穏やかな時代
2007/07/28/Sat
正直言うと、私はどうも心理カウンセラーという人種が好みでない。特に自我心理学系の方々はなんかクラスに必ずいた優等生的(成績がいいかどうかは関係ない)空気を感じてしまう。もちろん中には好感の持てる人もいると思うけど。
クールでクレバーで穏やかなのはいいことなんだろうけど、感情あるいはパトスなるものを憎んでいる、神経症的に忌避しているようにすら私には感じる。「穏やかでなければならない」という強迫症的な、潔癖症的な感じ。
――まあなんか不穏な書き出しで始めてしまったが、他意はない。正直に書いているだけです。こちらのブログ記事を読んでの垂れ流し文章ですが、そのブログ主さんや特定の個人を批判するつもりはつゆほどもありません、という前提で。なんとなくな印象論っす。
神経症やパラノイアなどは感情のエネルギーの行き先、対処などに不具合があってなるものである。なるほど疾患を治療するのがカウンセラーの役割であるから、自分の感情を御したがるのであろう。
自我が感情を御す方法として、社会的に不都合のない様式に導くのが彼らの役割だ。それは理論によって行われる。
これは、感情を御す様式を定型化するということである。
私はこのブログにおいては大体表現文化視点で書く。
表現行為においてパトスは重要な役割を担う。
そのパトスが定型化されてしまったらどうなるであろう?
極論でよいならば想像は容易である。戦時下の表現統制のようなものになる。しかもその統制は無意識下で行われる。表向き統制する側とされる側の合意がなされている。これは厄介だ(あくまで極論だが)。
とは言っても、アブジェクシオンでも現実界でもテリブルマザーでも魔女としてのアニマでも『おだやかな時代』by中島みゆきでもなんでも構わないが、構造を壊したがる、嫌悪する心性は人間には必ずある。死の欲動だ。それらは統制という構造化を忌み嫌うであろう。
こういうことを言うとあっちの方々は必ずこう言う。
「TPOで使い分ければよい」と。例えば「ストレスの発散が大事です」みたいな。
その結果、狂人の表象だけを真似たエセエモーショナルが蔓延する現代になりましたとさ。あーこりゃこりゃ。
大体そういう使い分けは演劇が役者論として心理学なんか問題にならないほど昔から探求し続けているわけで、そういうものを何故イヤな患者に会うと引きつった笑顔を見せるようなカウンセラーが諭せるのだろう(筆者の体験ではありません。例えばの話です例えば)。
正直言うとカウンセラーに限らず現代人のほとんどの人が初舞台の新人役者のように見えてしまう私。怖いよ。飲み屋は別で。宗教とかも信者はマジだからはまるのも理解できちゃうわ。あーあと中心気質的な人も別だな。石原慎太郎氏とか人気あるのもなんか納得。私はイマイチよくわからんけど。だめんずうぉーかーのケがあったりするし。
カウンセリングに訪れる人はその症状に苦しんで訪れるわけだから、それを治療するのは確かにカウンセラーの役割だ。
しかし「TPOで使い分けろ」というカウンセラー自身が使い分けられてない気がする。もちろんそうじゃない人も大勢いると思う。あくまで私の印象論で。
つまり、クライアントの感情、パトス、心的エネルギー、リビドー、なんでもいいが、それをカウンセラーがどうこうするのはそのカウンセリングの場のみで成立する話なのであり、それ以外ではカウンセリングで問題としているエネルギーは、例えば表現行為においては大事な要素なのである、みたいなことが建前になってしまってはいないだろうか、と思うのだ。
表現行為とは狂人になることである、なんて言わないが、精神疾患になる過程と構造が似ているのは確かである。この記事でも似たようなことを書いている。
……などと言っても意味ないことかもしれない。確かに多くのカウンセラーは「頭では」わかっていることだろう。「何当然のこと言ってるんだ」みたいな。だけど冒頭でも書いたように、強迫神経症的に「穏やかでなければならない」となってしまっている人も結構いるのではないだろうか。感情を御すこと、あるいはTPOで使い分けることは、理論だけでは当然の如く無理で、役者の稽古のように身体的に学んだとしても、非常に難しいことなのである。元舞台役者が断言する。
また、こういった「穏やかでなければならない」強迫症は、どうも私が以前書いたオタク文化や引きこもりやいじめの原因に通底する「クール主義」「スタイリッシュ主義」という潔癖症的なもの、あるいはこの記事で述べている「消費者の権力者化」と似ているというか呼応している感じがする。それが少し不気味だ。
言葉として間違っているが、「去勢され過ぎた」人々。穏やかでなけりゃ残れない時代。クリステヴァ論のアブジェクシオンという概念を見つめなければならない時代かもしれない。
まあ要するに、心理学やら精神分析学やら独り占めしたがる気持ちはわからなくもないけどさ、それをあなた方の目的とは正反対の目的の「道具」として使う輩だっているんだよー、ってことかな? かな?
演劇人だって作家だってミュージシャンだってクライアントを目の前にしてがんばっているのですよ。
どっとはらい。
クールでクレバーで穏やかなのはいいことなんだろうけど、感情あるいはパトスなるものを憎んでいる、神経症的に忌避しているようにすら私には感じる。「穏やかでなければならない」という強迫症的な、潔癖症的な感じ。
――まあなんか不穏な書き出しで始めてしまったが、他意はない。正直に書いているだけです。こちらのブログ記事を読んでの垂れ流し文章ですが、そのブログ主さんや特定の個人を批判するつもりはつゆほどもありません、という前提で。なんとなくな印象論っす。
神経症やパラノイアなどは感情のエネルギーの行き先、対処などに不具合があってなるものである。なるほど疾患を治療するのがカウンセラーの役割であるから、自分の感情を御したがるのであろう。
自我が感情を御す方法として、社会的に不都合のない様式に導くのが彼らの役割だ。それは理論によって行われる。
これは、感情を御す様式を定型化するということである。
私はこのブログにおいては大体表現文化視点で書く。
表現行為においてパトスは重要な役割を担う。
そのパトスが定型化されてしまったらどうなるであろう?
極論でよいならば想像は容易である。戦時下の表現統制のようなものになる。しかもその統制は無意識下で行われる。表向き統制する側とされる側の合意がなされている。これは厄介だ(あくまで極論だが)。
とは言っても、アブジェクシオンでも現実界でもテリブルマザーでも魔女としてのアニマでも『おだやかな時代』by中島みゆきでもなんでも構わないが、構造を壊したがる、嫌悪する心性は人間には必ずある。死の欲動だ。それらは統制という構造化を忌み嫌うであろう。
こういうことを言うとあっちの方々は必ずこう言う。
「TPOで使い分ければよい」と。例えば「ストレスの発散が大事です」みたいな。
その結果、狂人の表象だけを真似たエセエモーショナルが蔓延する現代になりましたとさ。あーこりゃこりゃ。
大体そういう使い分けは演劇が役者論として心理学なんか問題にならないほど昔から探求し続けているわけで、そういうものを何故イヤな患者に会うと引きつった笑顔を見せるようなカウンセラーが諭せるのだろう(筆者の体験ではありません。例えばの話です例えば)。
正直言うとカウンセラーに限らず現代人のほとんどの人が初舞台の新人役者のように見えてしまう私。怖いよ。飲み屋は別で。宗教とかも信者はマジだからはまるのも理解できちゃうわ。あーあと中心気質的な人も別だな。石原慎太郎氏とか人気あるのもなんか納得。私はイマイチよくわからんけど。だめんずうぉーかーのケがあったりするし。
カウンセリングに訪れる人はその症状に苦しんで訪れるわけだから、それを治療するのは確かにカウンセラーの役割だ。
しかし「TPOで使い分けろ」というカウンセラー自身が使い分けられてない気がする。もちろんそうじゃない人も大勢いると思う。あくまで私の印象論で。
つまり、クライアントの感情、パトス、心的エネルギー、リビドー、なんでもいいが、それをカウンセラーがどうこうするのはそのカウンセリングの場のみで成立する話なのであり、それ以外ではカウンセリングで問題としているエネルギーは、例えば表現行為においては大事な要素なのである、みたいなことが建前になってしまってはいないだろうか、と思うのだ。
表現行為とは狂人になることである、なんて言わないが、精神疾患になる過程と構造が似ているのは確かである。この記事でも似たようなことを書いている。
……などと言っても意味ないことかもしれない。確かに多くのカウンセラーは「頭では」わかっていることだろう。「何当然のこと言ってるんだ」みたいな。だけど冒頭でも書いたように、強迫神経症的に「穏やかでなければならない」となってしまっている人も結構いるのではないだろうか。感情を御すこと、あるいはTPOで使い分けることは、理論だけでは当然の如く無理で、役者の稽古のように身体的に学んだとしても、非常に難しいことなのである。元舞台役者が断言する。
また、こういった「穏やかでなければならない」強迫症は、どうも私が以前書いたオタク文化や引きこもりやいじめの原因に通底する「クール主義」「スタイリッシュ主義」という潔癖症的なもの、あるいはこの記事で述べている「消費者の権力者化」と似ているというか呼応している感じがする。それが少し不気味だ。
言葉として間違っているが、「去勢され過ぎた」人々。穏やかでなけりゃ残れない時代。クリステヴァ論のアブジェクシオンという概念を見つめなければならない時代かもしれない。
まあ要するに、心理学やら精神分析学やら独り占めしたがる気持ちはわからなくもないけどさ、それをあなた方の目的とは正反対の目的の「道具」として使う輩だっているんだよー、ってことかな? かな?
演劇人だって作家だってミュージシャンだってクライアントを目の前にしてがんばっているのですよ。
どっとはらい。