社会と他者
2007/07/26/Thu
ユングは、クライアントがその精神的世界と「社会」との折り合いをつけるための治療を行い、その理論を築いた。
だから彼の論は社会性が重要な要素となる。元型理論などは典型である。個々人の心にあるイメージ(ラカン論ならばイメージ的なシンボル、クリステヴァ論ならセミオティック)を、社会的に普遍かどうかで分別し、個人的無意識と集合的無意識に層分けした。
ラカンはこの社会を、象徴界と想像界という概念により解体した。社会性のうち、法律や倫理など言語的なものを大文字の他者に組み込み、顔の見える相手との関係性など体感的なものを小文字の他者に組み込んだ。この場合における「象徴的な社会/想像的な社会」という区分は、レヴィ=ストロースの「非真正な社会/真正な社会」に対応するだろう。
ラカンは、クライアントがその精神世界と「他者」との折り合いをつけるための治療の道具として、その理論を築いた。
ラカンは、ユングの言う「普遍」を「他者」に還元してしまったのだ。
ユング派心理学者の河合隼雄先生がお亡くなりになられた。ご冥福をお祈りいたします。
その影響か最近某チャットでユングに関する話をよくする。その時の友人が言っていたことだが、「セカイ系とユング理論の繋がり」という論に興味を持った。
セカイ系のルーツは村上春樹的な世界観ではないかと。そして村上春樹氏は河合先生から影響を受けていた。傍証的な要素だが、考えてみれば面白いかもしれない。
例えば河合先生は日本に箱庭療法を広めた方だ。元型理論を初めとしてユング理論には、ラカン的に言うと「イメージ的なシンボル」がよく見られる。「イメージ」「シンボル」という言葉が示す領域がラカン論と違っているのだが、ラカン論ではシンボル、即ち言語的なものとして考えうるものを、ユング論では元型イメージというもので限定している。ラカン論では言語の要素全て、即ち一語一語のシニフィエとシニフィアンの癒着が元型イメージであるということになるだろうか。まあこの辺りはソシュール言語学の影響であろう。ソシュール言語学を援用しイメージとシンボルの関係性を見つめ直したラカンの論では、それまで(ユング論含め)イメージと言っていたものが実は言語的、象徴的なものだった、ということになってしまうのだ。
箱庭療法におけるアイテムは、ラカン論に倣うならばあくまで言語的なものである。日本語は言語として比較的曖昧であるということを考えれば、一般的な言語からずれた箱庭のアイテムというものを治療に使用することは、確かに日本人に合っているかもしれない。
別にユングが箱庭療法を専門としたわけではないが、イメージ的なシンボルを多用するユング理論、箱庭療法においては、社会が、ラカン論では大文字の他者の構造が縮小化してしまうのではないだろうか。縮小化というとわかりにくいが、イメージ的なシンボルを利用することにより、フィードバック的にシンボルのシニフィエが固定化されてしまう、シンボル(多義的な記号)がサイン(一義的な記号)化してしまうのではないか、と思うのだ。記号のサイン化現象についてはこのブログでも何度か述べているが、このシニフィエの固定化≒サイン化が、コンテクストあるいは無意識的な暗黙の了解になってしまい、村上春樹的世界を経たセカイ系へと遺伝したのではないか、という考えを思いつき、面白いなあと自分勝手に満足したのでメモ代わりに記しておく。
もちろん、シニフィエが固定化、あるいは構造が縮小化することで分析者はクライアントの心的世界を俯瞰しやすくなり、それは分析治療においてはメリットとなろう。全面的に縮小化が悪いと言っているわけではない。表現の受取手が分析者のような立場で作品を享受するのもおかしいことではないと思う。
ただ、東浩紀氏が指摘しているような、セカイ系に代表される、オタク文化の作品における「象徴界の消失(厳密には象徴界は消失しない。斎藤環氏が指摘していたので一応、ね)」と呼べるような傾向について、そういった視点で考えてみるのも面白いと思う、ということだ。
「象徴界の消失」ではなく、「象徴界の箱庭化」の方が、確かにセカイ系の特徴の表現としては、しっくりくる気がする。
まあ最近オタク文化分析には飽きてるんだけどね……。
だから彼の論は社会性が重要な要素となる。元型理論などは典型である。個々人の心にあるイメージ(ラカン論ならばイメージ的なシンボル、クリステヴァ論ならセミオティック)を、社会的に普遍かどうかで分別し、個人的無意識と集合的無意識に層分けした。
ラカンはこの社会を、象徴界と想像界という概念により解体した。社会性のうち、法律や倫理など言語的なものを大文字の他者に組み込み、顔の見える相手との関係性など体感的なものを小文字の他者に組み込んだ。この場合における「象徴的な社会/想像的な社会」という区分は、レヴィ=ストロースの「非真正な社会/真正な社会」に対応するだろう。
ラカンは、クライアントがその精神世界と「他者」との折り合いをつけるための治療の道具として、その理論を築いた。
ラカンは、ユングの言う「普遍」を「他者」に還元してしまったのだ。
ユング派心理学者の河合隼雄先生がお亡くなりになられた。ご冥福をお祈りいたします。
その影響か最近某チャットでユングに関する話をよくする。その時の友人が言っていたことだが、「セカイ系とユング理論の繋がり」という論に興味を持った。
セカイ系のルーツは村上春樹的な世界観ではないかと。そして村上春樹氏は河合先生から影響を受けていた。傍証的な要素だが、考えてみれば面白いかもしれない。
例えば河合先生は日本に箱庭療法を広めた方だ。元型理論を初めとしてユング理論には、ラカン的に言うと「イメージ的なシンボル」がよく見られる。「イメージ」「シンボル」という言葉が示す領域がラカン論と違っているのだが、ラカン論ではシンボル、即ち言語的なものとして考えうるものを、ユング論では元型イメージというもので限定している。ラカン論では言語の要素全て、即ち一語一語のシニフィエとシニフィアンの癒着が元型イメージであるということになるだろうか。まあこの辺りはソシュール言語学の影響であろう。ソシュール言語学を援用しイメージとシンボルの関係性を見つめ直したラカンの論では、それまで(ユング論含め)イメージと言っていたものが実は言語的、象徴的なものだった、ということになってしまうのだ。
箱庭療法におけるアイテムは、ラカン論に倣うならばあくまで言語的なものである。日本語は言語として比較的曖昧であるということを考えれば、一般的な言語からずれた箱庭のアイテムというものを治療に使用することは、確かに日本人に合っているかもしれない。
別にユングが箱庭療法を専門としたわけではないが、イメージ的なシンボルを多用するユング理論、箱庭療法においては、社会が、ラカン論では大文字の他者の構造が縮小化してしまうのではないだろうか。縮小化というとわかりにくいが、イメージ的なシンボルを利用することにより、フィードバック的にシンボルのシニフィエが固定化されてしまう、シンボル(多義的な記号)がサイン(一義的な記号)化してしまうのではないか、と思うのだ。記号のサイン化現象についてはこのブログでも何度か述べているが、このシニフィエの固定化≒サイン化が、コンテクストあるいは無意識的な暗黙の了解になってしまい、村上春樹的世界を経たセカイ系へと遺伝したのではないか、という考えを思いつき、面白いなあと自分勝手に満足したのでメモ代わりに記しておく。
もちろん、シニフィエが固定化、あるいは構造が縮小化することで分析者はクライアントの心的世界を俯瞰しやすくなり、それは分析治療においてはメリットとなろう。全面的に縮小化が悪いと言っているわけではない。表現の受取手が分析者のような立場で作品を享受するのもおかしいことではないと思う。
ただ、東浩紀氏が指摘しているような、セカイ系に代表される、オタク文化の作品における「象徴界の消失(厳密には象徴界は消失しない。斎藤環氏が指摘していたので一応、ね)」と呼べるような傾向について、そういった視点で考えてみるのも面白いと思う、ということだ。
「象徴界の消失」ではなく、「象徴界の箱庭化」の方が、確かにセカイ系の特徴の表現としては、しっくりくる気がする。
まあ最近オタク文化分析には飽きてるんだけどね……。