あー
2013/10/04/Fri
いー
うー
まあどうでもいいんだけど。
「知を想定された主体」というのもそういう転移なんだよね。
んで、分析家は転移を禁止されている。
また、ラカンは教育分析と普通の精神分析の区別をしてない。つまり精神分析とはすべて分析家を育てるものだと。
あとはわかるな?
わかるな? とか言いながら具体的に実際の精神分析過程に沿って書いてみよう。
まあ大体まじめに精神分析受けようなんて人は、分析家が自分の悩みの答えを知ってると思ってるものだろう。その答えを教えてくれると期待して分析を受けるわけだ。冷やかしとかじゃなければ。
その分析家に実際に会う前から、クライエントは分析家を「知を想定された主体」として転移しているなんてこともありえる。
で、実際に精神分析を受ける。
ところが分析家は自分の心理について何も答えを言わない。分析家を「知を想定された主体」とするクライエントの転移は切断されてしまう。
そういう期待が裏切られることでもあるから、がっかりしたりしよう。これがラカン派が精神分析過程で重視するデプレッションだ。
このときはじめてクライエントは、相手を「知を想定された主体」とする自分の転移について、分析することが可能となる。
このときやっとクライエントは分析主体となるわけだ。
あれだ、「愛が措定されるのは、何よりも愛がその対象をあきらめる彼岸においてだけなのです。」って奴だ。
転移は切断されない限り、主体はそれを転移として分析できない。
なんかもうなー。
「知識人」に固執する人にとっては、ここが最大の難関だったりするんだろうな。
ラカン曰く「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」。
これなんかも、セミナーに来ている奴らにおける自分を「知を想定された主体」とする転移を切断する操作だったりすんじゃねーの。
うー
まあどうでもいいんだけど。
「知を想定された主体」というのもそういう転移なんだよね。
んで、分析家は転移を禁止されている。
また、ラカンは教育分析と普通の精神分析の区別をしてない。つまり精神分析とはすべて分析家を育てるものだと。
あとはわかるな?
わかるな? とか言いながら具体的に実際の精神分析過程に沿って書いてみよう。
まあ大体まじめに精神分析受けようなんて人は、分析家が自分の悩みの答えを知ってると思ってるものだろう。その答えを教えてくれると期待して分析を受けるわけだ。冷やかしとかじゃなければ。
その分析家に実際に会う前から、クライエントは分析家を「知を想定された主体」として転移しているなんてこともありえる。
で、実際に精神分析を受ける。
ところが分析家は自分の心理について何も答えを言わない。分析家を「知を想定された主体」とするクライエントの転移は切断されてしまう。
そういう期待が裏切られることでもあるから、がっかりしたりしよう。これがラカン派が精神分析過程で重視するデプレッションだ。
このときはじめてクライエントは、相手を「知を想定された主体」とする自分の転移について、分析することが可能となる。
このときやっとクライエントは分析主体となるわけだ。
あれだ、「愛が措定されるのは、何よりも愛がその対象をあきらめる彼岸においてだけなのです。」って奴だ。
転移は切断されない限り、主体はそれを転移として分析できない。
なんかもうなー。
「知識人」に固執する人にとっては、ここが最大の難関だったりするんだろうな。
ラカン曰く「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」。
これなんかも、セミナーに来ている奴らにおける自分を「知を想定された主体」とする転移を切断する操作だったりすんじゃねーの。
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