「魔術的」なお話
2012/05/24/Thu
夢でブログ記事書いて書いた自分が「おもしれー」って思ったけど現実のブログには書かれてないときのだるさって。
というわけで夢のブログ記事の抜粋。もちろんあとから書く夢日記みたいなものなのでいろいろ改変はされているだろう。
フロイトの「原父神話」ってラカンの「父の名」より迷走してるよなー。
でもフロイト自身が「原父に対する攻撃欲動を達成したかどうかの違いはない」とかしてるし。それはあくまで「攻撃欲動を受け持った超自我が内在されている」という前提がある場合においてであって、「女に超自我はない」とした「女」はどうなるよ、と。
つかほんっとこう、クラインとフロイトって相補的だよな。死の欲動を中心とすれば。
とか考えて思った。
「父の名」とは「代理非表象」である、と。「非」は「否」か、「不」でもいいか。「不」ぐらいが加減はいいかも。
どういうことかと言うと、まあ前記事の母性神話みたいなこと考えてたのね。
でもこの母性神は「父の名」はあると。そもそも「神経症の潜伏期」の象徴として考えているのだから、「神経症の潜伏期」は「父の名が排除」された精神病なわけではあるまい。
では母性神には、フロイトが「原父」で抉り出したような「父の名」があるはずだ、と。
ここで「原父」から若干定義をゆるめて「キリスト-ユダヤ教的な父性神(フロイトはユダヤ教を「父の宗教」だとしキリスト教を「息子の宗教」だとしたが、その「息子が父となった」と言っているので、同じ父性神とみなす。まあここらへんフロイトには空観の「父と子も空(相対的なもので本質はない)である。なんとなれば、父がいなければ子であらず、子がいなければ父ではないゆえに」とか説教してやればいいんじゃね、とか思うが)」と前記事の母性神の差異を書いておく。
母性神は死の欲動を全否定する性格を持つ。一方父性神は、フロイト自身が「超自我が攻撃欲動を受け持つ」としたように、ある一定の条件下において、死の欲動を許容する、という差異をここで設定しておく。
フロイトは、快楽原則からすればややこしい神に手を出しちゃったわけだ。「キリスト教には失われたユダヤ教の精神性の高さ」みたいに言ってるけど、そういう快楽原則と相対させた場合のややこしさなだけ。
ここで注意したいのは、「死の欲動はエロスと複合されることではじめて攻撃欲動として観察される、そうでなければわかりにくいものだ」という点。
父性神は、あくまでエロスとある条件下において死の欲動を許容した神なのであり、死の欲動を全否定する母性神と単純に対立させて、「死の欲動を象徴する神」としてはならない。そういった神なら多神教にはよくあるだろう、ハーデスやらペルセポネやらイザナミやら。余談だが、死の欲動を全否定する母性神(=エロス神)と単純に対立させたいならば、ユング派のノイマンの「グレートマザー/テリブルマザー」論の方が明るいだろう。
フロイトはあまりにもユダヤ人でありすぎるゆえ、宗教を比較文化論的に語れていないのだ。残念なことに(キリッ)。
たとえば、フロイトは多神教を「魔術的」だとしてほとんど論じていないが、快楽原則のほころびである死の欲動を一人の神に象徴して描いた宗教だとも言える。逆に言えば、フロイトが多神教を論じないのは、「魔術的だから」ではなく、自ら快楽原則のほころびである死の欲動を認めるのに多大な迂回を必要としたとしているのと同じく、それが「わかりにくい死の欲動の象徴が含まれていたから」なのではないだろうか。
ここで自重しておこう。「死の欲動を直接描いた宗教/死の欲動を全否定する母性神信仰/ある条件下で死の欲動を認める父性神信仰」という差異を、「多神教/母性神信仰/一神教」などというカテゴリに結びつけるべきではないとは思う。あくまで「方便」としてならよいが、「方便」はわかりやすくするためだが逆にわかりにくくもするということを理解しておかねばならない。
ここで重要なのは、あくまで、死の欲動について、単純に(稚拙に、と言い換えてもよい)それを象徴する一人の神を含め描いた多神教と比べ、一種の不合理的、非機能的な迂遠さで描いたのが、ユダヤ-キリスト教などの一神教である、という差異であり、それを認めておかなくてはならない。
あ、ごめん電話かかってきた。
「フロイトさん、あんた他の西洋文化がユダヤ教を羨ましがっているとか言ってたけど、あんた自身にその種の羨望があるんじゃないかね。もちろんそのまなざしはキリスト教などではなく、自分が疎い東洋の宗教に向けていたりするのかもしれないが。「涅槃原則」なんてネーミング素人っぽくてイイヨイイヨ。素人の粗さが味になってる」
とかこんなことごちゃごちゃ考えて「「父の名」とは「代理不表象」である」という文章が浮かんだんだな。
この「不」は全否定じゃない。「迂遠には表現している」のである。それこそラカン持ってくれば「隠喩として」と言ってもよい。
しかしフロイトの迂回を見ればわかるように、それはあくまで「攻撃欲動を受け持った超自我」があるという前提でなされる解釈である。つまりは「超自我のない女」には解釈できない隠喩なのである。神経症者にしか解釈できないのだ、その隠喩は。
逆に言えばこれは、ユダヤ-キリスト教が神経症者相手に特化した宗教だということでもあろう。さらに逆に、ユダヤ-キリスト教(のような「原父信仰」)が神経症を量産している、とも言え、これはフロイトの主張と一致する。
もう少しややこしい説明をつけ足しておく。
この、「代理不表象」が、死の欲動を否定あるいは抑圧あるいは否認あるいは排除している、というわけではない。
わたしが「不」としたのは空観の「八不」などからだと思われる。「空である」とは「相互依存かつ相互否定であること」であり、この「不」を西洋論理学的な「否定」と等値とみなしてはならない。空観の「不」は単純な否定ではないのである。あまりわたしはすとんとこない単語だが、龍樹研究における「破邪」と意味は近い。
あくまで「方便」として、すなわちわかりやすくかつわかりにくくして言うならば、「思ってるけど言わない」「本音と建前」のようなことである。「見ざる、聞かざる、言わざる」である。
こういったことは現代では「狡猾さ」のような印象を持たれるが、脳の処理の仕方として、(ラカンによれば)ファルスやエロスより先に、赤ん坊は覚えるのである。「狡猾さは愛に先んずる」などと茶化してもよいが、印象論は保留して、脳の処理の仕方として、そういった脳機能が芽生える、と考えてほしい。
この「不」が西洋論理学的な「否定」の意味に近くなるのは、エロスという「死の欲動の全否定」が生じたのちである。
これが、「赤ん坊が、「乳を欲しい」という快楽原則としての内部と、「欲しいけど与えてくれない」という現実原則としての外部とを覚える」となる。つまり、この代理不表象(なる脳機能である)「父の名」と、「エロス」の死の欲動の全否定(なる心理機制)が複合されて、自我にはあってエスにはない「自他の区別」を覚えるのである。
……あれ、終わっちゃった。夢の中の結論はまた別なのに。
なのでちょっと夢日記として迂回する。
あ、そうそう、自我の成立要件として、死の欲動を代理不表象する「父の名」と、死の欲動を全否定する「エロス」があるわけで、つまり逆に言えば、自我の成立後は、「父の名」と「エロス」は前提として論理的に要求されるわけ。この二つの前提により自我にリビドーを向けたり(すなわち自己愛)、他者にリビドーを向けたり(対象愛)すると。
さてここである疑問が浮かぶ。「代理不表象という脳機能が、死の欲動を選別するのはどうやるのだ?」と。ぶっちゃけ「頭の中の小人のまたその中の小人のまたその中の小人……」である。これはわたしは「然り」と考えるので、この疑問に取りあわなくてはならない。
んーとだなー。ぶっちゃけクライン論でいい?
欲動ってのは最初はすべて部分欲動なわけだ。口唇欲動とか肛門欲動とか。対象aの四つ組「声、まなざし、乳房、糞便」なんかは、そういった(のちに「母」という対象としての「個」に統合されるという意味で)代表的な四つの部分欲動なわけだ。
赤ん坊は二つや四つだけではない、たとえば「背中を叩く手」や「窓の光」や「カラスの鳴き声」などと「表象」されうる、無数の部分欲動があるのだ。大人の印象論で言えばそれに翻弄されている。数学的な印象論で言えば、無数のばらばらな方向のちっちゃな矢印を思い浮かべていればよい。
それがエスである。ここには「自他の区別」などない。「大洋的」かどうかは知らないが、流体における水分子の無方向さ(エントロピーの大きさ)を比喩していると考えれば納得いかなくもない。
またここには、死の欲動とエロスといった区別もない。それぞれの水分子が死の欲動になりうるしエロスになりうる。
むしろ、クラインのように、部分的であることが死の欲動の定義であるとすれば、「はじめには死の欲動しかない」となる。
ここで、「それを代理不表象にする」という脳機能が生じたとしよう。
この時点で矛盾する。なぜならば「表象」とは外部と内部が区別されていなければ成立しないからだ。
ここで「代理不表象」をもう少し厳密にして言い換えてみる。
「(部分)欲動と、体の(あくまで赤ん坊はそう思っていない、体表にあるか(目など)体内にあるか(腸など)の区別はない)諸器官の繋がりを、大脳的な脳処理によって切断する」
などとなるか。
ここで重要なのは、実際の欲動と諸器官の繋がりを直接断つのではなく、大脳的な脳処理によって断つことである。
この「切断」は、実際の神経学的な神経経路の繋がりとは別の、あくまで脳処理上の、こう言ってよければ「空想の切断」であるわけだ。「そこにないものをあるとする空想」が自閉症研究の文脈を引いた「ごっこ遊び」だとして、「父の名」とは、「そこにあるものをないとする」「裏ごっこ遊び」だ、などとも表現できる。
「実際の欲動と諸器官の繋がり」をもう少し詳しく、というかあくまで比喩的に述べるならば、神経生理学の研究を待たねばなるまいが、「脊髄や小脳と諸器官の神経連絡」「無条件反射信号系」などに相当するだろう。
「無条件反射信号系」なる神経経路はそのままに、「条件反射信号系」的な大脳の処理だけで、その連絡を「切断」する脳処理を、(ラカンによればエロスやファルスなどより先に)まず赤ん坊は覚える、ということだ。「裏ごっこ遊び」と言ったが、もっと平たく(すなわち方便としてすなわちわかりやすくかつわかりにくくして)言うならば、「人は愛や全体性より先に嘘を覚える」のである。この表現は、「自閉症は嘘をつけない」とされているが実際には嘘をつくあるアスペルガー症候群者に、わたしが言った言葉を手直ししたものである。彼らのつく「嘘」は定型発達者(ここでは神経症者と等値とみなしてよい)のそれと「愛」や「全体性」のあるなしという質の差異がある。ただし、だからと言って「自閉症は「父の名」が排除されていない」とは短絡しない。しかし精神病とはまったく別種の症状であることは間違いない。
話がそれた。少し整形しよう。
わたし自身が「狡猾さ」や「裏ごっこ遊び」や「嘘」などと「大人の印象論」に準じた表現をしてしまっているが、そういった「大人の印象論」を保留してほしいという意図でもある。このような「大人の印象論」を一旦保留にして、「父の名」とは、「代理不表象」とでも表現できるような、この世に生まれてきた赤ん坊が最初の方に覚える脳処理だ、とだけ考えてほしい。
こう考えれば、フロイトが提唱した「死の欲動とエロスの対立」は、あくまで「大人(神経症者)の印象論」によるものであり、エスの欲動はすべて「無数のばらばらな矢印」的な「部分欲動」だと設定し、それがどのような欲動になるかの問題だ、とすることも可能である。
とはいえ、わたし個人はフロイトの「死の欲動とエロスの対立」という主張を排除するつもりはない。「大人(神経症者)」に対する方便としては有効だと思うからだ。
しかし、あくまでエスについて印象論ではない論を立てるならば、クライン論に依拠すべきだとわたしは考えている。
自閉症を臨床してきた経験から言えば、フロイト論は物足りない。アナなどは論外。これに依拠すれば自閉症はただの「非定形な神経症」でしかなくなる。臨床において認められた神経症との差異を説明できない。自閉症研究を尊重しつつ精神分析理論とを接続するならば、まずクライン論に依拠した方がよいだろう。
また話がそれた。わたしは自閉症の臨床はしてきたが、この記事においては自閉症論は補助線にすぎない。
わたしが今解剖しているのは(フロイトをはじめとした)神経症者である。
たとえば、フロイトによれば、この「代理不表象」たる切断はすべて脅迫あるいは強迫によって行われることになる。脅迫あるいは強迫されて「見ざる、聞かざる、言わざる」となると。これは誤りである。それはあくまで神経症者のみに適用される論理であり、いまだ去勢を迎えていないこの赤ん坊にとっては違う。「無数のばらばらな矢印」である「部分欲動」と体の器官の連結だけだと、つまり妄想分裂態勢だけだと、非常にエネルギーを消耗するから、それを切断するのである。ばらばらなまま。
このときの赤ん坊が脅迫されているとするならば、己の妄想分裂態勢に脅迫されて、それを切断するのである。
夢日記じゃなくなりつつあるなー。夢の話に戻る(と試みる)。
もう少し、「死の欲動」ではなく「無数のばらばらな矢印」たる「部分欲動」と、「代理不表象」「無条件反射信号系としてはそのままに、それを条件反射信号系上で切断処理する」「父の名」の関係を見ていこう。
部分欲動も父の名もエロスやファルスより先にある。
赤ん坊は、「大人の印象論」における「愛」や「全体性」等のないまま、「代理不表象」、「無条件反射信号として繋がっている無数のばらばらな矢印を、無作為的に、条件反射信号系で切断処理」しているだろう。
これがおそらくクラインの抑鬱態勢に相当する。
クラインは妄想分裂態勢のあとに抑鬱態勢がくるとしているが、実際の脳神経処理に相当させるならば、これらは同時期に、神経学レベルの微細さで、交互に生じているだろう。
仮に、あくまで大人が観察する全体的な脳の反応として、この切断処理、「代理不表象」「無条件反射信号として以下略」が量的に多数生じるのが、抑鬱態勢だと考えればよい。
この切断処理はあくまで無作為的である。「この欲動は死の欲動だから」などと選別して切断しているわけではない。ここに「頭の中の小人」はいない。無数のばらばらな矢印と、それを別神経で切断処理する脳機能があるだけである。
ここでやっとエロスが登場する。
この時点でのエロスは、いまだ部分欲動的である。クラインは「乳房」に限定しているが、対象aの四つ組を考えられたい。
「無数のばらばらな矢印」のうち、のちに対象が(あくまでたとえば)「母」として統合される、部分欲動がいくつかある。
これらは条件反射の学習と同様に、(赤ん坊にしてみれば)強制的に反復される。
条件反射信号系上で切断処理する脳機能は、これらの欲動には適用されなくなるだろう。
機能的に考えれば、むしろ、それらの反復される信号系は、条件反射信号系でも成立させられるだろう。
ここでは、無条件反射信号系と、条件反射信号系が、同じある種の刺激に対して、同時に働いていることになる。
これがいわば「完全なるエロス」である。クライン論の主旨である「妄想分裂態勢と抑鬱態勢を愛によって乗り越える」わけである。
そして同時にこれがパラノイアである。大体の人間は、一度は一瞬だけでもパラノイアだったのである。
さらに、「大人(神経症者)の印象論」と連接しうる「不安」は、これを失う「不安」であるゆえ、この時点よりはじめて生ずるのである。
フロイトという典型的な強迫神経症者も「エロスを失う」不安を描いておろう。
=====
わたしたちが期待をかけることができるのは、「天上の二つの力」の一つである永遠なるエロスが、同じく不死の敵である死の欲動との闘いにおいて力を尽くしてくれることだけである。
=====
このフロイトの「不安」はエロスの誕生によりもたらされたものなのである。
ここからまた夢日記ではなくなるが。
この「完全なるエロス」状態、ネットスラングで言えば「ヘブン状態」な赤ん坊は、いまだ神経症に接続されてない。せいぜい幼児的な恐怖症どまりである。
欲動は、無条件反射信号系と条件反射信号系の二重の連絡によっているが、対象がいまだに「母という個」として統合されていない。いまだにそれは対象aのままである。当然である、内外の区別もついていないのだから、「対象」という観念自体が、この時の赤ん坊の主観世界には存在しない。
こっから雑でいい? 疲れた。
あれよ、ラカンの鏡像段階、シェーマLよ。
二重に連絡されたある種の刺激に対する神経経路は、パターン認識される。認知科学的な意味ではなく、自分の脳反応をパターン認識するのである。
このパターン認識を鏡と比喩したわけだな、ラカンは。
で、やっぱ雑なのでしょうがないが、ここから「個としての対象」になるには、もう一段階特殊な脳の機能変化が必要に思えてくんのね。
でやっぱファルスかなーと。
その処理上においては、二重に連絡されたある神経反応パターンと、それまでの「部分欲動」として残っている「無数のばらばらな矢印」を切断しなきゃなんない。混線してしまったらパターンではない。
ここでまた「代理不表象という脳機能」が再活用されるんだな。ここでは、条件反射信号系が、条件反射信号系を切断処理している。すでに学習済みのことだからこの辺の過程は一瞬だろう。この一瞬が「個」の誕生である。二度目の、精神的な人間としての誕生である。
これ以降は、パターン認識のため行われる「条件反射信号系による条件反射信号系の切断処理」が、逆に「抑圧」としても働くことになる。
「代理不表象という脳機能」が、「二重に連絡されたある種の刺激に対する神経経路のパターン認識」を切断することにもなる。
これがリビドーの抑圧になったりする。つかそうなったのが神経症と。
あれだ、ラカンの「ファルスとは現実の二乗だ」とかは、「「父の名」という脳処理の再活用」ってことじゃね。
さて、ここまで考えてくると、「「父の名」という脳処理の再活用」(最初の活用はともかく)は、生物工学的に考えれば、非常に非効率な、非機能的な脳処理だと思えてくる。
ファルスとは、死の欲動、いや部分欲動の観点から見直せば、実に非効率的で非機能的な脳作用なのだ。
この非効率、非機能さは、「ある種の刺激に対する神経経路が二重に連絡された」「完全なるエロス」「ヘブン状態」「二度目の個としての誕生」を、もう一度味わいたがっているゆえ生じるものである。
ここがおそらくフロイトも勘違いしている点であるが、進化論的な効率化と、人間が快楽原則に従うことは、重なる部分もあるが、基本的に別々の事柄なのである。
人間の快楽とは根本からして「惑い」「煩悩」なのである。フロイトは、「死の欲動」や「涅槃原則」などといった概念を思いついたにも関わらず、この誤謬を正そうとはしなかった。
この点において、わたしは、ヒトという種が長続きする種だとは思えないのである。
神経症は、いやファルスは、脳反応の個人上の発達の仕方として、環境に機能的に適応していく進化論に反しているのだ。
いやもちろん個別の生物には非機能さを残しているのもいる。ヒトの体内でも、たとえば虫垂などは、非機能的な器官ではあるが、まったく機能していないというわけではない。
しかし、フロイトが批判したように、宗教なるものは、わたしはここでフロイトと違って文化も含めるが、神経症を維持・拡大する方向にしか向かっていない。
まるで「虫垂を切るな」と言っているようなものである。
フロイトは、「神経症の治療」という立場に立った時点で、宗教(まあこれは本望なのかもしれないが)や文化と対立する立場になると気づくべきであったろう。
フロイトはツメが甘いのだ。
そこら辺やっぱまあ後発だからってのあるがラカン論の方が切れ味いいわ。虫垂切んのに。
切るならばっさりやったれよ、って思うわ。
「父の名」も微妙なんだよな、まあこれ「切れ」っつうことは「大脳切れ」ってことだしな。夢ではそっちに近かったけど。めんどくさくなった。
まあ大脳も虫垂と同じ一つの器官にすぎないわな。
まだ「父の名」以前にある「アガペー」たる「想像的父」とかぶちまけるクリステヴァの方が反論しづらいわ。「ああパラノイアか」って意味で。
なんつかこの辺わたしの脳内では龍樹一人勝ちなんだけど。人類って文化が発達するにつれバカになってってんじゃないの。特に西洋では。
自己保存の仕方が間違ってるんだよ、フロイトも神経症者も。保存すべきは「父」でも「エロス」でも「ファルス」でも「自我」でも「文化」でもなく、「エス」であり「部分欲動」だ。
「理性」の根源はそこにある。
「混沌さん、混沌さん、あなた顔がないじゃない。よし、私たちが顔を作ってあげよう」
穴をいくつも開けられた混沌さんは死んでしまいましたとさ。
わたしは楽観主義と言われることもあるし悲観主義と言われることもある。
重要なのは、多くの人にとって、何を楽観し何を悲観しているか、エロスを基準とすると逆である点であり、多くの場合はこの点について「俺とは違う」という意味で、「(俺は悲観主義だけどお前は)楽観主義だ」「(俺は楽観主義だけどお前は)悲観主義だ」と言われるのだろう。
わたしは、人類からエロスがなくならないであろうことについて、悲観している。
しかし、人類はエロスだけに支配されないであろうことについて、楽観している。
フロイトとまったく逆なのである。
こんなことを書くと、「エロスに過剰反応するお前には性的トラウマがあってうんぬん」とか言われそうだが、ちょっと冷静に考えてみそ。
わたしはフロイトを例に挙げて、「エロスを失う不安」を示したよな?
逆なんじゃねえの。多くの人間が、おそらくヒステリーも含め、「エロスを失う不安」に対し過剰反応してるんじゃねえの。
わたしとお前たちはそういった相対的な差異があるというだけ。
こういうのが「空である」ってことぢゃよ、フロイトくん。多分原理的なところを理解できてないんだと思う。「涅槃」とか背伸びしちゃめーよ。君が言うと自殺したゲイの役者思い出しちゃう。
長くなっけど大事なことなのでこっからコピペ。
=====
「愛」が足りないと思うならお前が愛されてないだけだ。「愛」を知っているせいで生じる不満だ。わたしは愛されているかどうかはわからない。しかし「愛」の形式は知っている。心ではよくわかってないが頭では常識程度にわかっている。いや常識以上だろう。何せ「精神分析は愛を学問できる唯一の学問」だから。
わたしはお前と違って、第三者視点で、評論家視点で、演出家視点で、他人事視点で、「愛」の形式として、「愛」もただの代理表象であるとして、量を測ることができる。難しく言ってるが、簡単に言ってあげようか? 「「恋」に恋している」って言葉あるよな? ガキを揶揄する目的で使われることが多い言葉。それと同じようなことだ。わたしは「「愛」に興味が向いている」。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
現代は、「愛」を知らない人間が、いわば情性欠如者が増えている、などという浅薄な言説をよく聞くが、そうではない。「愛」を知っている人間が、自身のパラノイアックな精神疾患症状をエスカレートさせたがゆえ、情性欠如者がより異常に見えているのである。
こちらは何も変わっていない。おそらく太古の昔から変わっていない。人との心的交流が希薄なのだから、社会からの心的影響は受けにくいだろう。少なくともお前らより。
変わったのはお前らだ。「愛」は全人類が知っているものだというお前らの妄想がエスカレートしたのだ。だからより「愛」を知らない人間が異常に見える。お前らは情性欠如者を排除したがる。
現代の魔女狩りは、ねちねちと、じわじわと、慢性的なやり方で、より手の込んだやり方で、より大勢の人間を共犯にして、行われている。
余談になるが、「キリスト教が行った昔の魔女狩り」と「ねちねちとした現代の魔女狩り」とを対比させると、昔のジャイアンがしていたような「ガキ大将がするイジメ」と現代の「陰湿なイジメ」という対比と相似するのもおもしろい。
そういう可能性も考慮してみろよ。
お前ら自身の心を振り返ってみろよ。
異常者は、どっちだ?
あ、一応言っておくが、「現代は「愛」が足りなくなっている」って言葉も、お前の主観世界では真実なんだと思うよ? そりゃーそうさ。「愛」に、「愛」を「愛」として認知する機能に、元々自分のうちに備わっている「愛」の根拠に、お前の「愛」に対する執着を加速させる根拠に、支配された人間から見れば、自然体で「愛」についてわかっていない人間は、より異常なものに見えるだろう。情性欠如者を観察する観察者が、「愛」に執着すればするほど、観察対象はより異常に見えてしまうだろう。「愛」を神とした宗教国家から見れば敵性民族に見えるだろう。だから、その観察者のレポートにある「現代は情性欠如的な傾向が加速している」という言葉は正しいんだよ。ここに何も矛盾はない。
=====
わかるう?
「一切が空」なのだよ。すべてが相対的なもので本質などない。
空観ってのはそういうお話。
いやまあ、クラインやクリステヴァが強調するように、「幼児にも性的な欲動がある」としたのは、精神分析いいとこついてると思うよ。
しかしその「性的な欲動」が大人のそれと一致するとは限らない。
確かに部分欲動は対象aを考えればわかるようにエロスに発達するものだ。
しかしだからと言って簡単に同一視してはならない。
クラインもクリステヴァもいいところ言っているんだが、やはり「母」だからか、最終的にこの同一視に負けてしまう。
エロスが勝ってしまう。
結局それは、「エロスを失う不安」に過剰におののく神経症者を量産するだけにならないか。神経症の治療とならないのではないか。
結局それは、「幼児も性的な欲動があるんだハァハァ」と興奮するロリコンオヤジと同じ心理でしかないのではないか。娘とテレパシー遊びをして興奮するオヤジと。
もう少し冷静に考えてみそ。
「大人の性的な欲動」と「幼児の性的は欲動」は、そんなに単純に同一視できるものか。
超自我によるエロスの抑圧・否認か、エロスをいまだ知らない未発達な欲動か。
この差異の臨床的な根拠として自閉症論は便利である。
「大人(去勢済み主体)の性的な欲動」で「幼児(未去勢者)の性的な欲動」を先取りしてはならない。
というわけで夢のブログ記事の抜粋。もちろんあとから書く夢日記みたいなものなのでいろいろ改変はされているだろう。
フロイトの「原父神話」ってラカンの「父の名」より迷走してるよなー。
でもフロイト自身が「原父に対する攻撃欲動を達成したかどうかの違いはない」とかしてるし。それはあくまで「攻撃欲動を受け持った超自我が内在されている」という前提がある場合においてであって、「女に超自我はない」とした「女」はどうなるよ、と。
つかほんっとこう、クラインとフロイトって相補的だよな。死の欲動を中心とすれば。
とか考えて思った。
「父の名」とは「代理非表象」である、と。「非」は「否」か、「不」でもいいか。「不」ぐらいが加減はいいかも。
どういうことかと言うと、まあ前記事の母性神話みたいなこと考えてたのね。
でもこの母性神は「父の名」はあると。そもそも「神経症の潜伏期」の象徴として考えているのだから、「神経症の潜伏期」は「父の名が排除」された精神病なわけではあるまい。
では母性神には、フロイトが「原父」で抉り出したような「父の名」があるはずだ、と。
ここで「原父」から若干定義をゆるめて「キリスト-ユダヤ教的な父性神(フロイトはユダヤ教を「父の宗教」だとしキリスト教を「息子の宗教」だとしたが、その「息子が父となった」と言っているので、同じ父性神とみなす。まあここらへんフロイトには空観の「父と子も空(相対的なもので本質はない)である。なんとなれば、父がいなければ子であらず、子がいなければ父ではないゆえに」とか説教してやればいいんじゃね、とか思うが)」と前記事の母性神の差異を書いておく。
母性神は死の欲動を全否定する性格を持つ。一方父性神は、フロイト自身が「超自我が攻撃欲動を受け持つ」としたように、ある一定の条件下において、死の欲動を許容する、という差異をここで設定しておく。
フロイトは、快楽原則からすればややこしい神に手を出しちゃったわけだ。「キリスト教には失われたユダヤ教の精神性の高さ」みたいに言ってるけど、そういう快楽原則と相対させた場合のややこしさなだけ。
ここで注意したいのは、「死の欲動はエロスと複合されることではじめて攻撃欲動として観察される、そうでなければわかりにくいものだ」という点。
父性神は、あくまでエロスとある条件下において死の欲動を許容した神なのであり、死の欲動を全否定する母性神と単純に対立させて、「死の欲動を象徴する神」としてはならない。そういった神なら多神教にはよくあるだろう、ハーデスやらペルセポネやらイザナミやら。余談だが、死の欲動を全否定する母性神(=エロス神)と単純に対立させたいならば、ユング派のノイマンの「グレートマザー/テリブルマザー」論の方が明るいだろう。
フロイトはあまりにもユダヤ人でありすぎるゆえ、宗教を比較文化論的に語れていないのだ。残念なことに(キリッ)。
たとえば、フロイトは多神教を「魔術的」だとしてほとんど論じていないが、快楽原則のほころびである死の欲動を一人の神に象徴して描いた宗教だとも言える。逆に言えば、フロイトが多神教を論じないのは、「魔術的だから」ではなく、自ら快楽原則のほころびである死の欲動を認めるのに多大な迂回を必要としたとしているのと同じく、それが「わかりにくい死の欲動の象徴が含まれていたから」なのではないだろうか。
ここで自重しておこう。「死の欲動を直接描いた宗教/死の欲動を全否定する母性神信仰/ある条件下で死の欲動を認める父性神信仰」という差異を、「多神教/母性神信仰/一神教」などというカテゴリに結びつけるべきではないとは思う。あくまで「方便」としてならよいが、「方便」はわかりやすくするためだが逆にわかりにくくもするということを理解しておかねばならない。
ここで重要なのは、あくまで、死の欲動について、単純に(稚拙に、と言い換えてもよい)それを象徴する一人の神を含め描いた多神教と比べ、一種の不合理的、非機能的な迂遠さで描いたのが、ユダヤ-キリスト教などの一神教である、という差異であり、それを認めておかなくてはならない。
あ、ごめん電話かかってきた。
「フロイトさん、あんた他の西洋文化がユダヤ教を羨ましがっているとか言ってたけど、あんた自身にその種の羨望があるんじゃないかね。もちろんそのまなざしはキリスト教などではなく、自分が疎い東洋の宗教に向けていたりするのかもしれないが。「涅槃原則」なんてネーミング素人っぽくてイイヨイイヨ。素人の粗さが味になってる」
とかこんなことごちゃごちゃ考えて「「父の名」とは「代理不表象」である」という文章が浮かんだんだな。
この「不」は全否定じゃない。「迂遠には表現している」のである。それこそラカン持ってくれば「隠喩として」と言ってもよい。
しかしフロイトの迂回を見ればわかるように、それはあくまで「攻撃欲動を受け持った超自我」があるという前提でなされる解釈である。つまりは「超自我のない女」には解釈できない隠喩なのである。神経症者にしか解釈できないのだ、その隠喩は。
逆に言えばこれは、ユダヤ-キリスト教が神経症者相手に特化した宗教だということでもあろう。さらに逆に、ユダヤ-キリスト教(のような「原父信仰」)が神経症を量産している、とも言え、これはフロイトの主張と一致する。
もう少しややこしい説明をつけ足しておく。
この、「代理不表象」が、死の欲動を否定あるいは抑圧あるいは否認あるいは排除している、というわけではない。
わたしが「不」としたのは空観の「八不」などからだと思われる。「空である」とは「相互依存かつ相互否定であること」であり、この「不」を西洋論理学的な「否定」と等値とみなしてはならない。空観の「不」は単純な否定ではないのである。あまりわたしはすとんとこない単語だが、龍樹研究における「破邪」と意味は近い。
あくまで「方便」として、すなわちわかりやすくかつわかりにくくして言うならば、「思ってるけど言わない」「本音と建前」のようなことである。「見ざる、聞かざる、言わざる」である。
こういったことは現代では「狡猾さ」のような印象を持たれるが、脳の処理の仕方として、(ラカンによれば)ファルスやエロスより先に、赤ん坊は覚えるのである。「狡猾さは愛に先んずる」などと茶化してもよいが、印象論は保留して、脳の処理の仕方として、そういった脳機能が芽生える、と考えてほしい。
この「不」が西洋論理学的な「否定」の意味に近くなるのは、エロスという「死の欲動の全否定」が生じたのちである。
これが、「赤ん坊が、「乳を欲しい」という快楽原則としての内部と、「欲しいけど与えてくれない」という現実原則としての外部とを覚える」となる。つまり、この代理不表象(なる脳機能である)「父の名」と、「エロス」の死の欲動の全否定(なる心理機制)が複合されて、自我にはあってエスにはない「自他の区別」を覚えるのである。
……あれ、終わっちゃった。夢の中の結論はまた別なのに。
なのでちょっと夢日記として迂回する。
あ、そうそう、自我の成立要件として、死の欲動を代理不表象する「父の名」と、死の欲動を全否定する「エロス」があるわけで、つまり逆に言えば、自我の成立後は、「父の名」と「エロス」は前提として論理的に要求されるわけ。この二つの前提により自我にリビドーを向けたり(すなわち自己愛)、他者にリビドーを向けたり(対象愛)すると。
さてここである疑問が浮かぶ。「代理不表象という脳機能が、死の欲動を選別するのはどうやるのだ?」と。ぶっちゃけ「頭の中の小人のまたその中の小人のまたその中の小人……」である。これはわたしは「然り」と考えるので、この疑問に取りあわなくてはならない。
んーとだなー。ぶっちゃけクライン論でいい?
欲動ってのは最初はすべて部分欲動なわけだ。口唇欲動とか肛門欲動とか。対象aの四つ組「声、まなざし、乳房、糞便」なんかは、そういった(のちに「母」という対象としての「個」に統合されるという意味で)代表的な四つの部分欲動なわけだ。
赤ん坊は二つや四つだけではない、たとえば「背中を叩く手」や「窓の光」や「カラスの鳴き声」などと「表象」されうる、無数の部分欲動があるのだ。大人の印象論で言えばそれに翻弄されている。数学的な印象論で言えば、無数のばらばらな方向のちっちゃな矢印を思い浮かべていればよい。
それがエスである。ここには「自他の区別」などない。「大洋的」かどうかは知らないが、流体における水分子の無方向さ(エントロピーの大きさ)を比喩していると考えれば納得いかなくもない。
またここには、死の欲動とエロスといった区別もない。それぞれの水分子が死の欲動になりうるしエロスになりうる。
むしろ、クラインのように、部分的であることが死の欲動の定義であるとすれば、「はじめには死の欲動しかない」となる。
ここで、「それを代理不表象にする」という脳機能が生じたとしよう。
この時点で矛盾する。なぜならば「表象」とは外部と内部が区別されていなければ成立しないからだ。
ここで「代理不表象」をもう少し厳密にして言い換えてみる。
「(部分)欲動と、体の(あくまで赤ん坊はそう思っていない、体表にあるか(目など)体内にあるか(腸など)の区別はない)諸器官の繋がりを、大脳的な脳処理によって切断する」
などとなるか。
ここで重要なのは、実際の欲動と諸器官の繋がりを直接断つのではなく、大脳的な脳処理によって断つことである。
この「切断」は、実際の神経学的な神経経路の繋がりとは別の、あくまで脳処理上の、こう言ってよければ「空想の切断」であるわけだ。「そこにないものをあるとする空想」が自閉症研究の文脈を引いた「ごっこ遊び」だとして、「父の名」とは、「そこにあるものをないとする」「裏ごっこ遊び」だ、などとも表現できる。
「実際の欲動と諸器官の繋がり」をもう少し詳しく、というかあくまで比喩的に述べるならば、神経生理学の研究を待たねばなるまいが、「脊髄や小脳と諸器官の神経連絡」「無条件反射信号系」などに相当するだろう。
「無条件反射信号系」なる神経経路はそのままに、「条件反射信号系」的な大脳の処理だけで、その連絡を「切断」する脳処理を、(ラカンによればエロスやファルスなどより先に)まず赤ん坊は覚える、ということだ。「裏ごっこ遊び」と言ったが、もっと平たく(すなわち方便としてすなわちわかりやすくかつわかりにくくして)言うならば、「人は愛や全体性より先に嘘を覚える」のである。この表現は、「自閉症は嘘をつけない」とされているが実際には嘘をつくあるアスペルガー症候群者に、わたしが言った言葉を手直ししたものである。彼らのつく「嘘」は定型発達者(ここでは神経症者と等値とみなしてよい)のそれと「愛」や「全体性」のあるなしという質の差異がある。ただし、だからと言って「自閉症は「父の名」が排除されていない」とは短絡しない。しかし精神病とはまったく別種の症状であることは間違いない。
話がそれた。少し整形しよう。
わたし自身が「狡猾さ」や「裏ごっこ遊び」や「嘘」などと「大人の印象論」に準じた表現をしてしまっているが、そういった「大人の印象論」を保留してほしいという意図でもある。このような「大人の印象論」を一旦保留にして、「父の名」とは、「代理不表象」とでも表現できるような、この世に生まれてきた赤ん坊が最初の方に覚える脳処理だ、とだけ考えてほしい。
こう考えれば、フロイトが提唱した「死の欲動とエロスの対立」は、あくまで「大人(神経症者)の印象論」によるものであり、エスの欲動はすべて「無数のばらばらな矢印」的な「部分欲動」だと設定し、それがどのような欲動になるかの問題だ、とすることも可能である。
とはいえ、わたし個人はフロイトの「死の欲動とエロスの対立」という主張を排除するつもりはない。「大人(神経症者)」に対する方便としては有効だと思うからだ。
しかし、あくまでエスについて印象論ではない論を立てるならば、クライン論に依拠すべきだとわたしは考えている。
自閉症を臨床してきた経験から言えば、フロイト論は物足りない。アナなどは論外。これに依拠すれば自閉症はただの「非定形な神経症」でしかなくなる。臨床において認められた神経症との差異を説明できない。自閉症研究を尊重しつつ精神分析理論とを接続するならば、まずクライン論に依拠した方がよいだろう。
また話がそれた。わたしは自閉症の臨床はしてきたが、この記事においては自閉症論は補助線にすぎない。
わたしが今解剖しているのは(フロイトをはじめとした)神経症者である。
たとえば、フロイトによれば、この「代理不表象」たる切断はすべて脅迫あるいは強迫によって行われることになる。脅迫あるいは強迫されて「見ざる、聞かざる、言わざる」となると。これは誤りである。それはあくまで神経症者のみに適用される論理であり、いまだ去勢を迎えていないこの赤ん坊にとっては違う。「無数のばらばらな矢印」である「部分欲動」と体の器官の連結だけだと、つまり妄想分裂態勢だけだと、非常にエネルギーを消耗するから、それを切断するのである。ばらばらなまま。
このときの赤ん坊が脅迫されているとするならば、己の妄想分裂態勢に脅迫されて、それを切断するのである。
夢日記じゃなくなりつつあるなー。夢の話に戻る(と試みる)。
もう少し、「死の欲動」ではなく「無数のばらばらな矢印」たる「部分欲動」と、「代理不表象」「無条件反射信号系としてはそのままに、それを条件反射信号系上で切断処理する」「父の名」の関係を見ていこう。
部分欲動も父の名もエロスやファルスより先にある。
赤ん坊は、「大人の印象論」における「愛」や「全体性」等のないまま、「代理不表象」、「無条件反射信号として繋がっている無数のばらばらな矢印を、無作為的に、条件反射信号系で切断処理」しているだろう。
これがおそらくクラインの抑鬱態勢に相当する。
クラインは妄想分裂態勢のあとに抑鬱態勢がくるとしているが、実際の脳神経処理に相当させるならば、これらは同時期に、神経学レベルの微細さで、交互に生じているだろう。
仮に、あくまで大人が観察する全体的な脳の反応として、この切断処理、「代理不表象」「無条件反射信号として以下略」が量的に多数生じるのが、抑鬱態勢だと考えればよい。
この切断処理はあくまで無作為的である。「この欲動は死の欲動だから」などと選別して切断しているわけではない。ここに「頭の中の小人」はいない。無数のばらばらな矢印と、それを別神経で切断処理する脳機能があるだけである。
ここでやっとエロスが登場する。
この時点でのエロスは、いまだ部分欲動的である。クラインは「乳房」に限定しているが、対象aの四つ組を考えられたい。
「無数のばらばらな矢印」のうち、のちに対象が(あくまでたとえば)「母」として統合される、部分欲動がいくつかある。
これらは条件反射の学習と同様に、(赤ん坊にしてみれば)強制的に反復される。
条件反射信号系上で切断処理する脳機能は、これらの欲動には適用されなくなるだろう。
機能的に考えれば、むしろ、それらの反復される信号系は、条件反射信号系でも成立させられるだろう。
ここでは、無条件反射信号系と、条件反射信号系が、同じある種の刺激に対して、同時に働いていることになる。
これがいわば「完全なるエロス」である。クライン論の主旨である「妄想分裂態勢と抑鬱態勢を愛によって乗り越える」わけである。
そして同時にこれがパラノイアである。大体の人間は、一度は一瞬だけでもパラノイアだったのである。
さらに、「大人(神経症者)の印象論」と連接しうる「不安」は、これを失う「不安」であるゆえ、この時点よりはじめて生ずるのである。
フロイトという典型的な強迫神経症者も「エロスを失う」不安を描いておろう。
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わたしたちが期待をかけることができるのは、「天上の二つの力」の一つである永遠なるエロスが、同じく不死の敵である死の欲動との闘いにおいて力を尽くしてくれることだけである。
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このフロイトの「不安」はエロスの誕生によりもたらされたものなのである。
ここからまた夢日記ではなくなるが。
この「完全なるエロス」状態、ネットスラングで言えば「ヘブン状態」な赤ん坊は、いまだ神経症に接続されてない。せいぜい幼児的な恐怖症どまりである。
欲動は、無条件反射信号系と条件反射信号系の二重の連絡によっているが、対象がいまだに「母という個」として統合されていない。いまだにそれは対象aのままである。当然である、内外の区別もついていないのだから、「対象」という観念自体が、この時の赤ん坊の主観世界には存在しない。
こっから雑でいい? 疲れた。
あれよ、ラカンの鏡像段階、シェーマLよ。
二重に連絡されたある種の刺激に対する神経経路は、パターン認識される。認知科学的な意味ではなく、自分の脳反応をパターン認識するのである。
このパターン認識を鏡と比喩したわけだな、ラカンは。
で、やっぱ雑なのでしょうがないが、ここから「個としての対象」になるには、もう一段階特殊な脳の機能変化が必要に思えてくんのね。
でやっぱファルスかなーと。
その処理上においては、二重に連絡されたある神経反応パターンと、それまでの「部分欲動」として残っている「無数のばらばらな矢印」を切断しなきゃなんない。混線してしまったらパターンではない。
ここでまた「代理不表象という脳機能」が再活用されるんだな。ここでは、条件反射信号系が、条件反射信号系を切断処理している。すでに学習済みのことだからこの辺の過程は一瞬だろう。この一瞬が「個」の誕生である。二度目の、精神的な人間としての誕生である。
これ以降は、パターン認識のため行われる「条件反射信号系による条件反射信号系の切断処理」が、逆に「抑圧」としても働くことになる。
「代理不表象という脳機能」が、「二重に連絡されたある種の刺激に対する神経経路のパターン認識」を切断することにもなる。
これがリビドーの抑圧になったりする。つかそうなったのが神経症と。
あれだ、ラカンの「ファルスとは現実の二乗だ」とかは、「「父の名」という脳処理の再活用」ってことじゃね。
さて、ここまで考えてくると、「「父の名」という脳処理の再活用」(最初の活用はともかく)は、生物工学的に考えれば、非常に非効率な、非機能的な脳処理だと思えてくる。
ファルスとは、死の欲動、いや部分欲動の観点から見直せば、実に非効率的で非機能的な脳作用なのだ。
この非効率、非機能さは、「ある種の刺激に対する神経経路が二重に連絡された」「完全なるエロス」「ヘブン状態」「二度目の個としての誕生」を、もう一度味わいたがっているゆえ生じるものである。
ここがおそらくフロイトも勘違いしている点であるが、進化論的な効率化と、人間が快楽原則に従うことは、重なる部分もあるが、基本的に別々の事柄なのである。
人間の快楽とは根本からして「惑い」「煩悩」なのである。フロイトは、「死の欲動」や「涅槃原則」などといった概念を思いついたにも関わらず、この誤謬を正そうとはしなかった。
この点において、わたしは、ヒトという種が長続きする種だとは思えないのである。
神経症は、いやファルスは、脳反応の個人上の発達の仕方として、環境に機能的に適応していく進化論に反しているのだ。
いやもちろん個別の生物には非機能さを残しているのもいる。ヒトの体内でも、たとえば虫垂などは、非機能的な器官ではあるが、まったく機能していないというわけではない。
しかし、フロイトが批判したように、宗教なるものは、わたしはここでフロイトと違って文化も含めるが、神経症を維持・拡大する方向にしか向かっていない。
まるで「虫垂を切るな」と言っているようなものである。
フロイトは、「神経症の治療」という立場に立った時点で、宗教(まあこれは本望なのかもしれないが)や文化と対立する立場になると気づくべきであったろう。
フロイトはツメが甘いのだ。
そこら辺やっぱまあ後発だからってのあるがラカン論の方が切れ味いいわ。虫垂切んのに。
切るならばっさりやったれよ、って思うわ。
「父の名」も微妙なんだよな、まあこれ「切れ」っつうことは「大脳切れ」ってことだしな。夢ではそっちに近かったけど。めんどくさくなった。
まあ大脳も虫垂と同じ一つの器官にすぎないわな。
まだ「父の名」以前にある「アガペー」たる「想像的父」とかぶちまけるクリステヴァの方が反論しづらいわ。「ああパラノイアか」って意味で。
なんつかこの辺わたしの脳内では龍樹一人勝ちなんだけど。人類って文化が発達するにつれバカになってってんじゃないの。特に西洋では。
自己保存の仕方が間違ってるんだよ、フロイトも神経症者も。保存すべきは「父」でも「エロス」でも「ファルス」でも「自我」でも「文化」でもなく、「エス」であり「部分欲動」だ。
「理性」の根源はそこにある。
「混沌さん、混沌さん、あなた顔がないじゃない。よし、私たちが顔を作ってあげよう」
穴をいくつも開けられた混沌さんは死んでしまいましたとさ。
わたしは楽観主義と言われることもあるし悲観主義と言われることもある。
重要なのは、多くの人にとって、何を楽観し何を悲観しているか、エロスを基準とすると逆である点であり、多くの場合はこの点について「俺とは違う」という意味で、「(俺は悲観主義だけどお前は)楽観主義だ」「(俺は楽観主義だけどお前は)悲観主義だ」と言われるのだろう。
わたしは、人類からエロスがなくならないであろうことについて、悲観している。
しかし、人類はエロスだけに支配されないであろうことについて、楽観している。
フロイトとまったく逆なのである。
こんなことを書くと、「エロスに過剰反応するお前には性的トラウマがあってうんぬん」とか言われそうだが、ちょっと冷静に考えてみそ。
わたしはフロイトを例に挙げて、「エロスを失う不安」を示したよな?
逆なんじゃねえの。多くの人間が、おそらくヒステリーも含め、「エロスを失う不安」に対し過剰反応してるんじゃねえの。
わたしとお前たちはそういった相対的な差異があるというだけ。
こういうのが「空である」ってことぢゃよ、フロイトくん。多分原理的なところを理解できてないんだと思う。「涅槃」とか背伸びしちゃめーよ。君が言うと自殺したゲイの役者思い出しちゃう。
長くなっけど大事なことなのでこっからコピペ。
=====
「愛」が足りないと思うならお前が愛されてないだけだ。「愛」を知っているせいで生じる不満だ。わたしは愛されているかどうかはわからない。しかし「愛」の形式は知っている。心ではよくわかってないが頭では常識程度にわかっている。いや常識以上だろう。何せ「精神分析は愛を学問できる唯一の学問」だから。
わたしはお前と違って、第三者視点で、評論家視点で、演出家視点で、他人事視点で、「愛」の形式として、「愛」もただの代理表象であるとして、量を測ることができる。難しく言ってるが、簡単に言ってあげようか? 「「恋」に恋している」って言葉あるよな? ガキを揶揄する目的で使われることが多い言葉。それと同じようなことだ。わたしは「「愛」に興味が向いている」。
あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ。
現代は、「愛」を知らない人間が、いわば情性欠如者が増えている、などという浅薄な言説をよく聞くが、そうではない。「愛」を知っている人間が、自身のパラノイアックな精神疾患症状をエスカレートさせたがゆえ、情性欠如者がより異常に見えているのである。
こちらは何も変わっていない。おそらく太古の昔から変わっていない。人との心的交流が希薄なのだから、社会からの心的影響は受けにくいだろう。少なくともお前らより。
変わったのはお前らだ。「愛」は全人類が知っているものだというお前らの妄想がエスカレートしたのだ。だからより「愛」を知らない人間が異常に見える。お前らは情性欠如者を排除したがる。
現代の魔女狩りは、ねちねちと、じわじわと、慢性的なやり方で、より手の込んだやり方で、より大勢の人間を共犯にして、行われている。
余談になるが、「キリスト教が行った昔の魔女狩り」と「ねちねちとした現代の魔女狩り」とを対比させると、昔のジャイアンがしていたような「ガキ大将がするイジメ」と現代の「陰湿なイジメ」という対比と相似するのもおもしろい。
そういう可能性も考慮してみろよ。
お前ら自身の心を振り返ってみろよ。
異常者は、どっちだ?
あ、一応言っておくが、「現代は「愛」が足りなくなっている」って言葉も、お前の主観世界では真実なんだと思うよ? そりゃーそうさ。「愛」に、「愛」を「愛」として認知する機能に、元々自分のうちに備わっている「愛」の根拠に、お前の「愛」に対する執着を加速させる根拠に、支配された人間から見れば、自然体で「愛」についてわかっていない人間は、より異常なものに見えるだろう。情性欠如者を観察する観察者が、「愛」に執着すればするほど、観察対象はより異常に見えてしまうだろう。「愛」を神とした宗教国家から見れば敵性民族に見えるだろう。だから、その観察者のレポートにある「現代は情性欠如的な傾向が加速している」という言葉は正しいんだよ。ここに何も矛盾はない。
=====
わかるう?
「一切が空」なのだよ。すべてが相対的なもので本質などない。
空観ってのはそういうお話。
いやまあ、クラインやクリステヴァが強調するように、「幼児にも性的な欲動がある」としたのは、精神分析いいとこついてると思うよ。
しかしその「性的な欲動」が大人のそれと一致するとは限らない。
確かに部分欲動は対象aを考えればわかるようにエロスに発達するものだ。
しかしだからと言って簡単に同一視してはならない。
クラインもクリステヴァもいいところ言っているんだが、やはり「母」だからか、最終的にこの同一視に負けてしまう。
エロスが勝ってしまう。
結局それは、「エロスを失う不安」に過剰におののく神経症者を量産するだけにならないか。神経症の治療とならないのではないか。
結局それは、「幼児も性的な欲動があるんだハァハァ」と興奮するロリコンオヤジと同じ心理でしかないのではないか。娘とテレパシー遊びをして興奮するオヤジと。
もう少し冷静に考えてみそ。
「大人の性的な欲動」と「幼児の性的は欲動」は、そんなに単純に同一視できるものか。
超自我によるエロスの抑圧・否認か、エロスをいまだ知らない未発達な欲動か。
この差異の臨床的な根拠として自閉症論は便利である。
「大人(去勢済み主体)の性的な欲動」で「幼児(未去勢者)の性的な欲動」を先取りしてはならない。
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