空観は否定神学ではない。
2012/06/21/Thu
怒りが悲しみになるとその余剰物としていらいらが発生する。
いらいらだけ考えていると怒りも悲しみも他人事になる。
さて、中村元は空観を否定神学だとしているが、確かに外観的にはそうだと言えると思う。
ところが、西洋の否定神学と比べて、重要なある一点が異なる。
それは、龍樹はブッダをも「空」だとしている点である。ブッダに対する執着をも否定しているのだ。
神や開祖に対する執着は、宗教においては「信仰」と呼ばれる。つまり龍樹はブッダへの信仰心すら否定しているのだ。
この点について中村自身が驚きを交えた表現で述べている。
しかし、この点が西洋の否定神学との重要な違いになっていることに気づいていない。
西洋の否定神学は「神や開祖への信仰」を否定しない。むしろ神についてさまざまな否定を論じているのに、この一点のみエアポケットのように述べられていない。現代の一般仏教も同様であるが。
むしろそこのみ否定されてないゆえ、人々は信仰心を持たされるのである。そういった一種の洗脳と言うと言いすぎかもしれないが、印象操作、心理トリックがあるのだ。
中村自身龍樹のこの論に驚きを見せていたが、そういった論に驚くことが、中村自身の「神や開祖への信仰心」が前提になっている彼の固定観念を表しているのである。
つまるところ、これは中村が執着を棄て切れていない証拠なのではないか。
もちろん中村は仏教徒ではなく哲学者であるので、それで構わないのだが。
わたしも仏教徒ではない。
ただ、中村元は龍樹の思想の重要な部分をわかっていないと結論できる。
仏教とは、信仰するのではなく帰依するものである。
わたしは精神分析を学んでおりフロイトの宗教批判を引き継ぐ立場を取っているが、中村元のこの論は、精神分析の研究対象である「心理」における「信仰心理」を隠蔽するものとなっている。
それには批判せねばならない。
彼が論じている龍樹の思想を方便として利用して。
いらいらだけ考えていると怒りも悲しみも他人事になる。
さて、中村元は空観を否定神学だとしているが、確かに外観的にはそうだと言えると思う。
ところが、西洋の否定神学と比べて、重要なある一点が異なる。
それは、龍樹はブッダをも「空」だとしている点である。ブッダに対する執着をも否定しているのだ。
神や開祖に対する執着は、宗教においては「信仰」と呼ばれる。つまり龍樹はブッダへの信仰心すら否定しているのだ。
この点について中村自身が驚きを交えた表現で述べている。
しかし、この点が西洋の否定神学との重要な違いになっていることに気づいていない。
西洋の否定神学は「神や開祖への信仰」を否定しない。むしろ神についてさまざまな否定を論じているのに、この一点のみエアポケットのように述べられていない。現代の一般仏教も同様であるが。
むしろそこのみ否定されてないゆえ、人々は信仰心を持たされるのである。そういった一種の洗脳と言うと言いすぎかもしれないが、印象操作、心理トリックがあるのだ。
中村自身龍樹のこの論に驚きを見せていたが、そういった論に驚くことが、中村自身の「神や開祖への信仰心」が前提になっている彼の固定観念を表しているのである。
つまるところ、これは中村が執着を棄て切れていない証拠なのではないか。
もちろん中村は仏教徒ではなく哲学者であるので、それで構わないのだが。
わたしも仏教徒ではない。
ただ、中村元は龍樹の思想の重要な部分をわかっていないと結論できる。
仏教とは、信仰するのではなく帰依するものである。
わたしは精神分析を学んでおりフロイトの宗教批判を引き継ぐ立場を取っているが、中村元のこの論は、精神分析の研究対象である「心理」における「信仰心理」を隠蔽するものとなっている。
それには批判せねばならない。
彼が論じている龍樹の思想を方便として利用して。
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