『削除ボーイズ0326』方波見大志――過去を受容した上での未来志向。
2006/11/15/Wed
※ネタバレ注意!
私はライトノベルもよく読む。というより、小説を本腰入れて読み始めたのは今年の春ぐらいからなのだが、そのきっかけはライトノベルだった。
もともと本は好きだったが、エッセイや評論ばかり読んでいたのだ。
ということで今回は、ライトノベルではないが児童文学の『削除ボーイズ0326』だ。
児童文学といっても大人の読めるものらしい。
本の帯には「生命力に満ちた人物造形」「疾走感」とある。うん。私好みかもしれない。
ポプラ社小説大賞2000万。すげー。
そんな前知識で読んでみた。
うーん。
小説というのは、私小説的な作家個人の情念に焦点を当てたものと、物語そのものに焦点を当てたものがあると思う。
前者は私小説、現代の純文学など、後者はそれこそライトノベルや児童文学だろう。
物語の構造は、現代ではかなり合理的に分析されている。ドラマツルギーやハリウッドの脚本術などだ。大塚英志氏などは「自動プロット生成ソフト」の一般化を提唱している。私は完全に同意する。それこそ「理」で解析できる物語の典型は、数学の公式的に利用可能にすればよいのだ。これは美術でいう黄金率や白銀率、遠近法の発見に似ていると思う。それによって絵画が一律化したり消滅したかといえばそうではない。理=ロゴスは、ソクラテスの問答法を見てもわかるように、誤解をなるべく少なくして、他人と思考を共有することを主題に育った思考方法であるので、共有しなければ何の意味もない。
と書いてみたが、この作品を読んだ第一印象は「ロジカルだなあ」というものだった。メインのネタである時間削除装置がデジカメだったということもあるだろう。ちょっとこの辺りを考えてみよう。
まずシーン構成。一つ一つのシーンが短くまとめられており、必要なところをきっちりと叙述している。これは上手い。しかし、全体で見るとどこかブツギリ感があるのだ。演劇をやっている身からすると、これは非常に映像的に見える。映像はシーン割が楽なのだ。人聞きの映画論では、なるべく無駄のないシーン構成を求められるそうだ。確かに余計なシーンをただ流されてもホームビデオにしかならないだろう。そういった意味でこの作品は映像的だなあ、という印象を持った。多分これが帯の「疾走感」という言葉の由来だろう。
しかし私は疾走感を感じなかった。疾走感というものは、ただシーンが経済的に連なるだけで生まれるものではない。物語で人は何を見るかというと、「人間」だ(擬人化されたものも含めて)。つまり、登場人物の内面に「疾走感」がないと、物語の「疾走感」に至らない。
本作品は一人称であるので、主人公の感情は表現しやすいのだが、どこか三人称的なイメージがある。最近のひねた・冷めた小学生、大人びた客観性を持つ引いた感じのキャラクターのせいなのかもしれない(余談だがライトノベルの主人公はこういうタイプが多い)。主人公の感情にメリハリがないのだ。感情の流れさえもブツギリ感があるといったほうがよいか。では三人称で書けばよかったのかというと、そうでもない。なぜなら他のキャラクターもどこか平面的だからだ。アニメ的というと語弊がある。昔の「ズッコケ三人組」のような、児童文学的な感じがする。児童文学と考えればそれでもよいかもしれないが、この作品は「リアリティ」に縛られている。「ズッコケ三人組」のキャラが実写的な小説世界に飛び込んだことにより大人しくなってしまったという感じだ。言ってしまえば、生き生きとしてはいるが、「生命力に満ちた人物造形」とはとても思えなかった。登場人物については児童文学的フィクションとリアルの間で板ばさみになり、中途半端になってしまった、という印象だ。下手に「大人も読める」というフレーズを入れてしまったせいだろうか。しかしライトノベルのような、あたかもアニメキャラをモデルに作ったキャラを無自覚に垂れ流すよりかは好感が持てた。
(ライトノベル論になるが、アニメキャラをベースにキャラを作ったとしても、ギャグやコメディならいいのだ。なぜならチャップリンを考えてみればよい。あれは戯画的だ。滑稽さは他人を客観視、抽象化することで成り立つものだからだ。問題なのは、そういった人間味のないキャラが人間味を要素とした物語に使われることだ。それに感動してしまう若者にも、私は「(リアルの)自分・他人の解釈のサイン化」という意味での危険性を感じる。大塚氏が危機管理としての近代私小説復興を唱えているのも、こういった視点で納得できる。)
まとめると、疾走感を出すためのシーン構成が、登場人物の心の動きを阻害しており、リアルを求めすぎたことにより、登場人物の自由度を奪ってしまう結果になった、ということか。
登場人物の心の動き、つまりは登場人物の情念、パトスだ。これが足りないのだ。ロゴスとパトスは哲学において対比されるように、お互いに相性が悪い。デリダの思想を拝借するなら、「ロゴス中心主義」的な物語という印象である。
そもそもSFというのはロゴス的な科学技術を主題にしている。しかし、ロゴスを積み重ねる上に成り立つパトスや、ロゴスが乖離することでメタ的に作用するパトスがSFの醍醐味だと私は思っている。
情念は、文芸では暗喩や換喩で想起させる。なるほど、この作品は風景描写や、直接的な心理描写が多く、シンボリックな表現とは言えない。
別にロゴス主体の小説を悪いと言っているわけではない。そのロゴス、物語の「理」も、この作品においては中途半端なのだ。
ドラマツルギーなど、技術論的なところは非常に上手い。ではどこの「理」が中途半端なのか。
時間移動モノのつじつまの破綻か。記憶が無くなるか無くならないかでご都合主義的なところは見えたが、私は問題なかった。
中途半端なのは、プロローグにもあるこの物語の主題、「バタフライエフェクト」についてだ。
バタフライエフェクトというものは、カオスな系おいて、少しの初期条件の差異によってその結果が大きく変わるというものだ。現実世界は超複雑系によるカオスである。だから「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」ということになる。
過去や同時間の他の事物の相互作用によって大きく未来は変わる。だから過去は大切なんだ、という論法だ。このメッセージは、劇場アニメ版「時をかける少女」と類似している。
しかし、この作品では、ラストで変えてしまった過去を削除装置自体の削除で消そうとしてしまう。変えてしまった過去を大切にしていないのだ。というより、この作品内で起こった物語を削除しようとしているのだ(完全に元に戻るかはわからないが)。これでは、とても「過去を大切にした上での未来志向」とは言えないと思う。
(余談だが、「時かけ」のヒットはこの過去を大事にすることによる未来志向が受けたのだと思う。コジェーブの言った「歴史の終焉」から、東浩紀氏や大塚氏はポストモダンの(歴史をモデルにした)「大きな物語の消失」というトレンドをオタク文化の中に見出した。そんな中で過去=歴史の大切さを「情念的に」訴えた「時かけ」はカウンターパンチとして有効だったのだろう。アニメというオタク文化に収束される表現手段もよかったのかもしれない。)
過去を収束的に解釈する指向は父性といえる。過去に意味を与えるのはロゴスによる。デリダの言う「言葉の散種と多義性」という概念からもそれが読み取れる。オタク文化、学校教育という父性不在・母性メインの世界と、資本主義社会というロゴス中心主義的・父性的な現実。その狭間で躊躇する日本現代人の心に、「過去を受容することでの未来志向」が響いたのであろう。こういう視点で捉えると、いささか暴論になるが、「時かけ」のヒットはネット世代の若者の愛国心と似たような心理が働いた結果かもしれない。)
主人公たちは、何故この物語たる過去を消そうとしたのか。物語なんかじゃなくリアルを考えろよ、という作者のメッセージかもしれない。しかし、削除装置を消すことで得られる未来こそ、元にあった未来ではなくフィクションの未来なのだ。
ラスト、登場人物たちは物語を消すことで記憶が消えるのを恐れる。消えれば元の未来に進む現在に近い現在に戻るだろう。しかし記憶が無くならないとも限らない。その未来は完全に同一ではないのだ。ここが、「時かけ」と比べると中途半端な印象を拭えない理由だ。もし書くのであれば、車椅子に戻ったハルが、全ての記憶を取り戻して尚且つ車椅子の自分を受け入れる、その上で未来を見つめるといったラストが必要だったのではないか。
しかし、本作品のようなラストも、筋的には悪くない。何故ダメなのか。登場人物たちに「(変えてしまった)過去への後悔、それを受容する情念」が見えないからだ。ラスト(プロローグ含む)の文章表現が、それなしで未来志向っぽく書いているからだ。この表現からは、どうしても「まやかし・フィクションの未来志向」という印象しか持てない。
記憶を消されても後悔のような感情だけが残るというオリジナル「時かけ」のような切なさもない。もしそれを求めるのであれば、(本当のエピローグである)プロローグの最後に「僕は全てを忘れてしまった。」みたいな一文がなければならない。
物語的に尻切れトンボにもなってるわけではない。物語の技術論をきちっと踏まえちゃんとオチっぽく書かれているからだ。
つまり、ラストとプロローグで作者自身が、主題(バタフライエフェクト)に関わる「理」の中で混乱しているようにしか見えないのだ。
このことから、「理」の部分も中途半端という感想になってしまったのだと思う。
結論にしよう。
物語としては、「上手」という点でおもしろいとは言える。
しかしラストでの釈然のしないところを読み解けば、作者の混乱が見えてきてしまった。これは、一番最初に書いた「物語そのものに焦点を当てた作品」では、(作者の意識が物語に表出してしまうことは)致命的といえよう。
帯で惹かれた要素も、私には届かずじまいだった。
何か批判ばっかりになってしまったけど、技術はある作家さんだと思うので、「小さな物語」を大量生産してくれればいいかなあ、なんて思います……。う、最後まで褒められなかった。い、いや、おもしろくなくはないですよ(汗)。
私はライトノベルもよく読む。というより、小説を本腰入れて読み始めたのは今年の春ぐらいからなのだが、そのきっかけはライトノベルだった。
もともと本は好きだったが、エッセイや評論ばかり読んでいたのだ。
ということで今回は、ライトノベルではないが児童文学の『削除ボーイズ0326』だ。
児童文学といっても大人の読めるものらしい。
本の帯には「生命力に満ちた人物造形」「疾走感」とある。うん。私好みかもしれない。
ポプラ社小説大賞2000万。すげー。
そんな前知識で読んでみた。
うーん。
小説というのは、私小説的な作家個人の情念に焦点を当てたものと、物語そのものに焦点を当てたものがあると思う。
前者は私小説、現代の純文学など、後者はそれこそライトノベルや児童文学だろう。
物語の構造は、現代ではかなり合理的に分析されている。ドラマツルギーやハリウッドの脚本術などだ。大塚英志氏などは「自動プロット生成ソフト」の一般化を提唱している。私は完全に同意する。それこそ「理」で解析できる物語の典型は、数学の公式的に利用可能にすればよいのだ。これは美術でいう黄金率や白銀率、遠近法の発見に似ていると思う。それによって絵画が一律化したり消滅したかといえばそうではない。理=ロゴスは、ソクラテスの問答法を見てもわかるように、誤解をなるべく少なくして、他人と思考を共有することを主題に育った思考方法であるので、共有しなければ何の意味もない。
と書いてみたが、この作品を読んだ第一印象は「ロジカルだなあ」というものだった。メインのネタである時間削除装置がデジカメだったということもあるだろう。ちょっとこの辺りを考えてみよう。
まずシーン構成。一つ一つのシーンが短くまとめられており、必要なところをきっちりと叙述している。これは上手い。しかし、全体で見るとどこかブツギリ感があるのだ。演劇をやっている身からすると、これは非常に映像的に見える。映像はシーン割が楽なのだ。人聞きの映画論では、なるべく無駄のないシーン構成を求められるそうだ。確かに余計なシーンをただ流されてもホームビデオにしかならないだろう。そういった意味でこの作品は映像的だなあ、という印象を持った。多分これが帯の「疾走感」という言葉の由来だろう。
しかし私は疾走感を感じなかった。疾走感というものは、ただシーンが経済的に連なるだけで生まれるものではない。物語で人は何を見るかというと、「人間」だ(擬人化されたものも含めて)。つまり、登場人物の内面に「疾走感」がないと、物語の「疾走感」に至らない。
本作品は一人称であるので、主人公の感情は表現しやすいのだが、どこか三人称的なイメージがある。最近のひねた・冷めた小学生、大人びた客観性を持つ引いた感じのキャラクターのせいなのかもしれない(余談だがライトノベルの主人公はこういうタイプが多い)。主人公の感情にメリハリがないのだ。感情の流れさえもブツギリ感があるといったほうがよいか。では三人称で書けばよかったのかというと、そうでもない。なぜなら他のキャラクターもどこか平面的だからだ。アニメ的というと語弊がある。昔の「ズッコケ三人組」のような、児童文学的な感じがする。児童文学と考えればそれでもよいかもしれないが、この作品は「リアリティ」に縛られている。「ズッコケ三人組」のキャラが実写的な小説世界に飛び込んだことにより大人しくなってしまったという感じだ。言ってしまえば、生き生きとしてはいるが、「生命力に満ちた人物造形」とはとても思えなかった。登場人物については児童文学的フィクションとリアルの間で板ばさみになり、中途半端になってしまった、という印象だ。下手に「大人も読める」というフレーズを入れてしまったせいだろうか。しかしライトノベルのような、あたかもアニメキャラをモデルに作ったキャラを無自覚に垂れ流すよりかは好感が持てた。
(ライトノベル論になるが、アニメキャラをベースにキャラを作ったとしても、ギャグやコメディならいいのだ。なぜならチャップリンを考えてみればよい。あれは戯画的だ。滑稽さは他人を客観視、抽象化することで成り立つものだからだ。問題なのは、そういった人間味のないキャラが人間味を要素とした物語に使われることだ。それに感動してしまう若者にも、私は「(リアルの)自分・他人の解釈のサイン化」という意味での危険性を感じる。大塚氏が危機管理としての近代私小説復興を唱えているのも、こういった視点で納得できる。)
まとめると、疾走感を出すためのシーン構成が、登場人物の心の動きを阻害しており、リアルを求めすぎたことにより、登場人物の自由度を奪ってしまう結果になった、ということか。
登場人物の心の動き、つまりは登場人物の情念、パトスだ。これが足りないのだ。ロゴスとパトスは哲学において対比されるように、お互いに相性が悪い。デリダの思想を拝借するなら、「ロゴス中心主義」的な物語という印象である。
そもそもSFというのはロゴス的な科学技術を主題にしている。しかし、ロゴスを積み重ねる上に成り立つパトスや、ロゴスが乖離することでメタ的に作用するパトスがSFの醍醐味だと私は思っている。
情念は、文芸では暗喩や換喩で想起させる。なるほど、この作品は風景描写や、直接的な心理描写が多く、シンボリックな表現とは言えない。
別にロゴス主体の小説を悪いと言っているわけではない。そのロゴス、物語の「理」も、この作品においては中途半端なのだ。
ドラマツルギーなど、技術論的なところは非常に上手い。ではどこの「理」が中途半端なのか。
時間移動モノのつじつまの破綻か。記憶が無くなるか無くならないかでご都合主義的なところは見えたが、私は問題なかった。
中途半端なのは、プロローグにもあるこの物語の主題、「バタフライエフェクト」についてだ。
バタフライエフェクトというものは、カオスな系おいて、少しの初期条件の差異によってその結果が大きく変わるというものだ。現実世界は超複雑系によるカオスである。だから「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」ということになる。
過去や同時間の他の事物の相互作用によって大きく未来は変わる。だから過去は大切なんだ、という論法だ。このメッセージは、劇場アニメ版「時をかける少女」と類似している。
しかし、この作品では、ラストで変えてしまった過去を削除装置自体の削除で消そうとしてしまう。変えてしまった過去を大切にしていないのだ。というより、この作品内で起こった物語を削除しようとしているのだ(完全に元に戻るかはわからないが)。これでは、とても「過去を大切にした上での未来志向」とは言えないと思う。
(余談だが、「時かけ」のヒットはこの過去を大事にすることによる未来志向が受けたのだと思う。コジェーブの言った「歴史の終焉」から、東浩紀氏や大塚氏はポストモダンの(歴史をモデルにした)「大きな物語の消失」というトレンドをオタク文化の中に見出した。そんな中で過去=歴史の大切さを「情念的に」訴えた「時かけ」はカウンターパンチとして有効だったのだろう。アニメというオタク文化に収束される表現手段もよかったのかもしれない。)
過去を収束的に解釈する指向は父性といえる。過去に意味を与えるのはロゴスによる。デリダの言う「言葉の散種と多義性」という概念からもそれが読み取れる。オタク文化、学校教育という父性不在・母性メインの世界と、資本主義社会というロゴス中心主義的・父性的な現実。その狭間で躊躇する日本現代人の心に、「過去を受容することでの未来志向」が響いたのであろう。こういう視点で捉えると、いささか暴論になるが、「時かけ」のヒットはネット世代の若者の愛国心と似たような心理が働いた結果かもしれない。)
主人公たちは、何故この物語たる過去を消そうとしたのか。物語なんかじゃなくリアルを考えろよ、という作者のメッセージかもしれない。しかし、削除装置を消すことで得られる未来こそ、元にあった未来ではなくフィクションの未来なのだ。
ラスト、登場人物たちは物語を消すことで記憶が消えるのを恐れる。消えれば元の未来に進む現在に近い現在に戻るだろう。しかし記憶が無くならないとも限らない。その未来は完全に同一ではないのだ。ここが、「時かけ」と比べると中途半端な印象を拭えない理由だ。もし書くのであれば、車椅子に戻ったハルが、全ての記憶を取り戻して尚且つ車椅子の自分を受け入れる、その上で未来を見つめるといったラストが必要だったのではないか。
しかし、本作品のようなラストも、筋的には悪くない。何故ダメなのか。登場人物たちに「(変えてしまった)過去への後悔、それを受容する情念」が見えないからだ。ラスト(プロローグ含む)の文章表現が、それなしで未来志向っぽく書いているからだ。この表現からは、どうしても「まやかし・フィクションの未来志向」という印象しか持てない。
記憶を消されても後悔のような感情だけが残るというオリジナル「時かけ」のような切なさもない。もしそれを求めるのであれば、(本当のエピローグである)プロローグの最後に「僕は全てを忘れてしまった。」みたいな一文がなければならない。
物語的に尻切れトンボにもなってるわけではない。物語の技術論をきちっと踏まえちゃんとオチっぽく書かれているからだ。
つまり、ラストとプロローグで作者自身が、主題(バタフライエフェクト)に関わる「理」の中で混乱しているようにしか見えないのだ。
このことから、「理」の部分も中途半端という感想になってしまったのだと思う。
結論にしよう。
物語としては、「上手」という点でおもしろいとは言える。
しかしラストでの釈然のしないところを読み解けば、作者の混乱が見えてきてしまった。これは、一番最初に書いた「物語そのものに焦点を当てた作品」では、(作者の意識が物語に表出してしまうことは)致命的といえよう。
帯で惹かれた要素も、私には届かずじまいだった。
何か批判ばっかりになってしまったけど、技術はある作家さんだと思うので、「小さな物語」を大量生産してくれればいいかなあ、なんて思います……。う、最後まで褒められなかった。い、いや、おもしろくなくはないですよ(汗)。