「罪悪感」
2012/05/22/Tue
精神分析の「罪悪感」ってややこしいんだよな。
普通の定義で言えば、罪悪感ってのは罪を認識してなければ成立せず、すなわち善悪の判断が付いているのが前提として要請されるが、始祖のフロイトが、善悪の判断を学ぶ以前の恐怖も罪悪感として論じているんだよなあ。
そりゃクラインも「攻撃欲動の罪悪感で愛を学ぶ」とか書くわなあ。
つまりはフロイトの、ひいてはクラインの言う「罪悪感」は、一般的な語義より広義になっているってことだ。
こういった感情についての理論で大雑把なことは、精神分析理論では珍しいと思った。いやユングとかはばりばり大雑把だけど。
ここら辺がフロイトはユダヤだよなあ。
ここ重要だと思うんだよな。一般的な語義の「罪悪感」と精神分析用語としての「罪悪感」をきちんと脳内で使いわけてなくてはならない。
フロイトさん、お聞きしたいのですが。
あなたの論ですと、自我からの攻撃欲動が、超自我が発生することにより、超自我がそれを受け持って、自我に対し攻撃欲動を向ける、というお話ですが。
あなたの定義ですと、欲動とはエスにあるものですよね。
であるならば、超自我が発生しなくても、エスから自我へ攻撃欲動が、いえ、あなたの論ですと、死の欲動はエロスと複合されることによってはじめて破壊欲動として認識される、というものですので、それは攻撃欲動と言わず死の欲動と述べた方が正しいのでしょうけれど、言い直します、エスから自我に対して死の欲動が向けられることはないのでしょうか。
それが神経症と精神病の違いとかなんですかね。
あ、すみません、この辺はクラインさんの方が明るいですねそう言えば。
また、超自我が受け持った攻撃欲動が、自我ではなく他者(同一化はしているのかもしれないが)に向かうこともあるとフロイトさんは言ってたけど、ここまでくるともうゆるゆるだよね。
精神分析論自体が観念連合の弛緩になっているよう。
ちょっとユングの気持ちわかった。「大雑把でいいだろ」的な。
しかしまあ、フロイトの文化論は大雑把すぎるな。構造主義文化人類学から見ても。
文化人類学だと文化とはもっと多種多様で、構造主義における構造を発見するのは困難で、だから研究が必要なわけだけども、精神分析の研究対象は個人で、文化より個人は多種多様なはずで、なのにフロイトの文化論はごく単純化というかモデル化されている。
まあ本来の研究対象じゃないから大雑把でいいんだと言われればまあねとしか言えないが。
おそらくフロイトにとっては、宗教が「父」で文化が「母」だったんだなあ、と思った。
文化とは「目標が制止されたリビドー」を大量に動員することで結びつけられるものらしいし。
So and so.
思弁か、思弁だなあ。
哲学か、哲学だなあ。
まあフロイトやラカンは矩をわきまえてそうではあるけどもさ。
クラインなんかはリビドーばりばりだからこの矩はわきまえなくてもよかったと。
ちょっとはまし、か。
おもしろいな、精神分析村。そういった文化だとすれば、精神分析村という文化は、奇跡的にも思える。
よくぞ神経症者たちに併合されなかったもんだ。
いや最近は併合されつつあんのか。
才能がそろっていた、なんて陳腐な言葉だけど、まあ物好きが集まったんだろうな、反動的に。
シュルレアリスム文化みたいな言い方になってしまった。
あれ、何言おうとしたんだっけ。
「臨床大事だろ」みたいなこと言おうとしたけどどうでもよくなっちゃった。
あそうそう、エロスと死の欲動が複合されることで死の欲動は破壊欲動として認識される、ってので思ったんだが、まあもちろんエロスが完全になくなることはありゃしないだろうけど、仮にエロスが十分希薄になった場合のそれをなんて言えばいいか、「解体欲動」ってよくね? って思った。
いやそれだけ。
それとこの記事のここ、
=====
「母への欲望」においては、死の欲動は全否定される。
=====
フロイトのおっさんも同じことゆってた。
=====
(死の欲動の表出としての)攻撃欲が混じってない関係があるとすれば、それは息子に対する母親ぐらいだろう。
=====
実際に、ある特定の母についての精神分析解釈として、その母の息子(娘はどうなんだろうと思った)に対する欲望に、死の欲動が混じっていないかは、その母によるだろう。臨床による。
しかし子供(息子であろうと娘であろうと)にとっては、母との欲望関係において、死の欲動は全否定されるのである。
あ、ごめんなんか電話かかってきた。
「ではフロイトさん、あなたのこの言葉は、逆に言えば母親の息子に対する関係以外にはすべて攻撃欲が混じっているということですので、あなたの娘アナに対する関係にも攻撃欲が含まれることを自白した、と考えてよいですか?」
普通の定義で言えば、罪悪感ってのは罪を認識してなければ成立せず、すなわち善悪の判断が付いているのが前提として要請されるが、始祖のフロイトが、善悪の判断を学ぶ以前の恐怖も罪悪感として論じているんだよなあ。
そりゃクラインも「攻撃欲動の罪悪感で愛を学ぶ」とか書くわなあ。
つまりはフロイトの、ひいてはクラインの言う「罪悪感」は、一般的な語義より広義になっているってことだ。
こういった感情についての理論で大雑把なことは、精神分析理論では珍しいと思った。いやユングとかはばりばり大雑把だけど。
ここら辺がフロイトはユダヤだよなあ。
ここ重要だと思うんだよな。一般的な語義の「罪悪感」と精神分析用語としての「罪悪感」をきちんと脳内で使いわけてなくてはならない。
フロイトさん、お聞きしたいのですが。
あなたの論ですと、自我からの攻撃欲動が、超自我が発生することにより、超自我がそれを受け持って、自我に対し攻撃欲動を向ける、というお話ですが。
あなたの定義ですと、欲動とはエスにあるものですよね。
であるならば、超自我が発生しなくても、エスから自我へ攻撃欲動が、いえ、あなたの論ですと、死の欲動はエロスと複合されることによってはじめて破壊欲動として認識される、というものですので、それは攻撃欲動と言わず死の欲動と述べた方が正しいのでしょうけれど、言い直します、エスから自我に対して死の欲動が向けられることはないのでしょうか。
それが神経症と精神病の違いとかなんですかね。
あ、すみません、この辺はクラインさんの方が明るいですねそう言えば。
また、超自我が受け持った攻撃欲動が、自我ではなく他者(同一化はしているのかもしれないが)に向かうこともあるとフロイトさんは言ってたけど、ここまでくるともうゆるゆるだよね。
精神分析論自体が観念連合の弛緩になっているよう。
ちょっとユングの気持ちわかった。「大雑把でいいだろ」的な。
しかしまあ、フロイトの文化論は大雑把すぎるな。構造主義文化人類学から見ても。
文化人類学だと文化とはもっと多種多様で、構造主義における構造を発見するのは困難で、だから研究が必要なわけだけども、精神分析の研究対象は個人で、文化より個人は多種多様なはずで、なのにフロイトの文化論はごく単純化というかモデル化されている。
まあ本来の研究対象じゃないから大雑把でいいんだと言われればまあねとしか言えないが。
おそらくフロイトにとっては、宗教が「父」で文化が「母」だったんだなあ、と思った。
文化とは「目標が制止されたリビドー」を大量に動員することで結びつけられるものらしいし。
So and so.
思弁か、思弁だなあ。
哲学か、哲学だなあ。
まあフロイトやラカンは矩をわきまえてそうではあるけどもさ。
クラインなんかはリビドーばりばりだからこの矩はわきまえなくてもよかったと。
ちょっとはまし、か。
おもしろいな、精神分析村。そういった文化だとすれば、精神分析村という文化は、奇跡的にも思える。
よくぞ神経症者たちに併合されなかったもんだ。
いや最近は併合されつつあんのか。
才能がそろっていた、なんて陳腐な言葉だけど、まあ物好きが集まったんだろうな、反動的に。
シュルレアリスム文化みたいな言い方になってしまった。
あれ、何言おうとしたんだっけ。
「臨床大事だろ」みたいなこと言おうとしたけどどうでもよくなっちゃった。
あそうそう、エロスと死の欲動が複合されることで死の欲動は破壊欲動として認識される、ってので思ったんだが、まあもちろんエロスが完全になくなることはありゃしないだろうけど、仮にエロスが十分希薄になった場合のそれをなんて言えばいいか、「解体欲動」ってよくね? って思った。
いやそれだけ。
それとこの記事のここ、
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「母への欲望」においては、死の欲動は全否定される。
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フロイトのおっさんも同じことゆってた。
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(死の欲動の表出としての)攻撃欲が混じってない関係があるとすれば、それは息子に対する母親ぐらいだろう。
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実際に、ある特定の母についての精神分析解釈として、その母の息子(娘はどうなんだろうと思った)に対する欲望に、死の欲動が混じっていないかは、その母によるだろう。臨床による。
しかし子供(息子であろうと娘であろうと)にとっては、母との欲望関係において、死の欲動は全否定されるのである。
あ、ごめんなんか電話かかってきた。
「ではフロイトさん、あなたのこの言葉は、逆に言えば母親の息子に対する関係以外にはすべて攻撃欲が混じっているということですので、あなたの娘アナに対する関係にも攻撃欲が含まれることを自白した、と考えてよいですか?」
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