「お前がどんなに否認してもお前はお前から逃げられない」
2013/10/11/Fri
んー、これなあ。この「お前」が何を指すのかで意味ぐるぐる変わるが。
「主体」って単語も結構適当なんだよな。
わたしの問題としては「お前」にしろ「主体」にしろそれにエスが含まれるかどうかなんだが。
ミレールの政治に関与するのはキモイんだが、こっちにも書いておくか。
「人はみな狂人である。言い換えれば、妄想的である」
しかし「妄想だから」と言って「ない」ものとしてはならない。
そうしてしまうとデリダの言うように「手紙は宛先に届かない」となってしまう。
「妄想は、妄想として、現実にある」のである。
それは臨床における事実だ。
だからラカンは臨床家として「手紙は必ず宛先に届く」としなければならなかったのだ。
自我とは妄想である。大文字小文字問わず他者とは妄想である。
健常者の自我も他者も、自己愛型人格障害者の増長した自我も、精神病者の関係妄想上の他者も、等しく妄想である。
その妄想を科学するのが精神分析である。
これあれだ、仏教中観派の「一切は空である」が「空をよく知るのが正覚である」って話だと思うんだよな。
すべては妄想だが、妄想だからと言ってそれを切り捨てるわけではない。すべては妄想であり、妄想をよく知ることが大事だと。
そしてここが虚無主義と決定的に違うところかと。
虚無主義は、「すべては空である」「すべては妄想である」というところまでは中観と同じだが、「妄想だから切り捨てる」となり「すべてを切り捨てる」となり、結果「すべては無である」となる。
中観は虚無主義ではないのだよな。
またこう書くとニーチェの積極的ニヒリズムみたいな話になっちゃいそうだが、それとも違うんだよな。
ニーチェのそれは「妄想を妄想だとわかって妄想の中を生きる」ということであり、「妄想をよく知ること」とは微妙に異なる。
新宮一成の「精神分析はパラノイアを作るのが目的か」という問いで言えば、ニーチェの積極的ニヒリズムは「自分をパラノイアだとわかってるパラノイアを作る」という答えになる。
それは違うとわたしは思うんだな。
「パラノイアをよく知る」ことと、「自分をパラノイアだとわかっているパラノイアになる」ことは別物だ。
とか書いたけど中観の直系である華厳なんか積極的ニヒリズムくせーなーとおもた。
じじむげとか。角度とか。
「主体」って単語も結構適当なんだよな。
わたしの問題としては「お前」にしろ「主体」にしろそれにエスが含まれるかどうかなんだが。
ミレールの政治に関与するのはキモイんだが、こっちにも書いておくか。
「人はみな狂人である。言い換えれば、妄想的である」
しかし「妄想だから」と言って「ない」ものとしてはならない。
そうしてしまうとデリダの言うように「手紙は宛先に届かない」となってしまう。
「妄想は、妄想として、現実にある」のである。
それは臨床における事実だ。
だからラカンは臨床家として「手紙は必ず宛先に届く」としなければならなかったのだ。
自我とは妄想である。大文字小文字問わず他者とは妄想である。
健常者の自我も他者も、自己愛型人格障害者の増長した自我も、精神病者の関係妄想上の他者も、等しく妄想である。
その妄想を科学するのが精神分析である。
これあれだ、仏教中観派の「一切は空である」が「空をよく知るのが正覚である」って話だと思うんだよな。
すべては妄想だが、妄想だからと言ってそれを切り捨てるわけではない。すべては妄想であり、妄想をよく知ることが大事だと。
そしてここが虚無主義と決定的に違うところかと。
虚無主義は、「すべては空である」「すべては妄想である」というところまでは中観と同じだが、「妄想だから切り捨てる」となり「すべてを切り捨てる」となり、結果「すべては無である」となる。
中観は虚無主義ではないのだよな。
またこう書くとニーチェの積極的ニヒリズムみたいな話になっちゃいそうだが、それとも違うんだよな。
ニーチェのそれは「妄想を妄想だとわかって妄想の中を生きる」ということであり、「妄想をよく知ること」とは微妙に異なる。
新宮一成の「精神分析はパラノイアを作るのが目的か」という問いで言えば、ニーチェの積極的ニヒリズムは「自分をパラノイアだとわかってるパラノイアを作る」という答えになる。
それは違うとわたしは思うんだな。
「パラノイアをよく知る」ことと、「自分をパラノイアだとわかっているパラノイアになる」ことは別物だ。
とか書いたけど中観の直系である華厳なんか積極的ニヒリズムくせーなーとおもた。
じじむげとか。角度とか。
/ 未分類