『魔法少女まどか☆マギカ』を精神分析する(わけではない)。
2014/06/14/Sat
激しく時期を逸している話題だが、『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)という作品について、精神分析的にアプローチしてみようと思った。
一応言っとくと、アニメや小説の登場人物を精神分析するのは、結局それはその作者やその受取手の精神分析である、とわたしは思っている。
そうだとして、目的語をすりかえた遠回しな言い方(いわば「ネタ」)としてやってるなら別に文句は言わないが、そこがわかってなさそうなテクストもときおり見かけるので話の内容と関係ない釘を刺しておく。
というわけで「ネタ」的な話である。
と言いながら、わたしにとって「ネタ」じゃすまないことも含んでいるので、そこらへんは「マジレス」になる。
「マジレス」部分から話そう。こんな「時期を逸した話題」を書こうと思ったきっかけである。
「まど神様」というネットスラングがある。まあぶっちゃけストーリーのラストで主人公まどかは神みたいな存在になるというのはアニメを見て知っていてそういう話だとわたしは理解した。
で、別件で向井雅明の論文を読んでいて、そこに「La femme」という概念があった。
それについていろいろ考えているうちに、ふと「あれ、「まど神様」って要するに「La femme」ってことじゃね」と思ったのだ。
以上、そういう話である。概略としてはそれだけの話である。
それにまつわるわたしの「いろいろな考え」を以下書いていく。概略だけでいいって人は以下は読まなくていい。
「マジレス」は書いちゃったからあとは「ネタ」だし。
まず、精神分析理論として、今回主に準拠するのは、向井雅明の『神の女、シュレーバー』(Word注意)、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』、この二つのテクストとする。
先に書いた概略の通りであるので、まず向井の論文から「La femme」について書かれた部分を引用する。
ラカンは定冠詞付きの女(La femme)も父の名の一つとしてあるといっている。
La femmeは自己のうちに何か欠けているものを持つ女、つまり欲望を持った女ではなく、満ち足りて、完全な、そして性さえも持たない純粋な姿である。
父の名とは、神経症者、倒錯者の世界を強固に支えるものである。
精神病者にはそれがない。
それがない精神病者は、ファリックマザーやイマジネールな父という、父の名と比して強固ではない、補助的な機構で、なんとか世界を安定しようとする。
たとえばシュレーバーはイマジネールな父、「イメージに格下げされた父の機能」という補助機構によって、精神病の発症を抑えていた。
いわば「完全に治すことはできないけれど、病気の進行は遅らせることができる薬」のようなもの。
彼はその補助機構により、前精神病者として、社会的な生活を営んでいた。
向井の論文から。
父の名が正常に機能する世界から拒絶された子供にとって何が残るのであろう。父の機能はイメージというものにまで格下げされる。だがこの父のイメージは一つのモデルとして子供にイマジネールなかたちで何らかの引っ掛かり、つまり父親のイメージに同一化するということで、一応正常な生活を営むことができるのであるとラカンは言う。このようなイマジネールな補助機構でもばあいによっては長い間問題なく機能することができるのであるが、
本記事では、このイマジネールな父については言及しない。それについてはこちらかこちらをどうぞ。
この記事で取り上げるのは、ファリックマザーである。
シュレーバーについての解釈とは別のものとしてだが、ファリックマザーについて向井が述べている部分を引用する。
子供にとって悦びの世界とは欠けることなき完全な世界を意味し、彼にとって世界は母親によって体現されているのであるから、それは完全な母親の世界である。子供にとって母親に何か欠けたものがあれば、すなわちファリュスが欠けているとすると、彼は想像的ファリュスに同一化し、母親にそれを与え、完全な母親を作りだそうとする。ここには一つの悦びを実現した世界があるように見える。しかしながら上にも述べたように、これは実際には不安定で危険な世界で、子供は閉ざされた世界へと押し込まれ、主体的要因を失ってしまう。
ここでの「子供が母親にファルスを与えた完全な母親」というイメージが、ファリックマザーである。
このようなイマジネールな父やファリックマザーは、「世界を安定させるのに父の名ほど強固ではないイマジネールな補助機構」である。
こういった「イマジネールな補助機構」に世界を支えられているのが倒錯者であるが、彼らの世界には、彼ら自身は否認するのだが、父の名がある。
父の名によって強固に世界を支えられながら、それに気付いていながら、それを否認するのが倒錯である。
ここが父の名が排除されている精神病と異なるところである。
精神病と異なるのは、そこで前者は自我分裂という形をとったにせよ、一応去勢の現実について何か知っているのであって、それを排除として棄て去っているのではないということである。
倒錯者たちは、実際は父の名によって強固に世界を支えられながら、それを否認し、「イマジネールな補助機構」でも世界を支えている。
機械装置で言えば主電源と補助電源のようなもの。安心の二重構造。
ラカンは人間はみな精神病か神経症か倒錯かのいずれかだとしているが、この中で倒錯だけが必ずしも精神疾患だということになっていない社会的現実も、このことを裏付けているのではないだろうか。
精神世界が不安定であることが精神疾患であるならば、倒錯者たちは二重に世界を安定させているのだから。
以上は精神分析理論を俯瞰的に説明したものである。
次に臨床(とは言えないか)として、『まどマギ』という作品を解釈していきたい。
この作品を解釈するにあたり参考になるのが、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』である。初版は古く、当然『まどマギ』という作品に触れてはいないが、アニメ作品における「戦闘する美少女」に焦点を当て、オタク文化についての解釈を論じた著作である。
『まどマギ』も、メインキャラクターたちが「戦闘する美少女」であることは周知のことだろう。
斎藤は、「戦闘する美少女」について、二つの類型を示している。
一つは、トラウマ的な心の傷を持ち、それが原因で戦闘に身を投じる女性。これは日本のアニメには少なく、アメリカのコミックなどでよく見かける類型であると。
斎藤はこれを「ファリックマザー」とした。
もう一つは、作中ではその心の傷など触れられておらず、なぜ戦闘に身を投じるのか理由がわからない、ただ破壊するために破壊している、とでも言えるような、戦闘する女性。
彼女らは、ファルス的享楽的に戦闘や破壊行為を行っている。
日本のアニメにはこういった類型が多く見られる。それこそ当該著作の表紙にも採用された『エヴァンゲリオン』の綾波レイなど。
斎藤はこれを「ファリックガール」とした。
今考えるとこの「ファリックガール」という概念は非常に微妙である。まあ確かに斎藤個人が述べているだけの概念であり、学術的な、論理的あるいは臨床的な根拠もなく、もちろん斎藤自身それをわかっていわばネタのような話として述べているのだろうが。「出されたネタは皿まで食らうのがVIPクオリティ」などと申しましてな。まちょっとだけ。
たとえば斎藤が「ファリックガール」としている綾波レイも、心の傷がまったくないとは言えない。自分がクローン人間であることを彼女は知っている。これは単純に自我同一性の拡散となりえるだろう。
また、この概念について理解に苦しむ最たる理由の一つが、「ファリックガール」に『風の谷のナウシカ』のナウシカが並べられていることだ。
ナウシカのトラウマ的な心の傷は確かに作中では述べられない。それをもって「ファリックガール」としているのだろうが……。
まあほんとに創作の登場人物を精神分析するなどまったくバカげたことであることをわかって、臨床家として言わせてもらうと。
ナウシカは健常な精神性を持っている。現代における健常な精神は、「人はみな精神病か神経症か倒錯か」とするラカン理論で言えば、神経症あるいは倒錯に相当する。
神経症や倒錯の病理はトラウマである。
人は誰しもトラウマを持っているのである。原光景などという原初的なトラウマを考慮すれば。
わたしはこのことを「心が傷ついてトラウマになるのではなく、トラウマが心を作るのである」などと述べることがある。
以上から、健常な精神性と言えるナウシカは、作中でトラウマと言えるシーンが描かれてないだけで、何かしらのトラウマがあると考えなければならない。ラカン理論上。
それで言えばむしろ、綾波レイの方が(クローン人間である設定などを保留すれば)、臨床的に自閉症と似ているところがある、とは思える。
自閉症は器質因であり、トラウマが病因だとはされていない。
そう考えれば、綾波が、トラウマなどを理由とせず戦闘するすなわち攻撃性を症状として持つ「ファリックガール」である、というのはわからなくないのだが。
とりあえず、こういったことから、「ファリックガール」についてはこの程度の曖昧な概念だということにしておきたい。この記事では。
実際の精神分析理論に無理矢理組み込むのであれば――。分析家が、大雑把な症状はわかっているが、いまだ解釈に足る言葉を聞けてない(ゆえにそのトラウマも解釈できていない)、分析開始直後の分析主体、などとなろうか。
フロイトの元にやってきたばかりの頃のドラ、のような。
話がそれまくったが、『まどマギ』に戻ろう。
魔法少女たちは、「ファリックマザー」であろうか、「ファリックガール」であろうか。
さやか、ほむらはわかりやすい。この二人については、心に深い傷を負っていることが作中で描かれている。ストーリー上これらの要素は重要なポイントとなっておりかつ尺もかなり取られてるのでいちいち言及しないが。
杏子については、尺が短くさらっと流された感があるが、父との関係が、トラウマ的と言える。大抵の臨床家ならまずそこに飛びつくだろうと思える典型的なトラウマの糸口である。
さやか、ほむら、杏子はトラウマを持ち、それを理由として戦闘する「ファリックマザー」と言えよう。
マミとまどかについては、ストーリーの途上で、心に深い傷を負うというシーンは見られない。
まどかについてはクライマックスの流れは「心に傷を負う」ことだと思われるが、それが理由で魔法少女になって戦闘しているわけではない。
とは言え、マミもまどかも健常な精神性だと言える。よって論理上はトラウマがあるとなる。
つまりはナウシカタイプの「ファリックガール」である。
ここでは、マミとまどかは、そういう類型だということにしておく。
マミはストーリーの早いうちに死んでしまう。
先ほどまどかは「心に傷を負うシーンは見られない」とし「ファリックガール」としたが、このことが仲間であったまどかやさやかにとっては心の深い傷になりえたとも考えられる。
とすれば、『まどマギ』は、斎藤の執筆時には流行していた「ファリックガール」ではなく、「ファリックマザー」主体の物語であると言える。
アメコミや洋画などでは定番な、「心に深い傷を負い、それが原因で戦いに身を投じる女性」たちの物語であると。
それぞれが心に深い傷を持ち、それを原因として、魔女と戦うのが、魔法少女である、と。
ここで最初の向井の論に戻ろう。
ファリックガールとは、倒錯者が、そのイマジナールな世界を支える「イマジナールな補助機構」の一つである。
とすれば、『まどマギ』とは、作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいる作品だったと言える。
しかし、ここで考慮しなければならない点が一つある。それが「まど神様」だ。
まどかは、ストーリーの最後で、神のような存在になって、魔女がいない世界を作る。
このときのまどかは「魔法少女を救済する為だけの概念」になっている(未視聴者のために言っておくと、作中にそういったセリフがある)。
そのときのまど神様は、「ファリックガール」であろうか、「ファリックマザー」であろうか。
どちらでもない。
確かに以前は心の傷を持っていたのかもしれないが、魔女がいない世界を作ることで、彼女の心にもはや傷はない。
まど神様に「欠けているもの」はない。「欠けているもの」がないのだから、まど神様は「欲望を持っていない」。
まど神様は、満ち足りて、完全な、そして性さえも持たない純粋な姿である(なぜなら概念であるゆえ)。
などと大仰に書いたが、まど神様は、確かにアニメ作品であるゆえイメージとして描かれている(偶像化)されているわけだが、作中設定ではそれは「概念」なのである。象徴的な存在である。
かつ、彼女は新しい世界を作るという神のような力を持っている。
シュレーバーはそれを「神の女」と呼んだ。向井の論文から。
シュレーバーの妄想の最終段階で彼が神の女となり、世界救済の妄想を持つにいたったのがこれに相当する。
まど神様は、「La femme」だと言えないだろうか。
こう考えると、この作品は、ただの「作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいる作品」とは言えない。
まど神様が「La femme」であり父の名であるならば、それは倒錯者が去勢を承認していることとなる。
つまり、この作品は、「作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいたが、最終的に去勢を承認する作品だ」と言える。
これだけだとアニメに限らず映画などでもありがちなパターンに思えてしまうが、それだけではないのだ。
『まどマギ』は、倒錯者が去勢を承認する際、父の名の一つとしての「La femme」を鋭く描いた作品である、と言えるのではないだろうか。
「ファリックマザー」を「La femme」に昇華させた。
これが、この作品の重要なポイントなのではないだろうか。
――まあこんなとこにしとくか。
ふーう……。
うまいこと避けられたな。
最後に、個人的な感想を書いておこう。
えーと。リアルタイム放送からしばらくしてから見た。一年半前ぐらい?
ぶっちゃけここで取り上げてるラストは、わたしは「広げた風呂敷をうまく畳めずご都合主義的に無理矢理畳んだ」系だと思った。
ラストはどうも何にも思わなかったんだなー。
ただし全体としては評価は高い。魔女の表現であるとか(劇団イヌカレーか)、さやかの魔女になっていく件とか。
もともと新房さんは『ぱにぽにだっしゅ!』が好きでファンなのだが、彼の得意分野は高圧的なナンセンス化、とでも言えようか、そういうところがおもしろい。
高圧的と書いたが、物語などしょせんフィクションであり人間の妄想であるのだから、人間が高圧的で当たり前なのである。
物語を大事にする人からすれば彼のそういうところが鼻についたりすんだろうな、とか。なんか誰かから叩かれてたの思い出しつつ。
しかし、この作品にそういった高圧的なナンセンス主義みたいなところはない。
新房が珍しく物語にまじめに取り組んだ作品、と言えよう。
もちろん彼にそうさせた虚淵の脚本もよかったりするのだろう。
あとは安定の梶浦、シャフト、ってところで。
ただし、あの絵柄だけはだめだった。好きとか嫌いじゃなくて、人間としてわたしの脳が認識しない。
そもそも少女漫画とかによくある目が顔の八割を占めているような絵とか顔と認識できないことがあるんだな。マンガのゲシュタルト崩壊的な。
そんなわたしにあのヒラメ顔は高度すぎた。
わたしの認識能力ではあれを人間の顔と認識できなかった。
なんつの、『パトレイバー』とかの魚眼レンズ演出的な感覚。
人の顔を意味しているのは頭でわかっているけど感覚的にそう思えない、という。
まあ「『まどマギ』は、倒錯者が去勢を承認する際、父の名の一つとしての「La femme」を鋭く描いた作品である」とか書いたけど、あとでわたしがそうピンときただけで、作品自体は高評価であるのだけど、正直あのラストはおもんないと思ってる、ということは明言しておく。
よし、おわた!
以下蛇足雑感。
きっかけの話で省略したが、あるアスペ女性との会話から思いついたんだよな、この話。
検索回避として単語を故意に書き換えるが、
「微小な感覚的なゆらめきが、それが名付けられなくても、「ありえなくはない」でいいのならいいや」
というようなことを言った。
わたしは直感的に
「その「微小な感覚的なゆらめき」が、定型発達者が無自覚的に自閉症者を恐れるところかもしれない」
と思い、そう言った。
「それはなんで?」
と聞かれ、いろいろ考えているうちに、「La femmeを殺されるかもしれない不安」というところに行き着いた。
それは、わたしが自閉症者を臨床してきた経験の上での、あくまで曖昧な主観でしかない。
いろいろ考えていくうちに、この「微小な感覚的なゆらめき」が、構造的に、『まどマギ』における「魔女」に相当する、と思った。
そこで、「魔女がいない世界」を作り上げた「まど神様」を思い出し、「あーまど神様がLa femmeじゃん」と思った、わけだな。
「概念」である「まど神様」が、「名付けられない」「微小な感覚的なゆらめき」である「魔女」を一掃した世界を作る。
自閉症者の言語化が困難な「断片の世界」(ウタ・フリス『自閉症の謎を解き明かす』から)がない世界を作る。
その世界にすでにつねに生きているのが、定型発達者。
つーか見た直後にそのアスペ女性と『まどマギ』についていろいろ話したのだが、そこで「この魔女ってすげーわたしブログに書いてる魔女観にあってる」とか思ってさー。
「ワルプルギスの夜」とかそれこそ「世界は劇場、人生は夢」であってしかも「舞台装置の魔女」ってちょ、わたしwww元大道具wwwブログにもよく書いてるwww的な。
それで若干被害妄想(加害妄想?)になってた時期がありまして。ええすみません関係妄想です。
ちなみにわたしは、父の名とは、早い幼児期のうちに、動的な認知を制約させる脳反応だと考えていたりする。幼児が言語を名詞から覚えていく理由。ここ参照。
まあ藤田博史からネット上だけで境界例と診断されたわたしのことだから、この「La femme」は「La femme」つまり父の名じゃなくて、ただの「イマジネールな補助機構」だったのかもしれんけどな。
父の名は、どれほど強固なものか。
わたしはわからない。実際に確かめてみなければ。
物理なら簡単に壊せる。その人を殺せばいい。その人の父の名という精神作用はなくなる。
非物理で、どれだけ強固なものなのか。
まあある程度臨床して、確かに神経症者や倒錯、すなわち現代精神医学が正常とする精神は、ある局面、水上雅敏いわく「少し精神病や倒錯に近い状態」になった際、非常に強固な抵抗をしてくる、ということはわかっている。
自閉症者や精神病者は、簡単にというか蟻地獄的に精神が不安定になったり、発症する。
わたしは実際にある統合失調症患者に精神分析的アプローチをして発症させたことがある(ドヤ)(じゃねえ)。
臨床的に、それがあるだろうというのは同意する。
しかし、それがどれほど強固なものか、(定量的にはハナから無理だとして)定性的にわからない。
一応言っとくと、アニメや小説の登場人物を精神分析するのは、結局それはその作者やその受取手の精神分析である、とわたしは思っている。
そうだとして、目的語をすりかえた遠回しな言い方(いわば「ネタ」)としてやってるなら別に文句は言わないが、そこがわかってなさそうなテクストもときおり見かけるので話の内容と関係ない釘を刺しておく。
というわけで「ネタ」的な話である。
と言いながら、わたしにとって「ネタ」じゃすまないことも含んでいるので、そこらへんは「マジレス」になる。
「マジレス」部分から話そう。こんな「時期を逸した話題」を書こうと思ったきっかけである。
「まど神様」というネットスラングがある。まあぶっちゃけストーリーのラストで主人公まどかは神みたいな存在になるというのはアニメを見て知っていてそういう話だとわたしは理解した。
で、別件で向井雅明の論文を読んでいて、そこに「La femme」という概念があった。
それについていろいろ考えているうちに、ふと「あれ、「まど神様」って要するに「La femme」ってことじゃね」と思ったのだ。
以上、そういう話である。概略としてはそれだけの話である。
それにまつわるわたしの「いろいろな考え」を以下書いていく。概略だけでいいって人は以下は読まなくていい。
「マジレス」は書いちゃったからあとは「ネタ」だし。
まず、精神分析理論として、今回主に準拠するのは、向井雅明の『神の女、シュレーバー』(Word注意)、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』、この二つのテクストとする。
先に書いた概略の通りであるので、まず向井の論文から「La femme」について書かれた部分を引用する。
ラカンは定冠詞付きの女(La femme)も父の名の一つとしてあるといっている。
La femmeは自己のうちに何か欠けているものを持つ女、つまり欲望を持った女ではなく、満ち足りて、完全な、そして性さえも持たない純粋な姿である。
父の名とは、神経症者、倒錯者の世界を強固に支えるものである。
精神病者にはそれがない。
それがない精神病者は、ファリックマザーやイマジネールな父という、父の名と比して強固ではない、補助的な機構で、なんとか世界を安定しようとする。
たとえばシュレーバーはイマジネールな父、「イメージに格下げされた父の機能」という補助機構によって、精神病の発症を抑えていた。
いわば「完全に治すことはできないけれど、病気の進行は遅らせることができる薬」のようなもの。
彼はその補助機構により、前精神病者として、社会的な生活を営んでいた。
向井の論文から。
父の名が正常に機能する世界から拒絶された子供にとって何が残るのであろう。父の機能はイメージというものにまで格下げされる。だがこの父のイメージは一つのモデルとして子供にイマジネールなかたちで何らかの引っ掛かり、つまり父親のイメージに同一化するということで、一応正常な生活を営むことができるのであるとラカンは言う。このようなイマジネールな補助機構でもばあいによっては長い間問題なく機能することができるのであるが、
本記事では、このイマジネールな父については言及しない。それについてはこちらかこちらをどうぞ。
この記事で取り上げるのは、ファリックマザーである。
シュレーバーについての解釈とは別のものとしてだが、ファリックマザーについて向井が述べている部分を引用する。
子供にとって悦びの世界とは欠けることなき完全な世界を意味し、彼にとって世界は母親によって体現されているのであるから、それは完全な母親の世界である。子供にとって母親に何か欠けたものがあれば、すなわちファリュスが欠けているとすると、彼は想像的ファリュスに同一化し、母親にそれを与え、完全な母親を作りだそうとする。ここには一つの悦びを実現した世界があるように見える。しかしながら上にも述べたように、これは実際には不安定で危険な世界で、子供は閉ざされた世界へと押し込まれ、主体的要因を失ってしまう。
ここでの「子供が母親にファルスを与えた完全な母親」というイメージが、ファリックマザーである。
このようなイマジネールな父やファリックマザーは、「世界を安定させるのに父の名ほど強固ではないイマジネールな補助機構」である。
こういった「イマジネールな補助機構」に世界を支えられているのが倒錯者であるが、彼らの世界には、彼ら自身は否認するのだが、父の名がある。
父の名によって強固に世界を支えられながら、それに気付いていながら、それを否認するのが倒錯である。
ここが父の名が排除されている精神病と異なるところである。
精神病と異なるのは、そこで前者は自我分裂という形をとったにせよ、一応去勢の現実について何か知っているのであって、それを排除として棄て去っているのではないということである。
倒錯者たちは、実際は父の名によって強固に世界を支えられながら、それを否認し、「イマジネールな補助機構」でも世界を支えている。
機械装置で言えば主電源と補助電源のようなもの。安心の二重構造。
ラカンは人間はみな精神病か神経症か倒錯かのいずれかだとしているが、この中で倒錯だけが必ずしも精神疾患だということになっていない社会的現実も、このことを裏付けているのではないだろうか。
精神世界が不安定であることが精神疾患であるならば、倒錯者たちは二重に世界を安定させているのだから。
以上は精神分析理論を俯瞰的に説明したものである。
次に臨床(とは言えないか)として、『まどマギ』という作品を解釈していきたい。
この作品を解釈するにあたり参考になるのが、斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』である。初版は古く、当然『まどマギ』という作品に触れてはいないが、アニメ作品における「戦闘する美少女」に焦点を当て、オタク文化についての解釈を論じた著作である。
『まどマギ』も、メインキャラクターたちが「戦闘する美少女」であることは周知のことだろう。
斎藤は、「戦闘する美少女」について、二つの類型を示している。
一つは、トラウマ的な心の傷を持ち、それが原因で戦闘に身を投じる女性。これは日本のアニメには少なく、アメリカのコミックなどでよく見かける類型であると。
斎藤はこれを「ファリックマザー」とした。
もう一つは、作中ではその心の傷など触れられておらず、なぜ戦闘に身を投じるのか理由がわからない、ただ破壊するために破壊している、とでも言えるような、戦闘する女性。
彼女らは、ファルス的享楽的に戦闘や破壊行為を行っている。
日本のアニメにはこういった類型が多く見られる。それこそ当該著作の表紙にも採用された『エヴァンゲリオン』の綾波レイなど。
斎藤はこれを「ファリックガール」とした。
今考えるとこの「ファリックガール」という概念は非常に微妙である。まあ確かに斎藤個人が述べているだけの概念であり、学術的な、論理的あるいは臨床的な根拠もなく、もちろん斎藤自身それをわかっていわばネタのような話として述べているのだろうが。「出されたネタは皿まで食らうのがVIPクオリティ」などと申しましてな。まちょっとだけ。
たとえば斎藤が「ファリックガール」としている綾波レイも、心の傷がまったくないとは言えない。自分がクローン人間であることを彼女は知っている。これは単純に自我同一性の拡散となりえるだろう。
また、この概念について理解に苦しむ最たる理由の一つが、「ファリックガール」に『風の谷のナウシカ』のナウシカが並べられていることだ。
ナウシカのトラウマ的な心の傷は確かに作中では述べられない。それをもって「ファリックガール」としているのだろうが……。
まあほんとに創作の登場人物を精神分析するなどまったくバカげたことであることをわかって、臨床家として言わせてもらうと。
ナウシカは健常な精神性を持っている。現代における健常な精神は、「人はみな精神病か神経症か倒錯か」とするラカン理論で言えば、神経症あるいは倒錯に相当する。
神経症や倒錯の病理はトラウマである。
人は誰しもトラウマを持っているのである。原光景などという原初的なトラウマを考慮すれば。
わたしはこのことを「心が傷ついてトラウマになるのではなく、トラウマが心を作るのである」などと述べることがある。
以上から、健常な精神性と言えるナウシカは、作中でトラウマと言えるシーンが描かれてないだけで、何かしらのトラウマがあると考えなければならない。ラカン理論上。
それで言えばむしろ、綾波レイの方が(クローン人間である設定などを保留すれば)、臨床的に自閉症と似ているところがある、とは思える。
自閉症は器質因であり、トラウマが病因だとはされていない。
そう考えれば、綾波が、トラウマなどを理由とせず戦闘するすなわち攻撃性を症状として持つ「ファリックガール」である、というのはわからなくないのだが。
とりあえず、こういったことから、「ファリックガール」についてはこの程度の曖昧な概念だということにしておきたい。この記事では。
実際の精神分析理論に無理矢理組み込むのであれば――。分析家が、大雑把な症状はわかっているが、いまだ解釈に足る言葉を聞けてない(ゆえにそのトラウマも解釈できていない)、分析開始直後の分析主体、などとなろうか。
フロイトの元にやってきたばかりの頃のドラ、のような。
話がそれまくったが、『まどマギ』に戻ろう。
魔法少女たちは、「ファリックマザー」であろうか、「ファリックガール」であろうか。
さやか、ほむらはわかりやすい。この二人については、心に深い傷を負っていることが作中で描かれている。ストーリー上これらの要素は重要なポイントとなっておりかつ尺もかなり取られてるのでいちいち言及しないが。
杏子については、尺が短くさらっと流された感があるが、父との関係が、トラウマ的と言える。大抵の臨床家ならまずそこに飛びつくだろうと思える典型的なトラウマの糸口である。
さやか、ほむら、杏子はトラウマを持ち、それを理由として戦闘する「ファリックマザー」と言えよう。
マミとまどかについては、ストーリーの途上で、心に深い傷を負うというシーンは見られない。
まどかについてはクライマックスの流れは「心に傷を負う」ことだと思われるが、それが理由で魔法少女になって戦闘しているわけではない。
とは言え、マミもまどかも健常な精神性だと言える。よって論理上はトラウマがあるとなる。
つまりはナウシカタイプの「ファリックガール」である。
ここでは、マミとまどかは、そういう類型だということにしておく。
マミはストーリーの早いうちに死んでしまう。
先ほどまどかは「心に傷を負うシーンは見られない」とし「ファリックガール」としたが、このことが仲間であったまどかやさやかにとっては心の深い傷になりえたとも考えられる。
とすれば、『まどマギ』は、斎藤の執筆時には流行していた「ファリックガール」ではなく、「ファリックマザー」主体の物語であると言える。
アメコミや洋画などでは定番な、「心に深い傷を負い、それが原因で戦いに身を投じる女性」たちの物語であると。
それぞれが心に深い傷を持ち、それを原因として、魔女と戦うのが、魔法少女である、と。
ここで最初の向井の論に戻ろう。
ファリックガールとは、倒錯者が、そのイマジナールな世界を支える「イマジナールな補助機構」の一つである。
とすれば、『まどマギ』とは、作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいる作品だったと言える。
しかし、ここで考慮しなければならない点が一つある。それが「まど神様」だ。
まどかは、ストーリーの最後で、神のような存在になって、魔女がいない世界を作る。
このときのまどかは「魔法少女を救済する為だけの概念」になっている(未視聴者のために言っておくと、作中にそういったセリフがある)。
そのときのまど神様は、「ファリックガール」であろうか、「ファリックマザー」であろうか。
どちらでもない。
確かに以前は心の傷を持っていたのかもしれないが、魔女がいない世界を作ることで、彼女の心にもはや傷はない。
まど神様に「欠けているもの」はない。「欠けているもの」がないのだから、まど神様は「欲望を持っていない」。
まど神様は、満ち足りて、完全な、そして性さえも持たない純粋な姿である(なぜなら概念であるゆえ)。
などと大仰に書いたが、まど神様は、確かにアニメ作品であるゆえイメージとして描かれている(偶像化)されているわけだが、作中設定ではそれは「概念」なのである。象徴的な存在である。
かつ、彼女は新しい世界を作るという神のような力を持っている。
シュレーバーはそれを「神の女」と呼んだ。向井の論文から。
シュレーバーの妄想の最終段階で彼が神の女となり、世界救済の妄想を持つにいたったのがこれに相当する。
まど神様は、「La femme」だと言えないだろうか。
こう考えると、この作品は、ただの「作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいる作品」とは言えない。
まど神様が「La femme」であり父の名であるならば、それは倒錯者が去勢を承認していることとなる。
つまり、この作品は、「作り手あるいは受取手が、倒錯的に楽しんでいたが、最終的に去勢を承認する作品だ」と言える。
これだけだとアニメに限らず映画などでもありがちなパターンに思えてしまうが、それだけではないのだ。
『まどマギ』は、倒錯者が去勢を承認する際、父の名の一つとしての「La femme」を鋭く描いた作品である、と言えるのではないだろうか。
「ファリックマザー」を「La femme」に昇華させた。
これが、この作品の重要なポイントなのではないだろうか。
――まあこんなとこにしとくか。
ふーう……。
うまいこと避けられたな。
最後に、個人的な感想を書いておこう。
えーと。リアルタイム放送からしばらくしてから見た。一年半前ぐらい?
ぶっちゃけここで取り上げてるラストは、わたしは「広げた風呂敷をうまく畳めずご都合主義的に無理矢理畳んだ」系だと思った。
ラストはどうも何にも思わなかったんだなー。
ただし全体としては評価は高い。魔女の表現であるとか(劇団イヌカレーか)、さやかの魔女になっていく件とか。
もともと新房さんは『ぱにぽにだっしゅ!』が好きでファンなのだが、彼の得意分野は高圧的なナンセンス化、とでも言えようか、そういうところがおもしろい。
高圧的と書いたが、物語などしょせんフィクションであり人間の妄想であるのだから、人間が高圧的で当たり前なのである。
物語を大事にする人からすれば彼のそういうところが鼻についたりすんだろうな、とか。なんか誰かから叩かれてたの思い出しつつ。
しかし、この作品にそういった高圧的なナンセンス主義みたいなところはない。
新房が珍しく物語にまじめに取り組んだ作品、と言えよう。
もちろん彼にそうさせた虚淵の脚本もよかったりするのだろう。
あとは安定の梶浦、シャフト、ってところで。
ただし、あの絵柄だけはだめだった。好きとか嫌いじゃなくて、人間としてわたしの脳が認識しない。
そもそも少女漫画とかによくある目が顔の八割を占めているような絵とか顔と認識できないことがあるんだな。マンガのゲシュタルト崩壊的な。
そんなわたしにあのヒラメ顔は高度すぎた。
わたしの認識能力ではあれを人間の顔と認識できなかった。
なんつの、『パトレイバー』とかの魚眼レンズ演出的な感覚。
人の顔を意味しているのは頭でわかっているけど感覚的にそう思えない、という。
まあ「『まどマギ』は、倒錯者が去勢を承認する際、父の名の一つとしての「La femme」を鋭く描いた作品である」とか書いたけど、あとでわたしがそうピンときただけで、作品自体は高評価であるのだけど、正直あのラストはおもんないと思ってる、ということは明言しておく。
よし、おわた!
以下蛇足雑感。
きっかけの話で省略したが、あるアスペ女性との会話から思いついたんだよな、この話。
検索回避として単語を故意に書き換えるが、
「微小な感覚的なゆらめきが、それが名付けられなくても、「ありえなくはない」でいいのならいいや」
というようなことを言った。
わたしは直感的に
「その「微小な感覚的なゆらめき」が、定型発達者が無自覚的に自閉症者を恐れるところかもしれない」
と思い、そう言った。
「それはなんで?」
と聞かれ、いろいろ考えているうちに、「La femmeを殺されるかもしれない不安」というところに行き着いた。
それは、わたしが自閉症者を臨床してきた経験の上での、あくまで曖昧な主観でしかない。
いろいろ考えていくうちに、この「微小な感覚的なゆらめき」が、構造的に、『まどマギ』における「魔女」に相当する、と思った。
そこで、「魔女がいない世界」を作り上げた「まど神様」を思い出し、「あーまど神様がLa femmeじゃん」と思った、わけだな。
「概念」である「まど神様」が、「名付けられない」「微小な感覚的なゆらめき」である「魔女」を一掃した世界を作る。
自閉症者の言語化が困難な「断片の世界」(ウタ・フリス『自閉症の謎を解き明かす』から)がない世界を作る。
その世界にすでにつねに生きているのが、定型発達者。
つーか見た直後にそのアスペ女性と『まどマギ』についていろいろ話したのだが、そこで「この魔女ってすげーわたしブログに書いてる魔女観にあってる」とか思ってさー。
「ワルプルギスの夜」とかそれこそ「世界は劇場、人生は夢」であってしかも「舞台装置の魔女」ってちょ、わたしwww元大道具wwwブログにもよく書いてるwww的な。
それで若干被害妄想(加害妄想?)になってた時期がありまして。ええすみません関係妄想です。
ちなみにわたしは、父の名とは、早い幼児期のうちに、動的な認知を制約させる脳反応だと考えていたりする。幼児が言語を名詞から覚えていく理由。ここ参照。
まあ藤田博史からネット上だけで境界例と診断されたわたしのことだから、この「La femme」は「La femme」つまり父の名じゃなくて、ただの「イマジネールな補助機構」だったのかもしれんけどな。
父の名は、どれほど強固なものか。
わたしはわからない。実際に確かめてみなければ。
物理なら簡単に壊せる。その人を殺せばいい。その人の父の名という精神作用はなくなる。
非物理で、どれだけ強固なものなのか。
まあある程度臨床して、確かに神経症者や倒錯、すなわち現代精神医学が正常とする精神は、ある局面、水上雅敏いわく「少し精神病や倒錯に近い状態」になった際、非常に強固な抵抗をしてくる、ということはわかっている。
自閉症者や精神病者は、簡単にというか蟻地獄的に精神が不安定になったり、発症する。
わたしは実際にある統合失調症患者に精神分析的アプローチをして発症させたことがある(ドヤ)(じゃねえ)。
臨床的に、それがあるだろうというのは同意する。
しかし、それがどれほど強固なものか、(定量的にはハナから無理だとして)定性的にわからない。
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