と透けて見える何かを混同してしまう。
この母性の中で、作中の登場人物とともに、読者は包括されてしまうのだ。
この「母性」は、技術論的なものではない。金原ひとみという作家性の深層にあるもの、と言ってよいだろう。
つまり、金原ひとみという作家はその深層で、自己満足と違う意味で、自分の作家性と読者を「母性的」に「受容」しているわけだ。
楽観的といってもいい。あっけからかんさといってもいい。どちらかというと放任主義的な、肝っ玉かあさん的な「母性」だ。
家族に起こる不幸を、真剣に受け止めつつ、明るさを失わない。そんなイメージの「母性」。
『蛇とピアス』はそれがイマイチ感じられなかった。いや、薄々感じていたのかもしれないが、私は『AMEBIC』で確信した。
まだ「母性」というには語弊があるかもしれない。気風の良いアネキ的な、「姉性」なるものがあればそういう感じだ。
この「楽観」は、彼女が影響受けたという村上龍氏にもあるものだ。楽観というか、生に対するポジティブさだ。村上氏は「母性」とは言い辛いので、指向性を持った楽観、金原氏は「母性的」な、方向性のない、受容的な楽観、と言い直そうか。
うん、今読み返して誤解を生みそうな文章であることに気付いた。しかし私の文章力ではこういう表現しかできない。
試しに具体的に書いてみよう。
彼女は、主人公に対し入り込む。一人称主体であることからもわかるだろう。大雑把に言えば私小説的である。しかし、同時に彼女はその主人公に対しカウンセラー的な立場にもある。精神分析家の方がいいか。精神分析家だから、その人物を類型化するなどといった関わり方ではなく、その立場も主人公へベクトルが向いている。「他人として主人公と同調しよう」という立場だ。主人公と同一化しよう、している自分が意識層にあり、他人として同調しよう、という立場が無意識層にある、というイメージか。
無意識層は精神分析家のように振舞う。つまり主人公を受容する。ひいては彼女自身を受容する。
次に主人公の人格だ。主人公に共通しているのは、身体改造、拒食による痩身という身体的表層への拘りだ。ここで主人公の皮膚は仕切りとなる。身体的形式主義と言えばよいか。この仕切りの裏に、綿密な主人公の心理への拘りがある。主人公の内面は複層的になる。これで、感情移入できた読者は主人公の中に自分と共通の部分を発見しやすくなる。しかし、作品中では彼女には仕切りがある。読者も排除されてしまう。これが「鏡」となるプロセスだろう。跳ね返ってきた姿は主人公に練り込んだ作家性も纏わりついている。鏡像なのに鏡像でないそれが、読者を襲う。
しかし、登場人物は、精神分析家である作者に受容されている。主人公の皮膚に跳ね返された、鏡の中の世界を見ている読者も受容されたような気になる。なので読者は感情移入(=主観的)の立場から、遠い客席の、客観的な位置までは跳ね返されない。先に異化効果と書いたが、異化効果とは感情移入(=主観的)の立場から客観的立場まで押し返すことを言う。であるから、半異化効果とでもいうべきものが、拒食や身体改造といったメタファーにより作用している、という言い方もできるだろう。絡めとられるように物語から離れられなくなるのだ。
うん。まだわかりにくい文章だ。だが私の文章力ではこれが限界のようだ。
結論にしよう。
わからないけど、読んでしまう。そんな作品だった。
情念好きな私としては、未熟とはいいつつその情念だけで面白いと思ってしまう。
著者は若い。私の勝手な予想では、年を経ればこの「深層の母性」が彼女の持ち味になっていくのではないだろうか。
刺青やピアスや拒食症や、いろんな現代人の歪んだ姿をも平等に受容し、時には無個性化する。そんな風に時代を抉り出す作家になって欲しい。
今日のところはこれで勘弁して下さい……。