そうだよ、わたしはお前を殺せるんだよ。
2012/06/12/Tue
前記事で思い出したんだが、わたしんとこの小学校の頃夏休み前とか「野犬に襲われるから山には来るな」みたいなこと言われてたとか書いたけど、わたし自身野良犬に襲われたことあるんだな。背中に今でも傷が残っている。
でもちろんすげー子供の頃だから記憶は改竄されてるんだろうけど、わたしの記憶では群れに襲われてたんだな。
でもなー。まあそのときの記憶なんてまったくないし、わたしを助けてくれた警官とかに、その事件のしばらく経ってから祖父に紹介してもらったけど全然覚えなかったりしたんだな(今思い出した)。
ただ、夢として、野犬の群れに襲われる夢を見た記憶はある。ひどくグロテスクな夢だ。
でも現実の事実としては記憶がない。きっぱり言える。背中の傷を誰かに見られて聞かれても普通に「あー野犬に噛まれてさー」「ウチ田舎でさー」とか言ってた。ほんのちょっとの傷だ。
しかしそのときの、わたしの脳内で「現実の事実」として区別されるカテゴリに、その記憶はない。
あくまで夢の記憶としてある。
まあもちろん現実と夢を混同する傾向があったわたしの言い分であって、それは他の多くの人間には理解されない区別かもしれない。
なんだろうな。
祖父母に多分何年かして、なんかの口論になって、これも夢レベルの話になるが、カルト宗教の祖父から「お前は自然を大事にしない」みたいな説教受けてたんだな。でいろいろ子供なりに反論してて、どうもわたしそのとき犬殺してるらしいんだな。祖父の言い分では。記憶はないんだけど。
でもさー、そのあと実家の方で番犬とか飼ってたけど、わたしには絶対なつかなかったんだよな。一応番犬として躾けられてて家族にはほえず他の(毎日くるレベルのお隣さんでも)ほえてて逆にうるさいぐらいの犬だったんだが、なんか犬の本とか読むと犬って勝手に飼い主の家族の序列を作ってるらしいじゃん、どうもわたしは一番下に見られてた気がするんだ。
父親とか一年ぶりに帰ってきても尻尾振るのに、わたしに対しては、大学で東京出てたった数ヶ月ぶりに帰ったぐらいでほえられてた。まあもちろんこっちもむっときて「おいコラ」って感じになると思い出すみたいで急に尻尾を股のあいだに隠したりな。
まあでもそいつもフィラリアだかでお腹ぐちゃぐちゃになって最期はいくら包帯巻いてもなめて中の身が出ちゃうからって包帯の上からガムテープ巻かれてたりしてたんだが、そういう頃になると、まあ最初はほえられるんだがこっちも慣れたもんで、慣れたころに縁側でぼーっとしてたらそいつがこっち見てて、呼んだらきて、わたしの膝の上にむりやり顎乗せて撫でてたりしたら、母親から驚かれた。そういった状態になってから、家族に虫を寄らせないためか、呼んでも近づかなくなってたんだと。象とか死期を悟ったら自分で洞窟ん中にいくとかって話聞いたが、そういうものかと思った。
でもわたしに対してはそんなことはなかった。妙な優越感があった。犬に対して。
そうだよ、わたしはお前を殺せるんだよ、みたいな。
逆に元気な頃はわたしが怖かったのではないだろうか。わたしの方にも、怖かったというレベルではないが、犬に対する警戒感は常にあったかもしれない。
祖父に言わせれば、そんなわたしは「他の子と遊んではいけない」らしい。
そうだ、わたしは剣道部だったのだが、中学生の頃、日本一にもなった先生からまぐれで一本取ったことがあるが、そいつまじで怒って、二本目からは本気出された。150センチとかの女子中学生に180センチとかの大の男の大人が、つばぜりあいで吹き飛ばしたりする。
あのときは本当に殺されると思った。
まあそのときはまたあんまり記憶もないんだがあっさり二本目取られて終わった気がする。
だけどそのしばらくあと、合宿みたいな場で、その先生から(今は亡くなっている)、「こいつ怖いよ」みたいなことを言われた。それは男子の先輩からも言われていたことだ。いくら体格差でぶっ飛ばしても立ち向かってくるのが「怖い」と。「ゾンビ」みたいなことを言われた気もする。
多分、わたしは殺気を感じると、犬を平気で殺しても、また自分が死んでも平気なような状態になるようだ。
我を忘れる、というか我を忘れている記憶すらない。
それは生への執着なのだろうか。死にたくないから反抗しているのだろうか。
違う。わたしの夢レベルでは、わたしには「生きたい」と思いはない。そんな余裕すらない。
平たく言えば「窮鼠猫を噛む」だ。最期はやはり猫に食われる。
そうはわかっていても、いやわかってないのだが、わたしのしっくりくる言葉で言うなら、「物理的な作用と反作用」みたいなもので、わたしはゾンビのように立ち向かっていったし、野良犬を殺した。
あくまで夢レベルだ。
動物には天敵に襲われたら死ぬふりをする動物もいる。わたしにはそんな知能もないらしい。
もっと単純な話で、それこそ「物理的な作用と反作用」レベルにすぎない。
この感覚がわたしにある限り、わたしは結構人を平気で殺せると思う。いや最初はとまどうかもしれないが。実際わたしは母親から「あんたは葬式づいてるねえ」と言われたほどだが、葬式でみんな泣くのがむしろ不思議だ。泣けない自分に腹を立てたこともある。
わたしは、虐待とかいじめとか心理の世界ではない、現実の生死の狭間を知っている。
わたし以外の多くの人間は、「リビドー的繋がりが弛緩すること」「エロスを失うかもしれない不安」レベルで「生死の危険」を感じるようだが、わたしにはそんなことはない。そんなの、まったく関係ないとは言わないが、二次的なことだと思える。
野良犬に「リビドー的繋がり」や「エロス」を期待しても無駄である。
わたしはもっと根源的な生死を知っている。
それは特別なことじゃない。自然の状態を生きていればどんな人間でも知っていることだが、多くの人間は心理でそれを忘れてしまっている。
わたしはおそらく狂犬病だ。現代医学が解明していない狂犬病ウイルスを、あのとき、わたしが殺した犬から植えつけられたのだ。
現代人は甘やかされすぎている。
本当の自然をわかっていない。
とかデンパっちゃうけど、平たく考えてみっべ。なんか今の都会の小学校とか、野良犬が校庭にきたら餌とかやるらしいじゃん。
あれ正直信じらんないのよね。なんか異世界レベル? 解離的に「へー」って思っちゃう。
うちの学校では、そんな危険な野良犬ばっかだったから、校庭にやってきたら用務員だか先生だかがなんか持って追っ払ってた。
犬は賢い。学校があるような戦地では人間に勝てないと知っているから逃げる。
たまたま人間が少ない山などに遊びにきた弱そうな個体を狙ってくる。群れで。
あるラカン本で「強迫神経症者は現実界を生きている」と言っているが、あれは嘘だ。それは現実界などではないただのエディコンである。「母への欲望」と「父への欲望」がきちんと分離されている(去勢されている)から生じる悩みであり、彼らの「生死の悩み」とは心理的な「生死」でしかない。その「生死」はフロイトがフォルト・ダー遊びで発見した「ごっこ遊びとしての生死」でしかない。
ただそういうごっこ遊びを信じている人間が多いから、そんな「妄想の生死」が「現実的な生死」と思われているだけ。
その「生死」とはただの共同幻想でしかない。
「そんなことない」ってわたしに反論するかい? じゃあお前の住所を教えてくれ。近ければ殺しにいってやるから。じわじわと殺してやろう。お前らの「生死」は妄想にすぎないことをわからせてやるため。
もっと根源的な、「物理的な作用と反作用」としての「生死」を教えてやるため。
小学生低学年の女子が野良犬の群れに襲われる本当の「生死の恐怖」を教えてやろう。
お前を殺してやろう。じわじわと。
お前に本当の生死を教えてやろう。
ああ、わたしは自然を大事になんかしてないさ。お前ら正常人というパラノイアックな精神疾患が作りあげたパステル画の生死じゃない本当の、自然の生死を知っているからな。
でもちろんすげー子供の頃だから記憶は改竄されてるんだろうけど、わたしの記憶では群れに襲われてたんだな。
でもなー。まあそのときの記憶なんてまったくないし、わたしを助けてくれた警官とかに、その事件のしばらく経ってから祖父に紹介してもらったけど全然覚えなかったりしたんだな(今思い出した)。
ただ、夢として、野犬の群れに襲われる夢を見た記憶はある。ひどくグロテスクな夢だ。
でも現実の事実としては記憶がない。きっぱり言える。背中の傷を誰かに見られて聞かれても普通に「あー野犬に噛まれてさー」「ウチ田舎でさー」とか言ってた。ほんのちょっとの傷だ。
しかしそのときの、わたしの脳内で「現実の事実」として区別されるカテゴリに、その記憶はない。
あくまで夢の記憶としてある。
まあもちろん現実と夢を混同する傾向があったわたしの言い分であって、それは他の多くの人間には理解されない区別かもしれない。
なんだろうな。
祖父母に多分何年かして、なんかの口論になって、これも夢レベルの話になるが、カルト宗教の祖父から「お前は自然を大事にしない」みたいな説教受けてたんだな。でいろいろ子供なりに反論してて、どうもわたしそのとき犬殺してるらしいんだな。祖父の言い分では。記憶はないんだけど。
でもさー、そのあと実家の方で番犬とか飼ってたけど、わたしには絶対なつかなかったんだよな。一応番犬として躾けられてて家族にはほえず他の(毎日くるレベルのお隣さんでも)ほえてて逆にうるさいぐらいの犬だったんだが、なんか犬の本とか読むと犬って勝手に飼い主の家族の序列を作ってるらしいじゃん、どうもわたしは一番下に見られてた気がするんだ。
父親とか一年ぶりに帰ってきても尻尾振るのに、わたしに対しては、大学で東京出てたった数ヶ月ぶりに帰ったぐらいでほえられてた。まあもちろんこっちもむっときて「おいコラ」って感じになると思い出すみたいで急に尻尾を股のあいだに隠したりな。
まあでもそいつもフィラリアだかでお腹ぐちゃぐちゃになって最期はいくら包帯巻いてもなめて中の身が出ちゃうからって包帯の上からガムテープ巻かれてたりしてたんだが、そういう頃になると、まあ最初はほえられるんだがこっちも慣れたもんで、慣れたころに縁側でぼーっとしてたらそいつがこっち見てて、呼んだらきて、わたしの膝の上にむりやり顎乗せて撫でてたりしたら、母親から驚かれた。そういった状態になってから、家族に虫を寄らせないためか、呼んでも近づかなくなってたんだと。象とか死期を悟ったら自分で洞窟ん中にいくとかって話聞いたが、そういうものかと思った。
でもわたしに対してはそんなことはなかった。妙な優越感があった。犬に対して。
そうだよ、わたしはお前を殺せるんだよ、みたいな。
逆に元気な頃はわたしが怖かったのではないだろうか。わたしの方にも、怖かったというレベルではないが、犬に対する警戒感は常にあったかもしれない。
祖父に言わせれば、そんなわたしは「他の子と遊んではいけない」らしい。
そうだ、わたしは剣道部だったのだが、中学生の頃、日本一にもなった先生からまぐれで一本取ったことがあるが、そいつまじで怒って、二本目からは本気出された。150センチとかの女子中学生に180センチとかの大の男の大人が、つばぜりあいで吹き飛ばしたりする。
あのときは本当に殺されると思った。
まあそのときはまたあんまり記憶もないんだがあっさり二本目取られて終わった気がする。
だけどそのしばらくあと、合宿みたいな場で、その先生から(今は亡くなっている)、「こいつ怖いよ」みたいなことを言われた。それは男子の先輩からも言われていたことだ。いくら体格差でぶっ飛ばしても立ち向かってくるのが「怖い」と。「ゾンビ」みたいなことを言われた気もする。
多分、わたしは殺気を感じると、犬を平気で殺しても、また自分が死んでも平気なような状態になるようだ。
我を忘れる、というか我を忘れている記憶すらない。
それは生への執着なのだろうか。死にたくないから反抗しているのだろうか。
違う。わたしの夢レベルでは、わたしには「生きたい」と思いはない。そんな余裕すらない。
平たく言えば「窮鼠猫を噛む」だ。最期はやはり猫に食われる。
そうはわかっていても、いやわかってないのだが、わたしのしっくりくる言葉で言うなら、「物理的な作用と反作用」みたいなもので、わたしはゾンビのように立ち向かっていったし、野良犬を殺した。
あくまで夢レベルだ。
動物には天敵に襲われたら死ぬふりをする動物もいる。わたしにはそんな知能もないらしい。
もっと単純な話で、それこそ「物理的な作用と反作用」レベルにすぎない。
この感覚がわたしにある限り、わたしは結構人を平気で殺せると思う。いや最初はとまどうかもしれないが。実際わたしは母親から「あんたは葬式づいてるねえ」と言われたほどだが、葬式でみんな泣くのがむしろ不思議だ。泣けない自分に腹を立てたこともある。
わたしは、虐待とかいじめとか心理の世界ではない、現実の生死の狭間を知っている。
わたし以外の多くの人間は、「リビドー的繋がりが弛緩すること」「エロスを失うかもしれない不安」レベルで「生死の危険」を感じるようだが、わたしにはそんなことはない。そんなの、まったく関係ないとは言わないが、二次的なことだと思える。
野良犬に「リビドー的繋がり」や「エロス」を期待しても無駄である。
わたしはもっと根源的な生死を知っている。
それは特別なことじゃない。自然の状態を生きていればどんな人間でも知っていることだが、多くの人間は心理でそれを忘れてしまっている。
わたしはおそらく狂犬病だ。現代医学が解明していない狂犬病ウイルスを、あのとき、わたしが殺した犬から植えつけられたのだ。
現代人は甘やかされすぎている。
本当の自然をわかっていない。
とかデンパっちゃうけど、平たく考えてみっべ。なんか今の都会の小学校とか、野良犬が校庭にきたら餌とかやるらしいじゃん。
あれ正直信じらんないのよね。なんか異世界レベル? 解離的に「へー」って思っちゃう。
うちの学校では、そんな危険な野良犬ばっかだったから、校庭にやってきたら用務員だか先生だかがなんか持って追っ払ってた。
犬は賢い。学校があるような戦地では人間に勝てないと知っているから逃げる。
たまたま人間が少ない山などに遊びにきた弱そうな個体を狙ってくる。群れで。
あるラカン本で「強迫神経症者は現実界を生きている」と言っているが、あれは嘘だ。それは現実界などではないただのエディコンである。「母への欲望」と「父への欲望」がきちんと分離されている(去勢されている)から生じる悩みであり、彼らの「生死の悩み」とは心理的な「生死」でしかない。その「生死」はフロイトがフォルト・ダー遊びで発見した「ごっこ遊びとしての生死」でしかない。
ただそういうごっこ遊びを信じている人間が多いから、そんな「妄想の生死」が「現実的な生死」と思われているだけ。
その「生死」とはただの共同幻想でしかない。
「そんなことない」ってわたしに反論するかい? じゃあお前の住所を教えてくれ。近ければ殺しにいってやるから。じわじわと殺してやろう。お前らの「生死」は妄想にすぎないことをわからせてやるため。
もっと根源的な、「物理的な作用と反作用」としての「生死」を教えてやるため。
小学生低学年の女子が野良犬の群れに襲われる本当の「生死の恐怖」を教えてやろう。
お前を殺してやろう。じわじわと。
お前に本当の生死を教えてやろう。
ああ、わたしは自然を大事になんかしてないさ。お前ら正常人というパラノイアックな精神疾患が作りあげたパステル画の生死じゃない本当の、自然の生死を知っているからな。
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