「欲望」だけではなく「欲望の抑圧」も「煩悩」である。
2012/05/26/Sat
結局さー、フロイト自身が神経症だから、「神経症の治療」をしきれない、ってだけの話なんじゃねえの。最期の論文とかもさ。
結局結論は自己防衛になる。神経症擁護論になる。原父信仰部族に舞い戻る。
ぶっちゃけマッチポンプかと。
フロイトはそうしたが、ポンプしなきゃいいんだよ、せっかく火をつけたんだから。
神経症を焼き尽くせばよい。
「抑圧」とは他者がいないと成立しない。精神分析理論ではそうだ。誰かに脅迫・強迫されて欲望が「抑圧」される。
しかしそれは、その誰かという他者が「抑圧したい」という意図を読んでそれを主体が欲望しているのである。
つまりは「抑圧」も「他者の欲望である欲望」なのである。
「抑圧する他者」に「父」をおいたことが、フロイトのマッチだ。
それを消してはならない。
その「抑圧」とは「父の攻撃欲」を主体が欲望する「他者の欲望である欲望」なのである。
「父の抑圧」も「父への欲望」も欲望なのである。
もちろん精神分析文脈をはずし字義通りに読むだけなら「父の抑圧」はそうではないとなるが。その主体によってはただの「他人から受ける脅迫」である場合もあるだろう。
この違いを確認するために、主体の抑圧された幻想を吐露させる自由連想が必要なのである。
自由連想において、「父の抑圧」に「他者の欲望である欲望」が見られれば、それは精神分析文脈における「父の抑圧」、すなわちエディプスコンプレックスだとなるだろう。
ここではじめて神経症だと認められるのだ。
「父にぶたれる幻想」などまさにそのまんま。
ここで肝心なのは、自由連想とは、物理実験などと同様に、そこに欲望が見られるかどうかという観察のためであり、分析主体を操作するためのものではない、ということだ。
治療という目的を付加するなら、わたしは何も言えない。わたしは治療と臨床は別物だとし、別に治療を目的としていない。「どうすれば治療できるか」など治療したい者たちで議論すればよい。その結果、たとえば「クライエントに欲望を植えつけるのが治療になる」や「クライエントをエディプスコンプレックスにさせるのが治療になる」となればそうすればよい。当然そこには「それは自分(分析家)の「他者の欲望である欲望」を反映しているのではなく、本当にクライエントの治療のためか」という確認作業は常に含まれているとして。
わたしはただ、精神分析の臨床と理論も、物理が観測実験をもとに理論を構築するのと同様のことだと考えているだけ。
さらにその理論をもとにどう治療するかなどは、いわば応用科学であり、わたしは応用科学をやっているつもりはない。
もちろんこの「抑圧という欲望」は、快楽原則からすると不合理である。
つまりエロスにそぐわない欲望ではある。この欲望は「エロスの抑圧」である。
確かにそうだと思う。
平たく言えば「ホモソーシャルのホモフォビア」である。
「父にぶたれる幻想」も「ホモソーシャルのホモフォビア」も神経症の症状である。
この症状は確かに死の欲動を裏に隠した欲望だと言えるだろう。
しかしその原理は欲望なのである。
エロスを原理にしているゆえ、エロスを抑圧するだけなのだ。
抑圧は神経症を治療できない。抑圧は逆に神経症を生む。これはフロイトが精神分析を起こした時点からの論点である。
それは抑圧であると同時に欲望だからである。
あれだ、「エキゾチック大好きー」な西洋人向けに仏教的に言えば、「欲望」だけではなく「欲望の抑圧」も「煩悩」なのだよ。
こうやって人間は自分を煩わせ悩ます病理に辿り着けず、それに煩わされ悩まされ続けるのである。対症療法でしか対応できない。「神経症の潜伏期」にさせるしかできない。
こうやって人間は神経症であり続ける。
結局結論は自己防衛になる。神経症擁護論になる。原父信仰部族に舞い戻る。
ぶっちゃけマッチポンプかと。
フロイトはそうしたが、ポンプしなきゃいいんだよ、せっかく火をつけたんだから。
神経症を焼き尽くせばよい。
「抑圧」とは他者がいないと成立しない。精神分析理論ではそうだ。誰かに脅迫・強迫されて欲望が「抑圧」される。
しかしそれは、その誰かという他者が「抑圧したい」という意図を読んでそれを主体が欲望しているのである。
つまりは「抑圧」も「他者の欲望である欲望」なのである。
「抑圧する他者」に「父」をおいたことが、フロイトのマッチだ。
それを消してはならない。
その「抑圧」とは「父の攻撃欲」を主体が欲望する「他者の欲望である欲望」なのである。
「父の抑圧」も「父への欲望」も欲望なのである。
もちろん精神分析文脈をはずし字義通りに読むだけなら「父の抑圧」はそうではないとなるが。その主体によってはただの「他人から受ける脅迫」である場合もあるだろう。
この違いを確認するために、主体の抑圧された幻想を吐露させる自由連想が必要なのである。
自由連想において、「父の抑圧」に「他者の欲望である欲望」が見られれば、それは精神分析文脈における「父の抑圧」、すなわちエディプスコンプレックスだとなるだろう。
ここではじめて神経症だと認められるのだ。
「父にぶたれる幻想」などまさにそのまんま。
ここで肝心なのは、自由連想とは、物理実験などと同様に、そこに欲望が見られるかどうかという観察のためであり、分析主体を操作するためのものではない、ということだ。
治療という目的を付加するなら、わたしは何も言えない。わたしは治療と臨床は別物だとし、別に治療を目的としていない。「どうすれば治療できるか」など治療したい者たちで議論すればよい。その結果、たとえば「クライエントに欲望を植えつけるのが治療になる」や「クライエントをエディプスコンプレックスにさせるのが治療になる」となればそうすればよい。当然そこには「それは自分(分析家)の「他者の欲望である欲望」を反映しているのではなく、本当にクライエントの治療のためか」という確認作業は常に含まれているとして。
わたしはただ、精神分析の臨床と理論も、物理が観測実験をもとに理論を構築するのと同様のことだと考えているだけ。
さらにその理論をもとにどう治療するかなどは、いわば応用科学であり、わたしは応用科学をやっているつもりはない。
もちろんこの「抑圧という欲望」は、快楽原則からすると不合理である。
つまりエロスにそぐわない欲望ではある。この欲望は「エロスの抑圧」である。
確かにそうだと思う。
平たく言えば「ホモソーシャルのホモフォビア」である。
「父にぶたれる幻想」も「ホモソーシャルのホモフォビア」も神経症の症状である。
この症状は確かに死の欲動を裏に隠した欲望だと言えるだろう。
しかしその原理は欲望なのである。
エロスを原理にしているゆえ、エロスを抑圧するだけなのだ。
抑圧は神経症を治療できない。抑圧は逆に神経症を生む。これはフロイトが精神分析を起こした時点からの論点である。
それは抑圧であると同時に欲望だからである。
あれだ、「エキゾチック大好きー」な西洋人向けに仏教的に言えば、「欲望」だけではなく「欲望の抑圧」も「煩悩」なのだよ。
こうやって人間は自分を煩わせ悩ます病理に辿り着けず、それに煩わされ悩まされ続けるのである。対症療法でしか対応できない。「神経症の潜伏期」にさせるしかできない。
こうやって人間は神経症であり続ける。
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