うんこの工場
2012/05/27/Sun
夢の話。
母が認知症みたいになっていて、うんこ漏らしながら部屋の中を歩いている。
わたしはそれを片づける。犬の世話みたいだと思う。
しかしそれはわたしのうんこかもしれない。
わたしはわたしのうんこを片づけているだけ。
母はどこにいるのだろう、と思う。うんこ漏らしすぎてうんこの一部にしまったのではないかと。大腸菌なんかは母の一部であろう。わたしの一部であろう。
父親が出てこない、と夢の中で思った。夢だと気づいている部分もあるので、登場させようと父を探すが、スーパーマーケットの裏側のような、商品が溢れ返り、全自動でお惣菜を作っている工場みたいなところに出てしまう。
非常に興味深い。この肉もその動物の一部なら、たとえば母を食材にした母乳工場みたいなのもできるだろう。母はそこでは乳牛でしかない。
かえるが大量に湧いている。うんこに卵を産みつけられたのかもしれない。しかしかえるも食材になりえる。わたしの口からかえるが飛び出る。
わたしがベルトコンベアーに載っている。衛生管理はなっていないみたいだ。工場というより酪農家。
乳牛が得体のしれない何かを産んでいた。
わたしが母を産みつつ、母がわたしを産みつつあった。
しかし産まれてくるものは死んでいる。生きているけど。
以下は夢ではないが、この感覚は重要だと思ったので、事後の説明として行う。
テレビでインドのお腹から何本かの手や足やお尻が生えている子の話をしていた。一種の奇形児である。シャムの双生児とはまた少し違うらしい。受精卵からの細胞分裂と個体形成の過程に異常があったとされているそうだ。
お腹から生えている手や足とは神経が繋がってないらしい。したがってその少年はお腹から生えている手や足を動かすことはできないし、それ自体が動くこともない。それに触られても何も感じないと言う。
しかし栄養は吸収して、少年の体とともに大きくなっていく。
わたしが産みつつわたしとして産まれつつあるのは、この神経の通っていない手や足のようなものだ。
わたしが母を産みつつ母がわたしを産みつつあるのに、わたしと母は神経が繋がっていない。母あるいはわたしはわたしあるいは母を思い通り動かすことはできないし、わたしあるいは母が触られても母あるいはわたしは何も感じない。
産みつつあるわたしか母はまるで衛生管理のなっていない工場で、そこで加工される食材が産まれつつあるわたしか母である。
うんこが生産ラインに載っている。機械により加工は施されているようだが、でも出てくるうんこは何も加工されているようには見えない。
このときの感覚をあえて言語化すれば、「出ていってくれ」である。
そしてあまりにもあざとくて言語化する気にもなれないが、工場の中には電光掲示板のようなものがびっしりとならんでおり、わたしの知らない言語が多数流れていたが、おそらく仏教の経典のようなものかと思ってしまった。
この言語は自動生成される。プログラマーはいない。いるとしたら、わたしと同様な、インドの少年の腹から生えている手や足だろう。
労働者のわたしは電源スイッチを探す。工場システムを保存したままシステム稼動を止めるスイッチ。だけど見つからない。
破壊すればいいのだろうが、そんな力はわたしにはない。工具は持っている。なので破壊ではなく解体作業となる。
モーターを止められないならモーターと歯車を分解すればよいのである。
もちろんここら辺の文章は後づけである。
インドの少年は分離手術を受けたが、切り離されてホルマリン漬けにされているか廃棄処理されたか知らないが腹から生えていた手や足の方が、本望だったのではないだろうか。
「親殺し」? 全然殺せてねえって、精神分析村は。
母が認知症みたいになっていて、うんこ漏らしながら部屋の中を歩いている。
わたしはそれを片づける。犬の世話みたいだと思う。
しかしそれはわたしのうんこかもしれない。
わたしはわたしのうんこを片づけているだけ。
母はどこにいるのだろう、と思う。うんこ漏らしすぎてうんこの一部にしまったのではないかと。大腸菌なんかは母の一部であろう。わたしの一部であろう。
父親が出てこない、と夢の中で思った。夢だと気づいている部分もあるので、登場させようと父を探すが、スーパーマーケットの裏側のような、商品が溢れ返り、全自動でお惣菜を作っている工場みたいなところに出てしまう。
非常に興味深い。この肉もその動物の一部なら、たとえば母を食材にした母乳工場みたいなのもできるだろう。母はそこでは乳牛でしかない。
かえるが大量に湧いている。うんこに卵を産みつけられたのかもしれない。しかしかえるも食材になりえる。わたしの口からかえるが飛び出る。
わたしがベルトコンベアーに載っている。衛生管理はなっていないみたいだ。工場というより酪農家。
乳牛が得体のしれない何かを産んでいた。
わたしが母を産みつつ、母がわたしを産みつつあった。
しかし産まれてくるものは死んでいる。生きているけど。
以下は夢ではないが、この感覚は重要だと思ったので、事後の説明として行う。
テレビでインドのお腹から何本かの手や足やお尻が生えている子の話をしていた。一種の奇形児である。シャムの双生児とはまた少し違うらしい。受精卵からの細胞分裂と個体形成の過程に異常があったとされているそうだ。
お腹から生えている手や足とは神経が繋がってないらしい。したがってその少年はお腹から生えている手や足を動かすことはできないし、それ自体が動くこともない。それに触られても何も感じないと言う。
しかし栄養は吸収して、少年の体とともに大きくなっていく。
わたしが産みつつわたしとして産まれつつあるのは、この神経の通っていない手や足のようなものだ。
わたしが母を産みつつ母がわたしを産みつつあるのに、わたしと母は神経が繋がっていない。母あるいはわたしはわたしあるいは母を思い通り動かすことはできないし、わたしあるいは母が触られても母あるいはわたしは何も感じない。
産みつつあるわたしか母はまるで衛生管理のなっていない工場で、そこで加工される食材が産まれつつあるわたしか母である。
うんこが生産ラインに載っている。機械により加工は施されているようだが、でも出てくるうんこは何も加工されているようには見えない。
このときの感覚をあえて言語化すれば、「出ていってくれ」である。
そしてあまりにもあざとくて言語化する気にもなれないが、工場の中には電光掲示板のようなものがびっしりとならんでおり、わたしの知らない言語が多数流れていたが、おそらく仏教の経典のようなものかと思ってしまった。
この言語は自動生成される。プログラマーはいない。いるとしたら、わたしと同様な、インドの少年の腹から生えている手や足だろう。
労働者のわたしは電源スイッチを探す。工場システムを保存したままシステム稼動を止めるスイッチ。だけど見つからない。
破壊すればいいのだろうが、そんな力はわたしにはない。工具は持っている。なので破壊ではなく解体作業となる。
モーターを止められないならモーターと歯車を分解すればよいのである。
もちろんここら辺の文章は後づけである。
インドの少年は分離手術を受けたが、切り離されてホルマリン漬けにされているか廃棄処理されたか知らないが腹から生えていた手や足の方が、本望だったのではないだろうか。
「親殺し」? 全然殺せてねえって、精神分析村は。
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