人は去勢済み主体として生まれるわけではない。
2012/09/21/Fri
鏡像段階とは欲望のシーソーである。
自我が生じるから欲望のシーソーとなるのではなく、欲望のシーソーが自我を生む。
いわば欲望のシーソーとは自我の幼生であり、自我のある場合における産物として欲望のシーソーと呼ばれる症状が見られるわけではない。
一般的には、欲望のシーソーが見られる主体を「わがまま」だとか「自己愛が強い」などと言う。つまり欲望のシーソーの原因は自我のせいだということだ。
それは、一部間違いではないが、誤りも含んでいる。自我と欲望のシーソーは確かに因果関係を持っているので、この箇所は間違ってはない。しかし、自我を欲望のシーソーの原因にすえるのは誤りだ。それは本末転倒だ。
去勢済み主体とは去勢されてなるのであり、去勢済み主体として人は生まれるわけではない。
自我が生じるから欲望のシーソーとなるのではなく、欲望のシーソーが自我を生む。
いわば欲望のシーソーとは自我の幼生であり、自我のある場合における産物として欲望のシーソーと呼ばれる症状が見られるわけではない。
一般的には、欲望のシーソーが見られる主体を「わがまま」だとか「自己愛が強い」などと言う。つまり欲望のシーソーの原因は自我のせいだということだ。
それは、一部間違いではないが、誤りも含んでいる。自我と欲望のシーソーは確かに因果関係を持っているので、この箇所は間違ってはない。しかし、自我を欲望のシーソーの原因にすえるのは誤りだ。それは本末転倒だ。
去勢済み主体とは去勢されてなるのであり、去勢済み主体として人は生まれるわけではない。
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