「キャラが勝手に動く」論
2007/08/25/Sat
ラノベ作家の卵たちが集まる掲示板などで、「キャラが自分勝手に動く」や「キャラが自分(作者)に語りかけてくる」などという言葉が目に付く。
確かにマンガのハウツー本なんかでは、「キャラが自分勝手に動き出す」ことを肯定的に捉えているものが多い。
今日はそのことを考えてみよう。
上記の事象は精神分析的にはどういう解釈になるだろうか。作中のキャラが自分勝手に動いている時、作者の精神世界はどうなっているのだろうか。
極論的な印象をまず述べるなら、「キャラが自分に語りかけてくる」という症状などはパラノイアの妄想を想起させる(一々断るのも面倒臭いがだからといって彼らがパラノイアと言っているわけではない)。
パラノイアの妄想とは典型的に被害妄想である。何故「被害」妄想になるのか。そしてその妄想は通常の妄想と何が違うのか。
まずパラノイアの症状の特徴として、自己正当化のための多弁さというものがある。これはひっくり返して見ると、自己否定を抑圧していることになる。被害妄想とは誰かに自己が否定される妄想である。つまり簡単に言うなら、自己否定という死の欲動的な欲望(心的エネルギー)を無意識へと抑圧していて、ある時何かのきっかけでその心的エネルギーが意識領域に溢れ出てきた、というのがパラノイアの被害妄想の精神分析的解釈である。無意識から溢れるものだから、意識領野の自我から見るとそれは自分のものではないように思える。自分の把握できない、あるいは予測できない自分が無意識なのだから。従って、誰かという他者に否定されているという被害妄想になる。
この自我が予測できない無意識の応答ということが、通常の妄想と違うところだ。夢を想像してみるとわかりやすい。夢は無意識が意識領野に送るメッセージだ。だから自分が思いがけない出来事や場面が多く現れるのである。パラノイアの被害妄想はこれと似た構造を持っている。
さて、ここで「キャラが自分勝手に動き出す」という事象に戻ろう。
表現活動は全て妄想が基本となっている。妄想に集中すると無意識からも応答が返ってくる。一種のトランス状態とも言えるだろう。
そう、無意識からの応答だから、「自分勝手」にキャラが動いていると思うのだ。
無意識が応答する条件は、パラノイアの例なら抑圧になるが、それ以外にも様々ある。トランス状態というように宗教的儀式でもなるだろうし、薬物を用いたりしてもそうなるであろう。飲酒でもなる。そういった条件や原因がなくても、例えば言い間違いなどでぽろっと出てしまう。フロイトは無意識の表出の一つとして錯誤行為を挙げている。
無意識は私たちが思っている以上に表に出てきているものだ。心の四つの窓「ジョハリ・ウィンドウ」なんかでもそれは言い表されている。
表現行為とは無意識が重要な役割を占めている。エンターテイメントなどの「多くの人に楽しんでもらいたい」という欲望や純文学の「時代が変わっても読まれる文芸を書きたい」という欲望など、表現作品において大事なことの一つとして、普遍性があるだろう。前者は共時的なもので後者は通時的なものの違いに過ぎない。
人類にとっての普遍、共通の何かは、無意識領域に根ざしているのではないか、としてユングは集合的無意識という概念を説いた。こういうことなどから表現行為における無意識の重要性は想像できるであろう。この辺りを語り始めると止まらなくなりそうなので先に進む。
以上のことから、マンガのハウツー本に書かれてあるように、表現行為において「キャラが自分勝手に動き出す」という事象は重要性を持つだろうし、それは特別なことではないことがわかる。
こういった大体の構造、概略を前提として、もう少し冒頭の、ラノベを書く時における「キャラが自分勝手に動く」事象を詳らかにしてみたい。
無意識とは超自我でもある。ラカン論ではそれは「言語のように構造化されいてる」となる。言語とは即ちシンボル、象徴である。精神世界の見取り図として、シンボル主体の領域をラカンは象徴界と呼んだ。
私たちが普通にイメージと思っている、例えば絵本に書かれているような簡略な木の絵などは、言語と比してイメージ寄りではあるがシンボルである、となる。マンガの絵などは絵画と比してシンボル化しつつあるパーツ、要素が多いであろう。加えてマンガは竹熊健太郎氏が言う「漫符」というものがある。これは明らかに記号、シンボルである。斎藤環氏はこのことを「ハイ・コンテクスト化されたジャンル」と表現している(後述するが、コンテクストとは「広義の文脈性」ぐらいの意味で捉えてもらって構わない)。こういったマンガを映像化したジャパニメーションは非常にシンボリックであると言えよう。東浩紀氏はこのことを「オタクたちはアニメを『読んでいる』のではないか」などと述べている。
ライトノベルとは、個人的な解釈になるが、ジャンルとしての萌芽は1980年代の新井素子氏や火浦功氏や高千穂遥氏などが活躍したライトSFと呼ばれるものではないか、と思っている。それは既存の小説へのカウンターとして、マンガ的要素を取り入れた小説群であった。マンガ的なイラストレーターが表紙、挿絵を書くのが初めて定着したのはこの辺りであろう。
現代のライトノベルとは、その特徴として以前の記事で「オタク文化に依拠した小説ジャンル」と述べた。マンガやアニメとオタク文化は切っても切れない。重複になるかもしれないが、「マンガやアニメの影響が強い」という言葉を先の文章につけ加えてもよかろう。
前の記事で、セカイ系とユング論、あるいは箱庭療法や村上春樹的世界の繋がりとして、ユング論や箱庭療法におけるイメージ的な(寄りの)シンボルの多用を指摘した。そして、それがフィードバック的にシンボルのサイン(一義的な記号)化あるいはシニフィエの固定化という現象に繋がっているのではないかと述べた。
イメージ寄りのシンボルとは、先に述べたようにマンガ文化にも顕著に多用されている。
ここでコンテクストについて少し述べておこう。
先に私は「コンテクストとは広義の文脈性」であると述べた。同時に、このブログなどでも「コンテクストとは暗黙の了解やお約束のようなもの」とも述べている。何故文脈性が暗黙の了解やお約束となるのか。
例えばラノベでは「わかりやすい文章」がお約束となっている。わかりやすいということはどういうことか。反対に晦渋なるものを考えてみよう。晦渋な言葉とは文語や専門用語的なものだ。それらは普段あまり使用されていないから晦渋となる。となるとわかりやすい言葉とは普段から使用頻度が高い言葉であると言える。
では何故「普段から使用頻度が高い文章」と言わずに「わかりやすい文章」と言うのであろうか。文字数が少ないほうが効率的であるからでは、と言うならば、「よく見かける文章」でも構わないはずである。
「わかりやすい」という言葉は、前提としてコミュニケーションの存在を意味している。誰か(何か)が誰かにとって「わかりやすい」でなくてはならない。「よく見かける」は独り言でも構わない。コミュニケーションしなくても「よく見かける」ことはできる。関係する主体は一人で構わない。人間にとってコミュニケーションの基本は「語らい」である。ラカン論でも語らい(ディスクール)という観念は重要な位置を占めている。となると、「わかりやすい」という言葉は、「よく見かける」という言葉と比して、「語らい」という意味成分が強く含まれているとも言えるであろう。一方、「文章」という言葉は言わずもがな「語らい」という意味は強くなる。そういった意味の親和性のようなものが、引力のように働いて言葉がくっつくのではないだろうか。だから、「よく見かける言葉」より「わかりやすい言葉」を使用することが多くなるのではないだろうか。
意味間の引力。そういったものが文脈性が暗黙の了解やお約束というルール的な力の正体なのではないか。
また、「わかりやすい」から「語らい」という意味成分の強さを測り取れるのも文脈即ちコンテクストのなせる業である。
例えば、「無色の緑の観念が猛烈に眠る」などという文章は文法こそ間違っていないが意味論的に間違っている文章である。人は何故意味論的にも正しい文章を構成できるのか。このことはその原因の一つでもないだろうか。
個人的な感触だが、この意味間の引力は、どんな意味でもいいというわけではないと思う。意味としての強度が強いものほど引力は強くなるような。そしてその意味の強度とは、後に述べる「クッションの刺し縫い」を軸にしているのではなかろうか。その軸を中心として、換喩と隠喩という繋がり方で、意味の構造が出来上がっている、そんな気がする。
ラカン論において、超自我とは象徴界である。超自我とは無意識でもあり、抑圧を役割としている。抑圧の力の正体も、先に述べたような言葉の意味の親和力が、あたかも分子間力のように多数存在し、高分子のように構造化されたものなのではないだろうか。ラカンのいう「無意識は言語のように構造化されている」ということである。
今高分子と述べたが、人間は生物である。生物は環境に合わせて対応しなければならない。つまり変性しなければならない。そこで、言葉=シニフィアンには、多義性が必要となるのだ。結合の腕が複数なければならないのである。だから言葉はシンボル(多義性のある記号)なのだ。
話を戻そう。
ラノベと切っても切れない関係にあるマンガという表現ジャンルは、イメージ的なシンボルを多用する表現である。
こういった文脈を持つシンボルが無意識に収納され、超自我となったらどうなるか。
フィードバック的にシンボルに対応するイメージも固定化されてしまうであろう。そのシニフィアンのシニフィエ(シニフィエ、シニフィアンについてはこちら)が固定化されてしまうのだ。つまりそれは多義性が損なわれる、結合の腕が減ってしまうことになる。超自我=象徴界の構造が変性しにくくなるのだ。融通が利かなくなるわけだ。また、結合の腕が減るということは、少し語感的におかしいところもあるが、構造の(変性の幅の)縮小化とも言えなくはないだろう。先の記事ではこれを箱庭化と述べている。
もちろんだからと言ってマンガを規制すべきなどというのは短絡的だと私は考える。シニフィアンはシニフィエと癒着してなくてはならない。この癒着が、辞書的ではなく体感として生じることをラカンは「クッションの刺し縫い」と呼んだ。クッションとは象徴界の喩えである。シニフィエ=イメージ主体の世界は想像界と呼ぶ。想像界は欲望の原因である対象aの住処でもある。欲望とは心的エネルギー(フロイト論ではリビドー)の動きであり、人間らしさの動力源でもある。それを刺激することは何も悪いことではない。シニフィエの固定化が一面的に悪いというわけではないのだ。また同様にライトノベル(ライトSF含む)やユング論や村上春樹氏や箱庭療法が悪影響の根源だなどと批判するつもりは毛頭ない。その後の対処でどうにかなる問題だと私は考える。
今私は悪影響と書いた。それは記号のサイン化のことである。表現文化視点だとこの傾向は悪影響であると、私はこのブログで何度も書いてきた。
ではサイン化という悪影響に対し、その後の対処とはどうすればよいのだろうか。それはその傾向を担う人々、その傾向が強く見られる文化の構成員の自覚が大事なのではなかろうか。
無意識と意識は相互影響下にある。意識次第で近接する無意識の一部を意識化することもできるのだ。
話をまとめよう。
冒頭の「キャラが勝手に動く」ことの根拠は超自我にある。
しかし現代人である我々の超自我は、先に書いたように「箱庭化」「サイン化」しているのではないだろうか。
そういったものを根拠にした「トランス状態」は、果たしてユングの普遍的無意識に近しいものであろうか。
私はそうは思わない。
何故なら「箱庭化」「サイン化」してしまう根拠はコンテクストだからだ。コンテクストを重視してしまうとその文脈を理解できない人を切り捨ててしまうことになる。コンテクスト主義とも言える「箱庭化」「サイン化」はむしろ普遍とは逆方向に向かっていることにならないだろうか。
つまり、「箱庭化」「サイン化」してしまった超自我=無意識を根拠に、トランス状態で降ろしてきた「勝手に動くキャラ」とは、普遍的なものとは言えない、ということだ。
むしろ「箱庭化」「サイン化」は構造の簡略化でもあるので、超自我=無意識から「勝手に動くキャラ」を「降ろし易く」なっているのではないだろうか、とすら思う。
創作論としての「キャラが勝手に動く」論にも、こういう落とし穴があると私は考える。
――という記事でしたー。
確かにマンガのハウツー本なんかでは、「キャラが自分勝手に動き出す」ことを肯定的に捉えているものが多い。
今日はそのことを考えてみよう。
上記の事象は精神分析的にはどういう解釈になるだろうか。作中のキャラが自分勝手に動いている時、作者の精神世界はどうなっているのだろうか。
極論的な印象をまず述べるなら、「キャラが自分に語りかけてくる」という症状などはパラノイアの妄想を想起させる(一々断るのも面倒臭いがだからといって彼らがパラノイアと言っているわけではない)。
パラノイアの妄想とは典型的に被害妄想である。何故「被害」妄想になるのか。そしてその妄想は通常の妄想と何が違うのか。
まずパラノイアの症状の特徴として、自己正当化のための多弁さというものがある。これはひっくり返して見ると、自己否定を抑圧していることになる。被害妄想とは誰かに自己が否定される妄想である。つまり簡単に言うなら、自己否定という死の欲動的な欲望(心的エネルギー)を無意識へと抑圧していて、ある時何かのきっかけでその心的エネルギーが意識領域に溢れ出てきた、というのがパラノイアの被害妄想の精神分析的解釈である。無意識から溢れるものだから、意識領野の自我から見るとそれは自分のものではないように思える。自分の把握できない、あるいは予測できない自分が無意識なのだから。従って、誰かという他者に否定されているという被害妄想になる。
この自我が予測できない無意識の応答ということが、通常の妄想と違うところだ。夢を想像してみるとわかりやすい。夢は無意識が意識領野に送るメッセージだ。だから自分が思いがけない出来事や場面が多く現れるのである。パラノイアの被害妄想はこれと似た構造を持っている。
さて、ここで「キャラが自分勝手に動き出す」という事象に戻ろう。
表現活動は全て妄想が基本となっている。妄想に集中すると無意識からも応答が返ってくる。一種のトランス状態とも言えるだろう。
そう、無意識からの応答だから、「自分勝手」にキャラが動いていると思うのだ。
無意識が応答する条件は、パラノイアの例なら抑圧になるが、それ以外にも様々ある。トランス状態というように宗教的儀式でもなるだろうし、薬物を用いたりしてもそうなるであろう。飲酒でもなる。そういった条件や原因がなくても、例えば言い間違いなどでぽろっと出てしまう。フロイトは無意識の表出の一つとして錯誤行為を挙げている。
無意識は私たちが思っている以上に表に出てきているものだ。心の四つの窓「ジョハリ・ウィンドウ」なんかでもそれは言い表されている。
表現行為とは無意識が重要な役割を占めている。エンターテイメントなどの「多くの人に楽しんでもらいたい」という欲望や純文学の「時代が変わっても読まれる文芸を書きたい」という欲望など、表現作品において大事なことの一つとして、普遍性があるだろう。前者は共時的なもので後者は通時的なものの違いに過ぎない。
人類にとっての普遍、共通の何かは、無意識領域に根ざしているのではないか、としてユングは集合的無意識という概念を説いた。こういうことなどから表現行為における無意識の重要性は想像できるであろう。この辺りを語り始めると止まらなくなりそうなので先に進む。
以上のことから、マンガのハウツー本に書かれてあるように、表現行為において「キャラが自分勝手に動き出す」という事象は重要性を持つだろうし、それは特別なことではないことがわかる。
こういった大体の構造、概略を前提として、もう少し冒頭の、ラノベを書く時における「キャラが自分勝手に動く」事象を詳らかにしてみたい。
無意識とは超自我でもある。ラカン論ではそれは「言語のように構造化されいてる」となる。言語とは即ちシンボル、象徴である。精神世界の見取り図として、シンボル主体の領域をラカンは象徴界と呼んだ。
私たちが普通にイメージと思っている、例えば絵本に書かれているような簡略な木の絵などは、言語と比してイメージ寄りではあるがシンボルである、となる。マンガの絵などは絵画と比してシンボル化しつつあるパーツ、要素が多いであろう。加えてマンガは竹熊健太郎氏が言う「漫符」というものがある。これは明らかに記号、シンボルである。斎藤環氏はこのことを「ハイ・コンテクスト化されたジャンル」と表現している(後述するが、コンテクストとは「広義の文脈性」ぐらいの意味で捉えてもらって構わない)。こういったマンガを映像化したジャパニメーションは非常にシンボリックであると言えよう。東浩紀氏はこのことを「オタクたちはアニメを『読んでいる』のではないか」などと述べている。
ライトノベルとは、個人的な解釈になるが、ジャンルとしての萌芽は1980年代の新井素子氏や火浦功氏や高千穂遥氏などが活躍したライトSFと呼ばれるものではないか、と思っている。それは既存の小説へのカウンターとして、マンガ的要素を取り入れた小説群であった。マンガ的なイラストレーターが表紙、挿絵を書くのが初めて定着したのはこの辺りであろう。
現代のライトノベルとは、その特徴として以前の記事で「オタク文化に依拠した小説ジャンル」と述べた。マンガやアニメとオタク文化は切っても切れない。重複になるかもしれないが、「マンガやアニメの影響が強い」という言葉を先の文章につけ加えてもよかろう。
前の記事で、セカイ系とユング論、あるいは箱庭療法や村上春樹的世界の繋がりとして、ユング論や箱庭療法におけるイメージ的な(寄りの)シンボルの多用を指摘した。そして、それがフィードバック的にシンボルのサイン(一義的な記号)化あるいはシニフィエの固定化という現象に繋がっているのではないかと述べた。
イメージ寄りのシンボルとは、先に述べたようにマンガ文化にも顕著に多用されている。
ここでコンテクストについて少し述べておこう。
先に私は「コンテクストとは広義の文脈性」であると述べた。同時に、このブログなどでも「コンテクストとは暗黙の了解やお約束のようなもの」とも述べている。何故文脈性が暗黙の了解やお約束となるのか。
例えばラノベでは「わかりやすい文章」がお約束となっている。わかりやすいということはどういうことか。反対に晦渋なるものを考えてみよう。晦渋な言葉とは文語や専門用語的なものだ。それらは普段あまり使用されていないから晦渋となる。となるとわかりやすい言葉とは普段から使用頻度が高い言葉であると言える。
では何故「普段から使用頻度が高い文章」と言わずに「わかりやすい文章」と言うのであろうか。文字数が少ないほうが効率的であるからでは、と言うならば、「よく見かける文章」でも構わないはずである。
「わかりやすい」という言葉は、前提としてコミュニケーションの存在を意味している。誰か(何か)が誰かにとって「わかりやすい」でなくてはならない。「よく見かける」は独り言でも構わない。コミュニケーションしなくても「よく見かける」ことはできる。関係する主体は一人で構わない。人間にとってコミュニケーションの基本は「語らい」である。ラカン論でも語らい(ディスクール)という観念は重要な位置を占めている。となると、「わかりやすい」という言葉は、「よく見かける」という言葉と比して、「語らい」という意味成分が強く含まれているとも言えるであろう。一方、「文章」という言葉は言わずもがな「語らい」という意味は強くなる。そういった意味の親和性のようなものが、引力のように働いて言葉がくっつくのではないだろうか。だから、「よく見かける言葉」より「わかりやすい言葉」を使用することが多くなるのではないだろうか。
意味間の引力。そういったものが文脈性が暗黙の了解やお約束というルール的な力の正体なのではないか。
また、「わかりやすい」から「語らい」という意味成分の強さを測り取れるのも文脈即ちコンテクストのなせる業である。
例えば、「無色の緑の観念が猛烈に眠る」などという文章は文法こそ間違っていないが意味論的に間違っている文章である。人は何故意味論的にも正しい文章を構成できるのか。このことはその原因の一つでもないだろうか。
個人的な感触だが、この意味間の引力は、どんな意味でもいいというわけではないと思う。意味としての強度が強いものほど引力は強くなるような。そしてその意味の強度とは、後に述べる「クッションの刺し縫い」を軸にしているのではなかろうか。その軸を中心として、換喩と隠喩という繋がり方で、意味の構造が出来上がっている、そんな気がする。
ラカン論において、超自我とは象徴界である。超自我とは無意識でもあり、抑圧を役割としている。抑圧の力の正体も、先に述べたような言葉の意味の親和力が、あたかも分子間力のように多数存在し、高分子のように構造化されたものなのではないだろうか。ラカンのいう「無意識は言語のように構造化されている」ということである。
今高分子と述べたが、人間は生物である。生物は環境に合わせて対応しなければならない。つまり変性しなければならない。そこで、言葉=シニフィアンには、多義性が必要となるのだ。結合の腕が複数なければならないのである。だから言葉はシンボル(多義性のある記号)なのだ。
話を戻そう。
ラノベと切っても切れない関係にあるマンガという表現ジャンルは、イメージ的なシンボルを多用する表現である。
こういった文脈を持つシンボルが無意識に収納され、超自我となったらどうなるか。
フィードバック的にシンボルに対応するイメージも固定化されてしまうであろう。そのシニフィアンのシニフィエ(シニフィエ、シニフィアンについてはこちら)が固定化されてしまうのだ。つまりそれは多義性が損なわれる、結合の腕が減ってしまうことになる。超自我=象徴界の構造が変性しにくくなるのだ。融通が利かなくなるわけだ。また、結合の腕が減るということは、少し語感的におかしいところもあるが、構造の(変性の幅の)縮小化とも言えなくはないだろう。先の記事ではこれを箱庭化と述べている。
もちろんだからと言ってマンガを規制すべきなどというのは短絡的だと私は考える。シニフィアンはシニフィエと癒着してなくてはならない。この癒着が、辞書的ではなく体感として生じることをラカンは「クッションの刺し縫い」と呼んだ。クッションとは象徴界の喩えである。シニフィエ=イメージ主体の世界は想像界と呼ぶ。想像界は欲望の原因である対象aの住処でもある。欲望とは心的エネルギー(フロイト論ではリビドー)の動きであり、人間らしさの動力源でもある。それを刺激することは何も悪いことではない。シニフィエの固定化が一面的に悪いというわけではないのだ。また同様にライトノベル(ライトSF含む)やユング論や村上春樹氏や箱庭療法が悪影響の根源だなどと批判するつもりは毛頭ない。その後の対処でどうにかなる問題だと私は考える。
今私は悪影響と書いた。それは記号のサイン化のことである。表現文化視点だとこの傾向は悪影響であると、私はこのブログで何度も書いてきた。
ではサイン化という悪影響に対し、その後の対処とはどうすればよいのだろうか。それはその傾向を担う人々、その傾向が強く見られる文化の構成員の自覚が大事なのではなかろうか。
無意識と意識は相互影響下にある。意識次第で近接する無意識の一部を意識化することもできるのだ。
話をまとめよう。
冒頭の「キャラが勝手に動く」ことの根拠は超自我にある。
しかし現代人である我々の超自我は、先に書いたように「箱庭化」「サイン化」しているのではないだろうか。
そういったものを根拠にした「トランス状態」は、果たしてユングの普遍的無意識に近しいものであろうか。
私はそうは思わない。
何故なら「箱庭化」「サイン化」してしまう根拠はコンテクストだからだ。コンテクストを重視してしまうとその文脈を理解できない人を切り捨ててしまうことになる。コンテクスト主義とも言える「箱庭化」「サイン化」はむしろ普遍とは逆方向に向かっていることにならないだろうか。
つまり、「箱庭化」「サイン化」してしまった超自我=無意識を根拠に、トランス状態で降ろしてきた「勝手に動くキャラ」とは、普遍的なものとは言えない、ということだ。
むしろ「箱庭化」「サイン化」は構造の簡略化でもあるので、超自我=無意識から「勝手に動くキャラ」を「降ろし易く」なっているのではないだろうか、とすら思う。
創作論としての「キャラが勝手に動く」論にも、こういう落とし穴があると私は考える。
――という記事でしたー。