女は現実主義者?
2007/09/06/Thu
赤ちゃんの世界は、断片の世界であると書いた。
六ヶ月~十八ヶ月に生ずる鏡像段階において、自分というものを統合し、他の断片は他者という「個」に統合される。同時に、自分と他者は切断される。自分も他者も関係なく断片だった世界から、自己の鏡像というシンボルの下に統合されることにより、自分と他者の間に決して越えることのできない「断絶」が生じてしまうのだ。
この断絶は凄惨な悲劇だ。母胎にいた頃のような母との一体感を、最終的に否定するものだからだ。
ラカンは、鏡像段階により生じるこの葛藤がパラノイアの原理となると言っている。悲劇による幼児の攻撃性などは、確かに独占的で排他的であり、パラノイア的である。
幼児はこれを経て言葉を覚える。鏡像段階の時期には既に「ぶーぶー(車)」などといった「完語文」を喋っているが、外部記録装置から言語の構造を得ることは、鏡像段階以降と考えてよいだろう。
ラカンによれば象徴界への参入が去勢となるわけだから、この言語構造の習得を象徴的去勢とし、鏡像段階における、統合と表裏一体の切断を想像的去勢と呼んで区別したい。
もちろん鏡像段階においても最初のシンボルである「自分の鏡像」を手に入れるわけだから、これだって象徴的去勢といえなくもないが、便宜的に、である。
これを前提にして、自閉症について少し考えてみた。
今では自閉症というものは、カナー型という低機能自閉症と、アスペルガーという高機能自閉症というものに区別されている。しかし、アスペルガーという言葉の元になったHans Asperger氏は、現在高機能自閉症と呼ばれているその症状を、「自閉的精神病質」と総括している。病質というのは、ぶっちゃけると「○○病っぽい人格」という意味である。たとえばスキゾイドは分裂病質であるから、「見た感じ分裂病っぽい人格」ということになるが、現在ではスキゾイドと統合失調症の関係は否定されている。DSM的には「パーソナリティ障害」の一つみたいなものだろう。
ということで、わたしはアスペルガーという症状は、カナー型などで言われている器質因ではなく、心因もしくは鬱病や統合失調症と同じく内因によるものだと考えている。寡症状性の統合失調症の症状と、ある種の自閉症の成人期における症状には類似点があるという報告もある。とは言っても統合失調症とアスペルガーが同じ構造で症状化するとは私は思っていない。その違いは、アスペルガーではなくスキゾイドとの違いとして、印象論のメモ書きみたいな記事を書いたことがある。またこういったことからも、アスペルガーとスキゾイドの関連性が浮かび上がってくる。SF界では有名な精神科医サイコドクター氏の記事にも似たようなことが書いてある。
ここで最初の論と合流する。
アスペルガーというと語弊がありそうなので、先述したようにアスペルガーとの類似性を含意したスキゾイドという言葉を用いよう。
先にも書いたように、鏡像段階と言語構造の習得は時期的に近接している。鏡像段階時の幼児は、言語習得のレッスン1である完語文を喋っているものだ。
この鏡像段階→象徴界への参入というプログラムが、何らかの原因によって前後したりすることだってありえるだろう。
一般人の言語構造は、「わたし」である象徴的ファルスΦが軸となっている。Φが他の全て言語へと隠喩的に影響している。簡単に言うならば「我思うゆえに我あり」の「我」である。これは鏡像段階における「鏡像のわたし」という他者が元になっている。
鏡像段階によりΦの卵を手に入れてから言語構造を習得する。だから、思考によりその構造を辿ると「我あり」となるのだ。
このプログラムが不全だった場合はどうなるであろうか。
「我あり」という軸の、象徴的ファルスΦの卵であり、原始のシンボルとも言うべき「自分という鏡像」を得られないまま言語構造を習得するとどうなるであろう。
言語の軸が不安定なままそれを習得することになる。コンピューターでいうならメタ言語がないまま言語を打ち込まれるようなものだ。結果、彼らは言語を覚えたとしても、一般人から見ると言語的に混乱しているように見えてしまう。
そんな彼らも成長していくうちにΦなるものを体感していくだろう。しかし言語構造を先に覚えたからには、Φの存在に対して疑ってしまう。軸がない言語世界を体感しているから、それを安定せしめる軸に対して疑ってしまうのだ。
わたしの知り合いのアスペルガーの方が言った言葉に、「大人になるということは、コントの世界を生きること」というのがある。彼は軸がないことを知っているから、大人の社会や道徳などといった象徴的環境が「コント」に見えてしまうのだ。彼はコントの世界で、「軸がある」という演技をしているのだ。
しかし軸がないということは、束縛を受けていないということでもある。象徴は(要素としては有限であるが、組み合わせは)無限である。どこまでもどこまでも広がっていく。結果、軸に対し信頼感のないスキゾイドは、内的動力が象徴界>想像界となるのではないだろうか。
暴論的に話を進めたが、アスペルガーには女性が少ないという事実にも当てはまるものかもしれない。実を言うとこのことを考えている時に思いついた論だったりする。
この記事にも書いたが、女性は男性幼児と比べて去勢前に「去勢不安」なる状態に陥りにくいため、男児は去勢=象徴界への参入が「イベント的」であるのに対し、女児は「曖昧に」参入していく。女児にとっての象徴界への参入は、少年マンガによく見られる敵のボスとの対決などといった「事件性」のようなものが希薄なのだ。
それに象徴的ファルスΦのイメージ的代理物として二次的に仮設される想像的ファルスφ=ペニスそのものが、女性には存在しない。女性は元から言語構造の軸である象徴的ファルスΦの存在が希薄なのだ。だから女性の会話は非論理的だと男性は言う。
この象徴的ファルスΦの「ある」性が希薄なのは、スキゾイドと類似の構造を示している。先に軸がないことは束縛を受けていないということだと書いたが、言い方を変えるなら一貫性がない、構造的にならないということである。構造的というとわかりにくいがここでは論理的と言い換えてもよかろう。だから女性はおしゃべりなのに(構造的にならない)非論理的なことしか言わない、となるのだ。
では何故女性にアスペルガーが少ないのだろう。
簡単である。アスペルガーにしろ他の精神疾患にしろ、症状というのはグラデーションになっている(ラカン論だとパラノイアに関しては父の名の排除というはっきりとした原因があることになるが)。つまり、非常に極端な言い方になってしまうが、軽度のアスペルガーが女性一般であるので、アスペルガーの症状が酷いと見做される人格は必然的に数が少なくなるのだ。と言ってから語弊がありそうと思いフォローするなら、まあ比喩みたいなもんだと思って下さい……。
なるほど、アスペルガーに言われがちな感情の不安定さも、女性のオハコなように思える。内向的なところは言わずもがなだろう。スキゾイドに言われる冷たさなどは、高校で解剖実験などやると女子学生が冷静に(あるいは楽しそうに)ことを進めるのに対し、怯えているのは男子学生に多いイメージがあるが、そういうところに表れているのかもしれない。それに男どもはよく言うではないか、「女は現実主義者だ」と。
とまあ、どこで終わっていいのかわからないので、今日はこんな感じにしておこう。
トラバを頂いて、そちらの文章を読んでるうちにある文章を思い出し、それにちゃちゃっと手を加えたのが今日の記事です。トラバありがとうございました。
うーん、断片的な思考はできるんだけどいろいろめんどくさくなっちゃうんだよなあ。最近。
あーあ……。
ずんどろべっちょ!
いえ、特に意味はありません。
六ヶ月~十八ヶ月に生ずる鏡像段階において、自分というものを統合し、他の断片は他者という「個」に統合される。同時に、自分と他者は切断される。自分も他者も関係なく断片だった世界から、自己の鏡像というシンボルの下に統合されることにより、自分と他者の間に決して越えることのできない「断絶」が生じてしまうのだ。
この断絶は凄惨な悲劇だ。母胎にいた頃のような母との一体感を、最終的に否定するものだからだ。
ラカンは、鏡像段階により生じるこの葛藤がパラノイアの原理となると言っている。悲劇による幼児の攻撃性などは、確かに独占的で排他的であり、パラノイア的である。
幼児はこれを経て言葉を覚える。鏡像段階の時期には既に「ぶーぶー(車)」などといった「完語文」を喋っているが、外部記録装置から言語の構造を得ることは、鏡像段階以降と考えてよいだろう。
ラカンによれば象徴界への参入が去勢となるわけだから、この言語構造の習得を象徴的去勢とし、鏡像段階における、統合と表裏一体の切断を想像的去勢と呼んで区別したい。
もちろん鏡像段階においても最初のシンボルである「自分の鏡像」を手に入れるわけだから、これだって象徴的去勢といえなくもないが、便宜的に、である。
これを前提にして、自閉症について少し考えてみた。
今では自閉症というものは、カナー型という低機能自閉症と、アスペルガーという高機能自閉症というものに区別されている。しかし、アスペルガーという言葉の元になったHans Asperger氏は、現在高機能自閉症と呼ばれているその症状を、「自閉的精神病質」と総括している。病質というのは、ぶっちゃけると「○○病っぽい人格」という意味である。たとえばスキゾイドは分裂病質であるから、「見た感じ分裂病っぽい人格」ということになるが、現在ではスキゾイドと統合失調症の関係は否定されている。DSM的には「パーソナリティ障害」の一つみたいなものだろう。
ということで、わたしはアスペルガーという症状は、カナー型などで言われている器質因ではなく、心因もしくは鬱病や統合失調症と同じく内因によるものだと考えている。寡症状性の統合失調症の症状と、ある種の自閉症の成人期における症状には類似点があるという報告もある。とは言っても統合失調症とアスペルガーが同じ構造で症状化するとは私は思っていない。その違いは、アスペルガーではなくスキゾイドとの違いとして、印象論のメモ書きみたいな記事を書いたことがある。またこういったことからも、アスペルガーとスキゾイドの関連性が浮かび上がってくる。SF界では有名な精神科医サイコドクター氏の記事にも似たようなことが書いてある。
ここで最初の論と合流する。
アスペルガーというと語弊がありそうなので、先述したようにアスペルガーとの類似性を含意したスキゾイドという言葉を用いよう。
先にも書いたように、鏡像段階と言語構造の習得は時期的に近接している。鏡像段階時の幼児は、言語習得のレッスン1である完語文を喋っているものだ。
この鏡像段階→象徴界への参入というプログラムが、何らかの原因によって前後したりすることだってありえるだろう。
一般人の言語構造は、「わたし」である象徴的ファルスΦが軸となっている。Φが他の全て言語へと隠喩的に影響している。簡単に言うならば「我思うゆえに我あり」の「我」である。これは鏡像段階における「鏡像のわたし」という他者が元になっている。
鏡像段階によりΦの卵を手に入れてから言語構造を習得する。だから、思考によりその構造を辿ると「我あり」となるのだ。
このプログラムが不全だった場合はどうなるであろうか。
「我あり」という軸の、象徴的ファルスΦの卵であり、原始のシンボルとも言うべき「自分という鏡像」を得られないまま言語構造を習得するとどうなるであろう。
言語の軸が不安定なままそれを習得することになる。コンピューターでいうならメタ言語がないまま言語を打ち込まれるようなものだ。結果、彼らは言語を覚えたとしても、一般人から見ると言語的に混乱しているように見えてしまう。
そんな彼らも成長していくうちにΦなるものを体感していくだろう。しかし言語構造を先に覚えたからには、Φの存在に対して疑ってしまう。軸がない言語世界を体感しているから、それを安定せしめる軸に対して疑ってしまうのだ。
わたしの知り合いのアスペルガーの方が言った言葉に、「大人になるということは、コントの世界を生きること」というのがある。彼は軸がないことを知っているから、大人の社会や道徳などといった象徴的環境が「コント」に見えてしまうのだ。彼はコントの世界で、「軸がある」という演技をしているのだ。
しかし軸がないということは、束縛を受けていないということでもある。象徴は(要素としては有限であるが、組み合わせは)無限である。どこまでもどこまでも広がっていく。結果、軸に対し信頼感のないスキゾイドは、内的動力が象徴界>想像界となるのではないだろうか。
暴論的に話を進めたが、アスペルガーには女性が少ないという事実にも当てはまるものかもしれない。実を言うとこのことを考えている時に思いついた論だったりする。
この記事にも書いたが、女性は男性幼児と比べて去勢前に「去勢不安」なる状態に陥りにくいため、男児は去勢=象徴界への参入が「イベント的」であるのに対し、女児は「曖昧に」参入していく。女児にとっての象徴界への参入は、少年マンガによく見られる敵のボスとの対決などといった「事件性」のようなものが希薄なのだ。
それに象徴的ファルスΦのイメージ的代理物として二次的に仮設される想像的ファルスφ=ペニスそのものが、女性には存在しない。女性は元から言語構造の軸である象徴的ファルスΦの存在が希薄なのだ。だから女性の会話は非論理的だと男性は言う。
この象徴的ファルスΦの「ある」性が希薄なのは、スキゾイドと類似の構造を示している。先に軸がないことは束縛を受けていないということだと書いたが、言い方を変えるなら一貫性がない、構造的にならないということである。構造的というとわかりにくいがここでは論理的と言い換えてもよかろう。だから女性はおしゃべりなのに(構造的にならない)非論理的なことしか言わない、となるのだ。
では何故女性にアスペルガーが少ないのだろう。
簡単である。アスペルガーにしろ他の精神疾患にしろ、症状というのはグラデーションになっている(ラカン論だとパラノイアに関しては父の名の排除というはっきりとした原因があることになるが)。つまり、非常に極端な言い方になってしまうが、軽度のアスペルガーが女性一般であるので、アスペルガーの症状が酷いと見做される人格は必然的に数が少なくなるのだ。と言ってから語弊がありそうと思いフォローするなら、まあ比喩みたいなもんだと思って下さい……。
なるほど、アスペルガーに言われがちな感情の不安定さも、女性のオハコなように思える。内向的なところは言わずもがなだろう。スキゾイドに言われる冷たさなどは、高校で解剖実験などやると女子学生が冷静に(あるいは楽しそうに)ことを進めるのに対し、怯えているのは男子学生に多いイメージがあるが、そういうところに表れているのかもしれない。それに男どもはよく言うではないか、「女は現実主義者だ」と。
とまあ、どこで終わっていいのかわからないので、今日はこんな感じにしておこう。
トラバを頂いて、そちらの文章を読んでるうちにある文章を思い出し、それにちゃちゃっと手を加えたのが今日の記事です。トラバありがとうございました。
うーん、断片的な思考はできるんだけどいろいろめんどくさくなっちゃうんだよなあ。最近。
あーあ……。
ずんどろべっちょ!
いえ、特に意味はありません。