に
2014/04/16/Wed
精神分析の重要な研究テーマは、欲望あるいはリビドーである。
中沢新一は「愛を科学できるのは精神分析だけである」と言ったが、これは間違っていない。
ふと欲望あるいはリビドーについての定義を考えてみた。
今更かもしれないが、フロイトとラカンにおいて、欲望あるいはリビドーの定義における重要な違いがあることに気付いた。
フロイトは「リビドーは対象に備給される」というように、リビドーがまずあって、対象にそれが向かうという考え方をしていた。
一方ラカンは、「欲望とは他者の欲望である」とした。これはフロイト的な言い方で言えば、対象=他者がまずあって、それにより欲望=リビドーが生じる、という考え方である。
この転換は「シニフィアンの恣意性」にも似ている。
いやそれだけ。
中沢新一は「愛を科学できるのは精神分析だけである」と言ったが、これは間違っていない。
ふと欲望あるいはリビドーについての定義を考えてみた。
今更かもしれないが、フロイトとラカンにおいて、欲望あるいはリビドーの定義における重要な違いがあることに気付いた。
フロイトは「リビドーは対象に備給される」というように、リビドーがまずあって、対象にそれが向かうという考え方をしていた。
一方ラカンは、「欲望とは他者の欲望である」とした。これはフロイト的な言い方で言えば、対象=他者がまずあって、それにより欲望=リビドーが生じる、という考え方である。
この転換は「シニフィアンの恣意性」にも似ている。
いやそれだけ。
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