「弛緩」と「緊張」
2012/05/28/Mon
溶ける。
2ちゃんの話。雑談していたらこんなレスが書かれた。
「空気が緊張しているな」
わたしはそうは思わなかったが、彼はそう思ったのだろう、ぐらいだったのだが。
わたしにしては「いつもの2ちゃん」であった。殺伐としていた。ちょっとカオスになりかけてた、ぐらいか。
それを彼が「空気が緊張している」と述べたのかもしれない。
そう考えるとあるおもしろい論が浮かんだ。
フロイトは文化を「目標が制止されたエロスによってつながっている」と表現した。
そしてその「エロスのつながり」が希薄化することを「弛緩」と呼んだ。この記事など参照できるか。
であれば、「殺伐としていた」空気とは、「エロスのつながりが弛緩していた」状態だとなろう。
それを彼は「緊張」と呼んだ、と解釈できる。
言葉の意味が逆転しているのだ。
この推論を採用するならば、彼が「緊張」と述べたのはフロイトがまさに述べたこの文章の通りの「不安」だったということになる。
=====
パニックのさいの不安は、集団のリビドー的な構造の弛緩を前提とするものであって、その弛緩にたいする当然の反応であり、けっしてその逆ではない。
=====
彼が「緊張」としていたのは「空気」であり、人間のある集団の状態を示していると言える。したがって彼は「集団パニックの不安」と同様の「不安」を抱えていた、と推測できる。
要するにこの記事で述べた「エロスを失うかもしれない不安」である。「不安によりエロスを失う」のではないのだ。このあとのフロイトの文章を読めばわかる通り。
=====
つまり、集団のリビドー的な結合が危険にたいする不安のために消滅してしまうわけではない。
=====
この「不安」はあくまでエロスを前提とし、それが弛緩したことによって、それを「失うかもしれない」と思うことによって生じる「不安」なのである。
この「エロスを失うかもしれない不安」とはまったく不合理な不安なのである。この記事から。
=====
これはまったく不合理的な不安である。それは己の脳内に生じた過去のある脳反応であり、成長した自分の脳がそれを味わいにくくしているだけである。過去の脳反応を「失う」など、過去にタイムスリップでもしてそうした脳反応をしないようにするしかない。
=====
いわばその「不安」とはその主体の一人相撲であるのだ。
しかし人間は快楽原則に則っているわけではない、フロイト自身が死の欲動を認めたように。
であれば「エロスのつながりが緊張した状態」を嫌がる反応だってありうるだろう。
そういった人からすれば、「エロスのつながりが緊張した状態」より「エロスのつながりが弛緩した状態」の方が楽かもしれない。
先述の2ちゃんの話ならば、わたしがそうだったのだろう。わたしは2ちゃんの殺伐さがよくて2ちゃんにいる。飲み屋もわりと殺伐としている方が好みである。
その方が楽なのだ。日常の「気遣い」を強制される「エロスのつながりが緊張した状態」などより。
わたしが「人間津波」と表現したことこそ、ヒトという動物の集団傾向としての「エロスのつながりが緊張した状態」である。
現代人はむしろ「エロスのつながりが弛緩した状態」に対し耐性がなくなっているのではないか。神経症者たちの自分勝手で不合理な「不安」や「緊張」から防衛するために「エロスのつながりが弛緩した」場所をなくしていっているのではないか。それに耐えられない人たちが2ちゃんのような殺伐とした「エロスのつながりが弛緩した」場所に群がったのではないだろうか。
そこに原父信仰などあてはめられない。2ちゃんはユダヤ‐キリスト教信者たちと同様の心理で「殺伐としている」と言えるだろうか。
2ちゃんに対する批判の多くは、この「エロスが弛緩することによる不安」からくる神経症症状なのではないだろうか。
それは現代精神医学では健常者でもありうる神経症者たちの、自分勝手で不合理な精神疾患症状、集団心理異常なのである。
そんなものにつきあう必要はない。
死の欲動とは、神経症者たちがそれに対し過剰反応しているだけで、実際はもっと日常に散見される心理原理なのではないだろうか。
「人間は動物とは違う」とは人間が言っているだけで、現実は人間も動物なのである。
しかし人間は動物ではなくなってしまった。この記事から。
=====
ここがおそらくフロイトも勘違いしている点であるが、進化論的な効率化と、人間が快楽原則に従うことは、重なる部分もあるが、基本的に別々の事柄なのである。
=====
もし人間に原罪があるとすれば、自然の理と一致しない快楽を作り出したことが、そうなのではないだろうか。
まあ、そんな話。
2ちゃんの話。雑談していたらこんなレスが書かれた。
「空気が緊張しているな」
わたしはそうは思わなかったが、彼はそう思ったのだろう、ぐらいだったのだが。
わたしにしては「いつもの2ちゃん」であった。殺伐としていた。ちょっとカオスになりかけてた、ぐらいか。
それを彼が「空気が緊張している」と述べたのかもしれない。
そう考えるとあるおもしろい論が浮かんだ。
フロイトは文化を「目標が制止されたエロスによってつながっている」と表現した。
そしてその「エロスのつながり」が希薄化することを「弛緩」と呼んだ。この記事など参照できるか。
であれば、「殺伐としていた」空気とは、「エロスのつながりが弛緩していた」状態だとなろう。
それを彼は「緊張」と呼んだ、と解釈できる。
言葉の意味が逆転しているのだ。
この推論を採用するならば、彼が「緊張」と述べたのはフロイトがまさに述べたこの文章の通りの「不安」だったということになる。
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パニックのさいの不安は、集団のリビドー的な構造の弛緩を前提とするものであって、その弛緩にたいする当然の反応であり、けっしてその逆ではない。
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彼が「緊張」としていたのは「空気」であり、人間のある集団の状態を示していると言える。したがって彼は「集団パニックの不安」と同様の「不安」を抱えていた、と推測できる。
要するにこの記事で述べた「エロスを失うかもしれない不安」である。「不安によりエロスを失う」のではないのだ。このあとのフロイトの文章を読めばわかる通り。
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つまり、集団のリビドー的な結合が危険にたいする不安のために消滅してしまうわけではない。
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この「不安」はあくまでエロスを前提とし、それが弛緩したことによって、それを「失うかもしれない」と思うことによって生じる「不安」なのである。
この「エロスを失うかもしれない不安」とはまったく不合理な不安なのである。この記事から。
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これはまったく不合理的な不安である。それは己の脳内に生じた過去のある脳反応であり、成長した自分の脳がそれを味わいにくくしているだけである。過去の脳反応を「失う」など、過去にタイムスリップでもしてそうした脳反応をしないようにするしかない。
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いわばその「不安」とはその主体の一人相撲であるのだ。
しかし人間は快楽原則に則っているわけではない、フロイト自身が死の欲動を認めたように。
であれば「エロスのつながりが緊張した状態」を嫌がる反応だってありうるだろう。
そういった人からすれば、「エロスのつながりが緊張した状態」より「エロスのつながりが弛緩した状態」の方が楽かもしれない。
先述の2ちゃんの話ならば、わたしがそうだったのだろう。わたしは2ちゃんの殺伐さがよくて2ちゃんにいる。飲み屋もわりと殺伐としている方が好みである。
その方が楽なのだ。日常の「気遣い」を強制される「エロスのつながりが緊張した状態」などより。
わたしが「人間津波」と表現したことこそ、ヒトという動物の集団傾向としての「エロスのつながりが緊張した状態」である。
現代人はむしろ「エロスのつながりが弛緩した状態」に対し耐性がなくなっているのではないか。神経症者たちの自分勝手で不合理な「不安」や「緊張」から防衛するために「エロスのつながりが弛緩した」場所をなくしていっているのではないか。それに耐えられない人たちが2ちゃんのような殺伐とした「エロスのつながりが弛緩した」場所に群がったのではないだろうか。
そこに原父信仰などあてはめられない。2ちゃんはユダヤ‐キリスト教信者たちと同様の心理で「殺伐としている」と言えるだろうか。
2ちゃんに対する批判の多くは、この「エロスが弛緩することによる不安」からくる神経症症状なのではないだろうか。
それは現代精神医学では健常者でもありうる神経症者たちの、自分勝手で不合理な精神疾患症状、集団心理異常なのである。
そんなものにつきあう必要はない。
死の欲動とは、神経症者たちがそれに対し過剰反応しているだけで、実際はもっと日常に散見される心理原理なのではないだろうか。
「人間は動物とは違う」とは人間が言っているだけで、現実は人間も動物なのである。
しかし人間は動物ではなくなってしまった。この記事から。
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ここがおそらくフロイトも勘違いしている点であるが、進化論的な効率化と、人間が快楽原則に従うことは、重なる部分もあるが、基本的に別々の事柄なのである。
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もし人間に原罪があるとすれば、自然の理と一致しない快楽を作り出したことが、そうなのではないだろうか。
まあ、そんな話。
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